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カメラの向こう側の僕

作者: 霧谷夕子

 

 この店を訪ねたのは単なる気まぐれであった。

 そう断言しよう。実際に気まぐれで始めた散歩で見つけたのだから。

 その店は住宅街を抜けた先の斜面を登ってすぐのところにこじんまりと建っていた。

 いかにも個人営業といった風貌だが、最近になって作られたのか木の壁に塗られたペンキの塗り立て感が一層真新しさを感じさせる。

 全体的に淡い色合いの緑と白で色づけされたナチュラルな感じのしかし、頑丈そうな木造建築の店先には鉢植えの置かれたガーデニング用の棚が出入り口の扉を左右で挟むように置かれている。

 鉢植えの中には見たこともないような鮮やかな黄色や白、ピンクの花が綺麗に咲いていた。

 そして、店の軒下にはアルファベットで【Eureka】と文字を一つずつ等間隔で吊るしたピンクの看板が下がっていた。…読めないけど、多分これがこの店の名前なのだろう。

 出入り口と思わせる白い扉の取っ手には「ここは雑貨屋だよ」となんとも雑な字で書かれた板がぶら下がっていた。

 外観の雰囲気だけで言わせれば、若い女性の好みそうな匂いがしたが、とりあえず入るだけ入ってみよう。商品を買うかは、財布と相談してから。

 取っ手を掴んで中に入ると、カランカランと独特な来客を告げる鈴が鳴る。

 店内に入って一番に出迎えられたのは、アンティークな椅子に半ばふんぞり返るように座らされている大きな茶色い毛並みの熊のぬいぐるみだった。何故かぬいぐるみには灰色のエプロンが着せられていて、その手元には「ようこそ」と赤い文字で書かれたホワイトボードが納まっている。

 しばし、そのぬいぐるみとにらめっこをして、ぼくは店内をぐるりと見回してみた。

 フロアにはぼくの胸の位置よりも少し低めの棚が等間隔で二つ、中央を支配していた。

 そして壁際にも左右に飾り棚が二つ。そこに行儀よく置かれた商品は適度に間を取って置かれ、陳列棚独特のあの窮屈間は一切ない。

 面白いと思った点は他にもある。店の天井は吹き抜けになっていて、建物独特の圧迫感もない。しかも上手い具合に窓から光が差し込み、店全体の雰囲気を明るくしていた。


「やぁ、いらっしゃい」


 フロアの奥、カウンターの奥の暖簾(のれん)がかかった部屋から若い男が顔を出した。多分店の人間だろう。

 その男の顔をみて、一瞬ぼくは固まってしまった。男の髪はすごく鮮やかな白金(プラチナブロンド)だったからだ。 

年の頃は、二十の前半か、悪くて後半くらいだろうか。中世的で彫りの深い顔立ちで肌の色は二度見するくらいに綺麗な白だ。色素の薄い灰色がかった緑色の瞳を優しげに細めた好青年だった。

軽くウェーブする白金(プラチナブロンド)の髪を首の後ろで一つにまとめて、黄緑のバンダナを巻いている。

リアル外国人だ…。口をあんぐりと開けたまま、ぼくはその青年の容姿に見とれていた。

テレビでしか見たことのない外国人が目の前にいることに、ぼくは信じられないくらいのショックを受けていた。

ぽかーん、とそのまま青年の方を見ていると、青年は苦笑を滲ませてぼくに手を差し出してきた。


「初めまして、俺はヒュー・アルダートン。イングランド出身。気軽にヒューって呼んでくれて構わないよ。ちなみに十歳の頃から日本に住んでます」


 思ったより綺麗な日本語を喋るのに感激し、後ろについてきた説明になるほど、と一人で納得してしまう。

 差し伸べられた手にはっとなって、慌てて握り返すと、途端に恥ずかしさが身体全身を冷や汗という物で覆い尽くしてしまった。

 あまりに外人が物珍しいからといって、不躾に眺めていたなんて、失礼極まりないだろう。しかも呆けたような顔をずっと見られていたと遅れて気付き、ますます顔に熱が集まり湯気が出そうな勢いだ。


「外国人はそんなに珍しかったかな? きみ、近所の中学生だよね? しかも、部活帰りかな?」


 ヒュー・アルダートンと名乗った外国人店員はぼくを上から下まで眺めてそういった。

 確かに、その通りである。ぼくはたった今、半袖短パンの学校指定のジャージを着て、カバンを背負っている。

部活帰りだと彼が見抜いたのは、簡単なこと。ぼくの右肩には竹刀と木刀の二本が納まっている、傍から見ると竹刀入れが窮屈そうに見えるらしいそれを持っていたからだ。


「あ、はい。そのごめんなさい。じろじろと見たりして。外国の人と話すのって初めてだし、差し向かえで会ったのも初めてで…」


 ちょっと衝撃というか、感激を覚えまして…

 最後の方は照れとか恥ずかしさが勝ってしまい、ごにょごにょと小さく聞き取りにくくなってしまったのは、許して欲しい。中学生とはそんなものだ。 


「まぁ、俺は慣れてるから別に気にしてないし、怒ってもいないからそんな縮こまらなくてもいいよ」


 穏やかな笑みを浮べるアルダートン氏にぼくは自分が名乗りをあげていないことに遅れて気付く。

 何やら今日は情けないことばかりが起こる日らしい。まぁ、そんな日だってあるさと、そうそうに開き直る。


「えっと、榊原(さかきばら)()(おう)。そこの市立中学校の一年生です。」


 仰々しくならない程度に、ぺこりと軽くお辞儀をする。


「一年生か~。初々しくて良いねー。あれ? 学校帰りの店屋の寄り道って、ダメだったんじゃなかったっけ?」


 首を傾げるアルダートン氏にぼくは正直どう答えていいものか、逡巡する。

 今どき小学生でもあるまいし、学校帰りの寄り道を目くじら立ててまで指導する教師もいない。

 

「んー、まぁいっか。俺が子供のときとは若干違うだろうし。」


 意外にあっさり納得された。

 思い悩んでどう返答しようか考えていたら、拍子抜けである。


「じゃあ、せっかく来てくれたお客様だ。改めまして、ようこそ、Eureka(ユリーカ)へ」


 アルダートン氏が胸に手を当てて優雅に礼をする。紳士の挨拶の仕方だ…と半ば感動してしまったが、ぼくの頭にはすぐに別の疑問が浮かんだ。


「ゆりーか? どういう意味なんですか?」


 アルダートン氏の口振りからこの店の名前なのだろうが、なんだか英語の発音ではないような気がする。たいした自信はないが、リスニングならそれ相応に出来るはずだと自負している。

 あくまで『はず』の範囲は出ない。


「ああ、これはね。ギリシャ語のEureka(エウレカ)を示す言葉なんだ。」


「え、えうれか…?」


 ギリシャ語なんて判るはずもなく、ぼくは首を傾げて言葉を反芻する。

 見かねたアルダートン氏がぼくにその言葉の意味を説明してくれた。


Eureka(ユリーカ)っていうのは英語読み。日本語に訳すと〈判った〉って意味になる。一般的には、アルキメデスが[アルキメデスの原理]というのを発見した際に叫んだ言葉として有名だね」


