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第6話 初恋

 冬の朝。

 木曾谷に雪が舞い散る。

 白い雪片が、居館の屋根に静かに積もっていく。

 空気は冷たく澄み、吐く息が白く見えた。


 その朝、義仲の居館に一人の若い武将が訪れた。

 彼の名は楯親忠(たてちかただ)

 信濃の有力豪族の出身で、ともえより一つ年下、齢十六だった。


 親忠は緊張した面持ちで、居館の門をくぐった。

 中背のしなやかな体つき。

 まだ少年の面影を残しながらも、武士らしい凛々しさを備えている。

 腰に差した刀は、父から受け継いだ逸品だった。


 彼を案内したのは、義仲軍の有力武将、根井行親(ねのいゆきちか)

 齢四十を過ぎた歴戦の武将で、その眼力は確かなものとして知られていた。


「親忠、緊張するな。義仲様は人を見る目に長けておられる。必ずや、お前の実力を正しく評価してくださるはずだ」


 行親の言葉に、親忠は深く頷いた。


「はい、行親様。お心遣い、ありがとうございます」


 ふたりは義仲の待つ部屋へと向かった。

 廊下を歩きながら、親忠は自分の心臓の音が聞こえるほど緊張していた。


 部屋に入ると、義仲が座っていた。

 信濃中にその名を轟かせる圧倒的な存在を前に、親忠は思わず身を竦ませた。

 金色に光る義仲の鋭い眼差しが、まっすぐに親忠を見据える。


「義仲様、楯親忠をお連れいたしました」


 行親が恭しく頭を下げた。


「親忠は若いが、武芸に優れ、忠義心も厚い男にございます」


 義仲は無言で親忠を見つめていた。

 その視線は鋭く、まるで心の奥まで見透かされているようだった。


「楯親忠と申します。この度はお目通りいただき、まことにありがとうございます」


 親忠は丁寧に頭を下げた。

 声は震えていたが、それでも毅然とした態度を保とうとしていた。


「ほう。若いな」


 義仲の第一声は、意外にも穏やかだった。


「目に力がある。行親の推薦なら、間違いはあるまい」


 義仲は立ち上がり、親忠の前に歩み寄った。

 その瞬間、親忠は義仲の圧倒的な存在感を肌で感じた。


「お前は、なぜ俺の軍に加わりたいのだ?」


「はい。私は平家の横暴を許すことができません。源氏の血を引く者として、義仲様のお力になりたく、こうして馳せ参じました」


 親忠の答えは率直だった。

 義仲は頷いた。


「よかろう。親忠、今日からお前は、俺の配下だ」


 その瞬間、親忠の人生は大きく変わった。

 義仲軍の一員として、新たな道を歩むことになったのだ。


---


 その日の夕刻、親忠にとって初めての軍議が開かれた。

 親忠は緊張しながら、会議の間に入った。

 そこには、義仲軍の主要な武将たちが集まっていた。

 皆、音に聞こえる歴戦の猛者ばかりだった。


 しかし、親忠が最も驚いたのは、そこにひとりの女性がいたことだった。


 淡い紫の美しい小袖に身を包んだ、可憐な女性。

 長い黒髪が肩に流れ、その美しさは息を呑むほどだった。


「あの方は……?」


 隣に座った武将が、親忠に教えてくれた。


「義仲様の奥方、ともえ殿だ。先日、見事な薙刀の腕前を披露され、軍議に参加されることになった」


 親忠は驚愕した。

 軍議に女性が参加するなど、聞いたこともない。

 その時、ともえが口を開いた。


「皆様、お疲れ様でございます」


 鈴の音のような、美しい声。

 親忠は、思わずその声に聞き惚れてしまった。


「今日は新しい方をお迎えできて、大変心強く思います」


 ともえの視線が、親忠に向けられた。

 その瞬間、親忠の胸が激しく高鳴った。


「たっ、楯親忠と申します! よろしくお願いいたします!」


 親忠は慌てて頭を下げた。

 声が上ずっているのを、必死に隠そうとした。


「こちらこそ、よろしくお願いいたします。親忠殿」


 ともえの微笑みは、まるで春の陽だまりのように温かかった。

 親忠は、心の奥で何かが弾けるような感覚を覚えた。


 軍議が始まると、ともえは積極的に発言した。

 その知性と洞察力に、親忠は感嘆した。


「まるで、空から舞い降りてきた天女のようなお方だ……」


 親忠の心に、生まれて初めての恋心が芽生えた。


 しかし、同時に複雑な思いも湧き上がった。

 ともえは、主君である義仲の妻だ。

 そのようなお方に恋心を抱くなど、武士として到底許されることではない。


 恋心と忠義心の間で、親忠は激しく揺れ動いた。


---


