1杯目:初めての
オフィスの端にある狭いブースだと、照明が届かないのかなんだか薄暗い。ついたての向こうではひっきりなしに鳴る電話の音と出入りする人の声が聞こえ、どうにも落ち着かなかった。
今までの環境の事を思うとあまりに違いがあり過ぎる。持参したリュックを両手でしっかりと抱きしめて、意識が遠のきそうになるのを必死で耐えようとした。
手のひらやわきの下は勿論、額も薄っすらと汗ばんでいるのが嫌でもわかる。家にいた時には感じなかった心臓の音までドンドンと響き、その音が余計に頭を混乱させていた。
嫌だ、もう帰りたい。なんでこんなことをしてしまったのかと、私は既に後悔し始めていた。
「えーっと」
「……っ!」
目の前に座っている男性が急に喋りだすと、過度な緊張のせいでビクッと肩が上がる。その弾みでかけている眼鏡が少しずれ落ちた。
「中学卒業後は……通信制の高校に? アルバイトの経験は全く無しということでいいですか?」
「は、はははははいっ」
「郵便局とかも?」
「なっ、無いです」
訝しげな表情で履歴書に何かを書き込んでいる。何か問題があるのかと不安になりながらも、ずれた眼鏡のブリッジを指で押し上げた。
正直、中学もまともに通った記憶はない。中学二年生になり、夏休み明けの二学期が始まる頃から学校に行けなくなってしまったのだから。
通信制の高校は一週間に二日の登校日が決められていたが結局それすらも行く事が出来ず、全日自宅学習へのコース変更を余儀なくされた。だが、高校卒業の資格はあるし、それに求人には“高校卒業以上”との記載が確かにあった。だから問題ないはずだ。
何て言われるのかとビクビクしていると、「希望されている職種はありますか?」と聞かれて、またビクッと肩が上がった。
「で、でで出来ればその、洗い場で……」
「あー、洗い場さんは別会社の方が入られているんで、うちでは入れないんですよ」
「は、はぁ……?」
ピンと来ていなさそうな私を見て、手元にある私の履歴書やここにきてから書かされた資料に再び視線を落とした。
「十九歳とまだご年齢もお若いですし、レストランはどうですか?」
「い、いいいや、でも……」
レストランと言うことは接客をしなければならないのだろう。この五年間、ほぼ身内としか会話していない自分がいきなり他人とスムーズに話ができるわけあるまい。面接ですらこのザマなのに、この人事課長という人は本当に人を見る目はあるのだろうか。
「ほ、ほほかに、ひ、ひひひ人と関わらなくてもよい仕事を……」
言った手前、ホテルに面接に来たのだということを思い出す。人事課長の眉根がぎゅうっと寄ったのを見て、やってしまったと後悔した。
アルバイト情報誌を見て何社もエントリーし、今日初めて面接までこぎつけたと言うのに。いきなり失言してしまい、頭の中には不採用の文字が浮かび上がった。
「人と全く関わらない仕事はないよ? 一緒に働く人間だっているわけだし」
やれやれと言わんばかりに鼻で息を吐くと、椅子の背にもたれて腕を組んだ。さっきまでは敬語で話してくれていたのが急にため口に変わる。
「あのっ、いや、接客っていうのがちょっと自信が……。でっ、でも、家の事は働いている母の代わりにずっとやってきましたので、ひっひたすら人参を切るとかっ、ううう裏の仕事であれば――」
「キッチンに入るには調理師免許が必要なんだよね」
ああ。呟いたつもりの言葉だったが、声には出ていなかった。
「それかー、そうだな。宿泊部でチェックアウト後の部屋の清掃とかあるけど」
「あっ! そっ、それで」
誰とも関わらずに黙々と作業に没頭できそうだし、それならなんとかやれそうだ。一筋の光が見えた気がした。
「でも、チェックインまでの時間が限られてて何人かで一気に仕上げるからチームワークが必須になるよ。一緒に働くスタッフも三十代後半のお母さん世代から芳野さんのおばあさん世代になるし、そんな人たちと上手くやっていける自信ある? 洗い場もそうだけど派閥とかあるらしくて結構厳しいみたいだけど」
「はっ、派閥……」
「どうする? 客室清掃にする? それか、どうしてもスチュワード……ああ、洗い場の事なんだけど、スチュワードがよければまた日を改めて先方と面接の日程を決めてもらえるかな」
「えっ」
どっちを選んでも私にとっては地獄に等しい。だけど、また別の会社に連絡して履歴書を書いたり送ったりのやりとりをして面接を受けなければならないと思うと、一気に拒絶反応が出る。客室清掃もやっていける自信はなかったが、とりあえずこの場から逃げられると思うとそれを選択せざるを得なかった。
「では、今日はお疲れさまでした。採用になった際には明日中にこちらから電話連絡します。明日中に電話が無ければ今回はご縁が無かったと言うことで」
「はっ、ははははい、わかりました」
事務所を出たところで挨拶を交わした後、出口に向かって歩き出した。一気に力が抜けて頭の中が真っ白になっている。とりあえず早く帰ろう。結果がどうであれ、私はここまでやることが出来た。ここがダメでもまた次があるさと、来たときとはまるで違う軽い足取りで歩いていた。
「あれ? ここは……?」
気を緩め過ぎたせいか、どうやらこの広い館内で迷ってしまったみたいだ。キョロキョロしながら歩いていると、横を通りすぎた時に自動で開いた扉から冷たい空気が流れ出た。ふと、中を覗いてみると薄暗い場所にトラックが何台か停まっていて、奥の方には外の明かりが漏れているのが見える。入ってきた所ではないけれどきっとここからも外に出られるだろう。その明かりが漏れる出口の方へ向かおうと、短いスロープを降りた。
スロープを下り角を曲がる。ふと、もうもうと白い煙が上がっていることに気付き、通りすがりに何気なくのぞきこんだ。
「――。……ひっ!」
するとそこには、数人の男性がビールのラックとおぼしきものを逆さまにしたものに座っていて、手には火のついたタバコと缶ジュースが握られている。人の気配を全く感じなかったせいで、普段なら絶対近寄らない類の人達と目が合ってしまい、慌てて立ち去ろうとした。
と、その時、
「「「お疲れ様ーっす!」」」
「――!? ぎゃあっ!」
一斉に大声を出されて一瞬体が浮いた。奇声を発したと同時に後退りすると、先程迄は無かった何かを踏んづけてしまいバランスがとれなくなる。
「やっ……! こ、こけっ……!?」
「うわっ!」
冷たいコンクリートに倒れこむ瞬間、私が踏んづけたのは人の足で、しかもその人を巻き込んでしまったのだと知り、かろうじて保っていた意識は徐々に遠退いていった。