8杯目:Refinoの皆さん(2)
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小学生の頃までは比較的問題のない子供だった。担任の先生との三者面談では決まって、「誰も傷つけなければ誰かに傷つけられる様なこともなく、とても大人しい子」と言われ続け、お母さんはその言葉を聞くたびに安堵の表情を浮かべていた。だが、いつも誰と遊んでいるのかの質問に対して特定の子供の名前を聞かされることがあまりなく、いつもその質問をしているところを見るとお母さんにとってはそれが重要な事の様だった。
まだ、私がお母さんのお腹の中にいる頃、お父さんは病気で亡くなったと聞いた。アメリカと日本のハーフだったという父親の血が混ざっているせいか、とにかく”異質なもの”という目で見られることが多い。お母さんはきっと、私が傷つけられそうになった時に自分の代わりに守ってくれる友達がいればと、常に気に掛けている様だった。
中学二年の新学期。お母さんが心配していた事が現実のものとなった。
思春期真っただ中のこの時、心の成長よりも先に身体の成長が目に見えて現れ始める。クォーターの私は周りの子よりも成長が早く、自分の意思とは反して自然と目立つようになってしまった。
ある日のホームルーム後、同じクラスの男子が帰宅の準備をしている私の横で立ち止まる。何か用でもあるのかと顔を上げると、その男子は照れくさそうに鼻の下を擦った。
「?」
「あー、あのさ。……今日良かったら一緒に帰らない?」
一瞬周囲がざわついた気がしたが、断る理由もなかった私は何も言わずに頷いた。
その後、何度か一緒に帰ることがあった。一緒に帰ると言っても会話らしい会話はほとんどない。少し距離を開けて私の家まで二人で歩き、じゃあと一言いって別れる、ただそれだけだった。
「――」
「あ、シッ! 来た!」
学校に着くと、いつもと違う視線を感じる。不審に思いながらも席に着こうとすると、自分の机に違和感を感じた。
「……っ、」
私の机は隙間が無いくらいにびっしりと落書きがされていて、その内容のほとんどが私の容姿に対してのものだった。「外人」「巨人」だけならまだしも、「あばずれ女」「ビッチ」などとあることないことも書かれている。私を嘲笑う声があちらこちらから聞こえてきて、私は恐怖で立ちすくんでいた。
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「あの、今日も一緒に帰ろう?」
不意に声を掛けられ、身体が思わずビクッと跳ねた。あんなことがあってからはしばらく一緒に帰ることはなかったが、机に書かれていた内容からこれも要因の一つになるのだろう。黙って首を横に振ると、私は足早にその場を去った。
だが、どうやらそれも間違っていたようだ。
翌朝、教室に入るとまた嫌な空気を感じた。恐る恐る机に辿り着くと案の定また落書きがされているのが遠目でもわかり、恐怖に戦慄いた。書かれているものは前回と同じような内容ではあったが、たった一つだけ全く違う類の悪口を見つけた時、それが私の心を深く傷つけた。
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「京介はさー、顔や性格もいいだけじゃなくて仕事も出来るからなぁー。まー、そう思うのも無理ないよなー」
「い、いいいいや、だからっ、そんなんじゃ」
疋田さんはきっと、悪気があって言っているのではないだろう。真剣に捉えてはいけない、これは冗談で単なる話のネタに過ぎないのだということも理解しているつもりだ。だが、過去のトラウマが脳裏を掠めたせいで、嫌な汗が噴き出すとともに呼吸もどんどん荒くなり始め、制御するのが難しくなってきた。
「まーでも、あれだな。残念ながら京介はもう――」
これはかなりまずい。そう思った時、疋田さんの気が別の人に向いた事で難を逃れる事が出来た。
「リョーマ?」
「――? おう、楓じゃん。おはー」
「おはよ」
