甘い匂い、苦い記憶はコーヒーの味。
カラン、カラン、と金属と金属のこすれ合う音がいつも毎週木曜日、放課後の教室に響きわたる。
正確には毎日響き渡っているその音を、俺は掃除当番である木曜日しか聞けない。
出席番号5番、榎並ミル。音の発信源は彼女の机からだ。このクラスの者ならその中身はみんな知っている。もちろん俺も。
それはスチールでできた円柱の物体、といってもただの缶コーヒーなのだけど。
今も少し顔をのぞかせている。
彼女の前の机が運ばれていった。俺はやや早足で歩み寄り彼女の机を運び出した。
机を少し前かがみに持ち上げる。そうしないとすぐに缶が零れ落ちてくる。運んでいる最中はもはや習慣となったいつもの音が響き渡る。そして置くときも注意を怠ってはいけない。前の足からゆっくりと床に下ろす。それでも缶の量が多いときは零れてくるので手を添えてやる。
この仕事はこのクラスになったときからずっと俺の仕事だ。
―――ん?
机から顔をのぞかせた缶が一つへこんでいるのに気づいた。まだ中身が入っている。机から取り出し、少し力を加えるとべコッと音をたててへこみが直った。
よし。
俺は満足げな気分で掃除道具をすばやく片付け帰路についた。
∴
「おはよー」「うぃーっす」
教室に入るなり数人のクラスメイトから声を掛けられる。適当に挨拶を返し自分の席に着いた。
プシュとプルをあける音が斜め後ろの席から聞こえた。
振り返り「おはよ」と彼女、榎並ミルに声を掛けた。
「やぁ」
ミルは気だるげにそう言って缶コーヒーをごくごくとのどを鳴らして飲み始めた。
これもいつもの光景。
たまに廊下を通る他のクラスのやつらは珍しげに見ていくがこのクラスで気に留めるやつはもういない。
このクラスになってはや半年、彼女は毎日欠かすことなく缶コーヒーを口にしている。理由は知らない。だれも真剣に訊いてみたことはないし、今更って感じもする。
最初は俺も気になった。それとなく訊いてみたら、
「君だって毎日ハミガキするでしょ?」
などと意味不明なことを言われてはぐらかされた。
今でも俺は相変わらずに気にかかっている。でもそれは彼女が毎日コーヒーを飲む理由、ではなく榎並ミルという人物そのものが気になっているのだ。
「ほんと、毎日あきないな」
飲み終わって一息ついているミルに向かって言った。
「君だって毎日三回も飽きずに食事してるだろ?」
「相変わらずな答えだな」
「ふん」
ミルは飲み終わった缶を持ったまま机に突っ伏した。それでもまだ意識はこちらに向いている様に思ったので構わずに話しかけた。
「何かこだわりとあかあるのか?」
「んん?」
唸るような疑問形が返ってきた。
「このメーカーがいいとか、ブラックは嫌いとか」
「別に……」
「まあ、そうだよな。いつも見てる限りてんでバラバラだし」
「わかってるなら訊くな」
相変わらず、いつもこんな感じだ。
他の女子のように群れて騒ぐわけでもなく、そいつらを蔑視してひたすら勉強しているガリベンのやつらとも似つかない。
かといって友だちがいないわけでもない。自分から話しかけることはたぶんあまりないと思うが話しているのをたまに見かける。
浮いているわけでもなく、孤立しているわけでもなく、よくわからない立ち位置だ。
だけど俺には彼女が他の奴とどこか違うように思える。外見や行動ではなく、内心というか、中身というか。
「ほら起きろ先生きたぞ」
ミルはむっくりと体を起こし、鞄から教科書を取り出し始めた。
∴
昼休み、俺は購買へきていた。
うちの母親は気分屋で、弁当を作るときもあれば、机の上に五百円玉が置いてあるだけのときがある。最近は特に後者が多い。
食堂もあるが少し値段が張るので俺はいつも購買のパンで済ましている。
友だち二人と購買に入ると、そこには先にミルがいた。
俺と同じ様に友だち数人と一緒にいる。
そういえば、前から少し疑問に思っていたことがある。
この学校には寮があって県外からや、外国からも留学生が何人か来ている。そして彼女も寮で生活している。寮生は彼ら専用の食堂があって、そこで寮食を摂っている。もちろん彼女もそこで食事を摂っているはずだが、朝食、夕食のことはわからないが昼食はいつも購買で済ましている。
今度何気なく訊いてみることにしよう。
「よー、何買ってんの?」
連れの一人、戸川が女子連中に話しかけた。
