陰謀と恋心────三浦涼子の誘惑
「お帰りなさいませ、お嬢様」三浦家の執事が玄関先に立っている。
その立ち位置は涼子が物心ついた時から一ミリたりとも変化しないし、腰の角度も変わらない。表情も皺一つ、髪の毛の一本たりとも変わらない。執事とはそう言う物だ。名前も知らないし知る必要もない。執事を名前で呼ぶのは、例えばバレーボールやテニスボール一つ一つに「○○ちゃん」と呼ぶのに等しい行いだ。
そもそも執事とは必要なときにはしかるべき所にいるものであって、こっちから声をかける筋合いではない。必要なときにそこに居なかったら、それは執事の怠慢であって職務の放棄であって、もし怠るのならいらないものだ。
学校にしたって成績上位10人で家柄の良い人間以外はいらない。条件を満たしても貧乏ならそういう血が通っているのだから腐った林檎と同じ事だ。必要ない。必要がないのだから、そのような人間はすべからく失われるべきなのだ。失われなくても、目に見えないところで泥水をすすっていればいい。
涼子は机や本棚に物を乗せるように鞄を渡す。
「今日も一日、ご学業ご苦労様でございました。ご主人様よりお顔を見せるようにとの事でございます」返事はいらない。
学校での行動の全ては涼子にとって欺瞞だ。毎日が舞台、毎日が演劇。勿論私は「選ばれた者」であるからその全ての期待に応える。それだけだ。
自治会長という立場も名目も行動も、ピアノの全国コンクールの優勝も、全ては統べるべき人間の正しい行動であって、大学という少しはまともな所で暮らすための装飾に過ぎない。その大学だっていかなる最高学府でもろくでもない場所であるが。去年の夏に出向いたスタンフォード、オクスフォード、ケンブリッジ、ハーバード、どこも反吐が出るぐらい醜悪だった。そもそも定められた人種でないというのが信じられない。その人種の違う学生が結婚したりする。
堕落だ。涼子は口唇を噛む。地獄という物があるのなら堕ちてしまえ。
三浦家の廊下は鶯張りになっている。心地よい軋みで足音を消してくれる。そもそも足音というのが醜い。走るなどとんでもない。それをあの人非人どもは毎日年中無休でやっているのだ。学校の廊下の上で笑い合いながら平気で廊下を飛び跳ねて規律を乱すのだ。決められたことを守れない人間は犯罪者だ。犯罪者は裁かれるべきもので、差別するものなのだ。そしてそれを律する規律は選ばれた者が作るのだ。そして私はその一人だ。
祖父の部屋は北向きの薄暗い所にある。祖父は私に似ている。好んで陽射しに肌を晒すような馬鹿な真似はしない。膝を折り、努めて静かな声を響かせる。
「お爺さま、涼子でございます」
一呼吸会って、豊かなバリトンの声が聞こえた。
「涼子か。入るがよい」
両手で支えるように良く滑る襖を音もなく開く。これも正しい私なのだから。そのまま座敷に進む。二十畳はあろうかと思われる祖父の書斎は純和風だ。飾り気のない机の前に湯飲み茶碗を傍らにした祖父は長い白髪を後に纏め、長い髭を垂らして座っている。くん、と鼻を突く香りが臭う。
「お爺さま、それはまた般若湯ですか」と涼子。
「解るのか」
「多分レミーマルタンかカミュの十三世かと思いますが」
「当たりだ。老い先短い者のささやかな愉しみじゃよ」老人は含み笑いを漏らしつつグラスを仰ぐ。
「お医者様に止められているのでは」
「儂に「様」とつける相手はこの世にいない。医者とて下僕だ。儂が「お前」と言えるのはこの国の「象徴」とされた戸籍も住民票も持たない人間だけじゃがの。そもそも「仕事」などというくだらん行動に明け暮れる不埒者の意見なぞに従う必要は無い。お前も本来なら学校なぞ行く必要もないのじゃがな」
「最高学府まで極めて下りませんと下賤の者に舐められますので、今のところは臥薪嘗胆の心持ちでやっておりますゆえ」
「はっはっは。良い心がけじゃ」そう言いながら老人は仏蘭西の般若湯を啜った。
