5杯目:再会
物が乱雑に置かれた狭い通路を通ってカーテンを潜り抜けると、そこはまるで別世界の様であった。フロアは絨毯敷になり、半透明の大きな衝立が正面に現れる。左側を見るとまた別の趣となっていて、それはまるでワイン工場の様なインテリアに見えた。
入り口に立つ女性スタッフが私たちに気づくと笑顔で会釈する。野神課長も手を上げてそれにこたえていた。
「このフロアはメインバーと鉄板焼きのレストランがあってね。で、ここがその共通のキャッシャーね」
「は、はい」
先程の女性の制服は私とは少し違う。同じベストと黒のタイトスカートではあったが、彼女のベストは白と黒の縞模様であった。まるでワイナリーの様なインテリアからしてきっとここがメインバーなのだろう。と言うことは、きっと私は鉄板焼きのレストランへの配属になるんだとドキドキしていた。
半透明の衝立に沿って進むと、カシャカシャと言う音が聞こえてきてそれは近づくにつれ大きくなる。何の音だろうかと予想しながら歩いていると、どうやら入り口にたどり着いた様だった。
ここだけは大理石が施されているのか、私たちがそこに立つとコツンと靴の音が響いた。
「――? う、わぁ……」
中に入ると壁側一面に大きな窓が現れ、きちんと手入れがされた広い中庭が見える。丁度、夕日が沈む時間だったのか、生い茂る木々とのバランスが絶妙で圧倒された。
「お疲れ様です」
「お? お疲れさーん。お客さんは?」
「まだノーゲストですよ」
窓の外の景色に夢中になっていると、奥にあるカウンターの中にいる人が野神課長を見つけて話しかけてきた。ここは先ほどのメインバーよりも照明が格段に暗く、そこに誰がいるのかはここでは良く見えない。野神課長がその男性の方へ近づいていったので、私も慌ててついていった。
――。
「あれ? 麻生一人? 柳さんは?」
――ん?
「今全員食事行ってます。僕は早番だったので居残りです」
――んん!?
「あーっそう。……麻生だけに?」
「それ……、いい加減聞き飽きました」
――いた!!
野神課長が親父ギャグをかましていたが、全く笑えない程今この瞬間に驚いていた。目の前にいる男性は間違いなくあの時のハンカチの君。会えればいいのにとは思っていたが、まさかこんなに早くその機会が訪れるとは夢にも思わなかった。
「もうじき戻ってくるはずですよ。――? あっ、ほら、噂をすれば」
「あ、お疲れ様ですー」
「お、来た来た。柳さん待ってたよ」
私たちが入ってきた時と同じように、入り口から黒服を着た男性が現れた。かなり細身な身体のせいか大きな目はギョロっとしていてやけに鋭い。野神課長と話していても全く笑顔の見えない、見るからに厳しそうな男性だった。
もしかして、と言うか、多分絶対この人が私の上司になる人だろう。電話で話した時も感情があまり感じられない声のトーンだったので少し心配していたが、実物も思った通りの怖そうな人であった。
まるで捕獲された宇宙人の様な見た目のその人は、即座に野神課長の後ろに隠れている私を見つけた。
「あー、確か今日からのアルバイトの、えーっと?」
「よっ、芳野です」
「ああ、そうそう芳野さん。私はレフィーノのマネージャーの柳です。どうぞよろしく」
この人が私の上司になるという不安は的中し、声も発することができずに小さく頭を下げた。
「あー、柳さんちょっといい?」
「何ですか?」
野神課長は柳マネージャを連れて入り口へと向かい、こちょこちょと何やら相談を始めている。時折、柳マネージャーから「え?」と驚く声が聞こえてきたことにより、あまり良くない話を聞かされているのだとわかった。