「昼食、カロリーの少ない物」
「まったく、若いうちはそんなもん考えんなよ」
「うるさいな。今のうちから気をつけとかないとあんた達も将来メタボになるよ」
「俺酒飲まないから大丈夫」
何やら話しこんでいるうちにミルの姿が見えないと思ったら自販機に向かっていた。
俺も話しこんでいる連中をそのままにして自販機に向かい、後ろから声をかけた。
「やっぱ昼食にもコーヒー?」
「まあ、ね」
そう言ってボタンを押した。買ったのはジョージアのオリジナルだ。
「最近気づいたけど昼はいっつもそれだな」
「ああ、うん」
「なんで?」
「別に、量が多いから」
「食事のときは水分を多く取るタイプ?」
「私は唾液が少ない、と思うからパン食べるときは少しきつい、から」
彼女は変なところで読点が入る独特なしゃべり方だ。
そして話すときは人の目を見ない。もしかして俺、嫌われてる? いや、それはないか。誰に対してもあんな感じだし。
「俺もたまには飲んでみるかな、コーヒー……」
俺が話してる最中だというのにミルは自販機からコーヒーを取り出して早々にみんなの元へ戻っていった。
まったく。
少し迷ってから俺もミルと同じオリジナルを買った。
教室に戻り、俺は友人の戸川、坂本と机を囲んで菓子パンを貪っていた。
「なあ、佐伯」
「んん?」
佐伯というのは俺のこと。
「お前、榎並のこと好きなの?」
何言ってんだこいつは。まったくの見当違いというわけではないが。しかし俺はいきなりこんなことを言われようと決して狼狽えずクールに返した。
「なんで?」
「いや、なんか最近よく話しかけてるの見るし、お前までコーヒー飲み始めたし」
「学校で飲んだのは今日が初めてだが……」
「まあ、確かに榎並は美人の部類に入ると思うよ」
今まで黙っていた坂本が急に口を開いた。おそらく食い終わって暇になったからだろう。
「でもなんか近づきがたいよな。あんま喋んないし」
「コーヒーはもうあんまり気にならなくなったけどな」
そう言って二人して笑った。
まったく、空気の読めないやつらだ。ミル達は離れているとはいえ同じクラスで俺たちと同じ様に昼食を摂っている。そしてこいつらはノーマル音量で話している。少し耳を澄ませば聞こえるぐらいだろう。
俺はそっと振り返って様子をうかがってみた。
幸いにも話しに夢中で気付いてないみたいだ、と安堵の一息を入れようとしたとき視線を感じたのかミルがこちらを向いた。が、一瞬視線を合わせただけですぐに視線をそらした。
「で、どうなんだよ佐伯」
「……何が?」
「あいつ、榎並のこと」
「さあ………」
「まったく、お前も変なやつだな」
実際の所どうなのだろうか。俺が彼女、ミルに抱いている感情は。
確かに俺は他のクラスメイトとは違った感情を彼女に抱いていると思う。しかしこれが恋愛感情かと問われたなら即答することはできない。純粋な好奇心、というわけでもないように思う。
知りたい、のだと思う。何を? 彼女のことを。彼女の何を? 理由。なんの? ああまで固執して毎日コーヒーを飲む。それだけか? …………たぶん違う。何が違う? 彼女は皆とはどこか変わっている。コーヒーのことを抜きにしても、何かが。一人だけ違う世界にいて違うものを見ているような。そんな感じ。
思い違い、かもしれない。それでも。彼女には違う一面を持っているように思えてならない。それがコーヒーに関係しているのか、それともコーヒーはそれを隠すための仮面か。
とりあえず。もっと彼女を知りたいのだ。
もしかしたらこれがイワユル恋ってやつなのかもしれない。
∴
それから俺は今まで以上に彼女に近づいた。
仲良くなるには共通の趣味? ということで俺も毎日缶コーヒーを持参している。だがさすがに1日に2個以上はきつい。せいぜい朝と昼に一缶ずつ飲んでいる。
最初は周りに大いにからかわれたが三日もたつともう誰も何も言わなくなった。
今はこれだけで他にはアクションを起こさなかった。
しかし彼女の視線を感じるのが増えた気がする。
そしてさらに一週間、そろそろ違うことをしようと思ったとき、意外なことに彼女の方からアクションがあった。
「ねえ」
朝、いつも通り俺はコーヒーを飲んでいたとき、ミルはすでに飲み終わった缶を手で弄びながら話しかけてきた。
「ん?」
「最近よく飲んでるね」