 軍議が終わった後、親忠はひとりで居館の庭を歩いていた。

 雪がしんしんと降り続き、足音が静かに響く。


 心は混乱していた。

 ともえの美しさと聡明さに、一目で心を奪われてしまったのだ。

 しかし、彼女は手の届かない存在だった。


「俺は、何をしているのだ……」


 親忠は自分を責める。

 しかし、ともえのことを考えずにはいられなかった。


「ともえ様に相応しい武将になりたい」


 親忠は拳を握りしめた。


「ともえ様に認められる、立派な武士になろう」


 それから、親忠は武芸の鍛錬に一層励むようになった。

 朝早くから夜遅くまで、刀を振り続けた。

 弓の稽古も欠かさなかった。


 戦場での功名心も高まった。

 ともえに認められたい一心で、必死に努力を重ねた。


---


 数日後、平家方の小部隊が木曾谷に侵入したという知らせが入った。

 義仲は即座に出陣を決定した。


「親忠、初陣だ。しっかりと働け」


 義仲の言葉に、親忠は力強く頷いた。


「はい! 必ずや、お役に立ってみせます!」


 出陣の準備が整うと、意外な知らせが入った。


「ともえ様も出陣されるとのことです」


 親忠はまたも驚いた。

 女性が戦場に出るなど、やはり前代未聞のことだった。


 しかし、ともえが薙刀を手に馬に跨る姿を見て、親忠は息を呑んだ。

 美しさの中に、凛とした強さが宿っていた。


「見事なお姿だ……」


 親忠の心は、さらに強く動かされた。


 一行は雪の中を進んだ。

 馬の蹄の音が、静寂を破って響く。

 親忠は、ともえの後ろ姿を見つめながら馬を進めた。


 やがて、敵の姿が見えてきた。

 平家方の武士たち、約三十騎ほどだった。


「かかれ!」


 義仲の号令と共に、戦いが始まった。


 ガシャン! ガシャン!


 刀と刀がぶつかり合う音が響く。

 親忠は勇猛に敵に向かっていった。


 ザシュッ!


 親忠の刀が、敵の武士を斬り倒した。

 初陣での初戦果だった。


 しかし、親忠の目はともえの戦いぶりに釘付けになった。

 薙刀を振るうその姿は、まさに戦女神のようだった。


 ヒュン! ヒュン!


 ともえの薙刀が風を切って踊る。

 敵の攻撃を軽やかにかわし、反撃を加えていく。


 ザシュッ! ドサッ!


 ともえの薙刀が敵を倒した。

 その技量は、男の武士たちを遥かに凌駕していた。


 親忠は感動で胸が熱くなった。

 美しく賢いだけでなく、これほどまでの武勇を持つ女性がいるとは。


 戦いは義仲軍の圧勝に終わった。

 敵将も討ち取り、完全な勝利だった。

 義仲は親忠を呼んだ。


「親忠、見事な働きだった。初陣とは思えぬ活躍だ」


 義仲の褒め言葉に、親忠は感激した。


「ありがとうございます!」


 その時、ともえが近づいてきた。


「親忠殿、お疲れ様でした。見事な戦いぶりでしたね」


 ともえの労いの言葉に、親忠の心は激しく躍った。

 ともえに認められた喜びで、胸がいっぱいになった。


「ともえ様こそ、素晴らしいお働きでした。まさに戦乙女のようでした」


 親忠の率直な賞賛に、ともえは微笑んだ。


「ありがとうございます。でも、まだまだ未熟です」


 ともえの謙虚な態度に、親忠はさらに心を奪われた。


---


 それから、親忠の恋心は日増しに強くなっていった。

 軍議でのともえの発言に聞き入り、その知性に感嘆した。

 日常での何気ない一言に、心を躍らせた。


 しかし、ともえは優しく接してくれるものの、親忠とは常に一定の距離を保っていた。

 親忠の好意には薄々気づいているようだったが、必要以上に踏み込んではこなかった。


 ともえ自身も、複雑な心境だった。

 男性からまっすぐに恋心を向けられることは、ともえにとって、初めての体験だった。

 親忠の純粋な好意がとても嬉しかったが、自分の立場を考えると、深く関わることはできなかった。


 冬の夜、親忠は一人で空を見上げる。

 雪が静かに降り続いている。


「ともえ様……」


 親忠の心に、切ない想いが募る。

 手の届かない恋への苦しみと、それでも諦めきれない想い。

 若い心が、恋の炎に燃え続ける。


 一方、ともえもまた、自分の部屋で複雑な思いを抱く。

 親忠の純粋な想いを肌に感じながらも、それに応えることのできない自分に。


 雪の夜は静かに更けていく。

 それぞれの心に、違った想いを抱かせながら。

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