 なにやら途中から訳のわからない名前が出てきた。アルキメデスの名前は知っているが、実際にどんなことをした人なのかさっぱりわからない。あとで父さんにでも聞くか、とぼくは心中でそう思った。

 そして、単語は普通に英語だったようだ。間違えたのはいささか悔しいが、今は知らんフリを決め込む。


「えっと、わざわざ店の名前に使うってことは、アルダートンさんは、その…アルキメデスの原理?が好きなんですか?」


「いや、全然」

  

 ニッコリ笑顔のまま首を横に振られる。


「え、じゃあ、なんでわざわざお店の名前にそんな小難しそうなの使ったんですか?」


 思いっきり堅苦しい、という言葉は何とか喉の奥に押し込めた。あぶない、ぎりぎりセーフだ。


「響きが綺麗だからこの名前を使ったんだ。それに、このEureka(ユリーカ)の言葉の意味にはもう一つ、

発見した、見つけた、という意味が含まれているんだよ。だから、この店でいいものが見つかりますよーって言う一種の自己アピール&宣伝を名前から醸し出しているだけ」

 

 面白いでしょ? とウィンクされても、なんとも答えづらい。店の名前のセンスとか、そこに込める意味だとかはまだいいとして、店のアピール、宣伝などという単語が出てくると非常にコメントしづらい。まだ社会人の世界に入り込めていない中学生にしてみれば次元の違う、ついていけない話だ。とそういうことにしておけ、とぼくは悪い意味に捉われないようにわざと曖昧に「そうですね」と苦笑交じりに返しておく。


「ああ、ごめんね。お客さんなのにいつまでも入口で立たせちゃって。さぁ、好きなだけ見て行ってね。」


そう言ってアルダートン氏は身体を横にずらし、ぼくに店内へ入るよう促す。

まぁ、店の中に入ってしまったのだから、とりあえず見るだけ見てみることにしよう。

しかし、棚に陳列されているのはどこからどう見ても、女性が好みそうなやれクッションだの、やれ木で出来た食器プレートだの、ヘアゴムや髪留め、それから一見変わった形の枕や、まるでメリーゴーランドのように回転するフォトフレーム等など。

これは姉が好みそうな店だな…、帰ってきたらこの店のことを教えてやるか。とぼんやり考えながら棚を眺めていると、ぼくの視線がある一点でとまった。

 それは一台の黒いクラッシックカメラだった。

 クラッシックカメラといえば、1936年代に出回り始めて一躍流行の物となっていたがその後、新しく開発されたデジタルカメラに役目を持っていかれ、その数を徐々に減らし、現在では現役で使えるクラッシックカメラなど早々お目にかかれないのだ。

 棚に飾られているクラッシックカメラは初版の次に出回った、現在のカメラの形と程近くなおかつ、レンズをカメラ本体に仕舞い込める代物だった。いまでこそレンズがカメラの中に納まる光景は当たり前とみなされているが、当時の人々からすればこれほど画期的でかつ驚くべき光景は無かっただろう。

 ボタンが閉じた状態で押すとカメラのレンズが飛び出し、またレンズをボタンごと押し込めると、レンズはカメラの中に仕舞い込まれるのだ。

 吸い込まれるようにそのカメラを覗いていると、なにやら不思議な気分になってくる。

 このカメラは今まで何人の人間の手を渡って、何人の人間に使われてきたのだろうか?

 実を言うと、ぼくは結構なカメラマニアだった。

 今流行の最新型カメラよりも、昔に使われていたレトロなカメラを集めたり、そのカメラで写真を撮ったりするのがぼくの趣味だった。

 この棚に飾られているカメラを見た瞬間、ぼくの胸が興奮でドクドクと激しく鼓動を打っている。

 いま、財布にお金はあまりないかもしれない。けれど、みすみすこのカメラを逃す気もない…。

 ぼくはアルダートン氏に向き直り、元気よくカメラを指差した。


「アルダートンさん! このカメラ、いくらですか!?」


 もちろん、今は製造が止められているし、全く使われていないし、売られているといってもそのカメラにはとてもじゃないが手の出せないような金額価値で売りに出される。

 一部のカメラマニアがたった一台のカメラを手にするのに莫大なお金をつぎ込んだ話をよく聞く。

 多分、ぼくはそんな馬鹿なカメラマニアの一人としてアルダートン氏の目に映るだろう。いくらかも判らない希少価値の高い品物を欲しがっているんだから。

 しかしアルダートン氏は困ったような顔をした。


「ごめんね、それは売り物じゃないんだ。もうそのカメラに使えるフィルムも今は売ってないし、壊れてしまっているから、いまは飾り物としてそこに置いているだけなんだよ」


「それでもいいです! これを売ってください!」


 少々興奮気味に詰め寄ると、アルダートン氏は虚を衝かれたような顔になり、しかしすぐに首を横に振る。


「だめなものはだめ。こんな不良品をお客様にお売りするわけにはいかないよ」


「…どうしてもダメですか?」


「どうしてもだめ」


 食い下がるなんてみっともないと思った。でも、何故だか諦め切れなかった。

 このカメラは使って欲しいと思っているに違いない、こんな棚の上に放置されて置物同然の扱いを受けるよりも、ぼくのようにカメラとしての機能を存分に使ってくれる持ち主のほうが、きっとこのカメラも喜ぶに違いない…。


「その代わり、別の商品だったらいくらか割引してあげるよ。そんな古ぼけたカメラよりももっといい品をうちはたくさん揃えているから」


 古ぼけたカメラよりいい品? そんなもの、カメラを見つけてしまった僕の前ではどうってこともない品々ばかりだ。このカメラ以上にぼくの関心を示してくれる品などありはしない。

 ぼくはすっかりクラッシックカメラに魅せられていた。

 アルダートン氏が気を紛らわすように色々と話しかけてくるが、どの言葉もぼくの耳には入ってこない。ただ右から左に流れていくだけの雑音にまで成り下がっている。

 そう、このカメラはぼくに使われたがっているのだ、ぼくに、たった今助けを求めているじゃないか。本来の役目に戻りたいと、写真を撮りたいと…。

 ぼくの中で正体不明の黒々とした何かが湧き上がってくるのを感じた。けれど、それを何故か不快とは思えなかった。むしろ、ひどく心地いい…。

 まるで、暗闇の中を闇雲に歩き回って疲れ果てた末に見つけた一筋の光りのように、運命的な何かをぼくに訴え続けていた。


「ほら、このペンたてとかどうかな? スペースは余り取らないわりにたくさん入るし、備え付けに小さな引き出しが付いているから小物入れにも最適だよ。あと、読書とかするんだったら、この猫の切絵のしおりとかは…って、ちょっと!?」