「缶コーヒー? まあね」
ミルもいつも通り朝は目が半開きで眠たそうだ。
「マネ?」
「まあ、そうかな。どんなものかと思ってね。でも意外といけるな。最近やっと味の違いがわかるようになってきた。それまでは全部同じ味としか思えなかったし」
「なんで?」
なんで? 俺がマネをした理由か、それにしても相変わらず俺の方は見ないで話す。視線は手元のFIREに注がれたままだ。
「いや、特に他意はないけど」
「……できれば」
ミルが口を開くと同時に教師が入ってきた。
「ん?」
「やめて」
ミルは低く強くそう言った。
徹底的な否定とんクしみが込められたその一言は俺の心を抉り、後には疑問だけを残した。
なぜ?
確かに、人にマネされて気持ちのいいものではないし、俺のせいでミルも少しはからかわれたりしたかもしれない。
それでも、そこまで怒るか?
普段あまり表情を表に出さないくせに、少しまゆを吊り上げて。
ここまで完璧に否定されたらもう彼女の方から話しかけたりアクションをおこすことはないだろう。
こうなったら下手な小細工はもうしない方がいいだろうな。
よし、一度ちゃんと彼女と話をしよう。できれば二人きりで。
さてどうするか………。
今日一日はそのことばかりに思考が回り授業など一つも耳に入らなかった。
∴
計画はこうだ。
こんなちゃちなものを計画とよべるのかどうかは分からないが、とにかくこうだ。今日は木曜日、よって俺の掃除当番の日だ。そしてミルの机の中にメッセージを書いた紙を張り付けた缶コーヒーを忍ばせておく。最近出たばかりの新しい無糖コーヒーでデザインも割と目立つので気付くだろう。
計画というか、ただの思い付きだが……、何しろまだメッセージの内容も考えていないのだ。兎にも角にもこの思い付きを実行すべく放課後を待った。
さて、時はちょうど良く現国の時間だ。
場所は図書館でいいだろう。別館にある図書館はテスト前になると勉強しに混みだすが、今の時期ならほとんど人はいない。
次に理由だ。
少し話したいことがある―――、思い切り告白パターンだな。
コーヒーについて語り合おう―――、バカだな。
そして結局。
『放課後とりあえず理由はきかず図書館に来てください』
告白パターンと差異はないように思えるが、まいいか。
その紙を二つ折りにして缶コーヒーに張り付けた。
放課後。
いつもより少し乱暴に音を立ててミルの机を運んだ。その好きにポケットに忍ばせておいた缶コーヒーを机の中に放り込んだ。
カラン、ゴロン。
毎週心地よく聞いていた音が今回ばかりは破滅の音のように聞こえた。
翌日。
「あっ……」
俺は教室に入るなり間抜けな声を上げた。
幸い誰も気づいていなかったが。
「うぃっす」
友の声も耳には届かず、俺の意識はミルが座る机に一直線に飛んでいた。
ミルの机の上にはすでに飲み終わったと思われる昨日俺が放り込んだ最近出た新しい無糖コーヒー。
そして彼女の手には昨日俺が適当に書きあげたメッセージ。しかも現在進行中で読んでおられる。
本当に、なんて俺は無計画だったのだろう。
そりゃあ朝机みたら気付くだろうね。昨日の俺は何を想っていたのだろう。おそらく、うまいこと放課後になってからタイミング良く手紙に気付くとでも思っていたのだろう。でも放課後と言って俺もその場にいるわけだし、俺のいる場所で気付かれるのはなんかまずいわけで……。あれ? 俺はどんな展開を思い描いていた。そう、だれもいなくなった教室でミルがメッセージに気付き、図書館へ向かう……、誰もいないんなら別に教室でもいいんじゃ。嗚呼なんて穴だらけの計画もとい思い付きだったのだろうか。
とりあえず、立ち止まったままでは不自然と思い、少し震える足を自分の席へと運ぶ。
普通に、いつもどおりに席に着き、鞄の中身を机へと移動する。その隙に後ろを少し盗み見た。
ミルは、はて? とでも言いそうな疑問を顔に浮かべている。なぜ自分が図書館なんぞに呼び出しをくらったのか、欠片も思い当たる節がないらしい。そうだろうけど。
今にも「なに、これ?」と低く疑問と小さな怒りがこもった声が後ろから飛んでこないかびくびくしながら次の授業の準備をする。ああ、死刑執行をまつ囚人はこんな気分なのだろうか。
心臓の鼓動が玄人ドラマ―顔負けのビートを刻み、足までもが微かに震えている。
どうせならいっそのこと早く!