なんだろう。私はやっぱり向いてないとかで辞めさせられるんだろうか。そうだったとしても、とりあえずこのハンカチの君にあの時のハンカチを返さなければ。そう思い視線を戻すと、カウンターの中に立つ彼は、何やら準備を始めているようだった。
カウンターの上に置かれた銀色のそれはきっとカクテルなんかを作るシェーカーで、その中に氷をどんどん詰め込んでいく。シェーカーを組み立て、身体を横に向けるとゆっくりとそれを振り始めた。先ほど聞こえていたカシャンカシャンという音の正体はこれだったのかと気づく。私がじっと見つめていても動じない彼の視線は、窓ガラスに映った自分を見ていて、一瞬ナルシストなのかとも思えるその行動は、どうやら自分のフォームを確認している様だった。
カシャンカシャンとゆっくりした動きから徐々にスピードを上げていく。しばらくすると、またシェーカーを振る速度が遅くなっていき、最後は両手を前にぐっと突き出してピタリと止まった。
そしてまた、幾度となくそれを繰り返す。私はいつの間にか、そんな彼の姿に目を離せなくなっていた。
「おーい、麻生。俺ちょっと事務作業あるから、芳野さんに一通り案内頼むわ。もうすぐ飯島来るし、気にせずそのまま行ってくれ」
「え″っ!?」
「あ、はい。かしこまりました」
入り口から柳マネージャーがひょこっと顔を出すと、すぐさまそこから立ち去った。
「じゃあ……、行きましょうか」
にっこりと柔らかい笑顔を見せられた途端、身体がカチンコチンに固まった。
「えーっと、まず一番上の階から順番にご案内しますね」
「は、はははい」
ハンカチの君の後ろを着いて歩く。黒いベストは私が着ているものと似ていたが、彼はさらに黒に近い濃紺のジャケットで細いストライプが入った上着を着用していた。ピンと伸びた背中には板か何か硬いものが入っているのかと思うくらいで、歩く姿も実にスマートだ。ずっと同じ歩調で歩き、磨き上げられた革靴がコツコツと音を鳴らしている。私はと言うと、履き慣れないヒールを履いているせいで歩き方も変になっていて、たかが靴音ですらレベルの差を感じて恥ずかしく思えた。
こんな状態で早足な彼についていくのは一苦労だ。エレベータホールに着くと、少しの休憩時間を手に入れた。
「ところで、蝶タイは持ってますか?」
「チョー……?」
「その様子じゃ渡されてないようですね。後で総務に寄りましょう」
そう言いながら二人してエレベータへ乗り込んだ。
二十二階のボタンを押すと、先ほどまではピシッとした立ち姿だったのが一変し、両手をズボンのポケットに突っ込みそのまま壁にもたれた。
「――」
「……っ」
ジャズが流れていた店の中とは違って、音楽も何もない密室。隣で突っ立っている私に視線が注がれているのが横目でわかった。ちょっとあんまり見ないでください。そう言いたくても言えないくらい、緊張感で張りつめていた。
「……その後」
「ひぎゃっ!?」
急に話かけられ、思わず変な声がでる。恐る恐る顔を上げると、無風な筈なのに何故か風が吹いたかの様な爽やかな笑顔で彼は微笑んでいた。
「怪我は大丈夫でしたか?」
「――えっ? 覚えて……?」
「勿論!」
大勢の人の中では決して見つけられないであろう私は、自他共に認めるどこにでもいそうな影の薄いタイプである。そんな私の事を覚えていてくれているなんて、と、感激していると、耳を塞ぎたくなる様な言葉を聞いた。
「足を踏まれた上に一緒に倒れ込んだと思ったら君は意識を失うし、しかも何故か僕の手を握って離してくれないなんて、忘れたくてもそうそう忘れられるもんじゃないよね」
「……いっ、……ぎゃーっ! そ、その節は……! そのっ、まっ、誠に申し訳ございませんでしたっ!!」
「いえいえ」と困った顔で笑うその姿につい目が奪われてしまう。涼し気な目元は笑うと少し垂れ目になり、目尻の皺が私に安心感を与えた。