第五節 鹿狩
「どうじゃヒメミコ、そろそろヒタ国であるが、山々も近くなってきたであろう」
「まこと、ヒタ殿の申す通り。山々がまるで燃えるように赤く色づいておる。何と美しいことであろ……」
「これより少しづつ山の中に入るとしよう。登りになるが、ヒメミコはまだ歩けるか?」
「もちろんじゃ。ヒタ殿とこうしてモミジを眺めることが叶うとは、まるで夢のよう……」
「この葉など、まるで赤子の手のように小さくて愛らしい。持ち帰ってもよいであろか?」
「ヒメミコのお心のままに。そうじゃ、あの辺りなど、モミジの葉が大いに重なり合うて、その上に寝てみればいと気持ちよかろう」
「そのようなはしたないこと、ヒタ殿の前ではでき申さぬ」
「それでは儂はあなたを向いていることと致そう。どうぞ、ごゆるりとお気の向くように過ごされよ」
「まこと、こなたを見ないでくれるな?」
「さよう、この通り」
「……」
「まことじゃ、これは何と……ふかふかと暖かく、まるで雲の上に寝ているような……」
「どれ、儂も……いやいや、これはなかなか」
「ヒタ殿っ! こなたを見ぬと申したではないか」
「まぁまぁ、それにしてもモミジの葉に囲まれたヒメミコはまた何とお美しい。まるで、山の精がその美の限りを尽くして形なしたような趣じゃのぅ。ヒメミコの前には燃え盛る山々も色あせて見えるわい」
「ヒタ殿っ! そのような言いようでごまかそうとされても、妾は騙されぬであろ」
「これはこれは手厳しい。儂はまことのことを申したつもりなのじゃが……されど、今宵はこの山の中で過ごすこととなろう。ヒメミコには幕の中にてお休み頂くとは言え、モミジの上で寝ることにも、少しは慣れてもらうのがよかろう」
「うむ、大変よい心地であった。ところで、ヒタ殿は山の中で夜を過ごすと申されたが、この辺りは恐ろしい獣は出ないのか。幕などで防げるものであろか」
「火を焚き、廻りを見回っておれば気に病むことはあるまい。実は、儂らの廻りには、およそ五十の勢子を既に配しておる。みな、見えないところからヒメミコをお守りしておるゆえ、ごゆるりとお過ごし頂けよう」
「そうか、知らぬうちにヒタ殿が心配りしていて下さる、ということじゃな。改めて礼を」
「もったいないお言葉、痛み入ります……さて、せっかくなので、ヒメミコにも鹿狩りに加わってもらいましょう。もう少し進みますれば、勢子の頭がやって参ろう。頭と会いましたなら、今日の鹿狩りのありようについて、聞くこととしようぞ」
「分かった。それでは少し進むとしようか」
******************************
「頭はあるか?」
「はっ、ここに」
「頭よ、此度のこと礼を申す。して鹿狩りの方はどのような具合であるか?」
「されば申し上げます。ただいま勢子数名にて鹿の追い込みを行っております。されど、ヒタ様の御前に鹿を追い込むには、ちと時がかかりましょう。ヒメミコ様には恐れ入りますが、この辺りでもうしばらくお待ち頂ければ……」
「妾は構わぬぞ、そなたらが鹿を追い込むまで待っているであろ」
「ありがたき幸せ。必ずや大物を連れて参ります」
「して、猪の方はどうじゃ」
「猪は今のところ影も形も見え申さず。元よりおらぬようではこの辺りには出ぬものとは思われますが、引き続き勢子どもに目配りさせております」
「あい分かった。ヒメミコ、この辺りには猪もまだおらぬゆえ、少しく歩き回っても障りないようじゃ。この先を少し行ったところに、とても清い湧き水の出る泉がある。そこにでも行って休んでおられてはいかがか?」
「ヒタ殿は?」
「儂も後から参るが、ちと頭と話があるゆえ、ヒメミコは先に参られよ」
「オモカネ、そなたがヒメミコを案内せよ」
「分かり申した。さればヒメミコ様、こちらでございます」
