#002 「再び始まる学園生活」
チャイムの音が、冬空に吸い込まれていく。澄みきった空気に溶けるその響きは、どこか乾いていて、校舎全体に薄い余韻だけを残して消えていった。雪に包まれた建物は、その音さえも受け止めきれず、ただ静かに、そこに在り続けている。
灯ヶ峰学園。白い息がかすかに立ちのぼるこの場所で、私はまた「日常」を始めようとしている。
けれど、それはもう“前と同じ”ではなかった。
何もかもが同じように見える。廊下の床、壁の掲示、窓の外の風景。それでも、そのすべてが、ほんの少しだけ、違って見える。
廊下の掲示板に貼られた紙が、目に入る。
——特別クラス 再編成
その文字だけが、やけにくっきりと浮かび上がって見えた。
数人しかいない教室。そこへ向かう自分の足取りが、わずかに現実から浮いているような感覚。
靴底が床に触れるたび、コツ、と乾いた音が鳴る。その音がやけに大きく感じられて、私は少しだけ歩幅を狭めた。
「……寒っ」
思わず漏れた声は、誰に向けたわけでもない。けれど、その小さな呟きで、ようやく実感が追いつく。
——ああ、私、ちゃんとここに戻ってきたんだ。
教室の扉の前で、手が止まる。向こう側には、懐かしい気配があった。言葉にしなくてもわかる、あの秋の日々を一緒に越えてきた仲間たちの空気。
少しだけ息を整えて、扉を開く。ふわり、と暖気が頬に触れた。外の冷たい空気とは違う、柔らかな温度。暖房の匂いと、人の気配が混ざった、落ち着く空気。
窓際には、朝日が差し込んでいた。薄いカーテン越しの光が教室の中に広がり、机や椅子の輪郭をやさしく照らしている。
その光の中に、見慣れた姿があった。
「おはよう、はるな」
振り返ったのは、美弥だった。その笑みは、少しだけ誇らしげで、それでいて変わらない安心感を持っている。
「おはよう、美弥」
「……ちゃんと来たね」
「うん。さすがに今日はね」
そう返すと、美弥が肩を揺らして小さく笑った。
「遅刻しなかっただけ、成長じゃない?」
「それ、褒めてる?」
「半分くらいは」
その軽いやり取りに、張りつめていた何かが、ふっとほどける。肩の力が抜けて、呼吸が少しだけ楽になる。
続けて、別の方向から声が重なる。
「遅いぞ、相変わらずだな」
「でも、来てくれてよかった」
隼人と想太だった。ぶっきらぼうな言葉と、ほんの少しだけ柔らかい声。その温度差が、妙に心地いい。
「相変わらずって……今日はそこまで遅くないでしょ」
「誤差だな」
「ひどいなあ……」
そのやり取りの横で、要がカップを両手で包み込みながら、湯気越しにぽつりと呟く。
「戻ってきたって感じは、あんまりしないな……でも」
一拍、間を置いて。
「悪くない」
その言葉に、私は自然と頷いていた。
「うん、わかる」
言葉にした瞬間、その感覚が少しだけ形になる。
「はるなちゃーん! 今日も安定の一番最後~!」
元気な声とともに、いちかが大きく手を振る。その動きにつられて、空気が少し明るくなる。
「はいはい、ごめんってば……!」
思わず笑いがこぼれた。この距離感、このやり取り。この空気。変わってしまったはずなのに——なぜか、“戻ってきた”気がする。
「なんか……不思議だね」
私がそう言うと、みんなの視線がこちらに集まる。
「ここに、またみんなで集まれるなんて」
想太が、ゆっくりと頷く。
「でも、戻ってきたっていうより——」
少しだけ言葉を探してから、続ける。
「新しく始まったって感じ、かな」
教室の隅には、まだ誰も座っていない机が並んでいる。それでも、私たち六人の席は、最初から決まっていたみたいに、自然と埋まっていった。
そのとき——扉の外から、視線を感じた。