三浦家当主、邪気は莫大な力を持つ要人だ。「邪気」とは妖しい名前ではあるが、邪気の生まれた時代は邪気の父にとって、日本は忌まわしいものであり、それを打ち倒す願いを込めて付けられた名前だ。事実、恐怖を持って恐れられるに足る立場に於いて結果的に大いに役立った。祖々父は賢明であった。過程など結果の前には儚い物である事を涼子は知っている。
「ところで、お前、薫と約束していたのではないかな?」
「はい。その通りでございます」涼子は感情を込めない声で答える。
「もう三時間は西の離れに待たせて居るが、あやつも多田製薬の第二開発部門長じゃ。忙しいのではないかの」
「それと私が待たせるのとなにか関係がございますか?」
「薫・スチュアート、混血の下賤じゃが、見てくれは良い男じゃないかの。それにしぶとく、狡猾な所は儂も買っておるのじゃがなあ」
「男は女を待つもので、女は男を待たせるものです」涼子の答えに邪気は破顔する。「わははは。男は堪らんなあ」
邪気は傍らから葉巻を取り出すと剃刀でフラット・カットする。昔ながらの燐寸で火を灯すと、芳しい香りが漂った。
「お爺さまが葉巻をお吸いになると、私はすぐに湯浴みせねばなりません」
「良い良い。どうせ薫も今頃燻製になっておるじゃろう。あやつの好みはパイプにキャプスタンのネイビーカットじゃ。纏めて湯浴みで洗い流せばよい」
「その、薫のことは「特例遺伝子解析チーム」の責任者として私は理解しております。そちらは順調なのですが……「遺伝子優生保護法案審議委員会」の方が牛歩と申しますか、どうにも歯がゆい状態のようで。お爺さまから何とかなりませんか」
ううむ、と邪気は唸り、般若湯をすする。
「無能な者ばかりを集めすぎたかの。無能なほど良いかと思ったのじゃが、考え違いだったのかも知れん。何とかしてみようかの」
「では、よろしくお願いします。わたくし、薫の方にこれから顔を出そうと思いますので」涼子の涼しい無表情は邪気ですら凍らせる。「そうしてやりなさい。これ以上は不憫じゃ」
涼子は立ち上がり、丁重にお辞儀をし、襖のそばで膝を折って再び面を下げて襖を閉じた。
立ち上がった涼子は西の離れに向かう。西の離れまでは10分は歩くだろう。この巨大な邸宅が白金というロケーションを持っている信じがたい事実も。
三浦家は「選民」であり、遠く300年以上の昔から民の全てを傀儡として来たのだから。
竹林をくぐり抜ける廊下を歩きながら、涼子はある「世界」の事を考える。あの下らない「影」のことを。しかし、あの「影」では彼女の理想を組み立てつつある。愚民共に無駄な電気を使わせず、愚かな女達を管理し、最小限必要な女だけに社会的な仕事をさせる。
女達の特に限られた才能を持つ者だけに「あれ」を使わせる権利を与え、事実上の私兵として使用権を独占する。大体上手く事は運んでいる。まだまだ問題は多いが、大勢は決したと言っていい段階にまで漕ぎ着けた。
しかし、定期的に様子を見に行かなければ、とも思う。女王として、神として、象徴としての力を見せつけなくては「世界」は維持できない。
心の中でスケジュールを考え、組み立てる。紙や電子的な媒体は必ず綻ぶ。心の闇に隠しておくことだけが帝王の条件であることは古代から変わらぬ定石だ。
そのスケジュールの中のこれからの事に思い当たる。
薫・スチュアート。長めのジャギーカットの輝く黄金の髪、端正な風貌と透き通るような碧眼。待たせれば待たせるだけ、彼は私の物になる。私のことしか考えられなくなる。だから、可能な限り待たせてやる。そして、話は出来るだけ手間暇をかけて沈黙の時間を多くしてやる。私しか見られないように。
歩きながら涼子は豊かな胸のボタンをふたつ外し、少しだけブラウスを着崩す。
私のことしか見えないように。
私のことしか考えられないように。
私以外を選ぶことができないように。