「分かった、ではヒタ殿。先に参っておる。きっと後からヒタ殿も参られよ」
「すぐに」
「……」
「して、ウワハル。何か報せは?」
「猪、つまりマツラ殿やサガ殿の手の者は未だ現れておりませぬ。また、タケ様からの報せは滞りなく、みな兵の確かなことのみ報せて参ります」
「そうか、まずは良い知らせじゃ。じゃが、気を抜かぬよう頼むぞ。いざという時には、そなたに守りの兵を率いてもらうつもりじゃが、報せは早いに越したことはないのでのぅ」
「心得ておりまする。いざという時にはヒタの入り口に柵をつなげ、ヒタの地に敵兵の入る能わざる守りを築きましょう」
「そのための備えはどうじゃ」
「既に、辺りの木々を切り出し、柱の形にまでなして、山のうちに隠しており申す。いざとなればこれを運び出し、互いに括り付ければすぐにでも柵を築くことが叶いましょう」
「柵を築くには、どのくらいの時がかかる?」
「一夜もあれば……」
「されば、万一ことある際には速やかに柵を築き、敵兵が入るを防ぐことは叶うな?」
「必ずや、ヒタ様の信にお応え申す」
「うむ、頼もしいことである。山の中にあって苦しかろうが、引き続き頼むぞ」
「安んじてお任せあれ」
「……おぅ、そうじゃ、鹿の方はいかがか?」
「そちらは既に整えており申す。ヒタ様のよろしい時にいつでも鹿を放ち、追い込むことが叶いましょう」
「そうか、ヒメミコはさぞ喜ぶであろうのぅ」
「兵のうち、能く鹿を捌く者を遣わします。ヒメミコ様のお口に会えばよろしいのですが」
「そうじゃのぅ。それでは儂はヒメミコの方に参る。引き続き頼むぞ」
******************************
「オモカネ殿、少しあなたを向いていてはもらえぬか」
「されどヒメミコ様、臣が目を離していては万一の際……」
「いや、この泉はまこと清らかで気持ちよいゆえ、ちとここで水浴びしたいのじゃ。今日はよう歩いたゆえ、少しう汚れた。せっかくヒタ殿のお側におるのじゃ。この泉にて水浴びし、香のひとつも焚きたいと思うたのじゃが、妾の願い、容れてはもらえぬであろか?」
「いえ、ヒメミコ様、これは大いに失礼いたしました。さらば臣はあなたを向いており申すゆえ、ごゆるりと水浴びをなさいますよう。但し、何かあり申したらすぐにお声をおかけください。臣はいつでもヒメミコ様をお守りいたしますゆえ」
「あい分かった。妾のわがままを許すがよい」
「……」
「じゃが、この泉は何と心地のよい」
「まこと、ヒタの地は美しく清らかで心地よい。まるでヒタ殿そのものであるかに……」
「ヒタ殿に妾の汚れを清めて頂けるとは、妾は何と幸せ者であることか」
「父上は戦をお始めになられたが、お陰でこうしてヒタ殿の国にくることが叶うた。父上にお礼の一つでも申さねばならぬであろか……」
「……」
「おーい、ヒメミコはおられるかぁ~」
「ヒメミコはいずこにぃ~」
「ヒタ様、ヒメミコ様はただ今泉にて……」
「きゃっ、ヒタ殿。こなたを見るでない」
「これは申し訳ない。よもや、このようなところで水浴びをされておるとは思わなんだ」
「……」
「あ、いや、何もヒメミコの水浴びを覗くつもりではおらなんだが……まるで、紅く燃えさかる山々の青く澄んだ泉に白き女神が金色の光とともに降りてこられたようじゃ。いや、何とも美しい。この世のものとも思えぬ美しさに、つい見とれてしまうわい」
「ヒタ殿、そのようなことはよいから、早くあなたをむいて下され。妾は恥ずかしうて恥ずかしうて……妾の方が燃えてしまいそうじゃ」
「これは失礼した。お詫び申し上げる。もうあなたを向いておるゆえ、安んじられよ」
「いま衣を纏うで、少しうそのままにいてくだされ。されどヒタ殿、妾の水浴びを覗いた罪、きっと購うて頂くであろ」
