記憶かもしれないこと
午後のカノ浦海岸はさびれていた。
ここでは物語を動かすエンジンは、漁船を沖にやるエンジンと同じく、とうの昔に錆びついて止まっていた。
岸壁から海に向かって斜めに伸びる突堤の中ほどに、座り込む子どもの姿があった。何を思うのか、膝を抱えて遠い波頭を眺めている。半ズボンから突き出した膝小僧には、鈍く金色に光る赤チンの跡があった。秋口の少し長くなった自分の影がその背中にかかるまでに近寄ると、スイッチが入ったかのように子どもは顔を上げ、それから話し始めた。
こんなふうに大人と話をしたい子どもというのは昔の自分だったのかもしれず、「恭一郎か」と問いかけてみても否定はしなかった。自分は座って話を聞いてくれる大人が現れるのを待っていた。そして初老になった自分は、かつての自分からこんなふうに語りかけられることを希うようになっていた。
わたしの家は、三十五度の急勾配に建てられていたわけではないし、安土桃山時代から続く境界紛争に疲れ果てていたといった事情もあいにくなかった。
ひねもす白波が寄せかもめが乱舞する海辺の町では、日々の生活は適度に質素で、住民が五人いればそのうちの五人くらいはのんびりとしたものだった。これは風も波も海岸線もおだやかな、ここカノ浦沿岸一帯の気質だということである。
たいていの子どもは、休日の日記という課題には手を焼いていた。夏には、泡の浮く生暖かいカノ浦に飛び込んでは塩茹でになり、冬なら漁港を徘徊したり無人の境内で三角野球に興じたりするのがせいぜいで、三日もすれば書くことがなくなってしまう。習慣だの観察が大切だのとうるさく言う担任も、このあたりの事情を察していれば己の無茶を自認した筈である。宇宙人も魔法の杖も、どこを探しても落ちているものではない。何かを書こうとすれば、外側に生える毛を眺めていてもまこと詮なく、畢竟、己の内に沸き立つ薄青い炎に向き合わざるを得ないのだ。
わたしには子供のころの一時期、物を盗む癖があった。盗みという行為に関しては、それが大人から見咎められる行いであるという認識しか持たず、悪いことだからやめようとする考えは定着しなかった。
友達の部屋にあった彼の兄のストックブックから国際文通週間の『箱根』を抜き取った。これは額面三十円の記念切手なのだが、切手商の店頭では千円の値札がついていた。それから近所の鳩小屋から瀬戸物でできた水飲み器を盗み出した。家では鳥など飼ってはいなかったが、その不可解ともいえる仕掛けに興味を持っていた。通っていた隣町の書道教室からは新作の墨をくすねた。レリーフの部分の赤や金の塗料を削り落としてから半分に割って、教室でも堂々と使った。小学校の理科棟からは硫黄と三角フラスコを、体育準備室からは石灰、教室から白墨や馬糞紙を持ち出した。
窃盗の被害者は多数にのぼるが、わたしの仕業だと気づく者はひとりとしてなかったと思う。わたしは泣き虫で臆病な、この地方の方言でいう『おじくそ』なのであって、容疑者の候補からは真っ先に外されていたのだ。
盗む動機はすこぶる単純である。
わたしの場合は、よくいわれるようなスリルを求めるという意図はなく、まさに価値を求めての犯行だった。正確には価値の移動感である。仮に親にねだって好きなだけ買ってもらえるとしても、それでは納得しない。いまのわたしが補足すれば、安易な買い与えは、物欲を金で押しつぶす不健全な行動なのである。そういった解決方法は、子供の目には親子の間で富の再分配をするようなブラックボックス的な処理に映り気に入らない。他人から奪うことでサディスティックな気分に浸りたい。じつに不謹慎だが、達成感を全からしむには相手側の損害の認識が必須なのである。
この浅ましい性根がどういう経緯で身に付いたのかは覚えがない。第三子を死産で失い、母は床から離れられないでいたが、快復を見せるや以前にもましてわたしを甘やかした。ふたつ違いの姉に対するのとはだいぶ違ったようだ。母の甘やかしは、自分の精神の安定のためなのか、それとも躾にうるさい姑への対抗心なのか、本当のところよくわからない。しかし過保護過干渉ゆえにこのような性癖が形成されたとの憶測には、直ちに否定で臨みたい。盗むという快楽は、それこそ母や祖母の目を盗んで獲得したものである。
無論これらは子ども時分の悪行を書き連ねているに過ぎず、ほどなく克服したものと断言する。しかし記憶に浮上する九歳の日常生活は、弱者に対するいたわりの心と、無邪気では済まない盗人魂に満ちていたのである。
昭和四十三年九月、わたしはバナナの苗を欲しいと思った。いつものように本気で欲しがった。先の遠足で訪れた温室で陽気に並ぶバナナの大木を仰ぎ見たのがきっかけである。熱帯のものには心がときめいた。正確に言えば、わたしは温室の経営というものをしてみたくなり、その目玉としてはバナナが相当だろうと考えたのだった。
じつはわたしには目算があった。失敬するのに心当たりのモノが、植物園ならずとも意外に身近にあったのだ。家からさほど遠くない敷地に生育する、ある植物の正体を知ったときから淡い興味を持ち続けていたのだった。
わたしは何も持たず、何を始めるのも無の状態からなのだが、盗みが日常化しているため、事を為すには所持していることよりも意欲の鮮度の方が重要だった。半袖から伸びた二の腕に産毛が光る利発で生意気なおさげの同級生を異性として見改める瞬間のように、乾いた好奇心は持て余すほどの勢いで鮮やかな私有欲へと変質していったのである。
町の中央部の、まずは適切な場所にわたしたちの小学校は昔から変わらずにあった。六度も改称した経歴を持つ古い学校で、卒業生の数や蔵書数では、近辺で一頭地を抜くものだった。
図書館、音楽棟、理科棟、職員室、体育準備室などを西側および北側に置き、それから南に向かって東西方向に長屋のように続く校舎が中庭をはさんで四棟繰り返し並び、給食室を南西に据え、南端は巨大な講堂と忠魂碑が占めている。それらが南北に延びる主要な二本の渡り廊下で連結されるという構造になっており、航空写真で見ると「進」という漢字の形に似ているとはしゃぐ者が毎年出る。
昭和四十年代、次々と改築される周囲の小中学校の校舎の状況を見聞きしており、古いということの良さなど理解できないわたしたち小学生は、教師や大人たちが職場や母校について上機嫌に話すのを怪訝な気持ちで聞いたものだが、大人が熱意を込めて繰り返す言葉は子供にとっては十分に権威であり、稚拙ながらもいっぱしの懐古趣味らしきものまで口にする者も現れる。
言われてみれば、広い中庭に並ぶイチョウの巨木も、明治時代にイタリア人に作らせた詩を起源に持つという校歌も、よそから見ればうらやむものであっても不思議ではなかった。
のちに漏電が原因で焼け落ちることになる古い時計塔も当事は構内の一等地──正門から校舎玄関を結ぶ線上の左側──に健在で、思い出したように当を得ぬ時刻を打ち鳴らしては周辺住人に迷惑をかけていた。高さ二十三メートルにもなるこの建造物は、時を告げるという意味ではもう時計ではなかった。動いているのが不思議だとみんな言っていた。
自治体から取り壊しの話があったようにも記憶するのだが、費用の工面がつかなかったのか、あるいは代わりの施設を要求されても困ると判断したのか、結局は手付かずのまま放置された。その宙吊りの状態が長く続いたことが、人々の関心をさらに遠ざけていったようだった。
当事もいまも、このあたりの地所は、ネットメロンの模様のような情けない路地で取り囲まれている。戦前からあるこれらの路地の多くでは、その幅員と迷走する身勝手さにより車両の進入がとうていかなわず、両側に延々と続くコンクリート塀なり板塀なりのおかげで、塀越しに庭の様子が伺えない子供の目には巨大な迷路に映った。
学校と自宅の間でこれらを選ぶ組み合わせの数は莫大で、わたしは偶然に引き当てたひとりぼっちの下校ルートを楽しむことがしばしばあった。その中のあるルートの途中に、古くからある造り酒屋の敷地があった。
酒造家本家の屋敷と古い酒蔵の間の薄暗い小道を抜けるあたりから、早くも離れの切妻の向こうに、その巨大な葉がうなだれているのが見える。それは他の名も知れぬ草木とともに、ほころびだらけの牧垣にやんわりと囲まれ、わたしの帰りを待っていた。わたしは、前日までとは違う不穏な決意を胸にその植物を見上げた。湿潤な九月の大気に、あらぬ時報がこだまする。ためらいは何もなかった。
わたしはバナナの根元に駆け寄ると、ランドセルから引き抜いた竹製の定規で乾いた地面を掘り返し始めた。バナナは地下茎で殖えるため、深く根っこごと頂戴しなけば意味がない。地面にしたたる汗に導かれるように、わたしは懸命に掘った。わたしが狙いをつけたのは、もちろん八メートルにはなろうかという大木ではなく、本体近くに根出する、身の丈三十センチほどの苗の一群である。
いとも鮮やかな動作でわたしは作業を続けた。仕事を成し遂げたという高揚感に加えて、盗人の手に落ちる運命にあるこれら植物に一抹の同情を抱くゆとりすらあった。掘り出したあとは毛根に土をできるだけつけたまま、苗をスーパーの紙袋に滑らせる手はずである。両膝が早くも退散の態勢に入った。
さてわたしは、この平穏な楽園に曲者が紛れ込んでいるなどとは、想像だにしていなかった。
人の気配に振り向くと、わたしは汗に目をしばたいた。はたして老婆の無表情な面持ちが、まつ毛の中に滲んでいる。無表情というよりも、顔面の皺のせいで表情が意味をなさないとも言える。人間、これほど年をとれるものかと驚くほどだった。白昼の幽霊でもない限り、垣の端にある、もと家らしき造作から出てきたとしか思えなかった。それはあまりにも朽ち果てて、もはや棲家と呼べる代物ではなく、廃材の山という表現がふさわしかった。
ともあれ何にせよ、これから失敬しようとするモノの所有者とおぼしき人物の出現に、わたしはうろたえた。これまでこんなふうに所作が見咎められたことはなかったし、そのことは重要だった。わたしには、目下の行為もさることながら過去の実績に対しても責任があった。
とっさに判断して、わたしは老婆のそばに駆け寄った。
──あの。
見つかっちゃった少年は悪びれてみせた。いい声だったはずだ。
──あのへんの草、ちょっともらっているんだけど、いい?
