五、精神共鳴
静寂が支配する地下城の一室で、ひとりの少女が必死に治癒魔法を唱えていた。
「ねえ!寝ないで!くそっ!」
少女は懸命に治療を続けるが、だが、効果は思うように現れない。
「だめ……損傷が深すぎる……出血もひどすぎる…」
聖職者が使う『奇跡』とは違い、彼女の使うのは『治癒魔法』。それは自然治癒力を極限まで引き上げ、傷を癒す魔法――今、彼女は最高位の治癒魔法《再生》を発動している。
通常なら、傷の部位が分からなくても十分に回復できるはずだ。だが――失血があまりにも多い。このままでは、たとえ内臓が完全に修復されても、
そこに残るのは「綺麗な死体」だけ。
だから彼女は、出血部位を一点一点探り、精密な魔力操作で止血していく。
――だが、時間との戦いにおいて、彼女は劣勢だった。
「……回復速度が追いつかない……もう、仕方ない……!」
彼女は片手で治癒魔法を維持しながら、もう片方の手で彼を抱き上げた。
その身体を胸元に引き寄せ、顔を寄せる――
「ここだ!」
彼女は彼の首筋の大動脈を探り当て、そのまま――
ガブッ!!
少女の牙が、彼の肌を貫いた。
……
……
……
(あれ?あれが噂の新人冒険者さん?どうしたの?全身傷だらけでボロボロじゃない。そんなに無理しちゃダメだよ。新人なのに、ちょっと頑張りすぎたんじゃない?)
「冒険者さんですか? お疲れさまです。 このトマト、さっき収穫したばかりなんです。甘味と酸味のバランスが絶妙な一級品ですよ。一つ、いかがですか?」
???
「ふふん♪、分かればいいのよ。今日のところは許してあげますっ!」
(あ、あたし、何やってるの!? うっかりトマトを彼の口に押し込んじゃった!? ち、違うのよ! あれはトマトを馬鹿にした彼が悪いの! あたしは悪くない!……うん、とにかく元気を出してくれたなら、それでいいんだから!)
……なんだこれ?トマト?そうだ、俺、トマトを口に押し込まれたんだっけ。えっと、なんでだっけ?
(あ〜あ、領主代理の書類仕事が多すぎる……ちょっとくらい羽を伸ばしてもいいよね! 湖の水、冷たくて気持ちいい〜! ひゃっ、ははは……ん? 誰か来たみたい。誰だろ? あれ?あのボロボロ冒険者さんじゃない? 最近よく会うなぁ……ふふ、少しからかっちゃおっかな。)
「ええっ?どうしたの?冒険者さん?この湖の水、冷たくて気持ちいいですよ?一緒に休憩しませんか?」
……ボロボロ冒険者?それ、俺のことだよな?
「え?(少しは気をつけた方がいいんじゃない?あたしに?まさかここで魔物の大群が出るとでも思ってる?ふふ……それとも、あなたを警戒しろってこと?)大丈夫だよ。あなた、あたしに何もできないでしょう?ほら、こっち来て〜」
おいおい、どう見てもお前は“普通の女の子”じゃないだろ。俺がどうこうできる相手じゃ……ないよな。……え?
「え? (一緒に街へ戻る?)そうなの? ふふっ、いいかもね。あはは……(このボロボロ冒険者さん、意外といい人だな。仕事もうまくいってるのかな?)」
……これは俺の記憶……なのか?でも、少し違うような……?
「ちっ……冒険者さんですか? では、残りはお任せしますね。(まったく、あなたが邪魔しなければもう片付いてたのに。まあいい、残りは責任もって処理してもらうわ。安心して、あなたが倒せないならあたしが助けてあげるから。)
ごめん、やっぱりそうだ……え?責任を取る?何の責任を?。
(……何をやってるの、この人。あんな無茶な戦い方なのに、あの大魔狼を一体ずつ確実に倒してる……?あれ、Cランク魔物だよ?面白い。鍛えれば化けるかも……試してみよう。)
「手伝ってくれて、ありがとう。……お礼に、明日もし時間があれば――夕食でもご一緒しませんか?」
……これは……記憶の断片?まさか、これが噂の“臨終の記憶”ってやつか?
(この冒険者さん、なんでずっとこっち見てるの? あたし、髪が乱れてる?……ち、違う! 昨夜の戦いで見せたあたしのスキルを見たのね!? もうっ、恥ずかしい!)
「どうかしましたか、冒険者さん? 何か、気になることでも?」
(よかった、ただ畑仕事の相談か。落ち着いて、威厳を保つのよ、威厳を!)
(やばっ、ついトマトの話ばっかりしてる! でも冒険者さん、ちゃんと聞いてくれてる……うう、恥ずかしい……早く話題変えなきゃ!)
……違う、これは……彼女の……?
