第3話 嵐の出会い
ある日の夕刻。
今井家の屋敷で、ともえは片付けをしていた。
その時、背後から何者かが忍び寄った。
気配を感じて振り返ろうとした瞬間。
ゴンッ!
後頭部に鈍い衝撃が走る。
それきり、ともえの意識は闇に沈んだ――
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頭に鈍い痛みを感じながら、ともえは意識を取り戻した。
薄暗い空間で、かび臭い匂いが鼻をつく。
目を開けると、どうやらそこは、朽ちかけた廃寺の本堂だった。
手足は縄で縛られ、口には猿轡が噛まされている。
身体を起こそうとして、ともえは自分の置かれた状況を理解した。
攫われたのだ――
薄明かりの中では、黒装束の男たちが数人、本堂の隅で何かを話し合っている。
「今井の娘を攫ったのは良いが、これからどうするのだ?」
「当然、今井兼平を誘き出すための餌にする」
「兼平が来たところを討ち取れば、今井家などもう終わりよ」
恐らくは平家方の刺客であろう者たちの会話が、ともえの耳に入ってきた。
そして、自分が囮として使われようとしていることを悟る。
兄上を……兄上を危険に晒すわけにはいかない!
ともえは必死に考えた。
この身体に宿る武芸の才能と、現代の知識を総動員しなければならない。
まず、縄を解くことだ。
ともえは身体をよじりながら、壁の角に手首の縄を擦り付けた。
古い廃寺の柱は朽ちており、ささくれた部分が縄を少しずつ削っていく。
刺客たちは油断していた。
か弱い女が一人で逃げ出せるとは、夢にも思っていない。
やがて手首の縄が切れた。
ともえは慎重に猿轡を外し、足の縄も解く。
あいにく薙刀はないが、本堂の隅に古い木刀が転がっていた。
それを手に取り、ともえは静かに立ち上がった。
刺客たちはまだ話し込んでいる。
今がチャンスだ。
ともえは音を立てないよう、本堂の裏口に向かった。
だがその時、床板がきしむ音を上げた。
ともえの心臓が跳ね上がる。
「何だ!?」
刺客の一人が振り返った。
「女が逃げるぞ!」
ともえは木刀を放り出し、すぐさま走った。
裏口から外に飛び出し、山道を駆け下りる。
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外は凄まじい嵐だった。
走りづらい小袖姿では、到底逃げることなどできなかっただろう。
武芸の鍛錬のため、普段から袴を履いていたことが幸いした。
「追え! 逃がすな!」
刺客たちの怒号が、後ろから聞こえてくる。
雨に打たれながら、ともえは必死に逃げ続けた。
稲妻が空を切り裂き、雷鳴が山々に響く。
着物はすぐにびしょびしょに濡れ、濡れた髪が顔に張り付いた。
また稲妻が走る。
一瞬、辺りが昼間のように明るくなる。
そして、ともえは気づいた。
前方に、人影が立っている――
月明かりの中、一人の男が立っている。
長身で逞しく、濡れた髪を後ろで束ねている。
動きやすい質素ないでたちで、腰には刀を差していた。
そして何より、その存在感が圧倒的だった。
稲妻の光の中で、男の瞳が金色に光ったような気がした。
「……女、ひとりで何をしている?」
低く、唸るような声。
まるで上から見下すような、傲慢な響きがある。
ともえは息を切らしながら答えた。
「お助けください! 平家の刺客に襲われております!」
「ほう?」
男の鋭い視線が、ともえを見据えた。
その瞬間、ともえは直感した。
この男、ただ者ではない――
男がともえに問いかける。
「人攫いにでもあって、逃げているところか?」
「その通りでございます! なにとぞお助けを!」
だが男は、あろうことか、ともえの懇願を完全に無視した。
それどころか、近づいてともえの顎に手をかけ、自分の方に向かせる。
「お前……普通の娘ではないな」
男はさらに近づいた。
雨に濡れた顔が、稲妻の光で浮かび上がる。
整った顔立ちだが、表情は冷酷そのものだ。
ともえは激しく後悔した。
どうやら自分は、助けを求める相手を間違えたらしい。
この男も、平家方の手の者だろうか?
「フン、ただの女ではないな。それなりに名の知れた武家の娘と見える。だが、お前の正体はそれだけではない」
異形の金色の瞳が、まっすぐにともえを見据えた。
「お前の魂……この時代のものではないな?」
ともえは驚愕した。
なぜこの男は、自分の正体を見抜いたのか?