狙いがバナナであることを悟られなければなんでもいい。他に目くじらを立てるようなものはあそこにはない。信じてほしい、この汗と定規をみろ。泣き虫が、理科で使う草を採りにやらされているだけなんだ。
不安そうな表情が効を奏した。相手の怪訝そうな顔がたしかにうなずくさまを見届けたうえで、わたしはもといた場所に引き返し、気詰まりな後始末を開始した。老婆の仕事がバナナの保護である以上、うかつな動作は禁物である。律儀な視線が背中とバナナを往復しているに違いなかった。
わたしは、ひとまたぎ分離れた場所を掘り返し、巻き添えをくった不運な雑草を土ごと紙袋に放り込んだ。こんな場面でも、いくらか選別している自分がおかしかった。たまたま自分の手にかかることになった幸薄い者たちのためにわたしは涙をこぼした。
偽善と欺瞞が身体に満ちていた。
てだれの九歳児は、雑草ばかりではなく、適度に花卉を加えることも忘れなかった。こやつやっぱり花が狙いだったかとなれば。この変化が身を助ける。とりあえずバナナの獲得は次回に付すとして、作業の報告だけはしなければならない。そう思った瞬間、視線にしわがれ声が加わった。
──のう、おまえ、ひる飯は。
それを契機にわたしは、ひょんと立ちあがってしまい、ついで動作が老婆のもとに歩み寄る流れとなった。きょうは土曜で半ドンだから給食は出ない。下校途中に寄ったので、お昼はたしかにまだなのだが、そのことだけを問われているようには思えなかった。名前が知られている心配はないはずだが、とにかく、できるだけこの面妖な人物との会話は避けねばならぬ。
声の主の前まで来ると、わたしはまだだとだけ答え、相手の表情を伺った。まさしく老婆の中の老婆にふさわしい風情だ。反応といえるらしいものはなく、まるでニワトリに話しかけたような気分だった。
これ以上話が続かないことを確認すると、わたしはランドセルにかけ寄り、そそくさとこの不吉な場所を後にした。板ガラスを踏み割り、菊の蕾を蹴散らして逃げに逃げた。背後で何か呼び声があったようにも思うが、この稼業ではじめての蹉跌をかみしめて疾走する少年の耳にまともに届くはずはなかった。摂氏三十三度を記録したこの日、残暑を呪うカラスの声だったのかもしれないのだ。
わたしは寄生植物や食虫植物など、子供ごころにちょっと普通ではないなと思わせる植物が好きだった。とくに怪奇植物としても通用しそうな食虫植物の生態は、はじめて知った子供時代のわたしには強烈で、タヌキモやミミカキグサなどは思いつきで変身したような代物が夢の中にまで出てくる始末だった。新種の発見の夢である。こうした風変わりな植物の本はたくさん読んだし、つたない見当をつけては探索に出かけたりもした。
わたしの植物好きは父の影響があると渋々ながら認める。ろくにものも言わない父だが、庭木には中途半端な趣味を持っていて、休日にはよく自転車の荷台にわたしを乗せては近くの山へ出かけ、松だのケヤキだのの苗木をひとかかえ持ち帰ったものである。
当時父は、自宅から自転車で十五分ほどのところにあるこの山一帯には入会的な慣習があるものと思い込んでいたらしく──よしそうだとしても自分に権利があるはずもないのだが──採取の態度はまことに尊大なもので、見張り役の息子の方がハラハラしたものだった。痛々しい姿──毛根を土ごと新聞紙でぐるぐる巻きにされているのが包帯姿に見えた──で育った山に別れを告げた植物たちが、あっさりと自宅の裏庭に根付くさまには拍子抜けはしたが単純に嬉しくもあった。
植物たちのこの素直さは父の行為の正当性をイメージさせるものだった。
テレビの時代劇で代官が商家の娘をかどわかして「身体は正直よのう」などとほたえるシーンがあるが、これら植物たちの営みからは「根は正直よのう」とでも言いたくなるような異種の生命のしたたかさを感じたものだ。植物は親がなくても育つ。植物はなんでも食べる。植物はものを言わない。それでも植物にも好きと嫌いはある。
父は生後五か月で父親を結核で失い家督を相続した。新築の家にろくすっぽ入れず逝った祖父だった。祖父と言っても享年三十一歳、孫を持ったことはないのだが。
祖母は再婚の話を遠ざけ、来るべき窮乏に備えて父と伯母のきょうだいを徹底的に仕付けた。道を踏み誤らせないためである。夫である祖父の職場であった分家の方の酒造工場への就職が許され、女手ひとつで口を糊する日々が続いた。
終戦をはさんだ十数年ほどの間は爪にとぼした火をこまめに吹き消すような生活だったという。それでも担保目的で売ったはずの何筆かの土地は、しかしほとんど買い戻すことができなかった。昭和初期の無学な兼業主婦が不動産取引の実態など知るべくもない。母子家庭の命脈を支えた猫額の畑は、いまも線路の向こう側で西日を浴びて他人の麦を育てている。
いまでも思い出す銭湯からの帰り道。わたしが六歳くらいだっただろうか、あの本家と酒蔵の間の暗い道を歩きながら。
──ばあちゃん。ばあちゃんはお化け怖くないの。
──怖くないよ。
──ふーん。ばあちゃんは何が怖いの。
祖母は答えなかった。ふたり並んで歩いて自宅が見える場所まで来て、わたしはそんなことはもうすっかり忘れていたのだが、祖母が小さい声で「こわいこわい。ひとさんがこわい」とつぶやくのを聞いた。当時六十台半ばにさしかかっていた祖母が人生を総括して出した「人ほど怖いものはなかった」という結論は想像力を駆使すれば容易に理解できる。人が怖かったという過去も本人にとっては偽りのない自分史なのである。
父と伯母のきょうだいは祖母の数少ない願いが叶い真っ直ぐに育った。国民学校を修了していた父は、戦後縁あって大手の電機会社へ工員としてすべりこみ、器用な手先と不器用な口先にものを言わせてともかく月給というものにありついた。伯母の養鶏農家への縁談がまとまる五年前のことだった。
母子家庭は四半世紀近く続いた。祖父の形見である家に他人の水が入ったのは二十四年目のことである。戦後政治の根幹となる五十五年体制発足の年であった。父はお見合いで断られた経験がないそうだ。
──それはわたしが初めての相手だったからよ。
そう言って母はふふっと笑った。
母は病弱のため、わたしの身の回りの世話を同居の祖母に頼っている時期が通算で三年間ほどあった。わたしにとっては性格の異なるふたりの親がいるみたいだった。
祖母は母と違って精力的にわたしを仕付けた。こと躾に限れば祖母は成功者といえたし、何よりも本人が満足していた。甘やかしを旨とする母と衝突する場面があったのではないかと思い返してみるが明瞭な記憶は出てこない。ただ母には皮肉や当てこすりを言われても「それもそうねえ」などと言って受け流すようなところがあった。このタイプの人には婉曲的なものの言い方はあまり効果的ではない。
ふたりのキャラの違いは、教育方針もさることながら、言葉の使い方にもっとも顕著に現れた。母は直感的にものをいい、祖母は実用的な言葉を選んだ。ふたつの言葉が対義語になっているわけではないが、このふたりの親のわたしに対する注意ひとつとっても大きな違いがあった。
たとえば夏にテレビで子供の水難事故のニュースが流れたとする。当時はいまより子供への監視の目がゆるくまた数も多かったので、海辺に近いこの町ではたいていの家の子供にありうることだと皆が思っている。事故を構成する要素が周辺にいくらでも転がっているからだ。
──夏休み最初の日曜日のきょう、各地で軒並みことし一番の暑さとなり……いっぽう川や海では水の事故も相次ぎ……。
──カノ浦海岸で海水浴をしていた近くの工場従業員相川豊さんの長男恭一郎君九歳の姿が見えなくなり周辺を捜索したところ海底に沈んでいる恭一郎君をいっしょに泳ぎにきていた姉の友人が見つけ……。
──恭一郎君は救急車で近くの病院に運ばれましたが意識不明の重体で……。
わたしならこの手の事故なら夏休み中にニ、三回は起こしそうだった。搬送先の病院の名前もすぐに浮かぶ。水難はよそ事ではない。
母にとってもそうだったろう。
しかし母はこんなとき、子供たちだけで海へ行ってはいけないだの、おへその高さよりも浅い所で泳ぐようになどの、祖母が注意するような実践的ことは言わない。
「もしも恭ちゃんが死んじゃったら、おかあさんきっと生きていられないわね」などと平然と言い放つのだった。
話が水難から離れてしまっている。当時は、たとえ親子のやりとりだとしても、もう少し濁した言葉があるんじゃないかと思ったが、母はいつも直截にものをいった。
厄落しという習慣のことを最近知った。
本来の意味は、厄年の前年の節分に衣服など身の回りのものを街路や山野に捨てることだという。捨てられるものは、身代わり地蔵のように一身に厄難を背負うのだろう。古くからある習慣なので、季節の変わり目に行う古着や日用品のほどこしといった再分配的な意味合いもあったのかもしれない。
いまにして思えば、母は厄落し的な気持ちを込めて先の言葉を吐いたのではないか、忌まわしい言葉に災いの火種を吸い取らせ、敢えて口にすることで捨て去ろうとしたのではないかと解釈できるのだ。
厄落しという言葉自体も昔から母はよく使った。つまり話し相手にもこのような保険的な用法を強いるのである。
ずっと後の話だが、姉は大学生のころ、友人ふたりを乗せた車で初詣に行った帰りに事故を起こしたことがある。松阪市内の国道で信号待ちをしていた内藤さんという若い会社員の車にわき見をしたまま追突してしまったのだ。事故はそう軽いものではなかったが、幸い人身事故にはいたらなかった。
姉の話によると、このとき内藤さんのお見舞いにと同行した母のお詫びの中に、「どうか年初の厄落しをされたおつもりになっていただけたら」というフレーズがあったそうだ。
「それ聞いてて内藤さん、ずいぶん虫のいい話だと思ったんじゃないかなあ。あたしが言えた義理じゃあないけどね」
ワンピースの似合わない姉は顔の半分で作り笑いをしてみせた。
「横で聞いてるとね、頬っぺたの毛が逆立ってきちゃうよ」
さらに母は現実の厄難が言葉で見積もった範囲を超えることを恐れていた。というより、先回りして言葉で厄難の上限を固定しておきたいと願っていた風だった。いきおいその見積もりは過大となりがちで、だから母の言葉は悲観的ともとれるがバブリーだともいえた。でもみんな笑えなかった。ときどきだが言い当てることもあったからだ。
──もう両方ともだめみたいよ(父の買ってきた苗木が調子が悪いのを見て)。
──朝までに帰らなかったら死んじゃってるのかも(大雪の晩に帰らない猫を心配しているのを見て)。
──百年立ってるお家だって倒れるときは一晩だものね(築百四十年の実家の基礎部分がシロアリ被害に遭っていた)。
──焼いて灰にするのはいやだっていう人もいたんじゃないかしら(実父の葬儀で火葬場から立ち上る煙を見あげて)。
大人になってから母親を語るとき、自分でも饒舌になっていることに気づく。
小学生になってはじめての遠足の日。
──あのねえ、おやつは八十円までだって。
わたしは出遅れ感に焦りはじめていた。
すでに姉や同級生らは友達と連れ立って近所のスーパーや駄菓子屋で遠足のおやつを調達しているのに、つまらないことで寄り道してきたわたしはまだ百円札をもらっていなかったのだ。いまでは考えられないことだが、当時このあたりの駄菓子屋やスーパーは午後五時を回ると店じまいすることが多かった。専業主婦が多かったこの時代、遅くまで営業するメリットなどなかったのである。銭湯の営業時間も早く、午後四時前には湯のれんが架かっていた。
母は、物語本を買ってきてくれたり、わたしの手を引いて美術館やプラネタリウムへ出かけたり、都会のレストランでプリンアラモードやホットケーキを取ってくれたりと、お金がない家にしては好き勝手させてくれたが、ことお菓子についてはどういうわけかシビアだった。
──早く行かないとお店が閉まっちゃうよ。
──それじゃあ、こうしようか。おかあさんが遠足のおやつを八十円分作ってあげるっていうのはどう。
──おかあさんが?