「回避! 無理に受けるな!」
(まったく、あなたって人は……死にたいの? もう、しっかり指導しないとそのうち命を落とすわよ……でも、意志の強さと勇気だけは本物ね。戦い方を磨けば、きっと役に立つはず。)
役に立てた、か。今日もちゃんと“役に立てた”よな?
「気をつけて……」
(あら?もう言わなくてもわかってるみたいね。)
「この二か月の訓練で、冒険者くんの前衛剣士としての実力は、すでにA級相当になったわ。もう一人前として通用する。今日からは、さらに深くのエリアを探索するわよ。」
(ふふっ、やっぱりあたしの見る目に狂いはなかったわ。最初に見たとき、全身ボロボロで汚れてて、放っておけなかったの。けど本当にすごい成長ぶり……たぶん、誰よりも努力してるからね。毎回、全力で、命懸けで戦うその姿……見てると胸が熱くなるの。……ううん、燃え上がるって感じ? とにかく……ちょっと嬉しい!)
なるほど、そういうことだったのか。
「ちょっと! 失礼ね、冒険者くん! 力じゃなくて“技術”よ、技術!」
(もうっ、ひどい! それ、淑女に言うことじゃないでしょ!? 最近この人、調子に乗ってるんじゃない?……でも、どうしてちょっと嬉しいのよあたし。これが“友達同士の冗談”ってやつ?……悪くないかも。)
「ど、どこが妖精よ!? もう、からかわないでってばっ!」
(妖精なんて、そんなの……褒めすぎでしょ!? でも、嬉しい……いや違う! そんな甘い言葉には乗らないんだから……ふふ、別にちっとも嬉しくなんかないんだからね〜!)
君とこうして話せることの方が、俺は嬉しいよ。
「な、な、なに言ってるのよぉぉ!?!?」(ちょ、ちょっと待って!? この人、なんてことを真顔で言ってるの!? あ、あたし、一応“若い乙女”なのよ!? “あなたが守るべき存在”?“ 出会えた、本当に幸運だった”? あああ〜もう! 心臓が爆発しそうっ! こ、こいつ絶対からかってる! ダメ、浮かれちゃダメよ、アリシア!!)
若い乙女?からかう?誰か?……俺?……なんの話だ?
(……最近は危険地帯に踏み込むときも、彼に頼ることが増えたな。背中を預けられるって、いいものね。今日はもう少し中層を攻めてみようか。)
(死なないで……お願い……全部、あたしのせい……! あたしが勝ちたがりすぎて、考えが足りなかった…! 最近、危機感を忘れてしまっていた…うう…うう………全部、あたしのせいなの……!)
泣くなよ……誰のせいでもないさ。これは俺が、自分で選んだ行動なんだから。
これが、“臨終の記憶”ってやつか……。どうやら、もうダメみたいだな。ごめん。最後まで心配かけて……せっかくの努力も、無駄にしてしまった。なんかよくわからないけど……本当に、ごめんな。
…
…
…
「戻ってきてよ! 誰が勝手に死んでいいって言ったの!? ……うっ……お願い、目を覚まして……!」
その声が、はっきりと聞こえた。――あの、少女の声が。……そうだ、さっきの戦い……。
「げほっ、げほっ……わかったよ。」
全身の力を振り絞り、なんとか声を出す。
「うう………冒険者くん……よかった……!」
アリシアの大粒の涙が、ぽたぽたと俺の頬に落ちる。危なかった……あと一歩で、あっちの世界に行くところだった。体が重い……まだ動けない……傷のせいか?それとも、生きてること自体が奇跡なのか……。
あれ?その愛らしい顔の口元に、赤い血が――。
「アリシアさん? 君も怪我を? 口元に血がついてるよ?」
「こ、これは違っ……あ、あたしは無傷よ! 心配しないで!」
アリシアさんは慌てて顔を背け、口元の血を拭った。
その瞬間、首筋の左側にチクリとした違和感を覚えた。――回復魔法を受けた後の短い痒みのような感覚。おかしいな……俺の首って、怪我してたっけ?
「さっき、夢を見た気がする。」
「夢? どんな夢?」
「それは……え? 口まで出かかってたのに、全部忘れちゃった。おかしいな……ちょっと待って、えっと、そうだ! あなた、どうして負傷した人に向かって『誰が勝手に死んでいいって言ったの!?』なんて怒鳴ったの?」
「えっ……!? そ、そうよ! あ、あなたが悪いのよ! 力不足のくせに勝手に死のうとして! 誰が許したっていうの!」
俺は笑ってしまった。あんなにも可愛らしい声色で怒られて、どうして笑わずにいられるだろう。
「とにかく……助けてくれてありがとう、アリシアさん。」
「うんっ!」
その笑顔は、本当に可愛くて、眩しいほどに明るかった。
……よかった。もし俺があのまま死んでいたら、この純真な笑顔を曇らせてしまうところだった。
ただ、一つ気になって仕方ないことがある。アリシアさんの服装が――純白の薄いドレスに変わっていた。透けるような布地に、可憐すぎる姿。……眩しすぎて、まともに見られない。
しばらくして、ようやく身体を動かせるようになった。俺たちは、素材と魔晶石の回収を始めた。だがなぜか、アリシアさんは終始こちらを見ようとしなかった。怒っている様子でもない……どうしてだろう?
