第十八話 「唯一、教えられないこと」
休日にどこかへ行こうとする者は若い。身体がではなく、心がである。
どこかへ向かうと、何かしらの感動や刺激を得られると信じているのだろう。それは心が若くなければできないことだ。
俺のように心が老いさらばえた人間はどこへ向かおうとも新たな感動や刺激には出会えないと思ってしまう。
何を見ようと何を聴こうと、既に知識として得ている情報だと認識してしまう。感動が、刺激が薄れてしまう。
悲しいことだとは思うが、解決策は思い浮かばない。最早、得た知識を捨てさることはできないのだ。
故に、俺は休日を家で過ごすことにしている。外出する意味も目的もないからだ。何か理由があればその限りではないが。
●
「ステフ、もう一杯コーヒーを」
「かしこまりました。スティーヴさん」
空のカップに再びコーヒーが注がれる。俺は香りを楽しみながらゆっくりとそれを味わう。
「美味いな」
「ありがとうございます」
ステフは深々とお辞儀をする。
「ステフ、何か本でも読んでくれ」
「かしこまりました。では、アーネスト・ヘミングウェイの『老人と海』を」
「……どうして、それを選んだのか聞かせてくれるか?」
「ご不満でしたら別の本を検索いたします」
「不満じゃない。ただの疑問だ」
「はい。ワタシたち「D‐39W」の趣向には、一人の女性の趣向が反映されているからです」
「それは興味深い。お前たちの趣向を形作る、モデルとなった人物が存在するのか」
「はい。彼女がこの本をお気に入りとしていたため、ワタシもこの本を選びました」
「そうか。では、好きな野球チームはあるか?」
「特にございません」
「では、好きなスポーツは?」
「射撃です」
「好きなバンドは?」
「特にございません」
「好きな楽器は?」
「ヴァイオリンです」
文学や射撃・ヴァイオリンに関心がある一方、野球チームやバンドには興味を示さない。ステフの趣向、そのモデルとなった人物はインテリの傾向がある。
「それにしても、射撃にヴァイオリンか。まるでシャーロック・ホームズだな」
「アーサー・コナン・ドイル作の?」
「そうだ。彼の著作に出てくる人物だ」
「ワタシと彼が似ているのですか?」
「趣向が、な。まあ、正確には、ステフのモデルとなった人物とホームズが似ているかもしれないという話だ。しかし、ホームズが書かれた時代に『老人と海』は存在しない。俺の想像の域を出ないな。忘れてくれ」
「スティーヴさんがそれをお望みなら」
「それで構わない。ところで、質問攻めにして悪かったな。何かお礼でもしようか」
「いえ、お礼など」
「遠慮するな」
「…………でしたら、この間の約束を」
「ん? ああ、気持ちの名前か」
「はい。教えていただければ幸いです」
ステフが感情を知りたいと言っても、そもそもどのような感情があるかを知らない。故に、どういった感情を知りたいかという質問は無意味だ。
「わかった。それじゃあ、支度をする」
「外出なさるのですか?」
「ステフも一緒だ」
「ワタシも、ですか?」
「そうだ。余所行きの服に着替えなさい」
「……かしこまりました」
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俺とステフは小型モビリティに乗り込むと映画館へ向かった。
「丁度良い映画はあるか……」
上映中の作品リストを眺める。『星のかけら』という少年の冒険物語を見つけた。確か、数年前に大ヒットしたタイトルだ。であれば、大ハズレということはないだろう。
「よし、これにするか」
チケットを二枚買うとシアター・カプセルへと向かう。
シアター・カプセルとは、映画を五感全てで楽しむ為に開発された装置である。客はこのカプセルの中に入り、映画の主人公の体験をリアルに追体験することができる。
「それじゃあ、また、上映後に会おう」
「かしこまりました」
一つのカプセルには一人しか入れないため、俺とステフは別々のカプセルに入る。
約二時間後、映画を見終えた俺たちは再び小型モビリティに乗り込む。次の目的地は水族館だ。
海底トンネルを抜けた先に広がる海中世界。海中に造られた巨大なガラス張りの建物が目的の水族館である。
休日なだけあってかなりの人がいた。
「ステフ、離れないように」
「かしこまりました」
と、いってもこのままでは人の波に流されて離れ離れになるかもしれない。俺はステフの手を握った。
「俺の手を離すなよ」
「…………」
それから二人で館内を歩きまわった。
水族館なんてガキの頃以来だが、存外に楽しいものだ。その理由はわからないが。
もしや俺の心も若返りを見せたのかもしれない。その理由はわからないが。
●
日も落ちた頃、俺たちは帰りの小型モビリティに揺られていた。
「どうだ、今日はワクワクしなかったか? 映画を観て冒険したり、珍しい魚を眺めたりして」
「はい。仰るとおりワクワクしました」
「そうだろう。それが楽しいという気持ちだ」
「これが……楽しい」
「そうだ。ステフは今日、楽しかったんだ」
「…………」
反応を示さないステフを訝しんだ俺は彼女の顔を覗き込む。
「どうした?」
「…………いえ、何でもありあません」
「遠慮せず、言ってみろ」
「…………でしたら、もう一度だけ手を握ってはくださいませんか?」
「なんだ。そんなことか。構わない」
俺はステフの手を握る。
「…………」
ステフは再び黙り込んでしまった。
「どうした? 不具合か?」
「いえ、そうではありません。そうではありません。……ただ、楽しいとは別の気持ちが湧いてくるのです。スティーヴさんにこうして手を握られていると」
「……そうか」
「ワクワクとは違います。胸のあたりがドキドキしているのです。スティーヴさん、この気持ちは何というのでしょうか」
「それは……」
俺は言葉に詰まった。
その気持ちは、ステフが抱いているその気持ちだけは、俺が名前を教えることはできない。
なぜなら、本当にその気持ちなのかは他人にはわからないからだ。
その気持ちだけは自分で名前をつけるしかない。
「それは、残念だが俺にもわからない」
「…………そうですか」
「すまないな」
「いえ、ワタシこそ申し訳ございません。不躾なお願いをしてしまって」
「気にするな」
「はい……」
それからモビリティが家に着くまで互いに口は開かなかった。
ただ、手は離さなかった。
ステフがその気持ちを知るきっかけとなるなら、手は離さない方がいいと思ったからだ。
しかし、なぜステフにその気持ちを知ってもらいたいのか。わからない。
俺も自分の気持ちがわからない。
この気持ちの名前が、わからない。