──そうよ。おまけしといてあげるわね。
母の菓子作りと言えば大量生産が災いしたドーナツ騒動以来である。あのときはドーナツの山にソースをかけた大皿が夕食に出て、家族みんなでため息をついていたっけ。
──ドーナツならもういいよ。
「だいじょうぶ。ドーナツじゃないわよ」と母は笑い、おかあさんは集めるだけだから安心してと続けた。
あまり安心できない。
何が始まるのかと口を三角にしているわたしの目の前で母は戸棚や菓子箱などから素材を集めだした。それをいくつかの小袋──当時わが家では袋菓子の空き袋などを取っておいて再利用していた──に分け仕上げに輪ゴムで口をとめてフェルトペンで値付けをするのである。しばらくすると卓袱台の上にこんなものが並んだ。
一、正月の切り餅の残りで作った自家製あられ。十五円。
一、去年収穫の落花生の直火炒り。十円。
一、遠足の定番バナナ……マジックで堂々と二十四円也と書いてある。
一、母の実家で兄弟たちで山分けしたので出戻ってきた法事用の最中。ニ十円。
一、姉と半分こしたキャラメルとお土産にもらった平治煎餅の抱き合わせ。十八円。
あ、おかあさん八十円を超えてるよ。口をとがらせる姉の言葉に結局バナナは大安売りの十七円ということになった。二十四円は棒引きの特価十七円ということで、それも書き間違えられたりして、バナナはおいしそうに見えなくなった。
かくしてわたしは松永のしるこサンドの袋に入れられた自家製ゴマあられや明治クリームキャラメルの箱に詰められた炒り落花生など、表示に偽りだらけのおやつをリュックに詰め込んで、それでも初めのうちは不満を言うでもなかった。
おやつの代わりにはならないが、母の手作りの弁当は凝りに凝ったものだった。無花果弁当や幽霊弁当など、嬉し恥ずかし見られたしの精緻で奇怪な代物には、いまだ肩を並べるものを見ない。
ある夏休みの午後──。
母がわたしにかき氷を買いに行けという。
──蜂蜜をいただいたから、かき氷にかけて食べようか。恭ちゃん氷をかいてもらってきて。氷蜜はかけないで。氷だけでいいのよ。
店は早足なら五分のところにある。角屋という大衆食堂だが、界隈の子供らにはクジやら駄玩具やらお好み焼きやらの店ということで、そちらの方面で名が通っていた。まいとし梅雨明けの時期になると、その角屋の隅に大きな鋳物のかき氷機が現れ『特製氷あります』の吊り下げ旗が舞った。わたしたちは夏の到来を喜び、夜祭りや打ち上げ花火の話題でわくわくしたものだ。当時かき氷という概念は、祭りなどのイベントと強固にリンクし、家庭の食卓とは馴染みの薄いものだったのだ。
わたしは野菜の和え物を作るときに使う地味で大きな鉢と布巾を持たされて、道中近所の悪たれに見つからないことを祈りながらしぶしぶ角屋に向かった。本物のかき氷を食う回数が一回分減るのは確実だった。
薄暗い食堂の引き戸をちゅるちゅるちゅると閉め、何度か叫んだあと、湿った偽三和土の奥から商売っ気のない生返事の主が出て来るのを待つ。相手の訝る顔が目に浮ぶ。何度角屋のおばちゃんに念を押されようがわたしは母の言葉を繰り返し伝えるしかなかった。もはや他人事である。
──いいわね。蜜はかけないで、かいた氷だけ買ってきてちょうだい。
こんな売り方したことないんで分かんないよいくら貰ったらいいんだろうねえ、と布巾でかき氷の山を覆いながら角屋のおばちゃんが唸る。おばちゃんも困るがわたしだって困る。母に相場を聞いておくんだった。
一瞬母の姿を思った。おおかた縁側で左手をつっかいにして朝顔の手なんぞを見上げているに違いない。かき氷のことなんぞ頭のどこいらにあるんだか。結局いくら払ったのか覚えていない。
蜂蜜氷はちっともおいしくなくてみんな閉口していた。あとから出て来たカルピスが心底ありがたかった。
三年生のある秋の日──。
退屈きわまる社会科の授業。突然クラスがざわめいた。担任もチョークを持ったまま首だけひねって音のする教室の後ろ出口を見つめている。がたぴしと戸を開けて入ってきたのは和服姿の母だった。わたしは血の気が失せた。頭の中がぐるぐる回った。そうだ確かえーっと。
すぐに担任が駆け寄り、わたしの記憶には薄らいだコトの成り行きを清書するかのように二言三言やりあった。
──え、ですから参観日の変更のお知らせは追加のプリントで先日ご連絡させていただいているはずですが。
そうだったそうだった。追加のプリントを家で出すのを忘れていた。悪いのはわたしだ。だけど問題はその後だった。せっかくなのでどうです授業をご覧になっていかれますかという担任の心にもない慣用句に対して「そうですね」と言って教室の後ろに居座ってしまったのである。
これにはわたしも困ったが担任も弱った。普通の親なら当然詫びて帰るのである。ところが母は詫びはするものの帰ろうとはしない。担任が誘ったからである。まったく余計なことを。さっき失せたはずの血の気が耳たぶに舞い戻ってくる。
参観ではないですので介添えという形で恭一郎君の脇へどうぞ、という担任のいちかばちかの賭けにも素直に礼を言って応じ、わたしの隣にしゃがみ込んで黒板を見上げ、先生字が上手だねーなどと言っている。
おかげで担任は自分と同い年の児童を余分に抱え込むこととなり、気まずい四十五分間を消化しなければならなくなった。わたしはといえば、周囲の嘲笑は語るに及ばず、自らがまいた種とはいえあまりに理不尽な展開に気分は被害者そのものであり、この読みの甘い担任の背中に同情を送る気にはなれなかった。
その晩は祖母にこってり絞られた。今度の参観には自分が行く行かんとまくし立てる祖母を横座りで聞きながら、「恭ちゃん信用なくしちゃったわね」などと受け流す母だった。
ある冬の朝──。
もうよそう。冬が終わればまた春が来る。書くことならいくらでもある。だけど奔放で鈍感で悲観的で甘やかしだった母の記憶も、昭和四十年代のセピア色の風景も、均一なベージュ色に薄れていくのはどうやっても止められない。記録は残っても記憶は死ぬ。頭の中ではなかったことになる。記録と記憶の距離に驚く。人間はそうやってちゃんと生きていく。さきほど思い起こした記憶もすでにいまわの際にあることを正直に告白したい。
さきほども触れたが、わたしは子供のころから適度に本は読んでいた。子供向けにリライトされた世界各地の民話などにも植物に関するものは多かったが、その中で時代も地域も異なるのに、妙に似ているある描写があって、わたしのお気に入りだった。細かな違いはあるが、おおむねこんなふうだった。
主人公が、よそである植物を気に入る。それは地下茎を使ってテリトリーを広げている。ある人がそれを──貰うなり盗むなりして──採取して自分の庭に植えてみると、うまい具合に地下茎で繁殖を始めた。やがて庭は植物で埋めつくされるが、どういうわけか一か所空白地帯ができる。不審に思ってそこを掘ってみると何かが出てくる。話の趣旨によれば、出てくる何かとは主人公が「本当に望んでいるもの」なのである。
たいていの場合、この望んでいるものの正体は読者の解釈に委ねられていた。たとえば次のような筋書きである。
中世のヨーロッパのある領地内で、どうしても作物が根付かないスポットがあるというので、領主がその場所を何日もかけて掘らせてみた。すると強健に造られた巨大な石室が現れ、その中から地下へ続く階段と通路が見つかった。地下通路は決然と領主の城をめざし、その途中でおびただしい数の屍や文化遺産などが発見される。やがて領主は己が祖先が民族統一王朝などではなく、それを装った征服王、すなわちこの地への侵略者であることを悟る。言い伝えにある征服王の末裔を倒したのは、祖国復興に蜂起した被征服一族ではなく、外交上の時機に乗じた新たな侵略者だった。出自を隠し国史を改竄して民族統一を装ったものの、その祖宗の地は、いまなお敵対関係にあるはるか東方の諸国のひとつだったのである。物語の中では、作物は外来種であることが匂わせてあった。したがってこれなども、先の民話の亜種ではないかと思われる。
その他にも、植物が水銀鉱床を知らせた話がある。
大昔、畿内に近いある山で落雷により、険しい山道の脇にある古木が立ち枯れてしまった。村開闢以来の樹齢も知れぬ老木である。やがて木の周りの斜面から、あらゆる植物が後退し始めた。あらわになった表層が時の経過とともに崩れ出すと、下層から気味の悪い岩盤が現れた。その燃えるような赤い色から、のちに周辺一帯は火の谷と呼ばれるようになる。試掘の結果、辰砂の存在が確認された。丹砂の異名をもつ硫化水銀である。事情を知らぬ村人は、技師が穴からかき出す肉片とも見まごう採鉱石を目にして「岩の中からシシが出た」と仰天したという。やがてタヌキ掘りと呼ばれる坑道が無数に穿たれ、採掘は数百年にも及んだ。汲めども尽きぬ巨大鉱床は、当時の旺盛な水銀需要を一挙に解決し、村は巨万の富を手にしたという。
この話では、植物はむろん在来のものであるが、落雷など何らかの原因で土地の状態が変化したため、かつての植物被覆が成り立たなくなった、つまり在来種でありながら、あたかもよそ者であるかのように後退を余儀なくされたという解釈も可能なのではないだろうか。中国原産の淡竹がこの地を避けたという話も残っている。
このように、地上にあっては人獣とともに十二宮を見上げる一方で地下に独自の生活圏を展開する植物が人の喜怒哀楽の鍵をにぎる、という筋書きにわたしはひかれ、時を忘れて読みふけったものである。
さて前回とはうって変わって、朝夕に涼しさの混じる気候になった十一日後──この日はわたしの十歳の誕生日だった──の午後、再び例の牧垣に分け入った。涼しくなったといっても、この夏のようなセミを落とすほどの猛暑ではないという程度のことであり、半袖半ズボンのなりでも動けばすぐに汗ばむほどだった。お宝を奪取するための準備はすでに磐石である。しかし、うって変わったのは気候だけではなかった。
──ああうまかった、牛負けた。
わたしはこのフレーズが好きで、食後はひとつ覚えのように各所で乱発した。
──それはね恭ちゃん、本当は「ああオオイシ勝ったキラ負けた」って言うの。
──それなに、キラなんて。
──忠臣蔵の吉良さん。そうか恭ちゃんまだ知らないか。
決行日から日にちを四日分戻した土曜日の夕食後のことである。わたしが初めて老婆の庭に侵入してからちょうど一週間がたっていた。わたしは例のオンボロ屋敷とそこの住人である老婆のことを母に聞き出そうと画策していた。
こういう話題のときには、父は全然頼りにならないことは子供ながらに分かっていた。
父はいまもそうだが、地元の人間関係についてはまったく頓着がない。どこの誰それが何をしたのか、何が起きて何がコケているのか、ほとんど知らないまま日々を過ごしている。この日も食事を終えると、むすっとしたままテレビの野球中継と時期遅れの黄スイカにかじりついた。この時代、テレビはもちろん白黒である。