と、思い続けて数分。何も起こらず教師がきて授業が始まった。
そして俺は重大なことに気がついた。
名前書いてないじゃん!
……………
………
……
…まあ、今となってはこのほうが都合がいい。
怪我の功名、結果オーライ、終わりよければ全てよし。まだ終わっていなし、むしろ始まってもいないのだけど。
今になって俺に出来ることはもう放課後が来るのを待つだけだ。
ミルはあのメッセージをどうしたのか、捨てたのか? さりげなくゴミ箱を覗いてみたがそれらしきものは見当たらなかった。さすがに捨てはしなかったらしい。
このことを他の友達などに言ったのか?
さりげなくミルの周りをうろつき、会話に耳を澄ましていたが、会話には上がらなかった。
大体、あんな得体のしれない手紙の通りに従ってちゃんと図書館に来るのだろうか? 俺なら差出人も書いていない。『放課後とりあえず理由はきかず図書館に来てください』と、若干意味不明な文が書かれたメッセージなど悪戯としか思わない。
もう何が何だか。
大丈夫、レットイットビー、なるようになるさ、ってジョン・レノンもいってたことだ。
はあ。
不安の種の放課後がやっとこの授業の後にやってくる。
永遠に来ないでほしいような、さっさと過ぎ去ってほしいような、しかし光陰矢のごとし。時は待ってはくれない。
鐘が鳴り、礼をして、授業が終わり、放課後になった。
俺はミルの動向を探りながらできるだけ遅く帰り支度をした。
ミルは平然としていていつもとなんら変わりはないように見える。そしていつもなら友だちに誘われたりしない限りすぐに一旦は寮に帰るとのこと。
「ミルー、明日休みだしカラオケでも行かない?」
山川! こんなときに。
それにしても普段カラオケなんて行くのか、意外だ。あいつが歌っているところなんて全く想像できない。
「んー、いや、今日はいいや」
よし、よく行った。
「えーなんでー」
「ちょっと、図書館いくから。あと、コーヒーの買い置きも、なくなったから、買いにいかなきゃ」
「図書館? まいいや。じゃあ明日は?」
「明日なら、別に、いいよ」
「じゃあいつものとこで待ち合わせね。あ、11時でいい?」
「うん」
「じゃあ明日ねー」
そう言い残し山川は去っていった。
「ふう」
ミルは小さくため息をついて席に座った。特に何をするでもなくただ前を見つめている。図書館にいくかどうか逡巡しているのだろうか。
俺は戸川と坂本のバカ話に付き合うふりをしてずっとミルの様子を窺っていた。
二人の口からは尽きることなく言葉が溢れてくる。曖昧に相槌をつくこともう、十五分が経過していた。
そのとき担任がやってきて、
「ほら、掃除当番以外はさっさと帰れ。邪魔だろ」
と主に俺と戸川に向かっていった。
僅かに残っていた生徒達は三々五々に帰るそぶりを見せた。
席に座ったままだったミルもようやく席を立った。
俺も急いで準備を整えた
「そろそろ帰るか」
「そうだな」
ミルの跡を追うように、廊下に出た。
……………
ああ、二人がついてくるよ。いつものことだからしかたないか。しかしどうにかして一人にならなければ。
「あ、今日歯医者予約してたんだった、早くかえらねーと。じゃあな」
早口に一気に捲し立て、廊下をダッシュ。
「おい」
「なんだよ、いきなり」
「まいいか」
玄関を飛び出し、図書館に向かおうとするが、自転車小屋に自転車があると二人に怪しまれると思い、踵を返し素早く自転車にのって図書館へと向かった。