 アルダートン氏が何事か言っている。けれど、それを気に留める余裕なんてぼくには全く無かった。

喉はカラカラで、膝は笑ってしまいそうなほど震えているし、掌や顔は汗ばんでいる。

 ぼくは背後を一回も振り返ることは無かった。

 ぼくの両手の中にはあの店に飾りとして置いてあったクラッシックカメラが握られていたから。


**


「ただいま…」


「おかえり、李央。…どうかしたの? 深刻そうな顔して」


 家に帰ってくると丁度買い物に出かけるところだったのか、二階から降りてきた母さんと玄関でばったり出くわした。

 母さんは目敏く、ぼくの微妙な変化に気付いているようだ。自分で自分の表情がどんな風になっているかは鏡を見なければ判らないが、なんとなくぼくはいま硬い表情をして母さんの前に立っているのだろう。

 少しパサついている茶色がかった黒髪は背中に軽くかかるくらいまで伸ばしており、今は後頭部で髪留めをして止めている。

 二重の大きな瞳は、いまは心配そうに歪められ、ぼくの顔を覗き込んでいた。


「ううん、なんでもないよ。ちょっと部活で疲れただけ。それより、何か食べる物ある?」


「そう? なら、いいんだけど。釜にご飯があるからそれを食べてくれる? お母さん、今から買い物に行ってくるから」


「うん、わかった」


 玄関で出かけていく母さんを見送り、ぼくは一目散に玄関から入ってすぐの二階へ続く階段を駆け上がった。一階にいるであろう祖母への帰宅の挨拶もそっちのけで。

 二階に上って階段から伸びる真っ直ぐな廊下の突き当りの部屋。そこがぼくの部屋だった。

 部屋の中に入ってすぐさま鍵をかけ、うつぶせのまま大の字になってベッドに飛び込んだ。

 倒れこむと同時にベッドのスプリングが跳ね、ぼくの体が一瞬宙に浮く。次第にぼくが飛び込んだ振動を全て受け止めたスプリングはうんともすんとも言わなくなった。

 それからしばらくベッドのシーツのシワを眺めたり弄くったりしていたが、どうしてもソワソワとした焦りにも似た気持ちは払拭しきれなかった。

 部屋の南側には大きな水色のカーテンのひかれた窓があり、そこからベランダにも出られる。ちなみに、姉の部屋とはベランダで繋がっているのだ。

 その窓の隣にベッドが一つ置かれ、そのベッドの反対側には勉強机が置かれている…机の中身は見るも無残なほどにひどい状態になっているが気にしない。時々姉に怒られ呆れられるが。

 机の右隣には天井にまで届くくらいの大きな棚が鎮座していて、一段目はアルバム入れに、二段目はぼくのコレクションの古い年代のカメラが飾られている。そのほかの上の段はすべて小説だとかマンガだとか辞書とかで埋まってしまっていた。

 ベッドの足元にはキャラクターのイラストの入った衣装ケースがある。友人を家に招くときは隠しておきたいものである、のとなりにぼくは先程まで肩や背中に下げていたリュックや竹刀入れを放ってそのままだった。

 しばしリュックを睨み、ベッドから起き上がるとリュックの中を覗き見た。

 チャックが口を開けたままで、中には教科書やノート筆記類など入っている。しかし、それらの上に乗っているのはおおよそ勉強道具とは言いがたい物だった。

 リュックから黒いそれを取り出し、ぼくはじっくりと眺め回した。

 雑貨店Eureka(ユリーカ)に飾られていた、今は使えないと言われていたクラッシックカメラ。

 やはり、思っていた通りそのカメラはレンズがガラス張りで光りを弾く感触が素晴らしかった。ファインダーから覗いた景色の映りは声も出ないほど美しく、趣深い。

 しかしレンズを覗き込めばそれだけ、高揚した気分は次第に落ち込み、カメラを抱える手にも力が入らなくなってくる。

 足元がぐらぐらとして、視界もぼやけてきていて、けれど一番重症だという警報をつげていたのは動悸だった。

 呼吸が浅く、寒気も頭痛もするのに、一番身体の中で重い症状を訴えているのはやはり、心臓だ。

 ぼくはうっ…と息を詰まらせた。

 次いで、口元を手で押さえ鼻や口の奥からせり上がってくる苦い水の感覚をやり過ごす。

 催す一歩手前の状態で踏みとどまり、唾液ごと苦い水を嚥下(えんか)した。

 しばらくそうしていると、次第にせり上がってくる感覚が遠のき、その隙に、ぼくは部屋のスペースをほぼ占めている本棚の下から二番目、丁度両開きになっているカメラのコレクションが納まっている場所へ、クラッシックカメラを無造作に放り込んだ。

 ガン、といやな音が聞こえた気がするが、そんなことに構っていられない。すぐに扉を閉めて、そこでようやく胸の動悸は落ち着きを取り戻してきた。

 しかし、口からはまだ乱れた浅い呼吸がヒュー、ヒュー…と漏れている。

 それからカーペットの敷かれた床に呆然と座り込み、ようやく自分のしでかしたことを、ぼくは理解したような気がした。


「ぼく…、泥棒しちゃったんだ…」


 ボソッと呟いた言葉を聞く者は僕自身だけで、けれどそれは紛れも無く、言い逃れの出来ない【やらかしてしまった】ことを指し示していた。

 泥棒なんて、何て最悪な行為だろう。なんて(やま)しいことなのだろうと、軽蔑していたのに…。

 ぼくは体を縮込ませ、自身を抱きすくめる。

 はくはく、と魚が口を開けるみたいな呼吸しか出来ないことに、自分で呆れて笑いが込み上げてきた。

小さかった乾いた声は次第に大きく膨らみ、嘲笑のように自分で聞こえた。

 そうだ、自分で自分を嘲笑っている。

 たかだか手に入りにくいカメラ一台で、盗みに手を染めるなんて絶対にありえないことだった。

 しかも万引きどころかばっちりと顔も名前もアルダートン氏に覚えられているだろう。

 途端、鳴ってもいないのに音が聞こえた。

 ああ、多分絶望の近づく足音だ。きっとそうだ、そうなのだろう。

 アルダートン氏は警察と中学校に連絡を入れている頃だろう。そしてぼくは遅かれ早かれ、捕まる。

それから、校長室に呼び出しを喰らって改めて、ぼくは盗人というレッテルを貼られるだろう。

 段々と身体から血の気が引き、頭が真っ白になっていくのがわかった。

 いや、待てよ。盗難の弟を持っているということで、姉の夢は潰えることになるのだろうか?