いつものように夕食を最後に終わった祖母が明日から始まる新米を無言で研ぎ始めた。母の実家から回ってきた贈答米である。姉は漫画本を膝の上に開きながら、煮汁だらけの茶碗をぐずぐずつついている。
母の親元はここから比較的近いので、造り酒屋本家のことはいくらか知っていた。酒造りでは名門らしい。忠臣蔵の時代の元禄末期には、もう酒の醸造に手を染めていたという。昔からの成り立ちや多くの分家のこと、跡目争いのことなど、あまり気乗りのしないやり取りのあとで、わたしはついでを装って西隣の老婆のことに話題を向けた。
──あああの人。恭ちゃんあの人のこと知ってるの。
母は少し驚いたように湯呑みを引いた。わたしはこめかみから後方に母の視線が移動するのを感じた。子供のわたしに話していいものかどうか思案しているらしかった。やはりあの老婆はただ者ではないのか。母の目からはわたしの後ろにいる祖母を捕らえている様子が伺えた。その祖母は姉を急かせて声をあげている。
──ちっとも片付かないじゃないか、もうおしまいにしな。
父が咳払いの代わりに、「あー」と声を出してテレビの音量を上げた。それからわたしたちの方をちらりと見た。
──あの人はねえ……。でもね恭ちゃん、よそでしゃべっちゃだめよ。
父をなおざりにして母は話を続けた。
「よそでしゃべっちゃだめ」は、母の口癖である。話の折々につける常套句程度の意味しかない。よって以下に、母のまだら覚えの話と祖母の補足を要約することにする。
件の家は西條といい、造り酒屋本家とは遠戚にあたる。五代前に本家から分家したあとも他の一族とともに江戸中期から続く醸造業に従事していた。時代は明治新政府に代わり、やがて日清、日露の戦禍へと突入するが、その日清戦争開戦から遡ること十年のころ、家業の合名会社化の話が持ち上がった。そのさい西條分家の三代目の竹市という人物が宗主家との反目により酒造りから完全に撤退することを表明し、以後この分家は本家との付き合いを絶ってしまった。いまバナナのある分家の敷地も、このとき償還された持分の一部の名残である。このとき竹市は孫がいてもおかしくない年齢に達していたが、あえて資産生活者の道を選ばず、商機を得て魚介の加工業に着手した。漁港近くの海岸沿いに数基の加工施設を建設したのを手始めに、のちにそれらを五棟ほどの工場にまで拡大した。百年以上経った今でも、地元の海岸堤防沿いの海側の敷地には、その当時の工場の基礎部分がずらりと並んでいる。
新しい商売は比較的順調だったという。当時ローカルながら優良漁港へと邁進していたK漁港の勢いもさいわいした。小女子(コウナゴ。わたしたちの地方ではゴナと呼んだ)、キス、ゼンメダイ、クルマエビの類など、比較的小振りの魚介を乾燥などの加工などすることで日持ちを伸ばし、山間部などへの需要を賄うことができたらしい。のちに鮮魚部も併設し、鮮魚店もいくつか出店した。いくらかの紆余曲折を経たのちに、法人成りも敢行された。そうして明治三十年代後半に設立された西條海産株式会社は明治後期から末期にかけて、ちょうど十九世紀から二十世紀に入れ替わるあたりから隆盛し、最盛期には新興の競合他社らを抑え、漁港の漁獲高の過半をさばいていたという。このころ竹市は古希を迎え、代表取締役の座を長男の四代目に譲っている。
ところが大正期に入った前後から業績は漸次に縮小に向かった。原因のひとつに消費者ニーズの興隆──ない時でも欲しがる──がある。K漁港がおもに担当する漁撈海域は比較的狭く、漁獲量、ことに魚種別水揚げ量の大きな変動により安定した製品供給が困難になったことが挙げられている。明治末期からの漁船動力化の進展に伴い、漁撈メソッドは無動力の沿岸漁業から近海・遠洋漁業へと急速に転回しつつあった。
いまひとつの原因は労組問題であるとされる。もともと工鉱業労働者を中心に勃興しつつあった労働組合期成会結成の動きは、治安警察法による弾圧から時を経て、多方面の業種に浸透しつつあった。権利意識に目覚め、ストライキも憚らない闘争的な労働者階級の出現は、旧来の雇用関係しか念頭にない守旧体質の経営者にとって脅威であったようだ。
さらに水産加工業者にとって面白くなかったのは、肉食の習慣である。日露戦争の戦場食糧として加工牛肉が使用されたため、軍務についた庶民の間でこれの食味が認知されてしまい、牛肉とそれを補う豚肉があっという間に家庭の食卓に広まったという事情があった。その影響で値の張る加工魚介類は敬遠されて利幅が取れなくなり、会社は連続の赤字決算を強いられるまでになった。加えて、引退後も代表権を返上しなかった初代社長の竹市が八十五歳でこの世を去ったことで、与信を行う銀行側の心証にも微妙な影響を与えることとなった。
これら複数の要因が重なることで、過剰な設備投資と有利子負債で綱渡り的な経営を強いられていた西條の会社は、昭和の初めの世界不況を待たずに、あっけなく倒産してしまった。ロシアにボルシェビキ政権が発足した翌年の一九一八年のことと言われている。このころは祖母にとって番茶も出花の娘時分であったのだが、実家も勤め先の紡績工場もずいぶん離れているせいかこの前後の事情はまったく知らないと言っていた。
酒造から手を引いた三十数年前、三代目竹市に分与された広大な土地屋敷は、その大部分が会社設立時の出捐のためにした長期借入金の抵当に当てられていたため、倒産後はほとんど手元に残ることはなかった。幸い生鮮魚の部門はすでに切り離されていた。還暦近くになっていた四代目は引退し、魚屋の店は地元の一店舗のみに縮小して、五代目の若夫婦が中心となって細々と営むことになった。この夫婦はふたりとも身体が弱かったらしく、結局四十代の若さで相次いで亡くなっている。あとに残されたのは十二歳の時から天秤棒を担いでゴナの行商で家計を助けていた十七歳になる長男だけとなった。この長男がのちにわたしの見た老婆の夫だった六代目徳市である。
老婆の名はチヨといい、十九歳でこの地に嫁いだころには、本家との付き合いが途絶えてからすでに半世紀余りが経過していた。真珠湾奇襲の前年、昭和十五年のことである。わたしは老婆がいま四十代と知って唖然とした。あの白髪と痩せこけた肩。なによりあのヘチマタオルのごとき皺。八十歳ぐらいの見当をつけていた。わたしはしばし母の話をさえぎって、この事実を消化しようと努めなければならなかった。
彼女がどこから来たのかは、母も祖母も知らないといった。いなか町ではこれはとても奇妙なことだ。よそから来た者に対してはたいてい、よくいる近所の詮索好きがその門地や経歴、親元の身上などについて噂をして回るものだが、チヨの場合には要領を得なかったらしい。花嫁は明るいが耳慣れない方言のようなアクセントで話したそうだ。そのためか外国の出身だと考えた人もいたそうだ。
ともあれ、彼女はほぼ同い年の夫と新しい生活をスタートさせた。夫徳市、妻チヨ、ふたり分の歳を足しても不惑に満たない新婚である。
夫婦はしばらく子宝に恵まれなかったが、結婚五年目にしてようやく懐妊。しかし産み月を四か月後に控えた八月、鮮魚行商をしていた徳市は召集され、その僅か数か月後、東部ニューギニアで帰らぬ人となった。
死ぬ何日か前に敵機の空爆で浮いた川魚を部隊で食べていたことから、魚にあたったなどとも言われたらしいが、これは彼が魚屋だったことから符合した思い込みに過ぎなかった。現地の部隊では風土病が猖獗しており、これらによる感染症で死亡したというのが真相らしい。朝が来れば向こうも朝だと、時差のなさをも励みの材料にしてきた二等兵徳市だったが、その朝が最期のときになった。遺品の中には、チヨの容態への気遣いと、生まれてくる子の、さまざまな名前を試し書きした日記があったという。
皮肉にも、夫戦病死の一報はチヨのお産の当日に届けられた。生まれた赤ん坊はその直後に死んだ。法的には出産であったというが、死産として届けられたらしい。
──出てこられない子だっていっぱいいるんだ。娑婆で息ができただけでもこの子は儲けもんだよ。
産婆が吐いたやっとの言葉も、この日ふたりの家族を失ったチヨの耳には届かず、布団に伏したまま口もきけない状態だったという。南方戦線の徳市の枕元に描かれたであろう子どもの姿は、結局その名前とともに、この世で光を受けることはなかったのである。
このときの産婆はその後十五年ほど──つまり昭和三十四年ごろまで──業務を続けていたらしいのだが、チヨさんのお産前後の事情は産婆に守秘義務があるとかで語らないのだという。引退後何年かしてから、当時としては珍しい自動車のひき逃げにあい亡くなっている。深夜十一時半の真っ暗な道で起きた事件だった。通学路上にあった事故現場近くの電柱脇には小さな墓石が置かれ、生花や和菓子がたびたび替えられていた。
チヨさんが寝込んだ日から幾日も空けず、この地を未曾有の大地震が襲った。昭和十九年十二月七日午後一時三十六分、千二百余名の命を奪ったマグニチュード八・〇の東南海地震である。太平洋戦争末期のこの当事、報道管制により被害状況は徹底的に隠蔽された。犠牲者の中には、当地国民学校への疎開学童もいたという。この地は、ひと月後にも巨大地震に見舞われている。
それから七か月を経てポツダム宣言受諾、無条件降伏。国中の民という民が疲弊していた。この前後、チヨさんがどうやって生きてきたのか、詳細を知る者はいない。肝心なときにはみんな口を閉ざしているのだ。戦前から懇意にしていた在日の人たちがしばらく面倒を見ていたという話もあるが、定かではない。
一連の話の中でいちばん印象的だったのは、チヨさんの年齢が祖母と母の中間ぐらいだという信じがたい事実だった。チヨさんの真相の暴露というより、新たなキャラクターの出現という観があった。そして集まった情報から、彼女は取り組みやすい安全な人物であるとの心証を得た。
子供の目で見た大人に対する評価の基準は簡単である。取り組みやすいか避けるべきか。
たとえば副業もどきで駄菓子や駄玩具を扱っている精肉屋の婆さんなどは極大パワーが未知数で容易ならない人物だといえた。日ごろから商品の数をちゃんと把握していたし、小さな子供が五百円札をつかんでラムネ菓子など買いに来た日には、さっそくその子の親に連絡して説教風を吹かし、逆に相手の歓心を買うと同時に日付の迫った牛バラを売りつけるといった荒業など朝飯前という抜け目のない婆さんだった。
話の内容はさておき、わたしが注目していたのは父の態度である。コマーシャルの間も黙ってテレビを見ていた父だったが、おそらく祖母と母の話に意識を寄せていたのではないか。わたしにはそのような見方ができるようになっていた。後ろ髪には工場の作業帽の跡が残っている。そこに父の意識が詰まっているようだった。
