2杯目:夢か現か
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「――」
目覚めるとそこは真っ暗な闇の中だった。わけもわからずしばらくじっとしていると、ここが見知った部屋の中であると知る。目の前にはつい先ほどまで夢中になって遊んでいたおもちゃ達が散乱していて、遠くの方からカチャカチャと食事の支度をしている音が聞こえてきた。
「……ふっ、……わぁ……ん、お母しゃ――、お母しゃん!」
急に寂しさを覚える。起き上がり、音のする方へと身体を向けるとパタパタパタと近づくスリッパの音が聞こえ、音が止んだと同時に襖が開いた。
急に明かりが入ってきた事に驚き、思わず目をつぶる。そろりと目を開けると、腰に巻いたエプロンで手についた水分をふき取りながら、その人はスリッパを脱いで畳敷の部屋の中へ入ってきた。
「あらあら央ちゃん、起きたんだねー。ごめんね、ぐっすり眠ってたから起こすの可哀そうだと思って、おばちゃんご飯作ってたんだよ」
「ひっ……、ひっく――、お、お母しゃ…、お母しゃんどぉこぉー!」
「お母さんはね、お仕事でちょっと遠い所にいってるのよ。寂しいけど少しの間だけ、おばちゃんと一緒にいようね」
どんなに楽しく過ごしていても一旦眠りに落ちると全てがリセットされてしまう。母が傍にいないことがたまらなく不安になり、遊び疲れて眠った後は、いつも伯母さんを困らせていた。
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「――」
また、あの時の夢を見ていた様だ。小さい頃の記憶はほとんど無いが、暗闇で目覚めてぐずるこの記憶だけは何故か未だに覚えている。時折見るこの夢は何かの暗示なのだろうか。この夢を見た後は決まって気分が落ち込んだ。
「―― ―― ――」
「―― ――」
どこからか誰かの話声が聞こえる。薄っすらと目を開けるとそこは見たことのない場所で、コンクリートむき出しのそれは恐らく天井だということがうかがえた。どうやら私は気を失っていたのか、近くにあったベンチで寝かされている様だ。冷たくてゴツゴツした感触で背中が痛いし、倒れた拍子に眼鏡もどこかにいったのだろう。周囲はぼんやりとしか見えなかった。
「……」
ひんやりとした空気の中でも、手のひらに感じる暖かな温もりが心地いい。可能なら、しばらくこのままでいたいとさえ思えた。
「あ、気が付いたかな?」
急にはっきりとした声が聞こえたと思ったら、涼し気な目元の綺麗な顔立ちをした男性が私の顔を覗き込んだ。先ほどかすかに聞こえていた声の主もきっとこの人なんだろう。とても透き通る、優しい声音をしていた。
「……。――っ!!」
「大丈夫ですか?」
完全に意識が戻ると慌てて飛び起き、ベンチの背に張り付いた。びっくりしたせいで心臓がバクバクと大きな音を立てている。心臓がうるさく鳴るのを落ち着かせようと胸元に両手を置くと、更にその男性にグイッと近づかれて恐怖で目を閉じた。
「……!!」
「あの、手が」
「え? ……ぎゃあっ!」
何故にそうなったのかわからないが、私はその見知らぬ男性の手をしっかりと握りしめていて、気付いていなかったとは言え胸元に置いていた。手のひらが暖かいと感じたのはこのせいだったのだろう。恥ずかしさのあまり慌ててその手を振りほどいた。
「あ、あああああのっ!?」
――あなた誰? 私は何を??
言いたい言葉は上手く声にする事が出来ず、餌を求める鯉のように、ただ、口をパクパクとしていた。
「ああ、良かった! 意識が戻って」
「!?!?」
「さっき、たまたまあなたのすぐ後ろを歩いていたんです。喫煙所にいた仲間が僕に向かって大声で挨拶したんで、びっくりされたんですよね。本当にごめんなさい」
明らかに失礼な態度をとったというのに、その男性は自分が悪いと陳謝する。ちゃんと私も謝らなければと思うものの上手く声に出せず、強張った顔でただゆっくりと首を振る事しか出来なかった。
「京介! そろそろオープンの時間だぞ」
「? ああ、すぐ行く!」
男性は腕時計を見ると、何かを思い出した様な表情を浮かべた。
「ああ、そうだ。これ落とされましたよ。――?」
「あ、あ、あ、ありがと……ござい――ま……すぅっ!?」
差し出された眼鏡を受け取ろうと恐る恐る手をのばすと、そのまま手を捕まえられた。驚きのあまりすぐにその手を引っ込めようとしたが、何故かはなしてはもらえない。人と、しかも異性と会話することなど殆ど経験がなかった私が、この短時間に一気に手を繋ぐところまで経験してしまったせいで完全にパニック状態。みるみる顔が紅潮していくのが嫌でもわかり、今すぐここから逃げ去りたい衝動に駆られた。
「少しすりむいてますね、血が出てる」
「あ、こ、ここれくらい大丈――」
片膝をつき、私の手を握り締めたその様はまるで王子様の様。恥ずかしいと思いながらもうっとりと見つめていると、いつの間にか私の手にハンカチがぐるぐると巻き付けられた。
「とりあえず、これで我慢してくださいね」
「あ、ありがとうございます……」
渡された眼鏡をかけると、もう安心だと思ったのだろう。目の前の男性はスッと立ち上がった。
「――」
黒い髪をキチンと整え、白いシャツに黒いベストを着たその姿はとても清潔感がある。おそらくこのホテルのレストラン部門の人だということは誰が見てもわかるだろう。ピシッと伸びた背筋の立ち姿に圧倒されていると、満面の笑みでその人は頭を下げた。
「では、私はこれで失礼します」
「……。――っ! は、はははははいっ!」
踵を返し、鉄の自動扉を抜けてその人は去って行った。