10杯目:Tanqueray(タンカレー)
「ナカバ! ピスタチオだけのナッツとカウンターナッツ宜しく!」
「はっ? は、はははい」
初回だからとパントリー内での業務を任されたものの、汚れた食器を洗い場に出しに行ったり、ナッツやチョコレートなどのおつまみの類のオーダーが次から次へと入るせいで全く息つく暇もない。最初の方こそ中西さんが一緒についていてくれたが、ものの三十分もすればフロアが忙しくなったようで大野さんに呼ばれて行ってしまった。
カーテン越しでもザワザワとしたフロアの雰囲気が感じられ、カシャンカシャンとシェーカーを振る音がひっきりなしに聞こえる。出来上がったナッツを届けるためにフロアに出る度、テーブルが人で埋まっているのがわかった。
「ピスタチオだけのナッツって……、こんな感じでいいのかな」
よくわからないままに出来上がったピスタチオだけのナッツ盛りと、カウンターに座る人のみに出される少量のナッツをトレーに乗せると、カーテンをくぐった。
「――? お、お願いします」
「ありがとうございます」
カウンターの端っこに小さなナッツを置くと、それに気づいた麻生さんが近づいてきた。ペコリと頭を下げると今度は反対側のカウンターとフロアの間にある、お客さんに出すお皿やナイフやフォーク、各テーブルの伝票などが置いてある“ステーション”と呼ばれる場所へと向かった。
「お願いします」
「ありがとうございますっ」
そこには中西さんがいて、注文を受けた内容を伝票に書き移している。何やら難しい顔つきをしているなと思いつつナッツをステーションの上に置こうとした時、チラッと目に入った文字に驚愕した。
「え、英語??」
しかも、筆記体で書かれているから何が何やら全くわからない。他のテーブルの伝票も、全てミミズが這っている様な綺麗な文字で書かれていた。
「ん? ああ、そうだよ。伝票はオンテ……、テーブルに置いておくから綺麗に書かないといけないんだ。雰囲気が大事だから伝票は日本語禁止」
「ええーっ」
「今は“タンカレー”のスペルが思い出せなくて、苦労してるとこ」
そう言うと、困った顔つきで中西さんはニカッと笑った。
「へー……」
雰囲気を大事にしてると言う割に、“牛タンのカレーライス”なんかがあるなんて変わってるな、と首を捻った。
パントリーへ戻るために、カウンターに座るお客さん達の後ろを再び通る。ふと、シェーカーを振る音が聞こえてきてカウンターの中に目を向けると、シェーカーを振っていたのは疋田さんで、その横では麻生さんがボトルをカウンターの上に出したり片づけたりしながらお客さんと談笑していた。
「――」
大きな窓から見える夜景をバックに見る二人は、とても格好良く見えた。
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「ナカバちゃん、もう十時になったからそろそろ上がって」
「あ、はい」
反射的に時計を見ると、いつの間にか帰る時間になっていたのだと知る。大野さんはそう言うと、「今日は大変だったね、お疲れ様」とねぎらいの言葉と共にニッコリと微笑んで、再びフロアへと戻っていった。
「えっと、帰る時も皆に挨拶してから帰るって言ってたっけ」
出勤時と退勤時は、接客中のスタッフ以外は極力挨拶するようにと教えられた。カウンターにいる疋田さんはお客さんと話していたから挨拶できなかったが、ステーションにいた中西さんと野呂さんには挨拶することが出来た。入り口に立っていた大野さんにキャッシャーにいた柳マネージャーにも挨拶したが、麻生さんの姿だけが見えない。
「あの、麻生さんは?」
「麻生はもう上がったぞ? あいつは中番だからな」
柳マネージャーにそう言われ、じゃあもういっかと勤怠を打ちに事務所へと向かった。
「? あっ、お、おつ、お疲れ様です」
「あ、お疲れ様です。終わりました?」