 ぼんやりとした頭で考えると、人一倍眉間の皺が目立つ姉の顔が浮かんできた。 

 姉の夢は弁護士になることだった。名門大学の法学部で勉強をしていて、成績も悪い方だとは聞いていない。けれど卒業がかかっている大学四年生の春に、突然に飛び込んでくる弟の不祥事。

 だめだ、絶対に姉の将来に何らかの影響を及ぼすかもしれない。退学とまではいかなくても、姉のその周りを取り囲む環境がガラリと変わってしまうかもしれない。

 姉だけではない、きっと父さんや母さんにも迷惑がかかる。

 目頭が熱くなった。風邪なんて引いてないのに鼻も詰まり始める。ぼくはベッドヘッドに置かれたティッシュ箱を抱え込み、数枚ティッシュを掴むと景気よく鼻をかんだ。


「…ごめんなさい、ごめんなさい…」


 誰にとも向けられていない謝罪の言葉を吐き出した。

 いっそ、姉が帰ってきたら今回のことを打ち明けてしまおうか?

 でも、きっとそんなことを言ったら厄介ごとの対象として軽蔑されるに決まっている。

 想像しただけで、ゾッとした。

 とにかく、ぼくは神にも祈るような切な思いで一杯だった。

 どうか、アルダートン氏が警察に連絡を入れただけで留めておいてくれますように。

 学校には連絡を入れてなければいい、このまま嵐のように一日が過ぎ去ってしまえ。

 そんなことこそありえない事象だが、ただただ自分の保身を守るための祈りをぼくは目をぎゅっと閉じてカーペットの毛を握りしめながらした。


**


 小学生の時、イタズラ半分で家電製品店の品物を万引きした同級生がいた。

 しかも、あろうことかその万引きした品物を壊して台無しにしてしまったという。

 もちろん、子供のしでかしたことはすぐに店の従業員にもばれて、同級生の両親はその壊れた品物を弁償することになって、PTAでもそのことは話題になり、親の話は子供に広まり、やがてぼくの在籍する教室でも瞬く間に広まった。

 クラス中、その同級生のことを腫れ物のように扱った。それはぼくとて同じことで、なかにはその同級生を苛める者まで出てきた。

 それ以来、同級生が学校に来ることは無くなったし、知らないうちによその学校に引っ越したとか、苛められるのが耐え切れなくて自殺したんじゃないのかとか、そんな根も葉もない噂まで広まった。

 その同級生は父親の実家の県の学校に転校したという。

 母さんはたまたまその同級生の母親と仲が良かったらしく、事情を知っていたようだった。

 やがて、その話は学校中に知れ渡り、時が立てば同級生のことを口にするものは少なくなり、風化していった。

 けれど、あの同級生は今でも「泥棒」というレッテルを背中に背負って生きているのだろう。

 新しい土地で、自分がかつて犯してしまったことを誰にも悟られないように、それこそ肩身の狭い思いをしているのだろう。

 その気持ちを理解できる日がこようとは、ぼくは一ミリも想像していなかった。

 しかし、絶望的な暗く淀んだ気持ちは一転して、ぼくには少なからず希望が見えていた。

 

 雑貨店『Eureka(ユリーカ)』からカメラを盗んで、一ヶ月が経とうとしていた。

 しかし、ぼくの元に警察が来くるということも、学校の校長室に呼び出されたということも無く、ここ一ヶ月は過ぎていった。

 それどころか、店屋で物取りが出たという情報も聞かない。

 ぼくの住む界隈にはお年寄りが多く、彼らの大好物が噂話だった。ことに、お年寄りが多いからこそ、唐突にどこそこの誰々が救急車で運ばれた、とか。どこそこで火事がおきた、とか。そういったことを耳にするとその現場に駆けつけたがる悪癖を持つどうしようもないお年寄り達である。端的に言えば野次馬。ぼくの祖母も同じように噂話に目敏く、近所で囁かれている話は全て熟知しているほど界隈一の情報通として有名だった。

その祖母に聞いてみたところ、物取りが出たなんて噂はひとつも無かったという。陰湿な話ならばすぐにでも食らい付いて、あることないことホレホレ騒ぎ立てるハイエナたちの間に物取りの話がない、ということは、アルダートン氏はぼくのことを警察に連絡していないということらしい。

使えない置物同然のカメラ一台を盗られただけで、わざわざ警察を呼ぶべきではないと判断したのか、それとも、欲しがっていたことだし素直にくれてやるか、とそのまま放置してくれているのか。

ぼくにはそんな予想をするしか出来ないが、それはとてつもなく嬉しい誤算だった。

誰にも知られていないとはいえ、ぼくは間違いなく「泥棒」をしてしまった。しかし、それを自分以外の第三者が広めないと知れると、心の中は晴れやかとは言い難いけれど、幾らかの落ち着きを取り戻し始めていた。

自分の評価は自分だけがつけるものではない。それは家族という他者から、友人という他者から、自分に関わる全ての人間からその評価は付けられる。

自分で自分の価値を決めたところで、それは主観的な見方からの価値観で、外部の人間から下される客観的価値観よりも底辺にくる。

他者からの価値観、与えられるレッテルは自分の品定めをするよりも遥かに厳しく、遥かに心の奥底を抉る刃となる。

予想もしてないことを口にされると、人は一瞬でも怯む。

その言葉を口にするのが一人ならば、まだいい。けれど、見渡せば同じような評価を下す人間が何人もいるというのは一種の恐怖を覚えさせる。

あの同級生は、そんな恐怖とひとりで戦っていたのかと思うと、正直その境遇に同情するよりも、自分がそんなことにならなくてよかった、という安堵が込み上げてきて、最低だと自分自身で蔑んだ。

結局のところ、人は自分の保身しか考えないのだろう。いや、考えられないように出来ているのだろう。何か突飛なことが起きて自身を省みずに無鉄砲になれるのは、きっとその人の心のどこかに余裕があるからなのだ。余裕が無ければ、人は突飛な行動など起こせやしない。今のぼくの状態がそうなのだから。だから、ドラマとかでヒーローがヒロインを庇うなんてことはヒーローの心に少しの余裕があったのか、あるいはファンタジーの賜物であるかのどちらかに一つなのだろうと、ぼくはその様に考えていた。


**


その日は部活もなく、比較的早い時間に下校することが出来たので、ぼくは家に帰ってすぐにカメラの収まっている両開きの戸棚を開けることにした。

Eureka(ユリーカ)』からカメラを盗み、そのカメラをこの戸棚の中に半ば投げ込むような形で仕舞い込んでいるのを思い出したからだ。

意識的にその扉に触るのを恐れていたし、何よりぼくはカメラの収まった棚を視界に入れないように努めていた。

愚かにも、「盗んだ」という罪の意識から逃れたくて目を逸らし続けた結果だった。

扉を開けてみれば、やはり綺麗に飾られたカメラの列は台無しになっていたし、その列の乱れが一番激しいところには『Eureka(ユリーカ)』から盗んだカメラが他のカメラの上に転がっていた。

とりあえず、ポラロイドカメラが壊れていなかったことだけが幸いか。

 クラッシックカメラを棚から取り出し、どこにも異変がないことを確認すると、台無しになったコレクションの列を直すことなどすっかり忘れて、少しのお金しか詰まっていない財布と、肩掛けのカバンを手に家を出た。