その後、転送門を使って『地下城』を脱出し、領主邸に戻った。
…
…
…
今日、確かめたいことは山ほどあるけれど、どうもアリシアさんの返事は「プライバシー」か「話題のすり替え」ばかり。仕方ない、いったん宿に戻って休もう。後日、改めて聞いてみよう。
……ただ、帰る前にどうしても一言だけ。
「そのドレス、すごく似合ってる。」
そう言い残して、俺は逃げるように背を向けた。頭の中では、トマトのように真っ赤になったあの甘い表情が、何度も何度も蘇っていた。
…
…
…
「そのドレス、すごく似合ってる。」
そう言って、冒険者くんはくるりと背を向けて走り去っていった。あたしはただ、その背中を呆然と見送るしかなかった。頬も耳も、まるで火がついたみたいに熱い。
この白いショートドレス……これは母様からの贈り物。高性能な魔法装備でありながら、上品で、身体のラインを美しく見せてくれる。あたしはこの服がとても気に入っていて、『術式魔裝』をこのドレスに合うように調整していた。
でも……どうして? 冒険者くんの前だと、こんなにも恥ずかしいの!?
もう……全然目を合わせられなかった……! 挨拶すらまともにできなかった……! それなのに――ほ、褒められた……!?だ、駄目……心臓が、破裂しそう……。
ドクン、ドクン――
な、なにこれ!? この気持ち!? まさか……いやいや! そ、そんなわけないでしょ!?と、とにかく帰らなきゃ! これ以上ここにいたら、失礼にもほどがある!
部屋に戻ると、扉の前にはメイド長の『ヴィルマ』が立っていた。彼女は母の遠縁にあたる親戚で、あたしが幼い頃からずっと仕えてくれている。あたしは昔から彼女を「ヴィルマおばさん」と呼んでいる。
「お嬢様、お帰りなさいませ。お仕事お疲れさまでした。……あら? とてもご機嫌のようですね。何か良いことでも?」
「ご、ご機嫌? あ、あたしが? そ、そんなこと……な、ないよぉ~! あははは……」
やばい……まだ頭の中が真っ白なままだ。
「お嬢様、あなたの『術式魔裝』は?」
「えっ?」
「先ほど見ましたよ。あの冒険者の装備が大破していました。それにあなたの魔裝が解除されていた……説明されなくても、何があったかは察せます。」
「……」
そうだ。今日――冒険者くんは、死にかけた。あたしは……何を浮かれていたんだろう?もしあのまま彼が死んでいたら……そう考えただけで、胸が苦しくて、吐き気がするほどだった。
「お嬢様、以前、私が冒険者の訓練に反対した時の約束を覚えていますか?」
「……覚えてる。過保護になって成長を妨げないこと。そして、信頼しすぎて危機感を失わないこと。」
その言葉が、今のあたしには鋼のように重くのしかかってくる。
「では、今日のことはもう問いません。明日、彼を再び同行させるのですか? 公会への書類を用意しなければなりませんので。」
「ま、待って……まだ、決めてない……」
ヴィルマおばさんは、俺の性格をよく知っている。こうやって「決めなさい」と迫ってくるのだ。でも……今は、怖い。
「怖いなら、もう彼と組まなければいいんですよ。訓練も終わりにすればいい。彼はもう十分に成長しました。一人でもやっていけます。」
「そ、それは……でも……」
組まない? 一緒に行動しない? それじゃあ……もう会う理由がなくなる。
いや……そんなの、嫌だ。
……って、あれ!? な、なに考えてるの、あたし!?
「心配いりません。組まなくても、彼をデートに誘えばいいんです。街を歩いたり、カフェでお茶したり……恋人同士がすることをすればいいんですよ。」
「こ、恋人……!? な、なに言ってるの、ヴィルマおばさんっ!」
「だってお嬢様、彼のことがお好きなのでしょう? なら、行動あるのみです。」
「ひゃ、ひゃああああ!? ち、違っ……違うし! あ、赤いはエレナガードの一人娘! 家の名を背負ってるのよ!? そ、そんな軽々しく……もうっ! あ、あたしは落ち着く! あなたは仕事に戻って!」
「決められないのなら、しばらく休止にしておきます。必要があれば、書類を用意しますね。」
「う、うん……」
もう混乱しすぎて頭が回らない……ヴィルマおばさん、お願いだからこれ以上詰めないで……。
「それと、お嬢様。何度も申し上げていますが、“ヴィルマさん”とお呼びください。失礼いたします。」
…
…
…
「……好き……なのかな? あたしに……そんな資格、あるの?」
ベッドに横たわりながら、頭の中をいくつもの思いがぐるぐると渦を巻いていた。




