第一章 第九節:「感情の契約」
──感情とは、世界を乱す毒か。
あるいは、構造を再定義する鍵か。
それは、王が初めて“問い”を持った瞬間だった。
かつて、レイヴン=ヴァル=ノクトにとって、世界とは命令の積層だった。
理を敷き、構造を張り巡らせ、法則に従わせる。
すべてが静止し、すべてが従順である世界こそが、理想。
だが今、彼の足元には、瓦礫となった虚界宮。
空は涙のような雫を落とし、守護者たちの“感情”が漂っていた。
そして、王の胸にもまた、言葉にならぬ“熱”が宿っていた。
それを、彼は認めなければならなかった。
「──我は、定義し得ぬものを、受け容れねばならぬのか」
否、それは敗北ではない。
感情の受容は、理の終焉ではなく、理の“再契約”だった。
◆
玉座の間の中央に、新たな“頁”が出現する。
契約の書に存在しなかった第八の頁──「共鳴の章」。
これは、レイヴンと四大守護者、そしてフィリアの間で交わされる、
“心の律”に基づく契約の記録。
ミュリエルが最初に口を開いた。
「王。あなたは、詩を読んだ。ならば、次は応える番よ」
彼女の言葉に、王は頷く。
「そうだな……。ならば、我は“語る”ことを始めよう。感情という名の不確かな律を、王の言葉で、定義してみせる」
◆
一人ずつ、守護者たちが“王との感情的再契約”に臨む。
第一守護者・アムドゥリアス
彼は命令と忠誠だけの存在だった。
だが、虚界の崩壊と共に、自身の“空虚さ”に気づく。
「王……私は、“ただ従う”だけではもう満たされない。
私にも、意志を与えてほしい」
レイヴンは静かに剣を下ろした。
「ならば命ずる。お前は、“我に従うな”。
その代わり、お前自身の剣で、この世界を選べ」
アムドゥリアスは、その命令に初めて震え、そして涙を流した。
第二守護者・エリセ
感情の渦に喜悦を見出す毒姫。
彼女は王に近づき、瞳を覗き込む。
「ねぇ王様。私、あなたの“激情”が見てみたいわ」
レイヴンは目を閉じる。
「激情……それは、まだ我の中で眠っている。
だが、お前が導くなら、それも悪くはない」
エリセは小さく笑い、彼の指に口づけた。
「誓うわ。“毒”が、あなたを生かすと証明してみせる」
第三守護者・ヴェイン
彼はなおも数式の中に答えを求めていた。
感情を演算し、詩を変換しようとして、果たせなかった。
「感情は、解析不能。変数が多すぎる。だが、それが……興味深い」
レイヴンは応じる。
「ならば、変数として残せ。我が世界に、“不確定解”があってもよい」
ヴェインは沈黙した後、低く呟いた。
「……不完全性定理、ようやく実証されたようだ」
◆
そして、最後に現れたのはフィリア。
彼女は契約の書の“外”にいる存在。
だが、今は王の目の前に立ち、穏やかに語る。
「……あなたは、変わったのね」
「我が変化したのではない。
ただ、“変化することを許した”だけだ」
「それで十分よ。王として、じゃなく、あなたとしてそう言ったなら」
レイヴンは問う。
「ならば、お前の存在も、“再定義”してよいか?」
フィリアは小さく首を振った。
「私は、“未定義”のままでいい。
でも……“理解しようとする”気持ちは、嬉しい」
◆
こうして、王と守護者たちは、新たな契約を結ぶ。
それは理による支配ではなく、
感情による共鳴と選択の契約だった。
契約の書の新たな頁に、それぞれの“心の誓い”が記されていく。
その瞬間、虚界の空に、光が差した。
それはかつての“理の光”ではなく、
色を持ち、温度を持ち、振動する“詩の光”。
レイヴンは静かに告げた。
「──我らの世界は、今より“選ばれた感情”で紡がれる。
律ではない。物語でもない。
それは、“理解したい”という祈りに近いものだ」
──そして、新たな世界律《共鳴契約》が始まる。