息を整えてからゆっくりと図書館に入った。
全体を見まわすが人がいる気配はない。よかったまだきていないみたいだ。
何処で待とうかと中へ進んでいくと、
「や」
と横からいきなり声がかかり、俺は格好悪くビクっと体を一度震わせた。
入口からは死角になっていて見えない、本棚の隙間にミルが本を片手に持ち佇んでいた。
「よ、よう」
「何、してんの」
「いや、少し調べ物を」
「実は、人を待ってるんだけど、誰か、来なかった?」
ミルは本を棚に戻し、俺を見据えて言った。
「……いや」
「そう」
そう言うとミルは脇をすり抜けて立ち去ろうとした。
「…実は」
「君が出したんでしょこれ」
ミルはそう言ってポケットからくしゃくしゃになった紙切れを取り出した。
「気付いてたのか」
「君の今日一日の、挙動不審ぶりを見てればそれはわかるよ。それに君ぐらいしか思いつかなかったし」
「………」
「それに呼びだしておいて、遅れるって……、同じに終わったのに」
「それは……、言い返す言葉もございません」
「まあ、わかってるよ。心配だったんでしょ。来るかどうか」
「ぐっ……」
全て見透かされている。
それじゃあ今日一日の俺の苦悩は全て無駄だったというわけか。そして今日一日の馬鹿な俺をミルはずっと見ていたのだ。
今すぐこの場から走り去りたい!
「で、何で呼び出したの?」
「それは―――」
「なんで、コーヒーをそんなに飲むの? とかくだらないことじゃ、ないよね?」
「い、いや」
「じゃあ、何?」
またも全て見透かされていると言うのか。
嗚呼、嗤っている、クールな顔をした目の前の彼女はきっと今日一日掌の上で転がり続けたこのピエロを内心で細く微笑んで嘲笑っているに違いない。
何か、一矢を報いねば。
「す、好きでした!」
「―――はい?」
彼女はいきなりの告白にきょとんとした顔をした。
勝った!
…………あれ?
「なんだって?」
何言ってんだ俺?
背中を嫌な汗が伝う。
どうやら俺は追いつめられると妙なことを口走る習性があるらしい。
「本気でいってるの?」
「いや、その、違います。なんか勢いで。ほんと、すいません」
しどろもどろになりながら俺は言った。
「じゃあ、何」
怒っているといいうか、呆れているご様子だ。
「……始めに出鼻をくじかれた通り、なんでコーヒーを毎日のんでいるのか、ということを訊きたかったんです、はい。
「だから、特に理由なんて、ないよ」
さらに呆れたようにミルはいった。
しかし俺は食い下がらない。
「それは違う。ただ好きだけで一日にあんな異常な本数のむわけがない。コーヒー中毒なんて聞いたこともないしな。それに俺がマネし始めたらなんであそこまで強く否定したんだ? 何か気に障ることや、触れられたくないことがコーヒーにあるんだろ? それに、俺の気のせいかもしれないが、コーヒーを飲んでいる時の榎並は心なしかどこか悲しそうに見えるのは、気のせいか?」
ずっと心の中にあったことを全て一気に吐きだした。しかしすっきりするわけでもなく、あるのは『やっちまった』と、どこか後悔に近い念だ。
「っ………」
ミルは何か言おうとして口を開いたが音を発することなく閉じられた。俯き、長い前髪によって表情は窺えない。
誰にでも触れられたくないこと、ほじくり返されたくない過去があるかもしれない。それでも。俺はもう触れてしまった。取り消しはできない。
なぜ訊いてしまった? 純粋なる好奇心……か?
