第一章 第六節「封じられた神語(ロストワード)」
――言葉は、世界を創る。
そして、“忘れられた言葉”は、世界を壊す。
契約の書が開かれたまま、世界は沈黙していた。
光は収束せず、音も波もない。すべてが“凍った”かのような虚無。
だが、そこに微かな“震え”があった。
それは言語の形をした波。
意味ではなく、定義でもない、ただの**“響き”**。
──かつて、神々すら恐れ封じた“神語”だった。
◆
《逆理の胎動》から七日後。
世界の再構築が進む中、第四守護者・ミュリエルは記録の中で異常を発見した。
彼女の聖域《黙示の殿》は、物語を管理し、歴史と未来を糸で縫い合わせる“言葉の牢獄”である。
彼女が一言を語れば、世界に新たな時の波が生まれる。
だがその日、彼女の筆は止まった。
「……記述不能?」
彼女の前には、“空白の頁”があった。
それは、これまでの歴史に一度も現れなかった“未記録領域”。
しかも、それは“現在進行形”だった。
「誰も、何も書き残せない……」
これは、記録者にとって最も恐るべき現象だった。
◆
一方、レイヴンは契約の書の封印頁《第零章》にアクセスしていた。
そこは、本来誰も開くことを許されない“世界以前の頁”。
契約の書がこの世に存在するよりも前、
言葉が意味を持つよりも前、
“語られなかった神”たちが封印した“音なき呪文”が収められている。
レイヴンは読み上げた。
「──“ア=オーン・ティス=エル、ファズゥナ……”」
瞬間、空間が崩れる。
声にしただけで、“意味”が世界に亀裂を生じさせる。
それは、論理や魔法では説明できない“響きそのものの侵蝕”。
そして、それこそが“フィリア”の本質だった。
彼女は、言葉になることのない存在。
理の外から流れ込んだ、“名前を持たぬ神語”。
「──ならば、君は“語られぬ神”の器なのか?」
レイヴンは初めて、恐怖を覚えた。
その恐怖は、制御不能ではなく、“未知の支配”という恐怖だった。
◆
ミュリエルが、レイヴンのもとを訪れる。
詩を綴ることを生業とする彼女が、言葉を持たずして立っていた。
「……私の物語は、彼女を語れません。
“言葉が届かない”。それが、あの存在の正体です」
「“記述不能”は、存在の否定と同義。ならば、なぜ世界に干渉できる?」
ミュリエルはかすかに笑った。
「それは、“記録の外”にいるから。
王よ、あなたがすべてを律しても、記録されない存在は、記録の外で自由でいられる」
「つまり、“封じられた神語”が目覚めたということか……」
◆
その頃、フィリアは世界の最下層──《虚核》へと向かっていた。
そこは、世界の創造よりも以前、“神語”が眠る場所。
すべての契約の根源。七つの書が生まれた、“第一の文字”が刻まれた場所。
彼女はそこに導かれるようにして歩く。
まるで、“自分自身を還す”かのように。
彼女の手には何もない。
だが、その背後に“言葉が生まれていく”。
それは定義されず、記録されず、命名すらされない言葉。
ただ、響きだけが存在していた。
◆
そして、再び──レイヴンとフィリアは対峙する。
今度の舞台は、《虚核》。
世界が定義される以前の、最も原初的な空間。
「ここでなら、お前の本質が暴ける」
「でも、暴いたらどうするの? 否定する? 封じる? それとも、理解する?」
レイヴンは答えなかった。
彼にはまだ、“理解する”という選択肢がなかった。
契約の書が開く。
そして、ついに彼は最後の頁──**《失われた契約》**を読む決意をする。
「存在すら記録できぬならば、その語源を捉えるしかない。
我が律の最終定義──“語られぬ真名”──!」
だが、契約の書は拒んだ。
その頁だけは、王にすら読めなかった。
なぜなら、その頁こそが──フィリアそのものだったのだ。
◆
「……あなたには、まだ“私”を読めない」
「なぜだ」
「あなたは、“定義する者”だから。私は、“未定義のまま在りたい”。
あなたが私を読めるようになるとき、それは私が“終わる”ときなの」
沈黙。
だがその空白の中で、世界がまた一つ、震えた。
「じゃあ、選ぶがいい」
「……?」
「定義できないものを“破壊”するか。
あるいは、“理解”するか」
◆
王は静かに剣を下ろした。
「理解しよう。君が、なぜ存在するのかを」
それは、王にとって初めての“敗北”だった。
だが同時に、それは“契約の書”にも存在しない、新たな頁のはじまりだった。
このとき、契約の書の余白に、初めて“言葉にならない詩”が刻まれた。