「はっ、はははい」
既に帰ったと思っていた麻生さんが事務所にいて、事務処理をしているのかデスクでパソコンを触っている。ジャケットを脱ぎ、キチっとしめていたネクタイは緩められていてシャツのボタンもいくつか外されている。完全に終了モードの麻生さんを意外に思いながらも、デスクの横にある勤怠専用のパソコンで退勤の入力をした。
「あの、で、では――」
入力を終え、帰りの挨拶をしようと麻生さんの方を向いた。
「さて、じゃあ帰りましょうか」
「え? ……あ、はい」
麻生さんも丁度仕事が終わった様で、ノートパソコンをパタンっと閉じると椅子に掛けていたジャケットを取って立ち上がった。そのままエレベータに二人で乗り込み、麻生さんはジャケットを腕に引っ掛けながら手をポケットに入れ、背中を壁に預けていた。
鉄板焼のランチの後にメインバーをやるこのシフトは、慣れている人でもきっとキツいのだろう。少し乱れた髪のせいもあってか、かなり疲れている様に見えた。
「確か――」
「っ!」
急に喋り始めてドキッとする。トロンとした目で見つめられると直視することが出来ず、前で組んだ自分の手元に視線を落とした。
「芳野さんのお家はT区でしたっけ?」
「――? あ、は、はい」
「今日は電車で?」
「はい、そうです。――? あ、すみません」
エレベータの到着を知らせる軽い音が聞こえると、麻生さんが扉を抑え、私に先に降りる様に誘導された。どこまでも紳士なのだなと感心しながら、更衣室までの廊下を二人で歩いた。
「で、では」
「はい」
更衣室の前に到着し、今度こそと頭を下げると、お互い更衣室へと入っていった。
「つ、疲れた……」
ロッカーの前にある長椅子に倒れ込むようにして座り、ひとりごちる。足はパンパンだし履き慣れないパンプスも痛い。気が張っていたせいか肩こりもひどいし背中や腕も痛いと、たった数時間で身体中が悲鳴を上げている。大した仕事はしていないはずなのにこんなにも疲れるなんて、これから先が思いやられる。
「お金を稼ぐって、大変なんだなぁ……」
今まで当たり前の様にお母さんに頼りきっていた自分が、本当に恥ずかしく思えた。
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「――? ……あっ」
更衣室を出ると、私服に着替えた麻生さんが壁にもたれながらスマホをいじっていた。黒いジャケットとTシャツにベージュのパンツという出で立ちは、身長が高くスタイルもいいせいかとても様になっている。制服姿も素敵だけど私服姿も爽やかさ満載の麻生さんに、瞬きをするのも忘れていた。
「あ、良かった。先に帰っちゃったのかと心配したよ」
「――。……え? あ、その……、疲れすぎて、一度座ったら動けなくなって」
思わず本音を言うと、「そりゃそうだよねー」と麻生さんは笑っていた。
「――」
もしかして、待っていてくれたのだろうか。いやそんなまさかどうしてと頭が混乱しつつ、二人で薄暗い廊下を歩く。出口に向かうのかと思いきや、麻生さんは廊下の途中にある扉を開けた。
「こっちだよ」
「は、はい」
この扉は一体どこに通じる扉なのだろう。もしかして地上へ出る近道とか?
キョロキョロと辺りを見回している私に気づいた麻生さんは、「ああ」と呟くと、
「僕、車だから。家まで送るよ」
と、手に持った鍵を見せながらニッコリと微笑んだ。
【Tanqueray】
イギリスで製造されているジンのブランド名。4回の蒸留により生み出されるすっきりとした味わいが特徴でアルコール度数は47.3%。
その味は「ジンのロールス・ロイス」など様々な呼び方で称賛されており、ジョン・F・ケネディが愛したジンとして知られる。
※牛タンのカレーではありません。
【オンテ(On The Table)】
テーブルの上に置くの意
使用例)
「この伝票オンテしといて」等