声を掛けてきたのは、疋田さんと同じ制服を着たとても綺麗な女性だった。髪をアップにし、長いまつ毛と赤い口紅が良く似合う。エレガントな佇まいなその女性は、誰が見ても美しい人だった。
「新しいバイトさん?」
「あっ、はい」
「私はレフィーノの大野 楓です。宜しくね」
「……はっ、ははははいっ」
ニッコリと微笑みかけられ、あまりの美しさに瞬きをも忘れる。自分の名前を名乗るのも忘れ、つい見とれてしまっていた。
「あっ、リョーマ。私、次長に呼ばれてるから料飲事務所寄ってから上あがるってマネージャーに言っておいて」
「りょーかい! んじゃ、またあとでー」
私は頭を下げながら再び台車を押すと、大野さんは私の左胸付近に一旦視線を落としてからニッコリと微笑んだ。
「また後でね、芳野さん」
店に戻るとスタンバイの続きを教わった。最初に言っていたジュースを絞る作業やオープン前の掃除がメインではあったが、何をするのにも緊張しっぱなしだった。パントリーでビールサーバーのセッティングを教わっていた時、カウンターの方から疋田さんを呼ぶ声が聞こえた。
「あ、やべ。もうこんな時間か。俺、今からブリーフィングだから、あとこの辺テキトーに掃除でもしといてくれる? もうすぐ他のバイトも出勤するし、あとはそいつらに聞いて」
「は、はい」
そう言って、疋田さんは行き来しやすいように纏められていたカーテンを解くと、そのままパントリーから出て行った。
また、誰かと挨拶しないといけないのか。しかも、今度は自分の事を知る誰かが傍にいるわけではない。自発的に自己紹介をしなければならないのだと思うと、一気に胃のあたりがキリキリと痛み始めた。
「はぁ。つら……」
溜息と共に愚痴を零した時、パントリーの反対側の入り口のカーテンが勢いよく開いた。
「あ、はようございまーっす!」
「おはようございます!」
「あ……お、おおおは――」
突如、背の高い男性と中背の男性二人が入ってきた。二人とも私と同じベストは着ているが、エプロンはつけていない。なんとなくだが、ここの制服での立場の違いなんかがわかってきた。
「うひょーほら! やっぱ女の子じゃん! ラッキー!」
「くっそー! 負けた!!」
二人はいきなりずかずかと目前までやってくると、布巾を握り締めている私の手を取ってぶんぶんと振り回した。
「!?!?」
「初めまして! 俺、中西 研二っていいます! 十九歳の大学生です!」
「は、はい。よ、芳野です」
「あっ、研二ずるいぞ! 次オレ!」
背の高い方の男性は、私の手を握り締めている男性の手を振りほどくと、次は自分の番だとばかりに私の手をとった。
「野呂 淳史です! 十八歳のフリーターです! 最年少です!」
「よろっ、よろし……く、お願いしま――」
「ふん、最年少だなんて言ってられるのも今の内だけだからなっ。せーぜー――」
「おいおい、俺がピチピチだからってやっかむなよ研二。それよか、賭けは俺の勝ちだ。今日ちゃんとジュース奢れよな」
あっけに取られていると、その二人は口喧嘩のようにあーだこーだと揉め始める。どうやら新しく入るバイトが男か女かで二人で賭けをしていたらしく、背の高い方の野呂さんがその賭けに勝ったらしい。次第に話がずれていって最終的に二人が何を言っているのかは良くわからなかったが、興奮した二人はどんどん声も大きくなっていった。
「だから――!」
「お前ら! うるせーよ!!」
「ひ!!!」
「「あっ、サーセン!」」
いきなり後方のカーテンが開いたと思ったら飯島さんが現れ、パントリー内の空気がピンと張りつめた。騒がしくしていた二人もこの人には逆らえないのであろう。みるみる笑顔がなくなり、背筋もピンと伸びた。
「今、ブリーフィングやってるんだ。うるさ過ぎて気が散るから静かにしとけ!」
「「はい! 申し訳ございませんでした!!」」
バイトの二人が直角に体を折り曲げると、二人を睨み付けながら飯島さんは踵を返した。
「――」
「……っ、」
去り際に、チラッと私の方を見たその目はやはり冷たく、一瞬で身体が硬直した。