#052 「この手に触れて」
廊下の端にある小さな休憩スペースは、夜になるとほとんど使われていなかった。自動照明が淡く灯り、窓の外には街の明かりが点々と連なっている。
想太とはるなは、並んで腰を下ろした。互いに、少しだけ距離を残したまま。
しばらく、言葉がなかった。昼から積み重なった出来事が、まだ身体の奥に残っている。
「……今日は」
想太が、先に口を開いた。
「ありがとう」
思っていたよりも、素直な声が出た。
はるなは横顔のまま、小さく肩をすくめる。
「別に。あんたのため、ってわけじゃないし」
いつもの調子だ。
けれど想太は、その声色の奥にある柔らかさを聞き逃さなかった。
「それでもさ」
一拍置いて、続ける。
「あのとき、はるながそばにいてくれたから……俺、踏みとどまれた」
言葉が、途中で止まった。
はるながゆっくりと顔を向け、想太を見る。視線が合った瞬間、空気が変わる。
はるなの目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「……そんな顔、するんだ」
はるなの声は、少しだけ低かった。からかうようでいて、どこか戸惑いが滲んでいる。
想太は迷った。けれど、その迷いを越える感情の方が、はっきりしていた。
そっと、はるなの手に触れる。指先から、確かな温もりが伝わってきた。その瞬間、はるなの肩がわずかに震える。
——離すべきだ。そう頭では分かっている。
それでも。
「……離さない」
思った以上に、落ち着いた声だった。自分でも驚くほど、迷いがなかった。
「今日は、離したくない」
はるなは一瞬、言葉を失ったように口を開きかける。やがて、視線を逸らしながら言った。
「……勝手にすれば?」
突き放すような口調。けれど、手を振りほどこうとはしない。
想太は、その小さな事実に胸の奥が熱くなるのを感じた。
夜風が、窓を軽く揺らした。遠くで車の音がして、すぐに消える。
二人の間に流れる沈黙は、重くない。むしろ、不思議と落ち着いていた。
想太は、握った手に力を込めすぎないよう気をつけながら、ただ、そこにいることを選んだ。
はるなは何も言わない。けれど、逃げない。
それだけで、今は十分だった。




