パープル・ヘイズ────白石由子とレインの遭遇
黎明学園は武蔵野の比較的緑に恵まれた環境にある。玉川上水沿いの道はこんもりとした森と繁みに囲まれていた。
また、廃屋も多い。ことに吉祥寺駅への近道に通る廃倉庫は「お化け会館」との悪名を持ち、幾多の都市伝説にまみれているが、興味本位に訪れた者は例外なく怪我をする。元がガラス問屋だったから、至る所にガラスの破片が散乱しているのだ。
由子は帰宅のために一人で「お化け会館」の前を歩いていた。放課後になってひょんな事からインスピレーションが浮かび、音楽室で夢中になってピアノを操って作曲をし、気が付いたら日が傾いていた。
(あ~あ、閃く時って突然なんだよねえ。作曲家や作家ってみんなこうなのかしら。お母ちゃんも突然夜中に書き出していたものなあ)
ちなみに彼女はフルネームを白石由子といい、詩人の母親と映画監督の父親を持つ生粋のアーティスト家系だ。
森の横を抜け時、奇妙な感覚が襲う。背筋に冷たい物を感じる。それは閃光。
(あ、これ、「パープルヘイズ」? まいったなあ)
由子は突然目眩を感じた。立ちくらみや貧血なんかじゃない、強い目の痛みを伴う墜落感。
視界が断ち切られ、強力な稲妻に包まれる。その色は毒々しい紫。
(あらら。ま、慣れてるけど時と場所を選べないのかしら。デリカシーっておのがないんだから)
自分が「碧のカード」の一人だという事は知っている。しかし、照井や詩音みたいに自在に「影」は歩けない。それは突然やってくる発作──「パープル・ヘイズ」の発動だ。
意図しないときに意図しない場所へ強制的に「影」を移動するそれは、詩音に言わせると実は自分の願望に繋がる「幸運の鍵」だという。「影」を歩くことに於いて最大の功者である詩音が言うのだから、それは本当のことかも知れない。事実、「過去に似た異世界」で手に入れた楽器もあるぐらいだ。
だからといって、この稲妻の交錯する無重力状態「パープル・ヘイズ」に慣れることはない。喉から耐えられない叫びが漏れる。それは喉を通らない無力な苦痛となって、由子の意識を容赦なく奪った。
気が付いたときには目の前に石畳があった。道の前に倒れていて、本能的に身を起こしたのだが、転移する時に若干高低差があったみたいで、身体中が痛い。仰ぎ見ると、真っ黒なビルの影で星のない夜空が切り取られている。
「ったあ……って、ここはどこだ?」
カッカッカッと、革靴の音がビルに木霊しながら近づいてきた。
「お嬢ちゃん、どしたの? 転んだの? 怪我してない?」
見ると、灰色の長髪に黒い細身の皮のコートに身を包んだ男が灰色の瞳を近づけている。そこそこに美形。
「あらら。いい男じゃない」由子はそのくっきりした二重まぶたを瞬きする。
「最初にそれかよ。ってなら大丈夫だな。でも、その格好、ひょっとして………ビリー・シアーズ・ショーに来たの? なら、入口は今隠れているから、ついてきて」
見知らぬ男は由子の手を取り、素早く背中を抱き上げる。
うん。これは詩音の言っていた「幸運の鍵」ってやつかも知れない。なら、素直に流れに任そう。「ビリー・シアーズ・ショー」がなんなのかは全くわからないけど、今まで抗って良かったことなんてない。「運命に従順になるのも長生きの秘訣だよ」とはシオの言葉だ。
「そうなの。楽しみにしていたのよ。連れて行ってくれます?」
由子はいかにもな無力であどけない少女を装う。「ぶりっこ」ならお手のものだ。いくら胸がなくたって女の色気は持っている。
「お安い御用だ。何しろ非合法だから、管理が厳重でね」
こんな時「影歩き」は便利だ。よほどあり得ない存在の単語でない限り、聞き取れるし普通に話せる。理由はわからないけど、照井も詩音も気にしたことはないらしい。最も沓水は別で、実際にその地の言葉を話すことが出来るらしいが。