いつものようにお茶のお代わりを求めるでもなく、はた目には夕餉のあとの世間話になど興味はないという体で、わたしたちの方に背中を向けていた。でもわたしは理解した。あの背中はそうだ。父は首筋の少し上あたりでわたしたちの話を聞いていたのだ。
この一週間ほどの間に、バナナ園経営の意欲はすっかり薄れてしまった。そもそも件の植物はバナナなどではなかった。同科の植物で芭蕉というのだそうだ。バナナのような果実も期待できない。
わたしの興味は、同じく地下茎を使うこの植物を、自分の家の庭で増殖させることに移っていった。ひょっとしたら世界各地の伝承のように、庭に不毛な大穴が開き、『本当に望んでいるもの』を手に入れられるのではないかと考えたのだ。それが何であるのか、他者から指摘されたいという、おとぎ話じみた願望もあった。
小学校の水曜日の午後は、当時しばしば教育研修などの行事にあてられるため、給食のあとは放課になることが多かった。そこでわたしはこの日を決行日に選んだのである。
いったん帰宅し、準備を整えたわたしは、意気揚々とチヨ邸へと向かった。チヨさんの正体を知ったことが、恐怖を払拭したことは確かだろう。いったい子供というものは、こういう場面では卑怯な振る舞いを隠さないものである。わたしは勝手知ったる、といわんばかりの傲慢さでもって庭を闊歩し、たちまちのうちに地下茎で繋がった七本の苗を掘り起すことに成功した。頭皮から流れ出た汗がこめかみや首筋を伝う。だがわたしはひと仕事をなし終えたあとのような清涼な満足感に心酔しつつ、苗を土もろともスーパーの紙袋に放り込んだ。
目的の作業を終わらせると、わたしは荒れた土を軽くならして証拠の湮滅をはかり、中腰になって膝の砂を払った。目立つような跡は残ってないかと立ち上がって周囲を見渡したが、あまり平らにし過ぎるのも不自然なので、ちょうどいい加減だと判断できた。
仲間が奪われたことに目もくれず、ひたすら陽光を求めて直立する一群の苗の向こうには、芭蕉の巨大な葉がくたびれたのぼり旗のようにさまざまな角度で傾き、奥にある離れの土壁との間で陰湿な日陰を作っている。それらを交互に眺めながら、十歳になったばかりのわたしは何か物足りないようなさびしい気持ちになり、やっぱりバナナの苗だったらよかったかな、などとぼんやり考えていた。
ほどなく、わたしは帰り支度を始めた。まだ日のあるうちにこれらを庭に植えることにしていたのだ。
左斜め前一間半ほどの所には、このあいだの雑草採取を装った跡が認められるが、土も馴染んできて自然な雰囲気に仕上がっている。早くもぽつぽつと雑草の芽が出ていた。この一帯から先は芭蕉本体の葉の下に入るため、雨水は直接には当たりにくくなる。
そのとき、わたしはあることに気づいた。
あの日、チヨさんに見咎められたと悟ったわたしは、とっさにこの場所を選んだ。ここには雑草があるのみでバナナの苗が見当たらず、たとえ掘り返していてもバナナ泥棒の嫌疑がかけられることはあるまいと思ったからだった。
いま芭蕉の苗は、自らの遺伝情報に従い、いたるところに新顔を露出させている。ただ一か所をのぞいて。前回も今回も、ちょうどこの場所というのは、そこだけ苗が出ていないという場所でもあったのだ。
そう思った瞬間に、母の言葉が脳裏を駆け抜けた。
──あれはバナナじゃないのよ。まあバナナの親戚だけど芭蕉といって、あんなに大きくてもあれでも草の仲間なの。チヨさんがお嫁に来たとき持ってきたのね、きっと。
チヨさんがよそから持ってきて植えた草。
言葉のピースが組みあがり、ストーリーが動き出すまでに時間は要らなかった。
わたしはシャベルを持ち直しその場所ににじり寄ると、雑草の新芽の上から最初の一撃を打ち下ろした。歓迎しているかのような柔らかな土だった。さらに二度、三度。土が舞い、脇に置いた件の紙袋にかかったが、わたしは頓着せずに動作を続けた。手首に受ける感触が延髄を刺激し、わたしの好奇心を倍加したようだった。チヨさんに関わるポツポツした情報と、幼いころから培っている植物への畏怖が素材となって、わたしにある筋書きを作らせようとしていた。
ひところよりはずいぶん涼しくなった気候ではあったが、二度目の穴掘りは汗っかきのわたしにとってきつい仕事となった。しだいに汗みどろになってわたしは掘り続けた。何度も休み何度も掘った。前髪をゆらす額の奥で構築されていくあらすじからは、ひとつの疑念が生じ、疑念はやがて確信へと変貌しわたしを圧倒した。
わたしは堀り続けた。きっとわたしの行動はわたしの意思のみによるものではなく、第三者の意志による予定調和的なものなのだ。怖気などまったくなかった。子供なりにシャベルひとつで相当掘り進めたと思ったが、底土の様子にも放り上げられる土砂にも変化の兆しがない。ふるいにかけたような美しい土が延々と続いている。しかしわたしの確信もまた動じることはなかった。このような何らの変哲もない土の様子は、かえって怪しいと思わせた。
近くの桜からか、アブラゼミの声がジワジワジワと沸き立ちいっそう暑苦しく感じさせた。穴が深くなるにつれ地表からの熱気も伝わるようになり、わたしはふと母の下腹を連想した。ゴムに負けた皮膚が、雨上がりの路地のタイヤ痕のようになっていたのを思い出した。それは母の大きなお腹を三分の二ほども回っていて、わたしはそれを指でなぞるのを好んだらしい。そうしているとわたしは母のわき腹の横ですぐに眠ってしまったとよく聞かされたものだった。
気がつくと、掘り出して山になった土の量は穴の容積のゆうに倍はあるように思われ、はたしてきちんと証拠隠しの埋め戻しができるかどうか怪しくなってきた。大量の汗がシャベルにも穴の底にも落ちた。わたしは自分の汗を掘り出しているようなものだった。汗みずくな顔は泣き顔と同じなのだろう。どちらでもよかった。汗も涙も大差はない。どうせこれまで生きてきたうちで、顔の半分は泣き顔だったのだ。いまはこの無心な手がわたしの本体だ。いまこれを止めたら大切なものをなくしてしまう。そんなふうに自らを駆り立てていた。じっさいそう思い始めていた。見上げる空は透徹して青く、妥協という言葉がもっとも馴染まないように見えた。
確信に支えられた行動は輪郭の濃い結末をもたらす。わたしのシャベルはそれまでと異なるものを感知して次の一打をためらった。
それから先はもはや土ではなかろう。わたしはシャベルを捨て指先でそれに触れようとした。盗みを重ねてきた十指に違いなかった。
そのとき唐突に、わたしの弟は本当は死産などではなく、いったんこの世に生まれたのではなかったのかという疑念が湧き上がってきた。あまりに幼い記憶のため忘れ去ってはいるが、実はわたしはいちど弟を見ているのだと。そう言われればそんな気もする。これまで誰もそんな話をするものはいなかった。
弟は死産で戸籍にも書かれていないと聞かされてきた。紙には何も残らないけど、ちっちゃな粒になってお空いっぱいに広がってわたしたちを応援してくれていると母は言った。これまでその言葉のまま信じていたのだ。だがそのいっぽうで、空想にふける子供はこんな突拍子もない思いつきでも容易に受け入れ、真相を知ったと錯覚するのである。
いやそれどころか、実はこの芭蕉は、幼いころのわたし自身が植えたのではないか。どうしてそれを忘れてたんだろうと訝るまでになる。そうだった。若い母が、ひとまわりほど年上のチヨさんに頭をさげている絵が浮かんでくる。何かのお礼に訪ねているのか。母は愛想よく振舞っていた。
──……それからこれ、この子がどうしてもこのお庭にこれを植えたいなんて聞き分けないもので。芭蕉なんです。成長するとバナナのように大きい葉を広げて日陰を作ります。端っこの方でいいんです。どうか植えさせてあげてくださいな。
そうだった。その言葉に、わたしは肩の高さで握っていた手首から腕に沿って母を見上げる。麦わら帽子のつばの向こうで母のお腹が大きくふくらんでいる。わたしはその中に何が入っているのか知っている。逆光でよく見えないが母の顔は健康そうだ。ときどき天花粉の香りがする。本当はこの人は病弱なんかじゃないんだ。そうだったそうだった。なんで忘れてたのか。
──いいです、どうぞ、うえてください。そこがあいています。
奇妙な発音でチヨさんが答える。それからわたしに向き直り両手を膝に乗せて、いいこだねえ、ぼくいくつ。恭ちゃんいくつだっけ。わたしはチヨさんの口元からこぼれそうな金歯に向けて曲がった指で不器用に三を示して母を見上げる。だが本当はまだ二歳だった。
いやそうではないという声がする。事実はそうじゃない、忘れたのか──。
むかし、姉が通う幼稚園から飼育に持て余したウサギを一羽なかば押しつけられて、一年近く自宅で飼っていたことがあった。飼いだした当初は古参の犬や猫を押しのけてのアイドルぶりだったが、そのぶん飽きられるのも早い。喜怒哀楽の表現を持たず、ひたすら陰気な横目で警戒しながら、ケージ内のオオバコやスイスイゴンボの葉を消してゆく。そのわりに動作はすばしこく、いったん逃げ出すとなかなか子供の手には負えない。元来ウサギというものは子供が飼うにはいまひとつ面白みに欠ける生き物なのである。まして餌の葉もどこにでもあるというものではなく、霜が降りるころには採取が少ししんどくなってきていた。
その当時うちでは牛乳とは別にヤクルトだかマミーだかを取っていて、毎日夕方に配りに来てくれるおばさんがいた。わたしたちは、といっても姉とのふたりきりだが、その人のことを「黒いおばさん」と呼んでいた。大柄で浅黒い肌の快活なおばさんで、関東のアクセントで話した。いつも髪の毛を後ろにひっつめていたため、こめかみの上部にある盛り上がった黒い大きな痣が丸見えで怖かった。昔は芸人をやっていてタニマチみたいなものまでいたという話も聞いたが、あるいはおばさんが自分で言いふらしていたのかも知れなかった。
その次の春先になって、おばさんは配達で手首を痛めたなどとブウブウ言い出し始めたたが、そのうち本当にふた月ほど休みを取ってしまった。飲料の配達はその間だけ別の人が担当した。のちに復帰してきたおばさんはウサギがいなくなっていることに気づき母に問いただした。いらないんだったら、あたしが欲しかったのよ。きいきいわめいておばさんは地団太踏んだが、あとの祭りだった。あんなに悔しがるなんて、あの人ウサギを持って帰ってどうするつもりだったのかしらねと、前よりも太った背中を見送った母は独りごちた。
そうだった。この動物は黒いおばさんの手に落ちず、あの臨時の配達さんが引き取ったのだ。ウサギを飼いたいというおうちないかしら、などと母が漏らした相手がその人で、それならわたしがと、その夜のうちに持参した麻の頭陀袋に入れて持ち去ったのだった。
あくる日、彼女はお礼のつもりなのか、ふたつかみほどのネギの束とある植物の苗を携えてやってきた。左腕にはわたしよりいくらか年長な男の子がふざけ甘えしてしがみついている。こちらの縄張り内で無遠慮に振舞う男の子の仕草が少し癪だった。