「あまんじてお受け申し上げる。ヒメミコ、何なりとそなたの申されるままに……」
「ではヒタ殿、ヒタ殿には今宵、妾の幕の中にあって、妾を守る役を命ずる」
「いや、ヒメミコ、それはちと……」
「否やは許さぬ、これは妾が命である。おとなしく容れられよ」
「相分かり申した」
「ところでヒメミコ、そろそろ勢子の頭が鹿を追い込んでくれる頃合か、と。さらば、みなのおるところまで、戻りましょうぞ」
「うむ、鹿狩りか……妾は初めてであるが、楽しみじゃのぅ」
******************************
「ヒメミコは矢を射たことはおありか?」
「はじめてなのじゃが、どのように射るのであろか」
「されば、まずこのように矢竹の根元を掴み、矢筈を弦に番える。次にこのように矢を引くことで弦を引き、時を同じくして狙いを定める。しからば矢を放せば、矢は狙いに向かって飛んでいくであろう。まずはお試しあるか?」
「うむ」
「されば、あの木を狙うて矢を射ってみよ」
「こうであろうか……」
「うむ、そこで弦を引くのじゃ」
「うむむぅ……妾にはこの矢を引くには力が足りぬ。いくら引いても、うまく引けぬわ」
「そうじゃのぅ、この弓は儂のために作らせたものならば、ヒメミコには少しう強かったかもしれぬのう……それでは儂が矢を射ることとしよう」
「ヒタ様ぁ~、鹿がそちらに参りましたぁ~。あと五ツ数えたら目の前に飛び出ましょう」
「五ツ、四ツ、三つ、二ツ、一ツ」
「何じゃ、あれは。鹿とはあのようにに大きなものなのか?」
「今じゃっ!」
「ヒタ様、一の矢、お見事なり」
「おぅっ! オモカネ、止めを」
「それ、みなで射よ」
「放て! 決して逃すな!!」
******************************
「さすが、ヒタ様。狙い違わず見事、鹿をしとめましたなぁ」
「うむ、みなにも礼を申す。さすがに矢一本で倒せはしなんだからのぅ」
「ヒタ殿、あないに右に左に跳ねる鹿を、よう狙いを定めて射止められましたなぁ」
「さればヒメミコ、どのようにすれば叶うと思われるか?」
「う~むぅ、鹿が跳ねぬ前に、鹿がどちらに跳ねるか見込んでおられるのか?」
「その通りじゃ。鹿がどのように動いてくるか予め見込み、その見込んだ先に対して矢を放つのよ。決して、今鹿のおるところではない。これは狩りも戦も同じこと。鹿の動き、敵の動きを確かに見込むだけの考えが要じゃ」
「さればヒタ殿は此度の戦、何を見込まれておるのじゃ」
「いやいや、ヒメミコの賢さは、全く父王譲りのものじゃな。まぁ、見込みはひとつではない、とだけ言うておこう。常にあらゆる見込みを考えておくことじゃ」
「それより、ヒメミコには始めての鹿狩り、いかがであったかのう?」
「うむ、楽しかった。鹿があないに大きなことをはじめて知った。そして、あないに跳ねることも。妾には鹿を射ることは適わなんだが、次にヒタ殿に連れてきてもらう時には、必ず妾も鹿を射るであろ。ヒタ殿のように……」
「されば、次の鹿狩りの時にはヒメミコでも引ける弓を作って参ろうぞ」
「ヒタ殿、きっとじゃぞ、きっと妾の弓を作って、次は共に鹿狩りをしようぞ」
「分かり申した。さて、頭の話では、能く鹿を捌く者を寄越すとのことであったが、オモカネ、そなたは知っておるかのう?」
「されば、あの者にございまして、名をムツカリと申す」
「さようか、オモカネは何でも知っておるのぅ」
「ムツカリは、鹿を捌くだけではなく、煮炊きするにも秀でており申すゆえ、ヒメミコ様にもきっとお口に合うものと存じ申す」
「そうか、それは妾も楽しみじゃ。アサの地でも鹿を煮炊きすることはあったが、何しろ狩りたての鹿はまた趣が違うのであろ」
「ムツカリよ、ヒメミコに喜んで頂けるよう、腕を振るえよ」