男の肩を借りて、少し足を引きずりながら道を歩く。昔行った事のあるロンドンによく似ている街並みだ。ほんの少し歩いたところで道を曲がり、路地に入り込む。そこには小さな瓦斯灯が灯り、古ぼけた吊るし看板があり、体格のいい髭面の男が腕を組んでいた。分厚いドアには滅茶苦茶に板が打ち付けられている。どう見ても閉鎖状態だ。
「ガリー、客だ。開けてくれ」
「うん? チケットは?」
肩を貸してくれた男が由子を振り返る。その立ち振る舞いも含めて、ひたすらモノトーンな男だと改めて思う。イケメンだけど目立たない男というものに出会ったのは初めてだ。
「チケットは~、友達が持ってたんだけど、その子今日親に捕まっちゃって」
でまかせは伊集院をしょっちゅう見ているから学習した。
「じゃあ、現金だな。600ガデス」ガリーと呼ばれた男が言う。
「おいおい、ガリー。チケットは買ったって言ってるんだ。見逃してやれよ。せっかくの女の子なんだし」ガリーと呼ばれた無骨な男は眉を顰めた。
「いくらレインのつてでもそれは無理だな。俺のギャラも出ない。サクラ・ファミリアの管財人だって危ねえ橋を渡ってるんだ」
「パープル・ヘイズ」は初めての体験ではない。そこそこ慣れている。由子は身体を屈めると、足の中指に嵌った指輪を抜き出した。
「これでどう?」金色に光る指輪。
どこの世界でも、何故か黄金は共通通貨として通用する。だから「パープル・ヘイズ」のために準備は怠っていない。なにより私はお金だけはいくらでもパパに貰えるのだ。まあ、詩音のいつでもその「影」の通貨を作り出せる右手の方が便利だけど。
ガリーはその指輪を瓦斯灯にかざし、何度もその細工を見て、犬歯で噛み、再び光にかざす。
「間違いねえ、こりゃ混じりっけ無しの純金だ……釣りが用意できないぞ、どうするんだよ」
「いらない、そんな物。残りはカンパと言うことでお願い。それより、それはティファニーのだから、傷を付けると値打ちが下がるわよ」
ガリーはハッとしたように指輪を見つめ直し、由子と指輪を見比べながら指輪をそっとポケットにしまい込んだ。
「まあいいか。仲間達と朝までには使い切っちまうからな」そう言うと、一本のマッチを擦って高く掲げる。
すると、路地の両角から同じようなマッチの火が灯る。路地の奥から、そしてビルの上から。かなりセキュリティが高そうだ。
「オーライ、入れよ」
ガリーは扉を開けた。打ち付けた板はみんなダミーだった。扉は塞いだような板が打ち付けられていた偽装だった。
「お前ももうすぐ出番だろ、俺もその時には見に行くからな」
レインと呼ばれたモノトーンの男が微笑む。
「腰抜かすなよ、男は助けないからな」
「抜かせ、この野郎」
ビルの中に入ると、やはり暗闇だ。僅かな電球が仄かに通路を照らしている。
(別に電気がないってわけじゃあないのよね。なら、なんで瓦斯灯とか不便な物を使うのかしら)
辛うじて足を踏み外すに済む階段を下りると、やがて再び重苦しい両開きの映画館のような両開きの扉が目の前にあった。
「じゃ、俺、楽屋に行くから。そのまま入って」
レインは由子の背中を軽く押し、左手の暗闇に入っていった。
目の前の扉を前に、由子は少し躊躇する。
「いいか、ま、「パープル・ヘイズ」がまた発動すれば勝手に帰れるんだし」扉をやや力を込めて開けると、さらにもう一つ扉が立ちふさがっていた。ただ、違うのは──圧倒的な音量が漏れ出ている事だ。
暴力的で人の心を土足で踏みにじるような。理屈ではない「スリル」。
「これ………………ロックじゃないぃぃぃ!」
今度は元気いっぱいに扉を押し開けた。そこには、爆音。
稚拙だけど勢いのあるロックが演奏されていた。不思議だ。この世界にG・F・Rは存在しないはずなのに、ボーカルの男は体格の良い裸体を晒してギターをかき鳴らし、叫ぶように歌う。こってりしたチョコレートケーキのようなねっとりとした音だ。
観客は熱気に包まれ、熱狂している。ヘッドバンキングするやつ、ダイブする男、ビールをラッパ飲みする男。女性は見たところ殆ど居ないのが不自然だが、その分、男性的なパワーに満たされている。