 目指したのは、ぼくの伯父さんが営んでいる古い写真館だった。

 家から自転車で行けば三十分弱。少々遠いが小さな頃はこの写真館に入り浸り、よくカメラマンの真似事をさせてもらっていた。

 実を言わせれば、ぼくのカメラマニアな所は伯父さんの影響が多大に盛り込まれている。

 伯父さんも古いカメラを集めるのが趣味で、プライベートスペースにはカメラの他にフィルムや、皮製のカメラケースまで集められ、コレクションの一品として飾られている。

人生の半分はカメラに捧げてやる、と豪語する伯父さんは、僕にカメラをくれた人でもあった。

伯父さんが同じ機種が幾つかあるから、一つ譲ろうと僕に与えてくれたのが、棚に陳列されていたカメラたちだった。大半は伯父さんにもらったカメラで、あとはご近所のお年寄りから譲り受けたものだ。


住宅街を抜けた広々とした小高い丘の上に伯父さんの営む写真館は佇んでいた。

ゴシック調の古い洋館のような佇まいの写真館は、一見してみれば何か化けて出てくるのでは…と思ってしまうほど、重苦しい雰囲気をかもし出していた。

赤レンガの壁には蔦が何本も張っているし、所々亀裂も入っている。

昔ながらの薪をくべて火を起こす暖炉を使用しているからか、屋根には今時殆んどお目にかかることのない煙突まで備わっている。

赤茶けたレンガのアーチの先に白い蝶番の扉が見えている。

アーチと店の出入り口の間にバラの植木でも植わっていたならば、また雰囲気は違ったのだろうが、

伯父さんはガーデニングにはトンと興味がないらしく、ぼくのこの意見にはスルーを決め込んでいた。

 建物の外観は申し分なくても、その周りを彩るものが何も無くてはただ薄ら寂しいだけである。

 これこそがこの写真館から客の足を遠のかせている一番の原因だと、いい加減気付いて欲しいところだ。わざわざ業者に頼んでゴシック風のお屋敷みたいに仕上げたのはどこの誰だ、と姉は屋敷を見るたびにブツブツと文句を零していたっけ。

自転車を入口の脇に停車させ、ぼくは元気よく蝶番の扉を開いた。


「伯父さーん! いるー?」


**


 伯父さんはカメラマンである前に、時計やオルゴール、カメラの修理を受け持つ修理士でその腕を買われて、よくこの写真館に壊れて動かなくなった時計などの品物を持ってくる人が多い。

 ちなみに伯父さんが営む写真館が写真館としての働きをしたのは、ぼくの七五三のときと、姉の成人式の晴れ姿の撮影のときのみである。

 カメラを伯父さんに預けて、数日たった頃、もう一度写真館を訪れると、伯父さんが作業部屋からのっそりと現れてぼくを歓迎してくれた。

 それから試し撮りをしておいでと修理してすぐのカメラを手渡してくれた。

 待ってましたといわんばかりにぼくはカメラに飛びつく。

 そして、写真館のすぐ近くにある広い公園へ向かった。

 広々とした公園はジャングルジムやブランコという遊具よりも何もない更地が目立つ。

子供たちが気軽に運動を楽しめるようにと作られた公園は、昔こそ野球を楽しみたい男子達とバドミントンをしたい女子達との間でしばしば喧嘩の種の元となっていた。いまでは精々、お年寄り達がゲートボールに使用するくらいで、野球をする子供は驚くほど減少した。

その様を残念がる人間は多い。ぼくもその一人だ。

もっともその話もぼくが幼稚園に入ってすぐの話しだったからもう大分前である。

さて、何か写真になるいい題材はないものかと周囲を見渡すと、丁度適切なものがぼくの視界の端に写った。ぼくの中学の同級生の藤原と葛平であった。

どちらもぼくと同じ剣道部に所属していて、特にぼくと親しい間柄であった。

二人は歩いてくるぼくの存在に気付かず、楽しそうにテニスをしている。後でぼくも混ぜてもらおうか、なんてそんなことを考えながらぼくは声を張り上げた。


「藤原!葛平!」


 ぼくの声に気付いたのか二人はいっせいにぼくを振り返り、次いでにこやかな笑みを浮べて藤原はやっほーと陽気に返事をし、葛平は何も言わずに手を振った。


「お、なにそれ?古いカメラ?相変わらずレトロな物、好きだな~」


 体格のいい藤原がぼくに歩み寄り、ぼくの手に納まっているカメラを見て苦笑をする。


「いいじゃないか。こういうのが好きなんだから」

 

「それにしても、随分古そうなカメラだね。何年前の代物?」

 

 いつの間に側に来ていたのか、ぼくの背後、肩越しから手元を覗きこむ葛平がそこにいた。


「伯父さん曰く、型は相当古いけど、作られたのは五十年近く前なんじゃないかって言ってたよ?」


 カメラの型はセミオリンパス型と呼ばれるもので、1938年に発売されて以来、その型を中心に様々なカメラが作られていった。

 カメラの原型であるセミオリンパスは、現在でも細々と製造はされている物の、現役で使われるものが極端に少なく、手に入りにくい代物として今は専らカメラマニアの間で注目を集めている代物だった。


「それよりも、二人がテニスしている所を撮らせてよ。修理してもらったばっかりで、試し撮りをしたいなって思っていたところだったんだ。」


「別にいいけど、どーせなら三人で写らないか?一人だけ写らないなんて寂しいじゃん」


「ノープロブレム。カメラマンはカメラで写真を撮ることに意義を見出すんだ。寂しい云々で素晴らしいスナップを台無しにするなんて、論外だよ」


「…だってさ、榊原の好きなようにやらせておけば?」


「そうゆうこと。さっすが、葛平は判っている。二人とも、早く持ち場に着いた着いた!」


 興奮冷めやらぬぼくを藤原と葛平は苦笑していた。



**



藤原と葛平のテニスの試合(じみたもの)光景をカメラに収めたぼくは、名残惜しそうにしている二人と別れて、伯父さんの写真館に至る坂道を登っている。きっとぼくの頬の筋肉はだらしなく緩みきっているのだろう。先程からすれ違う人がぼくを見ている気配がする。

でも、そんなことは関係ない!ぼくはこの上なく満足しているのだから。

古いカメラで撮った写真には、レトロなものならではの味がある。撮影するときに多少コツは要るものの慣れてしまえばお手の物だ。

写真の現像は伯父さんにやってもらうしかない。いずれはぼくも現像方法やフィルムの取替え等を覚えようと思っているところではあるが。

相変わらず、どんよりとした雰囲気漂う幽霊屋敷っぽい写真館に入り、伯父さんの仕事部屋へと一直線に向かう。

出入り口から入ってすぐに、モダン風の内装が広がっている。その部屋全体をスタジオとしているところがまた何とも言いがたい。

奥へ続く扉を開けると伯父さんの仕事部屋に辿り着く。薄暗い仕事部屋の中で伯父さんは、傷だらけの机の上でなにやら作業に没頭しているようだ。

さっきからボルトやネジを持ち返したり、見比べたりしている。

しかし、ぼくの気配に気付いたのか、作業を中断して肩越しにぼくを振り返った。


「おかえり、李央。試し撮りはうまくいったか?」


 伯父さんは柔和な笑みを浮べてぼくを歓迎する。

 ごま塩の塩が多くなった頭を気にしてか最近は黒のニット帽子を被ることが多くなり、どことなくジャガイモみたいな角張った顔の伯父さんは、少しばかり老け顔で、ぼくと並んでいると伯父と甥っ子というよりも、祖父と孫という構図が当てはまっているらしい。