違う、そう、好きだから。
うん。
「…………」
長い沈黙が続いた。
誰もいない図書館と言うものは本当に静かなもので、僕たちだけが世界に取り残されたような、そんな気分になった。
「いいよ……」
ミルは頑丈に閉ざされた唇をやっと開いてくれた。
「え……」
「話してあげても。だけど、聞く方も、話す私の方も、決して楽しい物じゃないし、重くるしい話だけど、それでも聞きたい?」
「ああ」
俺は深くうなずいた。
話す内容がミルにとって辛い物で、苦しい過去を思い出させてくれるものだったとして。俺は聞かなきゃならない。そうしなければいつまでも俺は彼女の外見を見ているだけだから。
「じゃあ、取り敢えず、ここでようか」
そう言って歩き出すミルに僕は無言で続いた。
∴
ミルは図書館を出て学生寮がある方へ足を向けた。
「何処行くんだ?」
「私の部屋」
「いいのかよ」
一瞬どきまぎしてしまった。ただ話をするだけなのに、しかも真剣な。引きしめろ。
「ばれなきゃ、いいよ」
「……そうか」
運よく誰ともすれ違うことなく女子寮に入れた。
「どうぞ」
「おじゃまします……」
小ぢんまりとした部屋は、綺麗に整っている。ただ少し目を見張るものといえば三種類ある箱買いした缶コーヒーのダンボール。
「まあ、座って」
そう言ってミルは座布団を投げてよこした。
俺は無言でそれを敷いてカーペットの上に座った。
続いてミルも座った。そして素っ気ないお茶が机に置かれた。BOSSのBLACKだ。まあいいけどね。
お互いにプルを開けて一口飲んだ。
「さて、何から話そうかな」
そう言ったミルはいつものような淀みがなくて、俺のほうをしっかりと見据えていた。どこか吹っ切れたような。だけどそれは空元気とか自棄になったとかじゃなくて、抱えていたものを吐き出せるという解放なのだろう。と思いたい。
「見ての通り、私はこの寮に住んでいる。さて、どうして?」
いきなりの問いかけに俺は戸惑った。
それでもごく当たり前の回答ぐらいは口にできた。
「それは、家からじゃ遠くて通えないからじゃ……」
ミルは無言でこちらを見つめている。その表情で今口にした答えが零点だということをすぐに感じ取った。やはり俺は彼女のことなど何一つ知らなかったのだ、今まで。
「違うよ、零点。答えは、家がないからだよ」
「家が、ない?」
「そう、だから私は夏休みも、お正月もこの寮で過ごしてたんだよ。……一人でね。」
「なんで?」
「なんで? 帰る家がない理由?」
「ああ」
「正確には、孤児院にいたの。両親も、頼れる親戚も、覚えてないから」
「そう、なんだ」
――ごめん
口から出そうだった、その言葉をなんとか呑み込んだ。きっと今更同情されることなんか一番いやなことだろう。謝ってしまったらそこで話は終わりだ。そしてもう二度とミルの内側に触れるチャンスが消え去ってしまうことを意味する。
血が出るくらいに、右足腿に爪を立てて気を引き締めた。
「それで?」
先を促すような眼でミルを見た。
意外な反応だったようでミルは少し面喰った顔をした。そして笑った。
「それで、他に何が聞きたいの?」
「理由」
「コーヒーの? ふふっ、本当に面白いね。佐伯君は。でも確かに、それは大きく関係するのかな」
ミルは悲しげに眼を細めた。
机に置いてあったコーヒーの残りを一気に飲み干して、そして、真剣な目つきでこちらに向き直った。
「まず、私には中学二年生―――、十四歳より昔の記憶がないの」
「それって……」
「うん、所謂、記憶喪失ってやつらしいよ」
「なんで……」
「そればっかりだね、さっきから。とにかく、聞いてよ」
そうしてミルは滔々と話し始めた。
「まず、うちの両親は駆け落ちしてきた、らしい。それぞれの親に結婚を反対されて二人で家を出て、私ができて。たぶんまだ若かったから生活するにも大変だったと思うよ。それでもなんとか切り盛りして、生活して、私を育てて。やっと私が手のかからない年頃になったと思ったら三人一緒に交通事故に巻き込まれた、らしい。運良く、運悪く? 私だけ助かって、だけど記憶は何一つ無くなってて。母方、父方、両方の祖父母はそのとき既他界していて肉親はもういなかった。住んでいたアパートはあったけど中学生に一人暮らしをさせるわけにもいかないってことで周りの大人たちの計らいで近くの施設にいれられて。そのときの私は本当に訳が分からなかった。何があったか大人たちは優しく説明してくれたけど、どれも実感がなくて。数カ月たってようやつ気持ちが落ち着いてきたとき、私は過去を探ろうと色々行動した。警察へ行ってもう一度根掘り葉掘り、訊いたり、以前住んでいたアパートの近所に住んでいた人にも色々訊いた。医者にも記憶は戻るの? と訊いても、