配達とは別の時間にうちに来るのも、和装を見るのも、存外明瞭に話すことを知ったのも、みんな初めてのことで、別の人を見る思いだった。いつも同じくすんだ笑顔の配達マシンではなく、個人の事情を持つひとりの人間なのだと、そしてやはり顔のいろんなところにホクロはあるものだと、幼児なりに実感した。と同時にわたしはその時間に配達さんの家にいるウサギと、その横に積まれたネギの山を想像してなんだか怖いような気がしていた。あのウサギはネギを決して食べなかった。でもネギはウサギが食べないからと持ってきたわけではないのだ。
子供同士の年がいくつ違うなどの話をだらだらしたあとで、彼女は苗を縛っていた荒縄をほどくと、他人の家の三和土で平然と砂を払って言った。
──これを植えてみませんか。芭蕉なんです。成長するとバナナのように大きい葉を広げて日陰を作ります。
バナナと聞いてわたしは母の割烹着の脇から顔を出してみた。甘える素振りの男の子と目が合ったが、言葉を交わすこともなく、無表情をしばらく確認するとすぐにわたしは母の背後に隠れた。こんなふうに家を訪れる他の客と比べて、配達さんは口数こそ少なかったが、わたしにも終始愛想がよかった。意外さから来る恐れと照れくささがほんの少しずつ混ざって配達さんの第二印象がわたしの胸にしまわれた。
そうだ。あの人こそチヨさんなのだ。そうだ、わたしがまだ幼かったころには、たしかうちの庭にも葉っぱの大きな木があったはずだ。花の咲く木もあった。そうだ桜だ。わたしはあの後、母とふたりで桜から十歩離れた庭の隅に穴を掘った。桜は弱いからねと母はつぶやいた。芭蕉の苗をしっかりと植えると、仕上げに大袈裟に水をやった。汗をかいたという鮮やかな記憶はあれが初めてだった。母はそれから何か別のものも埋めていた。
指先が受ける感触が起こす直感は明晰で濃い。それに比べて記憶とは淡く絵の描かれた蛋白質のごく薄いフィルムみたいなもので、重ねかた次第でいかようにも見えるもののようだ。指先が大脳皮質に勝っている。わたしの行動は、もはや考えがあってのものとは言えなかった。指先のすさびが頭に浮かぶ珍妙な風景の中から真相を、正直にいえば気に入った真相だけを、選び取ろうとしていた。
黄昏の迫るころ、わたしはほぼ完全な一体の白骨化した新生児を掘り出した。思っていたよりずっと大きいものだった。ずっしりと重かった。まわりの土もできるだけ漏らさないように一緒に引き上げたからだ。それは父が植物の根を扱うやり方と同じだった。赤子はわたしの両の手の中であごを下げ、土くれを吐き出した。入れ替わりに九月の湿った大気が彼の口腔内を満たし肺を目指した。土が落ちて封印が解け、ようやく許されたひと呼吸だった。囲んだ両手の中でちいさく上下しているように感じた。
端正な眼窩も土で埋まり、小さなおじいさんのような表情がこちらを見つめている。玉音放送も経済成長の槌の音も暗い土の中で聞いていたのだ。いま生きていたら二十三歳か。わたしは無意識に引き算をしていた。昭和四十二年引く昭和十九年は二十三年。精肉屋のポーちゃんとどちらが年上なんだろう。もう大人だから家業の魚屋さんの仕事をしているんだろうな。橙色のオキアミが混じったゴナを、もううちの家にも売りに来たのかな。狭い路地を「ゴナえーかやーい」って威勢のいい声を響かせて売り歩くんだ。でも年の若い行商はあんまりしゃべったりしないで売ったらすぐに行っちゃうよな。ぼくとはもう何か話したかな。
わたしは根拠はないが男だと決めつけていたようだ。小さなおじいさんの目はじっとこちらを見つめたままだった。
背後にチヨさんが立っているのは分かっている。しばらく前から彼女の影がわたしの肩越しに向こうの苗の方まで伸びているのに気づいていた。
わたしの一挙手一投足がチヨさんに見られている。しかし背中に受ける視線からは、前回のような刺すような痛みを感じることはなかった。むしろ温和で暖かな覚えがあった。汗がまつ毛からもしたたり、乾き始めた骨にぼたぼたと落ちる。わたしは赤子を目の高さに掲げたまま、ゆっくりと振り返り、彼女に差し出した。土もこぼさないよう意識した。この子が地中にある間の産着だったような気がしていたからだ。
思ったよりずっと近い距離だった。チヨさんは微動だにせず、こちらを向いて立っていた。表情には何の意思も浮かんでおらず、焦点の定まらない深い目が、わたしとわたしの背後を同時に見ている。荒々しい髪が西日を背に金色に光る。ときおり黒い首筋からその陽光がこぼれ出し、千本の細い槍が試すようにわたしの目を射抜く。わたしは目をすがめることなくチヨさんを注視した。もはや彼女の容姿を形容すまい。それは春秋の満ちる前にすべてを失った母親の顔だったのである。
チヨさんは受け取ろうとする素振りも見せず立ちつくしている。少しも動かず何も語らない。何を見ているのだろう。そもそも何かを見ているのか。わたしは振り返ってみたが、わたしたちの視線の先では、芭蕉の太い幹が、日にいちどだけ受け取る低い日差しを力なく返しているだけだった。目が慣れてくれば、重なったふたりの影が苗や雑草の上を小刻みに飛び跳ねて、その根元近くまで伸びているのも見えるのだろう。
実はわたしの胸中には一枚の淡い素描が浮かんでいて、それが実現することを期待していた。わが子の亡き骸を見たとたんに正気を取り戻し、ひとりの母となって涙にむせぶチヨさんの姿だ。その光景は美しいに違いない。それを目にしたわたしは今後機会あるごとに記憶の隅から引っ張り出すだろう。人に話すかもしれない。だが悲しいかなそうはならなかった。わたしはいまでもこの手の予感はひとつも的中することはない。
夕日が赤みを帯びている。いつまでもこうしてはいられない。車酔いをしたときのように胸が悪い。なにより両腕が疲れきっていた。わたしは曲げていた腕を前方に伸ばすかわりに一歩だけチヨさんに近づいた。彼女の表情の少しの変化をも見逃すまいと、ゆっくり動いた。このまま終わるわけにはいかない。何かが始まらなければならないと思った。わたしの動きに合わせて、チヨさんの目元と口元の皺が僅かに動いたように見えた。
そのときわたしはススキのように立っているチヨさんの身体から天花粉の香りが放たれていることに気づいた。
あ、てんかふの匂いだ……と思ったその刹那、ずっと幼いころに戻ったような感覚があって、わたしはうっとりとした気分に包まれた。精神的にというより、五感の受容器が幼児のものに戻っている。その幼児の部分とは一致しない冷静な自己が隣にあって、においや触感などは自己が直接に受けるのではなく、幼児の受けた感覚を共有しているといったあんばいである。平たく言えば、感覚に関しては仮想の幼児が代理をしているのだった。
天花粉は母の匂いだ。粉を塗られるのはわたしの喉元なのだが、この匂いがするときは塗る役目の母が常に目の前にいた。だから母を連想する匂いなのだが、一方でこれは死の臭いでもあった。
わたしが五歳のころ、母方の祖父の伯父に当たる人が母の実家の離れで死んだ。何か事情があって家督は弟である祖父の父親が継いでおり、兄の方は生まれ育った家の離れで終生ひとり住まいだった。わたしは母の実家に遊びに行った折々に、農機具小屋と棟続きのこの離れを覗いてみることもあったが、このおじいさんのいる部屋からは季節に関係なく独特の臭気を感じることがよくあった。
このおじいさんが長患いの末、親族一党に見守られながら離れの──畳がなければ小屋と見まごう普請だったが──座敷でいよいよかという状態になった。汚い蒲団と寝巻きをはだけて横たわる大きな体のおじいさんは、大きな体の牛が横たわっているのと同じに見えた。裸電球のもとで、おじいさんの上に被さる大人たちの影が大きく目まぐるしく動き、わたしにはそちらのほうが怖かった。この人は死ぬ人なのだと悟った。死はこういう光景のあとでは避けられなかった。そうして年寄りたちは腐るように死んでいった。
「なにな、なんやて」と、大人の誰か──たぶんわたしたちが「カシハラのおっちゃん」と呼んでいた人物だ──が、おじいさんのやおら開いた口元に耳を寄せて、言葉を聞き出そうとしていた。最後の言葉になるのではないかと思っていたようだった。何が聞けるのかと固唾の呑んでいた周囲の大人たちは、一同に振り向いたおっちゃんの「あのな、うどんやて。うどんちゅうとるわ」との一報に、安堵ともため息とも薄笑いともつかないもので部屋を満たした。うどんがおかしいのか、とわたしは怒りの気持ちが湧いてきた。末期にうどんを欲しがる人間の性というものがリアルでこわかった。でももう大人たちは、おじいさんの口に入れるのも棺おけの四隅に置くのも同じことだと思っていた。うどんの味のことなんか考えてはいなかった。おじいさんが動くたびに夏物の寝巻きのすき間から天花粉の臭いがした。それは諦められた人間の終末の臭いとして、わたしの幼年期の記憶に追記された。年寄りは今と比べて統計上の数はともかく、当時はたいてい家族と同居していたため身近な存在であり、年寄り密度は今より高いと記憶する。たまに公民館で上演される白波物っぽい演劇の鑑賞会では、勧善懲悪に沸く老人たちの肌から立ちのぼる腐食した金属臭がうちわであおられて満座の二十四畳間に充満していた。大抵の病にも無頓着な者が多く、死ぬ前の日まで畑の草を引いたり乳母車を押していたりするので、生死の境にある年寄りの姿を見るのは茶飯事だった。死を本人よりも周囲が先に受け入れる怖さを、大きな体を持て余す老いた牛のような最期を、その一方で死後の段取りを淡々と遂行する大人たちの強さを、小さな子供が見て育つ時代だった。
チヨさんの声が低く響いている。さっきから聞こえていたのに、いままで声だと認識できていなかっただけのような気がする。聞き覚えのある声だった。
上半身の力が落ちてゆくと同時に意識が濁り始め、夢を見ているような心地はいっそう強くなった。
──恭ちゃん……。
名前が呼ばれている。てんかふの匂いだ。まだずっと小さいころだ。暑い日だった。
──恭ちゃん、ウサオのお墓にいたずらしちゃだめでしょ。
ううん、とわたしは首を振った。これはウサオのお墓じゃないんだ。
──もう土の中に戻してあげようね。
──土の中に戻してあげない。やっと会えたのに。
──死んだものは土の中にいる方が安心して眠れるんじゃないかしら。
──どうして土の中にいるの。どうして死んだの。
──ウサオは電気のコードをかじっちゃったのね、きっと。
──ウサギじゃない、ウサオじゃない、ほら人間だよ。これは人間の赤ちゃんだよ。
──恭ちゃん何か勘違いしてるわね。
──ウサオじゃない。ウサオは代わりのおばちゃんが連れて行っちゃったじゃないか。
──恭ちゃんいい子ね。でもウサオはうちで死んだのよ。ぼく覚えてないの?