壁際のカウンターのそばの椅子に近づくと、男達が進んで自分から席を譲ってくれた。結構フェミニンな世界なのかも知れない。ボトルとグラスを金属のトレイに乗せたスキンヘッドの髭面が由子の傍らに立ち、仕草で何を飲むのかを聞いてくる。由子はビールらしき物を指さすと、グラスに器用にビールを注いで由子に渡した。
ほろ苦く、濃い。これもやっぱり英国風のスタウトに近い。
いきなり大きな歓声が沸き上がり、今のバンドが手を振っている。終わったのだろう。半裸のギター&ボーカルが満面の笑みを浮かべていた。ライブの幕間独特のリラックスした空気に会場が満たされた。
「悪くないけど、取り立ててどうかと言われるとねえ」
由子はビールを口に含み飲み込んでから呟いた。
由子を発見した男達が、大げさな仕草をする。由子は何度も海外旅行をしているので、こう言った場面は慣れていた。微笑み、穏やかな拒絶、手を振る。この繰り返し。
次のバンドの用意が始まったようだ。ステージの明かりは落とされていて見えない。が、無駄な音が聞こえないし、チューニングの音さえしなかった。
と言うことは、かなり出来るバンドなのだろうと由子はあたりをつける。下手なバンドほど下らない音を出す物だ。そして、観客が徐々に静まり返る。この緊張感は、なにか凄いことが起きる予感だ。
見ると、入り口にいた「ガリー」という男が見える。と言うことはひょっとして助けてくれたあのモノトーンのイケメンが出るのだろうか?
その途端、カウントも無しに突然火山が噴火した。地響きが押し寄せ、鳥の叫び声が聞こえる圧倒的に広いレンジでステージが爆発する。鳥肌が背筋を、腕を這い上がる。瞬きすら許さない強烈なスリル、これは本物のロックだ。
ギターはテクニカルと言うよりアタックの強いノン・エフェクターのファットかつピーキーな、ドライブする本格派。ドラムはジョン・ボーナムタイプのヘビーなビート重視で正確かつ凄みがある。でも、でも。でもでもでも!
こんな、こんな凄いベースは聞いたことがない!
アンプのスピーカーを完全に鳴らしてチューブを限界まで引っ張り、自然にファズる時に出る高音とボトムになる圧倒的な低音とアタック感。一見無茶に見えるスケールも決めるときにはメロディーに乗っている。しかも小節の頭に三度の音を発声してから八分の一で主音にぶつけるなんて。敢えて言うならフェリックス・パッパラルディに近い。相当音楽理論を極めてないと出来ないはず。それとも天性の資質なのだろうか。気が付いたときにはステージの目の前に立っている自分に気付く。完全に魅了された由子は、初めてレッド・ツェッペリンを聞いた日のことを思い出す。
フィニッシュは引っ張ったものではなく、あっけなくストンと終わった。ただクラッシュ・シンバルの残響だけが残っている。間を置かずに始まった曲はミディアムテンポのメロウで、ベースのメロディラインがひときわ美しく際立つ。夢見を誘うようなセクシーで切ないコード進行が、ラブソングであることを主張している。
由子がうっとりとリズムに合わせてノリノリで身体を揺らしていると、後から突然の喧噪が湧き上がった。
電源の落ちるショッキングなノイズ。振り返ると、群青に銀の線が並んだ制服を纏う兵士が雪崩込んで来る。この世界の「弾圧」というやつだろうか? それでもステージを振り返る。ステージセットの中には「あの」ベーシストが居ない!何者かに二の腕を強い力で握られた時、後でピアノを大音響で連打するような音が爆発する。そしてそれが引き金になったように、再び目の前が真っ暗なブラインドになり、紫の閃光が由子に襲いかかった。
「パープル・ヘイズ」は予測できない。墜落感に伴う焦燥が身体を駆け巡るが、何かを掴もうとする。追いかけ、縋り付こうとする。それは執念にも似た決意。
逃がさない! お前は私の物だ! 絶対に逃がさない!