『そのうちふと戻るかもしれない、でも……』などと、どうも歯切れが悪い回答ばかりで。みんな何か隠してる。いラつきながらも私は過去探索を続けた。ある日、通っていた精神科医ではなくて、事故当時私を治療した主治医に当たってみて、そこでようやく分かった。真剣な目で問い詰める私に彼は根負けして、
『実は事故当時、君の体には明らかに事故で受けた傷ではない打撲や打ち身、切り傷などが多数あったんだ。近所の人たちからの証言からも……』ああ、そうか私は虐待を受けていたんだと、気付いて周りの歯切れの悪いわけが分かった。確かにあなたは虐待されていたなんて言いにくいことだろうし、つらい記憶なら、思い出さない方がいいのかもしれない」
ここまで言ってミルは一呼吸置いた。
当たり前だが、話しているミルは全然楽しそうでも嬉しそうでもない。だからこそ俺はちゃんと聞いて、聞いてどうするっていうんだ? まさか記憶がないなんて一ミリも思わなかった。医者でもないし、ましてや記憶だなんて、俺に何ができる? それに本当に虐待を受けてたなら、つらい記憶なら思い出さない方が――――。
「それでも! それでも私は知りたいの。過去を。取り戻したいの、記憶を」
力強く、だけど泣きそうな声でミルは言った。
それを聞いて俺は、できることならなんでもしようと思った。探し求めているのが彼女にとって残酷な記憶でも、彼女が望むなら取り戻してやりたいと思った。
「ふう……。さて、これからがやっと佐伯君が訊きたがっていたコレの話だよ」
机の上のコーヒーの空き缶を掴み取り、僕の目の前にかざしながらミルは言った。
「記憶をなくして、一年ぐらいたったかな、そのときは中学三年生で目の前に受験が迫っていた。近くに寮があるのはこの学校だけで結構レベルが高かったからそれなりに勉強したよ。別に施設から学校に通ってもよかったんだけど、なぜか早く一人になりたかったし、それに両親の生命保険で大学を卒業するぐらいまでのお金はあったし。まあ、そんなことはどうでもよくて、受験勉強の最中に眠くならないように缶コーヒーを買って飲んで、口にしたとき、甘い香りと共に脳に映像が流れてきたの。そこは車の中でまだ小学校に上がるかどうかの少女と母親と父親がいて、父親の手には缶コーヒーが握られていた。その家族はみんな笑顔で、幸せそうだった。『ああ、懐かしい』そう思った瞬間、それは私だって気付いたの。一瞬でも記憶が戻って、その原因が手の中にある缶コーヒーだと直感的に確信した。後から調べたことだけど、味覚とか嗅覚って記憶を喚起しやすいらいしよ。それからだよ、私が缶コーヒーをよく―――以上に飲むようになった理由は。納得した?」
「ああ、これほどまでに、なんて言うか壮絶な理由があるとは思わなかった」
「そんな大げさな」
ミルは薄く笑いそう言ったがその笑みには力がなかった。
「コーヒーを飲み続けて、記憶が蘇ることはその最初のとき以外にもあったのか?」
「うん、ほんの時々あったよ。といっても一瞬で、フラッシュバックみたいにすぐ消えていくの」
「最近ではいつぐらい?」
「……ここ半年ぐらいはまったく。だから、もうコーヒーは止めようと思ってるの。戻る記憶は一瞬で完璧に戻る保証なんてないし。その一瞬蘇った記憶だって本当に私の記憶かどうか怪しい。ただの妄想かも知れない。いつ見たときも幸せそうで、笑顔が溢れていて……」
会話が途切れ沈黙が流れた。
図書館の時とはどこか違う。
落ち付いているけどどこか気だるい静寂。
そんな静寂を打ち破るノックの音が部屋に響いた。
「ミルー、いるー?」
「―――っ!」
僕等は同時に息を呑んだ。
「隠れて」
小声でそう言うとミルは扉へ向かった。
―――隠れるったって。
俺は迷う暇なく取り敢えず目についたベットの下にもぐりこんだ。
ほどなくして会話が聞こえた。
「どうしたの?」
「いや―ものすごく暇でさ。なんか本とかCDとか貸してくれない?」
「いいけど、余りないよ」
「いいよいいよ。取り敢えずみせてー」
ミルの友人が上がり込んでくる音が聞こえた。
………ピンチ?