──うちで死んだなんて嘘だ。代わりのおばちゃんがネギと一緒に鍋で煮ちゃったんだ。
気分の悪化は急速だった。しばらく立ちくらみのような状態が続き、使い痛みが目と耳の周辺に溜まっているようだった。まぶたは重く、耳も高い妙な音が聞こえるだけで役に立たなかった。胸から腹にかけてどんよりとした吐き気がある。身体中が熱っぽく感じるようになり、強い眠気に見舞われた。この場で眠り込んでしまいたいほどだったが、状況が状況だけにそうもいかない。わたしはとにかく何も考えずに家に帰る動作だけをした。紙袋とシャベルを拾い集め、穴の土を三分の一ほど埋め戻した。そこまでが記憶の限界だった。その後どうやって家までたどり着いたのか皆目思い出せない。
ひとつだけはっきり覚えているのは、家の勝手口までたどり着いたときに母に見つかったことだ。戸口の脇に植えてあるヘチマに水遣りをしていたのだ。母は気が向くと時間にかまわずブリキ製の重いジョウロを抱えて朝顔やらヘチマやらを相手に水を撒くことがよくあった。
──恭ちゃん。
わたしの姿を見るなり母はジョウロを両手で持ち直して目を丸くした。
──どうしたのその恰好。それ汗なの。
まともに聞ける話せる状態ではなかった。ひとことふたことでも返そうと、母に向かって何か言いかけたが、母の垂れた前髪が白い額に張り付いているのを見て、まるで般若のお面のまぶたのようだとおかしく思い、直後にわたしはその場で気を失ってしまった。
意識が戻ると、校医の診療所のベッドで仰向けになっていた。左肘の内側に点滴の針が刺さっているのを見て、むしろ安堵した。
熱中症との診断だった。
天花粉のかすかな香りが、残り香のように病室内に満ちていた。もしやと思い首をひねってみたが、隣のベッドは空だった。
細い月ほど早く沈む。しかしいかに細くとも沈めばその分は暗くなる。ある人は、不幸せはすぐに終わるなら幸せだという意味のことを述べたが、わたしは頷かない。思うに、不幸が終わることの意味は未定義であり、それはわたしたちが有限にしか生きられないことに由来するのだ。
チヨさんに最後に会った日から、それが最後だったと知るまでに幾日もかからなかった。金曜日の夜半から朝方にかけて大雨が続いた。その未明の大雨の中、庭の草叢でうつ伏せになって倒れているチヨさんの姿を見つけた人がいた。
享年四十六歳。
いつもと変らぬ朝を迎え、いつもと変らぬ死を迎えた。ただ秋雨の重みが彼女の背に苛烈であったに過ぎない。死因は知らない。決して牛などではなく、人として安らかな最期だったことを信じるより他はなかった。今でもわたしは、行き倒れは人の最高の死に方だと固く信じている。
チヨさんの件は、人ひとり死んだにしては近所の人たちの関心を集めることはあまりなかった。行政解剖も行われることはなく、遺体は搬送先の大学病院からはすぐに返されたそうで、待機していた本家の人たちの手で粗末な通夜と葬儀がとり行われた。
大降りの後始末を思わせるような強い日差しの続く一日だった。あちこちで夏の名残のものが光っている。どこかで遅いセミがまだ鳴き続けていた。わたしは焼香に出かける母に、一緒についてくるかと聞かれてそれを断った。わたしはチヨさんを棺おけに入れる大人たちの仕草を想像していた。彼らの手で真っ白に死に化粧を施され、鼻や耳に詰め物をされているチヨさんの顔は見たくなかった。あの日の夕方、逆光の中で見た老婆の顔をチヨさんの印象として封じておきたかったのだ。
それならおばあちゃんとお留守番お願いね、とあっさり母は断念するものの、その前後で、「ついこのあいだチヨさんのこと言ってたらこんなことで、おかあさんびっくりしちゃった」などと冗句な物言いを繰り返し、わたしとチヨさんとの関係をわたしの口から何か引っ張り出そうとしている様子だった。
母が和装を整えて出かけたあとは家の中は急に静まった。祖母は遅めの昼食の後片付けをしながら何かブツブツと言っていたが、習慣となっている食後の滋養酒をひと息にあおると大仰なため息をついた。わたしが猫を呼んで残り物を噛ませている間に野良着に着替えたらしく、「恭一郎、ばあちゃん瓜をちぎりに行ってくるから、あと頼むな」と玄関で声がしたかと思うと、足早に南の畑に行ってしまった。たまり水で瓜が腐るのを心配したのだ。買い物など日ごろの雑事では勝手口を使う祖母も、畑への行き帰りには必ず玄関を通った。たとえ零細兼業であれ農事を担う者としての矜持の表れだったのだろう。
ひとりきりになってしまうと、日曜日の午後はうら寂しいものになった。この日もそれまで父についての記憶はない。そもそも父はどこへ行ったのかなどと、日ごろ案ずることがなかったのだ。酒だのパチンコだのといった遊びはやらず、映画や外食なども楽しみとしなかった。工場が休みの日などは、いつのまに出かけたのか自転車の荷台に苗木を鈴なりに結わえては午後の連続ドラマにギリギリに間に合わせて戻ってきたり、施肥や野焼きや草取りなどの畑仕事を大雑把にこなすか、さもなくば部屋でいびきをかいて過ごすことが多かった。
家人のいきれをうっすら残した居間で、ひとり静かに畳に伏せると、わたしは規則的に繰り返すツクツクボウシの声に催眠術をかけられたようになり、この二週間ほどの出来事が思い出されてきた。
──のう、おまえ、ひる飯は。
わたしが聞いた、チヨさんの最初で最後の言葉が、耳に残っていた。どうしてチヨさんはわたしに投げかけたのだろうか。いやわたしにではないかも知れないと思った。チヨさんの心が乱れたのは、おそらく家族も棲み家も失った二十数年前からのことで、彼女にはその時代の記憶が蘇っていたのかもしれない。あるいはこの地に嫁いだころの気負った瞳に映った景色が呼び戻されたのかもしれない。だがいかに思料しようが所詮は他人ごと。本当のところはわたしにはわからない。ならば想像でとはいっても、それはフリーハンドなどではなく、自らに小刻みに問いかける作業を多量に含み、わたしを疲れさせた。
チヨさんは思い出したに違いない。
あのとき、背中を丸めたわたしの後ろ姿がきっと……。
──また来てけつかる。
──相川さんとこの「のうちゃん」やな。またなんか掘っとるみたいやな。
──こないだのもあれの仕業やな。人の庭を穴だらけにしてもて。
──何やろな。芭蕉のあたりを掘っとるようやが。芭蕉やろかな。
──あんなもん誰が欲しいかさ。
──あんなもんで悪かったかな、植えたんわたしやが。
──そうやない、何か他に狙いがあるんやないかと言うとるんやさ。
──さあそれこそ分かりません。それよかあの子、お昼まだとはちがうのかな。
──さて、ひとさんのおさんどんまで心配するゆとりは、うちにはないわの。
──そう言わんと。今日は半ドンやで給食は出やへんわな。
──給食てまだあるんかな。それかて一食二食抜いてもどうというわけやなし。
──その一食二食を、もう抜いたあとかも知れませんやんか。
──腹がすいたら、おのれの家に帰るのが筋というもんや。
──帰れるに帰れへんとか。わざと遅らせとるんと違いますか、きっと。
──きょうび、腹すいたゆうて庭に穴開けられとったんでは、勘定が合わんもん。
──あ、あるある。あそこにカバンが置いてある。それ見なされやっぱり学校帰りやわ。
──何ぞ……芋でもあるとか思とるのかの。
──芋はないが、ゴナならなんぼでも。
──ゴナは商売もんだす。もろた家の方でも案じるわさ。
……きっと……誰かに……。
──えらい熱心やなあ。
──それでも、しとることは自慢にならんわな。
──あんたさんかてな、もしあれが自分の子なら、そら可愛かろさ。
──わしのせいばかりとはまだ決まっとらんて。
──なに言うとりますの。その話と違います。
──諭すなと怒るなとせんことには、あの子のためにもならんわさ。
──これがまた気の小さい、よう泣く子で。
──毛が何本か足らん子になってしまうわな。
──こないだも、声かけただけでな、わたしの顔を見るなり逃げてしもてさ。
──親がふぬけとる家のもんは躾も何もかもワヤやな。
──きつく仕付けとるとは聞いとるけれども。
──やっぱり目が足らんのやさ。
──お姉ちゃんの方は、そらしっかりしとるに。挨拶かてきちんとできとるし。
──……。
──……。
──えらい熱心やな。
──わたしちょっと行って聞いてみましょか。
──いやあのな今日はわしが行ってビシッとどついてしもたる。
──わたしにします、あんたさんが出るより。人さんの子いわすようでは尚更や。
──それ苦しくても他人様に迷惑をかけるなと学校で先生に習うとるやろがて。
──そんな話しに行くんと違います……おいよ、のうちゃんよ。あんたお昼は……。
……似ていたのだろう。
わたしの父の名は豊といい、子供のときは「のうちゃん」と呼ばれていた。無駄な精力に溢れ学力に欠ける当時の子供らが「豊」の字を「農」と混同したことからついたあだ名ではなかったのかと想像する。泣き虫の「のうちゃん」自身は、それでも自分の名前の読みを含む発音だったので、どうにか自分を納得させていたらしい。精肉屋のせがれみたいに「ポーちゃん」だったら自分の中でどう解決しただろう。
少し眠っていた。乾いた空気はさわやかで暑がりのわたしでも昼中に居眠りが出たらしい。何か夢を見ていたのだが思い出せない。薄目を開けると空が見えた。夢のあとに見上げる空の青さは、切り取って残しておきたいほど鮮やかだった。自分のいびきで目が覚めたと思っていたが、目や耳から何かが蒸発していく感覚とともに覚醒に近づくと、音は隣の父の部屋から響いていることが分かってきた。父も夢を見るものなんだということを、そのとき改めて実感した。
わたしの頬は濡れていた。夢は消えても涙は乾かずに残っている。それゆえまた悲しくなり新たな涙が頬の水路をなぞった。どうしてわたしは泣いているのだろう。いつかはバラバラにされてこの世から消える家族のことを考えていたのか。それまで人の死で泣いたことはない。これも涙なのかと思った。
ひとしきりめそめそして過ごしたわたしは、窓をかすかに叩く風の音に気づき、チヨさんの家の方角の窓を細めに開けた。一陣の東風が部屋に飛び込み両頬をぬぐった。聞き覚えのある乾燥した音を立てて日めくりがはためき、その下に神無月の文字が揺れる。お腹がすいてきた。あらゆる意味で、季節の告げるものはもはや夏の終わりではなかった。
──恭ちゃん忘れちゃったの? 恭ちゃん弟が死んじゃったって一日中泣いていたのよ。
目覚めてすぐ感じたものは寒気と薄明かりだった。
夢を見ていた。夢の中の母らしい人の声で目が覚めた。夢の中で泣いていたような心の高まりが残っている。わたしが見た夢の中であるから、そこで動く母の仕草は、わたしの母に対する見方に依拠しているはずだと思うのだけれども、実際にはわたしのあずかり知らぬ──記憶の近くもしくは制限を受けた適度な範囲を逸脱したとしか思えない──突拍子もない言動も多かった。
その由来は、現実世界で再利用できる生鮮な記憶とは違って、ただ夢という手段でしか到達し得ない深い場所に保存された記憶の漬物みたいなものなのか、それとも現の営為に頼ることなく夢が自らのサイコロを振って展開する別世界の出来事なのだろうか。夢の中の母は、わたしの抑圧された願望や心的外傷などを食って動いているのか、それとも母の顔をした別人なのだろうか。たしかに夢世界の因果律ならば、一意な収束を重んじる現実世界の秩序では到底説明のつく代物ではないだろう。
いったい何者が夢の中の登場人物にあのようなセリフを吐かせたのかと、現の世界で驚いている。それに留まらず、夢と現で演じる自分自身の同一性にすら自信が持てなくなっている。自分の脳内だけで完結している出来事とは思えない。外部への開口部である耳や鼻、あるいは皮膚や粘膜から入る情報を処理して添加しているのは疑いようがない。
「夢の中の俺ってすごい」とか「夢の中の登場人物にこんなセリフを与えられるのは僕自身の能力によるものだ」などと、はじめのうちは「潜在的に持つ能力の発露」と捕らえていい気になっていたが、のちにわたしは夢と現は要素の個体レベルでは適当な関係を維持するものがあるにせよ、根本的には互いに別世界に属するものであって、それぞれ異なる原理で動いていると考えるようになった。
