第一章 第五節 「理と逆理の輪舞」
それは“戦闘”と呼ぶには、あまりにも抽象的で、
“衝突”と呼ぶには、あまりに根源的な現象だった。
──存在と存在が、概念の位相で交わる。
因果湖。
そこは未来と現在が重なり、世界の律動が視覚化される場。
本来は絶対的な静寂の中、ただ未来だけが流れていた空間。
だが今、その湖面は真っ二つに裂かれていた。
片や、漆黒の王・レイヴン=ヴァル=ノクト。
契約の書を手に持ち、七重の“理”を再定義する支配者。
世界の構造そのものを命令によって操作する、絶対の存在。
片や、名もなき少女・フィリア。
理に属さず、記録されず、観測すら困難な“逆理の体現者”。
世界のすべてに異議を唱える、“存在の否定”。
二人が相対した瞬間、因果は意味を失った。
◆
「君は、どこから来た?」
レイヴンの問いに、フィリアは首を傾げる。
「それを訊いてどうするの?」
「存在を定義するには、因果を知る必要がある」
「私には“始まり”がないの。終わりもたぶん、ないわ」
彼女の言葉は、事実だった。
フィリアは生まれたわけでも、召喚されたわけでもない。
ただ、“存在しなければならなかった”という理由で、ここにいた。
それは、レイヴンにとって最も忌むべき矛盾だった。
「ならば、私は君を定義する。“理”に従わぬなら、“理”によって縛るまで」
契約の書が開かれ、漆黒の頁が光を帯びた。
「第一律──存在定義。
対象の構成素子を解析、空間定位、質量計測、魂構造を記述開始」
世界が反応する。
因果湖の水面が書物のようにめくられ、フィリアという存在の情報を取得しようとする。
──しかし、何も現れなかった。
頁は、空白のまま。
「……計測不能」
レイヴンの眉が微かに動いた。
「君は、本当に“理”の外にいるのか」
「だから言ったでしょう。私は、“名を持たぬもの”だって」
◆
静かに、フィリアが一歩踏み出す。
その足が地を踏むたび、空間の織り目が崩れる。
まるで、誰かが布を引き裂いているかのように、律動がずれ、光が歪み、時が跳ねる。
「ならばこちらも、“定義を拒む方法”を使おう」
レイヴンが次の頁を開いた。
「第三律──存在削除。対象不明。
座標干渉、重複排除、帰納分解、意味層崩壊──」
言葉が終わる前に、空間が砕けた。
だが、砕けたのはフィリアではない。
世界だった。
契約の書が放った命令は、対象を定義できず、そのエネルギーは空間全体を“破壊”してしまった。
因果湖の一部が裂け、未来を示していた水面が黒く染まっていく。
「存在できないものを排除するのは、論理の基本でしょう?」
「その通りだ。だからこそ、“存在できない君”は──」
レイヴンが叫ぶ前に、フィリアが指を振った。
「でもね、私は“存在している”。矛盾してるでしょ?」
その瞬間、レイヴンの背後に出現した“何か”が、彼を刺そうとした。
それは“概念の影”。
フィリアが生み出す逆理の残像。
記録されず、定義されず、観測すらできないが、確かに“効果”だけを残す干渉体。
レイヴンはすぐさま反応した。
契約の書・第六章──因果律再配置を起動。
次の瞬間、攻撃の原因となった事象そのものを“なかったこと”に書き換えた。
だが、それはほんの一瞬の猶予にすぎなかった。
◆
「……君の力は、“記述の否定”だ。契約の書が成立しない。
ならば、書を使わず、私自身が“君の概念”に干渉するしかない」
フィリアは驚いたように目を丸くした。
「自分でやるの? 王なのに?」
「王だからこそ、自らが動く」
レイヴンは一歩前へ進み、己の肉体から“法の剣”を生み出す。
それは記述された剣ではない。
“契約の書に頼らず、理を具現化する”という、彼自身の意志の結晶だった。
「面白い……あなた、自分で定義された存在じゃなくなろうとしてる」
「君が理を破るというなら、私は理を超える。
そしてその上で──君を、定義する」
剣が振るわれた。
フィリアは一歩も動かず、それを視線で迎える。
世界が、真っ二つに裂ける。
◆
だが、その刃はフィリアを斬らなかった。
届く寸前、空間が彼女を“ズラした”のだ。
これは移動でも、回避でもない。“存在の位相”を一時的に異なる次元へ滑らせるという現象だった。
フィリアは言う。
「あなたの剣は、理に属している限り、私に届かないの」
レイヴンは舌打ちし、左手をかざす。
因果律再定位、空間固定、存在強制再定義。
フィリアの“ずれ”を補足し、存在を引き戻す術式が展開される。
次の瞬間──
世界が、震えた。
◆
《契約の書》の第七頁が自動で開いた。
それは、“王の手によらず”開かれる唯一の頁。
「……これは……強制、解放?」
フィリアが微笑む。
「“理の外”にある私と、“理の主”であるあなたがぶつかれば……そりゃ、そうなるよね」
契約の書から放たれる光が、空間全体を包み込んだ。
それは《律の解凍》──一時的に契約された法を無効化し、“根源の原型”に戻す現象。
理と逆理が衝突し、矛盾の臨界点に達した結果、世界そのものが初期化されようとしていた。
◆
レイヴンは空を見上げた。
そこには、かつて彼が封印した“神の視線”が戻りつつあった。
「こんなことが……許されるのか」
だが、フィリアは首を振る。
「私は“許されないこと”をするために生まれたの。
あなたが完璧を作ったから、私は“不完全”としてここに来た」
「矛盾が、君を産んだ……?」
「うん。“完璧すぎた”世界が、自ら生み出した不具合。
あなたは、きれいすぎたのよ。何もかも、正しすぎたの」
レイヴンは、初めて理解する。
この少女──フィリアこそが、彼の創った“完全世界”が生み出した自浄のバグだったのだ。
◆
そして、世界は揺れ続ける。
これは終わりではない。始まりでもない。
理と逆理が混ざり合い、新たな定義が生まれようとしていた。
それは王の物語でも、少女の物語でもない。
“世界そのもの”が選び取った、第三の物語の胎動だった。