 確かに、伯父さんには三十歳過ぎの子供がいるし、今年の二月には伯父さんの孫が生まれたというから、あながち間違いではない気がする。


「うん!ただいま、伯父さん!早速だけど、現像お願いします!」


「はいよ。ほれ、カメラ貸せ。」 


 ぼくは言われたとおりにカメラを差し出し、伯父さんがそれを受取り、器用にフィルムを抜き取るのを見ていた。それからカメラをぼくに返し、スタジオの方で待っとれ、と言ってカメラの写真を現像する部屋へと消えていった。

 


**


 しばらくして、仕事部屋のほうからオレンジの前掛けをした伯父さんがその手に写真を持って現れた。

 モダン風のスタジオの一角、暖炉に程近い場所にある椅子に腰掛けテーブルの上に上半身を投げ出していたぼくは伯父さんの姿が見えるとすっと姿勢を正した。

 いよいよ写真の結果発表である。今のカメラと違ってどのように撮れたかを確認できないクラッシックカメラは、写真を現像しない限り上手く撮れたかブレたかを知る術はない。

 伯父さんが空席の椅子に腰掛け、いよいよ写真の品評会なるものが始まる。伯父さんと一緒に撮った写真を眺めるこの瞬間が、ぼくにとっては緊張の一時であった。

 伯父さんもプロのカメラマンとして、いいスナップの物は褒めてくれるが、ダメな物はあれやこれやとダメ出しをしてくるのだ。

 褒められるのは大歓迎だが、あれやこれやのダメだしは勘弁である。かすかに手が汗ばんでいて、ぼくはこの上なく緊張していることを感じた。


「で、どう?」


 言葉少なに訊ねてみれば、伯父さんはニッコリ笑って僕に写真を手渡した。

 藤原と葛平が楽しそうにテニスボールを打ち合う写真を見ているとこちらまで笑みが零れて来そうだった。それを撮影したのはぼくだ、という僅かな自慢がちょっとばかり根底で騒いでいるが、まぁ気にしない。

 ブレテいる写真はないかと探していたが、最後までブレのある写真は見つからなかった。

 どうだ?と問いかける伯父さんにブレはないよ、と言うと伯父さんが頭を撫で始めた。


「前より上手くなったじゃないか」

 

 口数の多くない伯父さんは、本当に頑張ったときにしか褒めない。少ない褒め言葉は自分を評価されている証とわかるとどこと無く、こそばいような思いに捕らわれる。

それを紛らわすためにもう一度写真に目を落としたぼくは、一瞬固まり、悲鳴を上げて椅子ごと後ろにひっくり返ってしまった。

 ガタン!と大きな音が耳にも頭にも響き、一瞬目の前に小鳥が数羽舞ったような幻を見る始末。

 伯父さんは目を白黒させて、ぼくを起こすと頭に瘤が出来ていないか優しい手つきで後頭部を撫でて確認する。どこにも異常がないと判ると、ほっと安堵のため息を吐いてぼくに尋ねた。


「どうかしたのか?撮った写真に綺麗な娘っこでも写ってたか?」


 伯父さんは震えているぼくを宥めようとしているのかもしれないが、言っていることがよく判らない冗談に(実際はわかっているけど)付き合える心の余裕はぼくには無かった。

 ぼくは震える指先でセミオリンパス型で撮影した写真を指した。


「しゃ、写真の顔が…全部…ぼくの顔になってる…」


 自分で言っておきながら、そんな馬鹿なと思ってしまう。けれど…とぼくは自分の言葉の肯定材料を刻まれて間もない記憶の中から見つけ出して、納得してしまう。

 あれは一瞬だけだったが自分の顔だった。楽しそうにボールを打ち返す藤原の姿を撮影した写真は、しかし首から上の部分だけ、()()いて貼り付けたようにぼくの顔になっていたのだ。

 いや、その他の葛平がボールを取り落としている場面や、地面に大の字に寝転がってへばっているところ、藤原が華麗にスマッシュを決めているところ、藤原と葛平が並んで写っているところ、それらの写真が全部首から上が自分の顔になっている。


「どこがだ?テニスをしてるのは李央の友達だろう?お前の顔なんてどこにも写っていないぞ?」


「え?」


 伯父さんに言われてぼくは愕然としてしまった。慌てて写真を覗き込むが、しかし写真の中の藤原の顔はぼくの顔になってしまっているのだ。

 少し硬めの明るい癖のある髪も、二重の丸く猫みたいな瞳も、鼻の形も眉も口の形も、見間違うことのない自分自身の顔だった。

 ただその顔が、撮影した時の藤原の顔は楽しげに笑っていたのに、写真の中の自分の顔は頬が高揚し、眉の端が釣りあがった、憤怒の形相を浮べているのだ。

 他の写真を見ても、楽しそうに笑う自分の顔だったり、泣きそうな悲しそうな顔をしていたり、拗ねていたりとまさに百面相だ。

 ぼくが悲鳴を上げた原因はこれだった。さっきまでは普通に写真には藤原と葛平が写っていたのに、

どうして写真にいるはずのないぼくの顔が写りこんでいるのだろう。


「写ってるよ!ほら、ぼくの友達の顔がぼくの顔になっている!」


 写真を指し示すと、伯父さんはぼくの顔と写真のぼくの顔を交互に見つめ、その写真を手に取りうーんと唸った。色んな角度から写真を眺め、逆さまにしたり斜めにしたりしてとうとう伯父さんは信じられない言葉をぼくに告げた。


「悪いが、李央。ここに写っている友達の写真はお前の顔をしていない。眺めても透かしても、逆さにしても、友達の顔は友達の顔だ。お前の顔じゃない。ここに写っているのはお前の友達がテニスを楽しそうにしているところだぞ」


 「……え?」


 何を言われたのか、瞬時に理解は出来なかった。

 音を拾ったはずの耳が、脳に音の解読信号を渡すのを忘れてしまったみたいに、ぼくの思考は止まってしまった。

 そして、伯父さんの顔を半ば呆然と見上げ、写真に目を落とす。

 やっぱり、写真に写っている藤原の頭は首から上がぼくの頭と顔になっているのだ。瞬きをしても、目を擦っても、疑いようのない自分の顔なのに…。


「…伯父さんには、藤原の顔は普通に見えるの?」


「…藤原くん、というのか?その子は。普通というか、ともかくこの子の顔は、お前の言ったような奇妙なことにはなっていないぞ」

 