さきほどの自分自身の不同一性で言えば、あるひとりの自分が、他の自分を観察しているような状態と考えれば説明がつく。たとえば思考実験として、若い頃の記憶がほとんどなくなるほどの高齢に達したわたしが──だからといって高齢者の思考に染まっているとは限らないが──十五歳のころの自分の言動を正確に記録した映像を自分だと認識しながら視聴することを想定してみるとき、あたかも夢の中のような「自分のような他人」を見るような気持ちになるのではないかと想像する。この場合、むろん現世界からの影響は皆無であるから、別世界の新たなサイコロ競技の結末を見ることに近い状態に感じるのではないのか。
あるいは、飲酒の習慣のある人なら、記憶をなくすほどの泥酔状態下にある自分の言動を第三者に撮影してもらい、しらふになってからそれを見届ける場合にも似たような体験になるのではないかと思う。「大胆」や「執着」や「豪気」などは「潜在的に持つ能力の発露」というよりは、アルコールがもたらす新しい倫理意識に従う自分の性質、いわばアルコールで照らされた自己の影、自分の知らない行動原理で決然と行動するもうひとりの自分のように映るのではないだろうか。
むろん過去を探るわたしのこの作業の中にも、長年の間に自己同一性に歪みが生じていて、その当時の自分の心境を正確には書ききれていないのではないかという懸念は常にある。たとえば自分らしくないと判断した行動を他人の動きのように断じてしまい、看過したり修正を施すなどして正しい評価を仕損じるのではないかという心配である。逆の場合も然りで、ある行動を思い返して自分らしいと微笑み、典型視する場合もあるだろう。ただでさえあやふやになりがちな記憶なのに、バイアスのかかった色眼鏡を通していたのでは道理にもとる。先ほどの泥酔の話で言えば「いくら酔っ払っていたからって、この俺がそんなことするわけないだろう。これは何か特別な理由があったからに違いない」として手心を加えた分析をするようなものである。それも程度の問題なのだろうが。
肌寒さは続いている。
眠い目をこすることなどしない。大げさにまばたきして勉強机の時計を見ると、二時を少し回っているのが分かった。部屋を仕切るカーテンの向こう側から姉の寝息がかすかに聞こえる。そんな時間に目が覚めるのは覚えている限り初めてだと思うけれども、おなじく初めてといえる出来事が同時にわたしの中で起きていた。
姉の単調な寝息を繰り返し聞いているとき、それまでの自分には説明のつかない、ちいさな新しい感情が登壇してきていることに気がついた。甘えでも慈しみでも恋心でもない、いま思えば初めての性的な感情──精神の充足だけでは満足せず触感の充足をもちいさく要求した──ではなかったかと思う。新顔のそれは、カーテンを持ち上げて隣の領域を侵し、寝ている姉のパジャマにそっと自分の頬や胸をこすりつけてみたらと、いっそう小さな声で促した。それは具体的な性欲や勃起などを伴わない、本体だけが抽出された純粋な性的衝動だったのだと思う。普段から小面憎いという感情しか持てない相手なのだが、この瞬間にはその身体にすり寄って匂いを嗅いでみたいとさえ願っている。それまで経験したことのないの無体な欲求には、性に関する知識や身体が整備された上での行動で応じることは当然できるはずもなく、わたしは手をこまぬいていた。ときおりカーテン越しに伝わる十二歳の姉の口唇音や寝返りの調子は、その得体の知れない欲求を容赦なく増長させるような気がした。
きょうだいの部屋は、もともとは家の中にあった農具部屋──小麦を出荷していたころには、麦袋や藁むしろ、荒縄などを格納していた──を四年前の改築のさいに手を入れて確保した七畳半ほどのスペースで、カーテンで仕切ることで姉と弟に割り当てられた。出入り口は玄関脇とお勝手側の二か所があるため、お互い顔を合わせることなく自分の領地に出入りはできる。ただ間仕切りといってもやはり布地という材質であって、あるときまでは声のやりとりはもちろん、お互い首だけのぞかせての交流や物の受け渡しもしばしばあった。その程度の分け隔てで十分であると考えられた。峻厳に分離する皮膚というよりも、曖昧で半透明な粘膜だった。あるとき、それらの機能は姉によって拒否された。両サイドから寄せてきて真ん中で合わせるこの間仕切りカーテンが左右に開かないように、姉の側から糸で縫いつけられたのだ。その仕業を目の当たりにしたとき、今までのようなきょうだい喧嘩のはずみによるものとは異質のものを感じた。わたしたちきょうだいは、いまや幼子の時代を生きているのではないということに気づかされたのだった。同時に、もうそんなことで動揺し不満を持つようなわたしではないことも示したかった。
わたしはベッドからゆっくり起き上ることに精神を集中させ、物音で姉を起こすことのないように静かに布団から這い出ると、電灯はつけないまま勉強机の引き出しをそっと抜き出して、褐色の紙袋を取り出した。
ひんやりした空気に身をまかせて、わたしはそれをぼんやり見ていた。遠い街路灯から届く薄明かりの中でも紙袋の上にスーパーの店名が読める。苦手な女店主だった。カーテン越しに伝わる姉の寝息が変化した。胸がどきんと不正な脈を打つ。わたしは五日前に十代の仲間に入っていた。寝息に聞き耳が立っている。ただ生まれて初めて姿を現したこの小さな邪心に打ち勝とうとする努力は、一方でこれからの自分がしようとすることを激励するという副作用をもたらした。知られてはならない悪事なら、これまで何度も繰り返してきた。ただ今回は、生まれて初めて純粋に自分のためではない行為、実のところチヨさんでもその息子でもなく、覚えてもいない弟のためにする行為──弟が存在したことを世の中に強く認識させること──のような感覚があった。それがわたしには心地よかった。
やがて決意を固めると、わたしは紙袋を注意深く幾重にも新聞紙で包み、小脇に抱えてそっと家を出た。向かったのは、わが学び舎、T小学校である。
未舗装の大通りに土砂をよじるズックの音が響く。わたしは自然と早足になっていた。
チヨさんが荼毘に付されたいま、この子も何とかして天に返してあげたかった。チヨさんと一緒にしてあげたかった。幼いわたしに考えつくことは、私的な火葬以外になかった。それも無明の闇に葬るのではなく、公衆の記憶に共有されるやり方を求めた。それが二十有余年野に置かれたものへの供養だと信じた。身体全体が駆け足に近くなった。同じような動作のときには、いつも同じような言葉が頭に浮かんだ。誰かが言った、あるひとことを──不幸が終わることの意味を──繰り返し問うていた。
真東の空に下弦の月が昇り、侵入者の長い影が校庭に描かれた。銀の色彩を帯びた月光を背に、わたしは深夜の校内を斜に進む。時計塔の下に立つと、わたしはおもむろに見上げた。寂として声なくも、人の胎内に彷彿たる威厳に満ちた風貌である。高揚を覚えるまもなく、わたしは朽ちた通用口を破壊して内部に侵入し、廃材を寄せ集めて小さなかまどをこしらえた。荼毘のお供に、ひと握りの芭蕉の苗を添えた。
炎は驚くべき速さで時計塔の壁を駆けのぼり、たちまち塔全体が一本の巨大な火柱となった。漆黒の虚空が緋色に染まる。それはすべての生きとし生けるものとの繋累を断ち、闇に還す引導だった。この光を見よ。これがこの世に生きた業の清算なのだ。天に向かって噴きあがる真紅の柱を見上げ、わたしは身体中の力が抜けてゆくのを感じた。ふとももがワナワナと震えた。そのとき業火に包まれた時計塔から時ならぬ時が告げられた。天界をも焦がす火勢にわたしはよろめき、校庭の荒い砂をつかんだ。偽りの時を告げる響きはいつまでも続いた。この世の業苦の叫びか、それとも生なるものへの歓喜の声なのか。いまに至るも返答に窮する。
思い出は、その一瞬を切り取った絵として残る。いまこの時が連続していると感じることすら生理的な慣性のたまものに過ぎないのであって、過去は一枚の絵の形をしてその評価を待っている。その両端は切り取られていて、時間の前後の連絡があいまいであるせいで、夢との区別がつかなくなることもなる。
そのとき言葉はどこにいて何をしていたのか。思い出の中で使われた言葉はすでに絵の中に組み込まれており、そこから言葉を引き出そうとすれば、絵の原本から剥がす必要がある。十分に注意を払って、他の絵や言葉との間に矛盾や齟齬が生じないように選び取らなければならない。さもなくば原本を毀損するおそれがある。いいかえれば、言葉には絵に切り込み、絵を──過去の思い出を──変える力があるということだ。言葉は絵の持つ方向量を決定することで、セピア色に凍結した風景に息を吹き込むエンジンとなる。そのつど一度しか起こらなかったはずの過去が多かれ少なかれ変容を見せる。畢竟絵からどのような言葉を引き出すのかは、たとえ恣意的であれ過去の思い出をどのように受け止めるのかという作業に似ている。
人の記憶などじつに曖昧なものだ。わたしのものなら尚更だ。思えば、過去をたどるということは、薄れゆく記憶にカンフルを施し、必要があれば補修し、着色し、事実であることを取り繕い、都合の悪い方の矛盾を潰し、そしてまるで古い一枚の絵を捏造するような辻褄を合わせる作業のように感じる。わたしは体内に存在する夥しい数の素材を呼び寄せ、忘却を決め込んだ幾万の絵を蘇生させた。そしてそれを解釈する過程で無数の言葉と出会うことができた。
絵は物語と異なり、出来上がったものには始まりも終わりもないが、出来上がる過程においては確かに存在した。それは単なる制作工程という意味に留まらず、ある種のアルゴリズムに似たところがある。つまりモチーフに触発された制作者がそれを内部で処理して作品として表現するという手順の集合体であるという意味だ。ふつう作品に埋め込まれたそれらの仕掛け──つまり言葉──は、制作者は何も語らず、ただ鑑賞する者の解釈に任されている。わたしは過去の思い出と称しておそらくすでに改変済みのものをも含む多数の絵をかき集め、そこから自分で言葉を抽出して物語をこしらえた。
絵ならば視覚に頼るよりほかはないが、物語は本来耳で聞くものであり、読書は聴き取りの代償行動だと考えている。言葉は文字で表意されるようになったとき、パワーアップしたとはとても想像しえない。むしろ元来備えている力の多くを失ったのではないか。指先というものは邪な言葉をそそのかすし、目というものは見慣れた対象をなめてかかる。文字が伝達手段としてどのくらいの歩留まりで伝わるものなのか心配でならない。
やがて絵は縮み色褪せる。記憶はむろんのこと実写ですら衰える。それらは真実の近似値に過ぎない。近似値であれば真実との乖離は時間とともに発育し、いずれ熟すだろう。キャンバスに叩きつけた心のたぎりの記憶は剥がれ落ち、そしていつか死ぬ。絵から遊離し記録として残った言葉に対峙しても疑いの心が生ずる。それを繰り返しながらわたしは生きてきた。
あの時計塔の出火は漏電が原因だということで決着した。それまでの数年間で同じような事例が二件発生していたため、当初からネズミによる電気コードの短絡出火が疑われていた。現場の焼け跡からウサギのものと思われる骨格が見つかったことで、原因の特定はむしろ引き締まったようだ。すなわち小学校に隣接する公立幼稚園の飼育ケージから逃げ出したウサギ──事実、春先から一羽が行方不明だった──が機会を得て時計塔に棲みつき、塔内部で照明用のコードを齧って感電死するとともに、齧られたコードの被覆が熱を持ち時間とともに炭化して火災の原因となったのではないかという見方が専らとなった。
いまいちど繰り返す。
あの時計塔の出火は漏電によるものだし、わたしに盗み癖があったという記憶もあやしい。盗んだ植物では植物園は作れない。在日朝鮮人のチヨさんが八十六歳で亡くなったのは一昨年のことだ。喪主であるひとり息子が、挨拶の中で嗚咽まじりに母親の苦労を語った部分もよく覚えている。その息子も去年、還暦を回ってから出た脳梗塞を契機に隠居の身となり、魚屋の経営はチヨさんの孫夫婦が切り盛りしている。
──どうだいこのサンマ。いい目ん玉してやがる。
あの日のチヨさんと同じ色の髪を光らせて、店を冷やかしに来た息子がわたしに声をかける。小さなおじいさんの目がこちらを見つめ、父親ゆずりの厚い胸板が、わたしの囲んだ両手の中でちいさく上下している。
ああそうだねとわたしは答え、ゆっくりと空を見上げる。
雲ひとつない青い空は四十年前の秋と何も変わらない。
(了)
息子は跨ぐが猫は読む。
昔を書くな自分を書くな書きたいことを書くなと言われてもね、でもやっぱり書きたいですよね。