転生者だということを、どうして知っているのか?
だが今は非常事態だ。
そんなことに構ってはいられない。
ともえはなんとか、男をやり過ごそうとした。
「な、何のことか、分かりませぬ」
「嘘をつくな」
男の声が一段と低くなった。
同時に、雷鳴が響く。
まるで男の感情を読み取ったかのように。
「正直に吐かねば、殺す」
男の手が、わずかに刀の柄に触れた。
ほとばしる殺気。
ともえはその瞬間、死の恐怖を感じた。
この男は本気だ。
そして今の自分には、この男に太刀打ちする術がない。
もし嘘を見抜かれれば、本当に殺される――
平家の刺客が、今この時も自分を追っている。
今すぐ、この男の前から逃げ出したい。
しかし、命の危険を感じたともえは観念した。
「分かりました」
雨音の中で、ともえは震える声で告白した。
「私は、この時代の人間ではありません。九百年先の世から、転生してきた者です」
男の表情が変わった。
驚きではなく、むしろ得心したような表情。
「九百年先の世? 面白い。そこはどのような世界だ?」
「馬より早く駆ける乗り物、空を飛ぶ乗り物があり、遠く離れた人とも話ができます……」
「ほう。それはぜひ見てみたいものだ」
男は興味深そうに頷いた。
ともえは焦る。
「もうよろしゅうございますか!? 私は追われているのです。助けてくださらないのであれば、お離しください!」
「駄目だ」
男は、今度ははっきりと、ともえの要望を却下した。
「お前はちょうど良い。こちらにも事情があるのでな、俺に協力しろ」
「なっ! 何を勝手に……!」
焦りから、ともえは反発した。
だが、男の態度は変わらない。
「娘、お前に選択肢はない。俺の言うことに従うか、今ここで死ぬかだ」
男の瞳が、再び金色に光った。
そして、意味深な表情を浮かべる。
「だが、お前の存在は俺にとって有用だ。なるべく殺したくはない。もちろん平家の犬どもに渡してやる気もない」
ともえは男の真意がまったく読めなかった。
この男は何者なのか?
この非常事態に、いったい何を言っているのか?
だがその答えを得る前に、茂みから複数の人影が現れた。
黒装束に身を包んだ男たちが、刀を抜いて二人を囲む。
それは、ともえ攫った平家の刺客であった。
ついに見つかってしまった――
「今井の娘がいたぞ!」
「邪魔な男は始末しろ!」
刺客たちの狙いは、ともえを攫うことのはずだ。
しかし、謎の男が一緒にいることで、まずは男を排除することに変更したようだった。
「……はっ、平家の犬どもが」
男の声に、怒りと侮蔑が込められた。
その瞬間、空に雷鳴が響く。
男は刀を抜いた。
その所作は流れるように美しく、そして恐ろしく速かった。
「弱い者を守ってやるのは、強者の義務だからな」
ビカッ!
男が一歩踏み出した瞬間、稲妻が走った。
空からの稲妻ではない。
男の刀から、雷光が迸ったのだ。
ともえは目を疑った。
刺客たちも、ぎょっとしたように動きを止める。
異形の瞳が金色に輝き、雷鳴が響く。
その音は、男の感情と一体化していた。
シュタタタタッ! ザシュッ!
男は、一瞬で刺客たちの間を駆け抜けた。
雷の力を纏った刀が、瞬く間に敵をなぎ倒す。
あっという間に、刺客たちは全員倒れた。
男は刀を鞘に収めると、震えるともえに振り返った。
「あ、あなたは……あなたは、人間ではない!?」
ともえの驚愕の声が、雨音の中に響いた。
男の肉体は、明らかに人間を超越している。
雷を操る力、金色に光る瞳、そして圧倒的な戦闘能力。
「見てしまったな、娘」
男は再び尊大な態度を取った。
その圧力は、先ほどよりもさらに強烈になっている。
「口外すれば命はない」
ともえは身を震わせた。
この男は、自分が想像していたよりも、はるかに危険な存在だ。
男はゆっくりと、ともえに近づいた。
雨に濡れた顔に、残虐とさえ思える笑みを浮かべて。
「俺の名は木曾義仲。覚えておけ、娘」