由子は心に刻まれた圧倒的な存在感を絶対に諦めない事を酩酊のような混乱の中でも誓う。
帰還は落下感はなかった。コンクリートの腰と背を預け、眠りから醒めたような感覚。でも、まだ躯が熱い。あのビートとメロディーとフレーズが頭の中を走りまくっている。
頭を振って、腕を床に突っ張る。ここは知っている。私のマンションの階段の踊り場だ。エレベーターホールに向かわずに階段を駆け上る。巻き毛にピンクとラベンダーのメッシュが踊る。
由子は自分の住むマンションの他に二つのマンションを持っている。そのうちの一つは防音処理を施したスタジオだ。外は日暮れ。メンバーが集まっているはずだ。
乱暴にドアを開けてスタジオに駆け込む。そしてフェンダーのプレジジョンベースを持った、くせっ毛の少年に向かって叫んだ。
「あんたクビ! 荷物を持ってすぐに出て行って!」
「………………出て行ってって、どゆこと? 来月のギグ、もう詰めなのに」
「うるさいうるさいうるさい!もう世界で一人だけを除いて誰のベースの音も聞きたくないの! あんたがロジャー・ウォーターだってお断りよ。ジョーン・ジーだって嫌!」
「それ、褒めてくれてんの? ひひひひ、嬉しいなあ」
「あんた、もともとマゾでしょ! 悦ばせてたまるかってんの!」
強引に背中を押された少年はにやにやしながらドアから蹴り出された。由子は背中をドアに当てたまま、肩で息をしている。
「ははあん、なんか見つけたな?」
ドラムのトモキがそのドラマーとは思えない細い体を二つに折って笑っている。
トモキはドラマーだが、電気的・電子的なことが専門だ。シールドの断線から始まってコンデンサの交換、シンセサイザーのサンプリングのループ生成、コンピュータのメンテナンスから「廻天百眼」のHPまで幅広くカバーしている、バンドには不可欠の存在だ。悪戯っぽい上目遣いで、ハイハット・シンバルを開閉しながら由子に話しかける。
「ユーコがそんな風になるっての「あまね」見つけたときと同じ目をしているね。いや、あの時よりテンション上がってるかな?とにかくなんか見つけたんなら連れてこいよ。正直、このベーシストはトロいからね」
「勝手にしろよ。どっちにしたって俺ら発言権なんてないんだから」
針金のように痩せた男がオベーションのアダマスに付けたチューニングメーターを凝視しながら吐き捨てる。
「アキラよお、おめえの表情は全然読めねえんだから、賛成なのか反対なのか言葉で言えよ」
茶髪で巻き毛の隙間から、目を瞑っているとしか思えない極端に細い目の男がトモキの顔を伺う。
「じゃあ、賛成でいいや」
「ったく、捨て鉢な野郎だぜ。あまねはどうなんだよ」
「………僕に聞かれても…」
カーツウエルPC3K8の二段重ねにローランドのVK88を90度に構えた、華奢な少年が肩までの輝く黒髪を揺らして首を横に振る。鍵盤の腕は天才的だが、その外見の儚い雰囲気が女性ファンはもちろん、男性ファンにまで熱い視線を送られている。
誠に残念な事に彼が自己主張したことはない。言葉ではなく音で物を語る少年、それが内藤あまねという少年だ。
ようやく由子は息を整えると、メンバーに向かって宣言した。
「最っ高のベーシストを見つけたから、とっつかまえてくる。それまでは基本練習と、アキラの作曲。ベースが光るとっておきのを頼むわよ。バリバリに暴れられるやつ」
由子は紅に染めた頬を隠そうともせず、人差し指を突き出した。
「ぜっっったいに連れてくるから!」
「やれやれ」
トモキがスネアの上で軽くロールさせて笑う。
「お姫様のお好きなように」