「おぉ、ビートルズとか、渋い……」
二人は本棚とCDラックの前へ佇んでいて、少しでもしゃがむとこちらを窺える位置にいる。そんな二人の足元を不安に見つめているベットの下の俺。
ベットの下の男、とかそんな都市伝説があったなあ、とこの状況下でどうでもいいことを思い出した。しかもちろん斧なんて持ち合わせてはいません。
「じゃあねー」
「うん、また」
ほどなくして友人は帰っていった。
「も、いいよ」
「ふう、焦ったぜ」
ようやくベットの下から這いずり出ることができた。
危機は脱したが、二人とも笑いあうこともできず、再び静けさが漂った。
「じゃあ、そろそろ帰るわ」
ずっと黙ってても仕方ないと思い、そろそろお暇することにした。
「うん」
俺はミルの部屋を後にした。
∴
翌日の土曜日、俺は町中を駆け回った。
そして、さらに翌日。
俺は静かなる決意を持って学校へ赴き、ミルの部屋へ向かった。
「どうしたの?」
休日にもかかわらず運よくミルは部屋にいてくれた。
「これ、どうぞ」
俺はもっていた紙袋を渡した。
「重い……。何これ?」
「見れば分かるさ」
「缶コーヒー、なんで…………」
袋の中身を見つめたミルは戸惑いと悲しみの表情を見せた。
だから俺は努めて明るく、
「大変だったんだぜ、それだけの種類集めるのは」
袋の中にはあらゆる種類のコーヒーが詰まっている。コンビニ、スパー、デパート、酒屋、自販機、駄菓子屋まで昨日はいける範囲で回った。そしてできるだけ多くの種類の缶コーヒーを買い込んだ。よく見掛けるものから、今まで見たこともなかったような種類のものまで、とりあえず一缶ずつ。
「なんで………」
「やっぱ榎並には缶コーヒーが似合ってるよ。それにそれだけの種類があれば違う味、違う香りで記憶が戻るかもしれない。……たとえ一瞬でも戻る可能性があるならいいじゃないか。それに妄想なんかじゃないって、きっとまだ家族が笑いあえてた頃の記憶じゃないかな。その、虐待されてた時のことは無意識にシャットアウトしてるんじゃない? 誰だって嫌なことは思い出したくないから」
「なんで………」
「それにまだあるよ。奥の方」
ミルは袋の奥の方をまさぐってもう一つの紙袋を取り出した。
ミルは俺を見た。
俺は無言で頷き開けてみなと示した。
そこにはコーヒー豆、そして、ミル。
「ミルに、ミルをあげるなんて、なんか洒落みたいだけど」
「………」
ミルはそれをぼおっと見つめた。
「缶コーヒーだけじゃなくてさ、そういう豆から惹いたちゃんとしたコーヒーも試せば記憶が戻るんじゃないか、と……」
「――なんで」
ミルはうつ向いて泣きそうな声で呟いた。
「さっきからそればっかりだな」
一昨日とはまるで立場が逆転だ。
俺は深呼吸して、ゆっくり落ち付いて言った。
「好きだから」
ミルは弾かれたように顔を上げて見開かれた瞳で俺を捉えた。
「あれは、冗談でしょ」
「いんや。好きじゃなきゃ、部屋まで押し掛けて話聞いたり、こんなプレゼントしないでしょ? あと、その豆は結構いいやつです」
「やっぱ変なやつだね。君は」
「それで、返事は?」
「まあ、うん、記憶が戻ったら考えるよ」
そう言ってミルは悪戯に笑った。
「取り敢えず一杯どう?」
大事に抱えた俺のあげたミルを指さして言った。
「御馳走になります」
ゆっくりしていこう。ゆっくりと―――。
読んでくださってありがとうございます^^