 しばらく黙りこくるしか出来なかったぼくがやっとの思いで吐き出した言葉に、伯父さんは何を言っているんだと訝しげな顔でぼくを見た。

 ぼくはまだショックから立ち直れずにいて、試しに両頬を両手でバシン!と思いっきり叩いてみた。隣に座っている伯父さんが音にビックリして飛び上がっていたが、そんなのは眼中に無かった。

 叩いた頬がジンジンと痛みを訴え、熱を持つ。


「あら、李央くん来ていたのね。いらっしゃい」


 背後からかけられた声に振り返れば、伯父さんの奥さん、つまりは伯母さんがそこにいた。

 伯母さんは、かなりの天然パーマの持ち主で肩の位置に揃えた明るい髪の毛は、生来の体質のために毛先がくるんと弧を描いている。

 スタイルのいい伯母さんは身体の線がよくでる服を着ていた。姉とぼくの感想は揃いも揃って、スタイル云々よりも薄くて寒そう、である。


「どうしたの?二人とも、元気ないみたいだけど?」


「おい、この写真ちょっと見てみ」


 伯父さんは伯母さんに藤原の写真を手渡した。写真を覗き込んだ伯母さんの顔が一瞬にして花が咲いたみたいにパッと明るくなる。


「あら!まぁ、いい写真じゃない!これ、李央くんが撮ったの?素敵!その内、うちの主人の腕なんて追い抜いちゃうんじゃないかしら!ね、李央くん、伯母さんも撮ってくれない?これでも昔モデルやっていたから、撮り甲斐はあると思うわよ」


 矢継ぎ早にまくし立てられ、勝手にポーズを取り始める伯母さんに、少々押されていると、伯父さんが伯母さんに渡した写真を指差す。


「その写真、李央の顔に見えるか?」


 伯母さんはキョトンとした顔になる。


「いいえ、全然。李央くんの友達の顔でしょ?うーん、李央くんよりもどちらかといえば、骨ばってる感じの顔だから、似ても似つかないって感じだけど…」


「ほんとに、ぼくの顔に見えない?」


「あら、なぁに?李央くんまでそんなこと言い出すなんて、新しい遊び?それとも悪戯か何か?…でも、やっぱり李央くんの顔じゃないわ。別人の顔よ」


どうしちゃったの?と首をかしげる伯母さんに伯父さんが何事か説明しているが、今のぼくには馬耳東風だった。

 とうとうぼくは認めざるを得なくなってしまった。写真の顔が自分の顔に見えているのは少なくともぼくだけだということを。



**



それから、しばらくぼくはセミオリンパス型のクラッシックカメラで写真を撮り続けた。

 どんなにいい場面を撮れても、現像すると人物を撮影した写真は必ず首から上が自分の顔になってしまっている。またその現象を認知しているのはぼくだけだという。

 風景画は人物が入っていないものは、正常に見えるのに。他のカメラで撮影した人物写真は、正常に見えるのに、セミオリンパス型で撮ったものに限って、写真に写った人物の顔がぼくの顔になってしまう。おまけに写真の中の自分は無表情だったり、笑っていたり、怒っていたりと激しく百面相を繰り返している。面白いのは一つとして似たような表情が無く、まるで自分の表情シアターを眺めている感じがして奇妙だ。

 学校の友達や教師、家族にも問題の写真を見せて意見を仰いでもみんなの答えは同じ、まったくの別人の顔だと言う。

 なんてことだ…。ぼくはとうとう頭を抱えたくなった。

 もしかして、ぼくは何か幻覚症状を見てしまうような病気にかかってしまったのだろうか?

 姉にそれとなく、人物の写真を見るとその写真の中の顔が自分の顔に見えてしまう病はないかと訊ねてみれば、そんな病は聞いたことはない。と首を振られてしまった。


「もしかして、あんた、そういうの見たの?」


 察しのいい姉は、僅かに眉根を寄せてぼくの顔を覗き込んだ。眉間に皺がよってまるで睨み付けているみたいに錯覚するが、これはそういう人相なのだから仕方ない。


「ううん、違うよ。なんとなく聞いただけ」


「そう…」


 それでも過保護な姉はあれから医学書を読み漁ったりして、ぼくのいう症状の病気を探そうとしてくれているようだった。

 嬉しいし、有難いとも感じたが、やっぱりそんな病気は見つかりっこないような気がした。

 この幻覚症状が発症したのは、きっと盗みを働いたぼくへの罰なのではないか。

確かな理由はないものの漠然とそう感じた。

 他に考えられる原因はこれ以外に思いつかなかった。他に思い当たる節といえば…、カメラの前の持ち主が楽しそうに写真を撮るボクに嫉妬して云々。みたいな三次元にはありえない、メルヘンには程遠く、ファンタジーと呼ぶにはいささか趣向が違うような…二次元小説チックなことくらいしかなかった。 

 そういえば…とぼくは思い立った。


「このカメラで自分を撮ったことは無かったな」


 撮影した写真が全て自分の顔になってしまうカメラ。では、自分自身を撮影すると、どうなるのだろうか?若干の興味はある。

 また別の誰かにぼくの写真を撮ってもらうと、ぼくの顔がぼくを撮影した人物の顔になるのか、そしてそれをぼくが認知できるのか。

 中々に面白そうな発案にちょっぴりテンションがあがった。

 しかし、思い至ったのは夜中の0時を回ろうとしている時間だった。さすがにこんな時間に出歩きたいとは思わないし、夜中に友人を巻き込む趣味はない。

 けれど、自撮りくらいは可能なはず。ぼくは日記を書く手を止めて、セミオリンパス型のカメラを手に取り、階段を駆け下りた。

 目指すは脱衣所。あそこには大きな鏡があるから、自撮りは可能のはずだ。

 レンズ越しに鏡を覗き込み、より正確に撮れる場所を探し出す。

 ぼくが背伸びをして立った状態の、丁度顎のすぐ下の位置にカメラを構えて何度もしゃがみこみピントを合わせ確認をとる。

 いよいよ、カメラのシャッターを押すだけという工程になった。

 この場になって心臓はバクバクと大きな音を出し始めて、浅い呼吸しか出来なくなってきている。けれど、かえってその緊張感が心地いい。

 普通に考えたら、撮影した人物写真が自分の顔になって写るカメラなんて、万人は気味が悪いと思うだろう。けれど、それはそれで希少価値なものではないだろうか。

 今までそんなカメラにお目見えしたことはないし、どうして撮影した人物が写真の中で自分の顔になってしまうのか、その謎を探るのも面白そうだ。

 恐怖も不安も何も無く、ただ好奇心だけがぼくの内側を支配していた。

 これはまるで、『Eureka(ユリーカ)』からカメラを盗み出す直前の感覚と似ているのではないだろうか。

 ただ、本能の赴くまま。感じたままに行動を起こす。

 瞬間、ぼくの頭の中で火花が散った。嗚呼、なんて素晴らしいのだろう。

 高揚で熱くなる頬の熱を意識しながら、ぼくは喉を鳴らした。

 このカメラのシャッターを切った瞬間、ぼくはどうなってしまうのだろうか?

