#044 「すれ違いの夜」
宿の廊下は、夜になるとひどく静かだった。遠くで、水の流れる音だけが微かに響いている。
部屋へ戻ろうとしたとき、はるなは足を止めた。ロビーの灯りの下に、想太の姿が見えたからだ。
椅子に腰掛けたまま、彼はじっと床を見つめている。
「……こんな時間まで、何してるの?」
声をかけると、想太は少しだけ驚いたように顔を上げた。けれど、その表情はすぐに硬くなる。
「はるな……この街、やっぱりおかしい」
低く抑えた声だった。
「“ともり”を信じてた人たちが、意図的に追い出された。十数年前の火災も……ただの事故じゃない」
はるなは、息を詰めた。その事件の記録は、中央部でも曖昧なまま残されている。
「……誰に聞いたの?」
「元市職員だ」
想太は短く答える。
「直接、話を聞いた。——市の内部が火をつけた」
想太の瞳は、怒りと戸惑いの間で揺れていた。
「こんな街に、もう“ともり”の話なんか……」
言葉が、途中で止まる。
「待って」
はるなの声は、思ったより強くなっていた。
「だからこそ、話すべきなんじゃないの?ここで黙ったら、過去を知ってる人が、本当にいなくなる」
想太は唇を噛みしめる。
「でも、また拒絶されるだけだ。俺たちは、この街の人間じゃない。余計なことをすれば、全部……押しつけられる」
その言葉は、はるなの胸にも刺さった。怖くないわけがない。それは、彼女自身も同じだった。
それでも——
「……想太は、それでも“ともり”を信じてきたんじゃないの?」
一瞬、想太の表情が揺れた。ほんの一瞬だけ。だが、彼はすぐに視線を逸らす。
「信じてるよ……でも……」
言葉は、そこで途切れた。
はるなは、それ以上問い詰めなかった。問い詰めても、答えが出ないことが分かっていたからだ。
けれど、胸の奥で、何かが静かに線を引いたような感覚があった。
「……もう、休もう」
それだけ言って、想太は立ち上がり、階段へ向かう。足音が、静かな宿に吸い込まれていった。
ロビーに残されたはるなは、灯りを見つめながら、ゆっくり息を吐く。その光が、やけに遠く感じられた。
——今夜、同じ場所にいながら、私たちは、ほんの少しだけ、別々の方向を向いている。




