第二十話 「吾輩はアリクイではない、アルマジロである」
吾輩はアリクイではない、アルマジロである。
何故、このような回りくどい言い方をするのかというと、「吾輩はアルマジロである」としてしまったならば、まるっきりパクリだと批判されてしまうからである。
故に「吾輩はアリクイではない」という緩衝材を挟むことによって、その批判を回避しようというわけである。
自分で言うのもなんだが、アルマジロにしては賢い頭を持っていると自負している。
普通のアルマジロは盗作による世間の批判など気にはしない。
……以上は前回の使い回しだ。
許して欲しい。
これをやらねば、始まった気がしないのだ。
ところで、何故、緩衝材にアリクイを選んだのか。
そこに理由はない。
フィーリングである。
読者諸兄、考えるな感じるのだ!
今の一言でバレてしまったが、何を隠そう私はブルース・リーのファンである。
幼い頃に『燃えよドラゴン』を鑑賞して以降、彼は私の心にずっと住み続けている。
若い頃は彼に憧れてヌンチャクなど買ってみたものだ。
まあ、そもそもヌンチャクを持てないことに気がついてすぐに友人に売ってしまったのだが。
その友人も私から購入した後、持てないことに気がついて別の友人に売ってしまったらしい。
きっとその別の友人もそうなのだろう。
私が購入したヌンチャクは、今、どこにあるのか。
もし、友人から購入したヌンチャクが家にあるという方は、是非教えて欲しい。
それが私の購入したヌンチャクだった場合は、すぐに買い取ろう。
持っていても仕方ないから、きっと承諾して下さるだろう。
ヌンチャクを持てないことによる絶望の連鎖を、私が断ち切りたいと思う。
そういえば、絶望の連鎖で思い出したのだが、若い頃にチェーンメールなるものが流行った。
「このメールを10人のアルマジロに転送しなければ、貴方は不幸になります」というやつだ。
私より上の世代では不幸の手紙なるものが流行ったという。
概要は同じで、手段がメールか手紙かの違いがあるだけである。
このように不幸を連鎖させる仕組みはいつの時代にも存在するらしい。
私は最近の流行に疎いので、存在するのなら教えて欲しいのだが、現在の不幸の手紙とはどのような手段をもって連鎖させるのか。
SNSなどのメッセージ機能を使うのだろうか。
はたまた、一周回って狼煙やモールス信号によってなのか。
もし、後者ならこれほど悲しいことはないだろう。
わざわざ煙を焚いて伝えるのが不幸のメッセージなんて馬鹿らしいし、苦労して読み取ったメッセージが上記のようなものなら悲し過ぎるというものだ。
モールス信号でも同じことが言える。
苦労して学んだモールス信号で不幸のメッセージを伝えるなどそれこそ不幸であるし、伝えられる側も「ツー ツー」という音を解読して不幸のメッセージが現れたとなれば電信機を投げ捨てるだろう。
私であれば、間違いなく投げ捨てる。
そう考えると、不幸の手紙が情報伝達の手段が多様化した中で生まれたのは不幸中の幸いであったと言える。
私はジンクスなどを気にしてしまう性質なので、狼煙が主流であった時代に不幸の手紙のメッセージを受けっとったなら、涙を流しながら煙を10回焚いたことであろう。
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さて、長くなってしまったが前書きはこのくらいにして、本題の「アルマジロ社会のあるべき未来の姿」について語らせてもらおう。
人間社会同様、現在アルマジロ社会も様々な問題を抱えている。
その一つ一つにスポットを当てて、私が思う解決法、そして未来のあり方について意見を述べていくのである。
第二回の今回は、「ダンゴムシとの熾烈な争い。球体の女神はどちらに微笑むのか」というサブタイトルをつけて語らせてもらう。
まず、ダンゴムシとアルマジロはキャラ被りしていないということを宣言させて……
え、もう紙面がない?
――第二回「アルマジロ社会のあるべき未来の姿」
(続きは『マジマジアルマジロ』次号で)