 先が見えない、不安がない、ただあるのは興奮だけ。

 早くシャッターを押してしまえ…。ぼくの中の明確な意識のような物が囁きかける。もちろん、言われなくても、そうするさ。

 ぼくは指に力を込めてシャッターを切った。パシャリ!夜の静けさに覆われた脱衣所に、その音だけが妙に大きく耳に響いた。

 ちゃんと写真は撮れたはずだ。あとはこれを伯父さんの写真館に持っていって現像するだけ。

 スキップしそうなほど浮き足立つぼくの背筋に、ふいに違和感が駆け巡った。

 夜の静けさや闇が、急に意思を持ったみたいにぼくを指すように圧力を掛けてきたからだ。

 勘違いなんて言えるような、生易しい物ではなく、まるで睨み付けられているみたいな、射抜くような視線をぼくは体全身からひしひしと感じ取った。 

 いやな汗が背中を伝い、足先が急激に寒くなる。早く、部屋に戻ろうと踵を返そうとすると、両手に持ったカメラを力強く引っ張られた。

 ギョッとなって手元のカメラを見てみれば、白い二本の手がカメラを抱え込んでいた。その手の先を辿ると、鏡があり、その鏡にはぼくの姿が写っていて、クラッシックカメラを掴んでいるのだ。


「え…」


 状況を把握できないまま、ぼくは鏡の中のぼくを見つめ返す。鏡の中のぼくは三日月みたいにニィと口元を引き上げて不気味に笑うと、一瞬にしてぼくのカメラを奪ってしまった。

 勢い余って、ぼくはバランスを崩し、背後の棚に背中をぶつける。痛みに顔を歪める心の余裕なんて無かった。

 目の前にあるのは、確かに鏡で、鏡に写るはずのぼくの姿はなく、代わりにセミオリンパス型のカメラを構えたぼくの姿がそこにあった。


「か、返して…そのカメラは…ぼくのだよ!!」


 鏡の中の自分にぼくは叫んでいた。今が夜中で近所迷惑になるとか、そんなことはすっぽりと抜け落ちてしまっている。

 鏡に手を伸ばしてみる。けれど、指先は鏡に当たって鏡の中のカメラに届かない。

 途端に、心臓のすぐ下がひんやりとした。何故かはわからないけれど、ぼくは夢中で鏡を爪で引っかいた。けれど、鏡に傷がつくだけで、鏡の中のカメラが戻ってくるわけもない。

 鏡の中のぼくがニッコリと微笑んで、レンズを覗き込む。さっきまでぼくがしていたポーズを、今度は鏡の中のぼくがしている。

 どちらが鏡でどちらが本物かわからなくなった。鏡の中のぼくがああして動いているなら、今ここにいるぼくこそが鏡なのか?疑問符がとめどなく溢れ、頭の上で踊り出す。

 

 そして、鏡の中のぼくが歌うような朗らかな声でぼくに言った。


―――僕が、榊原李央になってあげる…。


鏡の仲の僕が、シャッターを切る音が鼓膜に響いた。



**


 

 季節は巡り、李央は中学二年生に進級した。

 友達も増え、成績も上位をキープし、教師の覚えもいい。更に生徒会で書記を担当するようになった。

 部活動、剣道の技術も伸び、県大会で優勝した後、全国大会に出場するにいたった。残念ながら、入賞は取り逃がした物の、李央は学校で一躍有名人になった。

 そんな彼をある人は少し変わったといい、ある人は前からああではなかったかと言う。

 親しい友人達の間では何か彼に転機が訪れたのではないか、といっているが定かではない。

 李央には、誰にも知らない隠れた日課があった。

 毎日学校へ行くときと、帰ってくるときは必ず机の引き出しを開けて、そこに何事かを呟いて出て行ったり、帰ってきたりしている。

 そして、学校から帰ってくると今日も例外なく李央は祖母に手短に帰宅の挨拶をして、二階の自分の部屋に入った。荷物の整理や着替えなどそっちのけで、彼は机の引き出しを引っ張り、中を覗きこむ。


「ただいま、榊原李央だった『ぼく』」


 机の中に入っているのは一枚の写真だった。写真に写っているのは、こちらを呆然と見つめ返す、李央の姿だった。背景は暗くてよく見えないものの、どこか怯えを含ませているようなその表情に、李央は噛み殺していた笑いをそっと吐き出す。


「これから伯父さんのところに行こうと思っていたんだ。もちろん、『ぼく』も行きたいよね?」


 問いかければ、写真の中の李央は数度瞬きをし、緩慢な動作で首をたてに振った。


「じゃあ、行こうか」


李央は手早く身支度と着替えを済ませると、自分の写真を肩掛けカバンの中に偲ばせ、伯父の営む写真館へ向かった。


**


写真館に着くと生憎、彼の伯父は作業で手が離せないらしく、キリのいいところまでいったら、相手をしてやるから、スタジオで待っていろと言って李央を暖炉のすぐ近くの椅子に座らせた。

 伯父の姿が完全に扉の向こうに消えると、李央はカバンの中から自分の写真を取り出し、愛おしそうにそれを撫でた。


「そうだ、多分最後になるから『ぼく』に本当のことを教えてあげる。僕が誰なのか。僕はね、君自身が軽蔑して切り離した最低な君自身だよ。君は、盗みは最低だとか、かつての同級生のようにならなくてよかった、とかそんなことを思っては僕を軽蔑して、しまいには切り離してしまった。ぼくはそれが悔しくてしょうがなかったんだ。ようやく日の目を見れたと思ったら、すぐにポイってされて、情けないし、君のことが嫌いになってしょうがなかったから、あのカメラを使ったんだよ。あのカメラはね。人が本当に切り離したいと思っている内面を引き出して、離別させるっていう面白い代物なんだ。だから、僕がこうして榊原李央として生きられるようになったってことだけどね?」


 そうして、僕はカバンの中に入れてあった百円ライターを取り出し、火をつけた。


「でもね、僕がちゃんと榊原李央として生きようと思うなら、まず本物の邪魔な君を消さなきゃいけないんだよね。だから、いまここで、燃えて灰になってね?」


 ニッコリと微笑み僕は写真の端に火をつける。写真の中のぼくの顔は恐怖と絶望に暗く歪み、僕へ何かを訴えているようだったが、僕は無視して燃える写真を暖炉の中に投げ入れた。


「さようなら、榊原李央だった『ぼく』これからは僕が君の残りの人生を楽しんであげるよ」



 絶望の足音は、ぼくを包み込みやがて僕と肩を並び、追い越してしまった。


高校生の文化祭で作成した小説です。お試しで載せてみます。

暗いお話、擬音多め。それでもよければ読んでみてください。

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