ガラス越しに、数人の生徒たちがこちらを覗いている。小声で何かを囁き合いながら、はっきりとこちらを見ていた。
「……見られてるね」
「うん、まあ。そりゃそうでしょ」
美弥が軽く肩をすくめる。
「ノーザンダストの話に出てた子たち、だもん」
「なるほど……」
「そりゃ、気になるよね」
いちかが、照れ隠しのように背伸びをする。
「勇者チームとか言われそうじゃない?」
「……言い過ぎ」
美弥が苦笑する。
「でもまあ……気にすることないでしょ」
少しだけ声の調子が変わる。
「私たちは、私たちなんだから」
「うん」
私は、しっかりと頷いた。選ばれただけじゃない。選び、進み、戻ってきた。そして、また旅立つ。
誰かに見られているのなら——せめて、胸を張って“私たち”でいよう。
そのとき、教室のドアが、音もなく開いた。入ってきたのは、新任らしい女性教師。落ち着いた佇まい。視線には、わずかな緊張感と、どこか行政部仕込みの鋭さがあった。
「おはようございます。……全員、そろっているようですね」
私たちは自然と立ち上がる。それは“生徒”としての動きというより、この街に関わる“役目”としての反応に近かった。
「このクラスは、あなたたち六人のためだけに用意された“特別枠”です」
教師は窓の外に一瞬だけ視線を向け、ゆっくりと歩み寄る。
「今日からあなたたちは、学業と並行して、行政支援・現場視察・中央通信などに関わります。簡単に言えば——」
一拍。
「久遠野の“顔”として振る舞う立場です」
空気が、わずかに張りつめた。それでも、誰も驚かなかった。
「形式的には“特例認可”です。授業には参加します。ただし——」
教師の視線が、ひとりずつを確かめるように巡る。
「他の生徒とは扱いが違う。その自覚は、持っていてください」
——役目。
その言葉が、胸の奥に静かに沈む。私は、“誰かのため”に立っているのだろうか。それとも、自分で選んだ道に、ちゃんと立てているのだろうか。
「それでは、授業の準備を始めてください」
教師はそう言って、教卓に腰を下ろした。誰も口には出さなかったけれど、私たちの中にある緊張と期待と疑問が、冬の光の中に、静かに溶けていった。
——昼休み。
机を寄せると、木の脚が床を擦る音が、控えめに響く。弁当の蓋を開ける音、箸が触れる小さな音。そんな日常の音が、少しだけ愛おしく感じられた。
「この配置、なんか懐かしいね」
美弥が言う。
「前は、教室の隅でこっそりだったのに」
「今は、ど真ん中だもんね」
いちかが笑う。
「落ち着かない?」
「ちょっとね」
想太が答えると、隼人が小さく笑う。
「お前のせいでもあるぞ」
「え……?」
「あのときの対応。ニュースで何度も流れてた」
「……うわぁ……」
想太が弁当のフタで顔を隠した、そのとき——
「失礼します!」
勢いよく扉が開いた。冷たい空気が一瞬だけ流れ込み、教室の温度が揺らぐ。
「ニュース、見ました!」
「久遠野を立て直したって……」
「応援してます!」
少し震えた声。それでも、まっすぐだった。
「……ありがとう」
私は立ち上がり、できるだけやわらかく笑う。
「でも、私たちだけじゃないよ。街の人や、信じてくれた人たちがいたから、ここに戻れたんだと思う」
小さな拍手が起きる。その音が、教室の空気をほんの少しだけ変えた。距離が、少しだけ近づく。
「……すごいね」
いちかがぽつりと呟く。
「ねえ、はるなちゃん。今なら……“普通”のこと、できるかもね」
「……うん」
特別な立場のままでも、日常を重ねていける。その感覚が、胸の中で静かに広がっていく。たとえそれが、一瞬の奇跡だったとしても——この時間は、確かに“今”ここにあった。




