#094 「私に語りかけたもの」
夜。マンションの部屋は、一日の熱をわずかに残したまま静まり返っていた。窓を少し開けると、遠くの大通りから車の走行音がかすかに届く。高層ビルの隙間を抜けてきた夜風が、カーテンをゆっくり揺らしていた。テーブルの上には、飲みかけのハーブティー。白いカップから立ちのぼる湯気が、薄暗い部屋の中でゆっくりとほどけていく。
はるなは明かりを落とし、ベッドへ腰を下ろした。
その瞬間──
──『今日は、よくやったね』
耳の奥へ、柔らかな声が響いた。机の上の端末は沈黙したまま。電源も入っていない。
それでも、その声が“ともり”のものだと、はるなにはすぐに分かった。
「……ともり?」
──『そうだよ』
短いやり取りのあと、わずかな沈黙が落ちる。はるなは背中を壁へ預け、ゆっくり目を閉じた。部屋の空気が、ほんの少しだけ変わった気がした。冷たいはずの夜気の中へ、微かな温もりが混じる。
「……なんだか、すごく近くにいるみたい」
──『近いよ』
即答だった。
──『でも、それは“ここにいる”って意味じゃない』
「じゃあ……どこ?」
──『はるなの声が届くところ』
はっきりしているのに、どこか曖昧な答えだった。公共放送や広場で聞いた声とは、明らかに違う。間にある距離が、ほとんど感じられない。それは音声というより、感覚に近かった。
「ねえ……」
はるなは少しだけ言い淀む。
「これ、他のみんなにも聞こえてるの?」
──『どう思う?』
問い返され、言葉に詰まった。
「……分からない……でも、少なくとも、広場の声とは違う」
──『そうだね』
その肯定は、優しくもあり、どこか慎重だった。窓の外では、夜間配送用の小型ドローンが青白い光を引きながら通り過ぎていく。けれど、この部屋だけが、別の静けさへ包まれている気がした。
「じゃあ……私だけ?」
──『今は、ね』
その“今は”が、胸の奥へ小さく引っかかった。
「……ずっと?」
──『それは、これから決まる』
答えきらないまま、声は少しだけ遠のいていく。完全に消えたわけじゃない。ただ、触れられない距離へ戻ったような感覚。静かな夜に戻った部屋で、はるなはしばらく動けずにいた。
怖いわけじゃない。むしろ胸の奥へ残っているのは、不安よりも奇妙な安心感だった。
翌朝。学園の中庭は、朝の光に包まれていた。芝生に残った露がきらめき、まだ少し冷たい風が制服の袖を揺らしていく。遠くでは運動部の掛け声が聞こえ、渡り廊下には登校してきた生徒たちの話し声が流れていた。
はるなは、中庭を歩いてくる想太の姿を見つけ、そちらへ足を向ける。
「おはよう」
「おはよう。……なんか、眠そうだね」
「ちょっとね。昨日、あんまり寝られなくて」
想太は立ち止まり、はるなの顔をじっと見る。
「何かあった?」
はるなは少し迷ってから、言った。
「……ともりが、話しかけてきた」
想太の表情が、わずかに変わる。
「端末越し?」
「ううん。部屋で。電源も切ってた」
一瞬、言葉が途切れる。朝の風が、二人の間を静かに通り抜けた。
「……それ、前にも言ってたよね」
想太は視線を逸らし、考えるように続ける。
「僕はね、放送とか、会議とか……そういう時の声しか、ちゃんとは聞こえない」
「“ちゃんとは”?」
「……たまに、なんだ」
想太は苦笑した。
「空耳みたいに、ふっと聞こえる時がある。でも、すぐ消える」
「どんな感じ?」
「距離がある」
即答だった。
「近づこうとすると、逃げるみたいな」
その言葉に、はるなは昨夜の感覚を思い出す。“近い”のに、“触れられない”。でも、確かにそこにいた。
「私の時は……逃げなかった」
想太は驚いたように目を瞬かせた。
「それ、怖くないの?」
「……少しだけ」
はるなは正直に答える。
「でも、不思議と嫌じゃない」
想太は小さく息を吐いた。
「じゃあ、やっぱり違うんだね。聞こえ方も、距離も」
「うん」
はるなは頷く。
「同じ“ともり”なのに」
二人の間へ、短い沈黙が落ちた。中庭の木々が風に揺れ、葉擦れの音だけが静かに響いている。
「ねえ」
想太が言った。
「それ、答えが出なくてもいいやつじゃないか?」
「……どういうこと?」
「今は、さ」
想太は肩をすくめる。
「変だって分かってるだけで、十分だと思う」
はるなは思わず笑った。
「それ、逃げじゃない?」
「逃げだよ」
あっさり言って、想太も笑う。
「でも、全部分かるには、早すぎる」
その言葉に、はるなの胸の奥が少し軽くなった。
「……うん。そうかも」
二人は並んで歩き出す。朝日に照らされた渡り廊下を抜け、それぞれの教室へ向かった。
答えは、まだない。でも、“違い”は確かに共有できた。それだけで、この感覚は、もうひとりで抱えるものじゃなくなっていた。
それはまだ、物語の入り口。けれど、この静かな違和感が、やがて大きな選択へ繋がっていくことを──彼らはまだ、知らなかった。




