9杯目:大人の事情
その後、飯島さんにこっぴどく叱られたバイト二人は急に大人しくなり、一切無駄口をたたかず静かに作業している。シンとしたパントリーの中で少しの息苦しさを覚えつつも、ものの五分もすると疋田さんが呼びに来て早番の私は先に食事に行くようにと言われた。
パントリーの隅の方には小さなロッカーがある。普段はそこに貴重品を置いているから、良かったら使ってくださいと中西さんに教えられた。
「ナカバは食券持ってる?」
疋田さんに聞かれ、そう言えばそんなものを渡された気がするとポケットを探る。
「は、はい。これですか?」
「そそ。んじゃま、行こっか。――先飯頂きまーす」
「「いってらっしゃいませ!」」
「……っ!」
さっきまで静かだったバイト二人が急に大きな声を出したせいで、声こそ出なかったが代わりに身体がビクッと大きく揺れた。
まだドキドキする心臓をおさえながら二人してエレベーターホールへと向かうと、先ほど地下で会った大野さんがエレベーターの前にいた。……もしかして、今からこの三人でご飯を食べるのであろうか。家の中ならともかく、外で一人で食事をしたことなどなかったから誰かが一緒なのは心強いが、いきなり初対面の人と食事するなんてレベルが高すぎる。しかも、まだ夕方の五時だというのにご飯なんか食べられそうにない。本音を言うと食べなくていいと断りたかったが、言い出せない私は渋々二人についていくしかなかった。
地下にある更衣室の奥を進むと、どうやら従業員食堂があるらしい。そこは既に大勢の従業員が食事をしていて、着ている制服も様々だった。
疋田さんと大野さんは慣れた感じでトレーと箸をとり、プラスチックのコップに水を入れている。見よう見まねで私も同じようにしてみたが、たかがこれだけだというのに変な動きをしてやいないかと心臓がバクバクと音を立てた。
「私はAにしよっかな」
「うーん、オレもA! ナカバは?」
「えっ!?」
Aってなんぞ!?
メニューなんてどこにあるのかとキョロキョロとあたりを見回していると、カウンターの向かい側から大きな声が聞こえた。
「Aはメンチカツ定食で、Bは鯖の塩焼き定食だよ。それ以外だったらうどんね」
「は、はい、――で、では……び、Bで」
「あいよ!」と、威勢のいい掛け声を合図にテキパキと準備を始める。あっという間に三人分の食事がトレーの上にポンポンと置かれ、あまりの手際の良さに感激した。
「んーっと、どこが空いてるかなー?」
「おっ、京介いるじゃん」
「――っ、」
その名前を聞いた途端、先ほどのやりとりが頭に浮かんだ。また疋田さんに何かいらぬことを言われるかもしれない。さっきはたまたま大野さんが声を掛けてくれたお陰でそれ以上何もなかったからいいものの、今度また同じ様な事を言われたらうまく対処できる自信がない。麻生さんのいる席に向かう二人の後ろをついて歩きつつも、キュウっと胃のあたりが痛むのを感じた。
「京介お疲れー」
「ああ、お疲れ様」
四人掛けの席に疋田さんと大野さんが並んで座る。必然的に私は麻生さんの隣に座る格好となってしまい少し躊躇していると、私に気づいた麻生さんが椅子を引いてくれた。
「あっ、す、す、すみませ」
「いえいえ。お疲れ様です」
挙動不審気味に隣に座ると、私のトレーをじっと見つめている麻生さんの視線を感じた。
「B定?」
「へ? あ、は、はい」
「僕と一緒ですね」
「? ……あ」
そういう麻生さんのトレーを見ると、食べかけの鯖の塩焼き定食が乗っていた。
「京介は中番だっけ? 華翠今日どうだった?」
華翆というのはレフィーノの隣にある鉄板焼きのレストランで、中番の人は華翆で仕事をしてからレフィーノで働くシフトになっているらしい。華翆ではワインなんかが良く出るからバーテンダーがいると恰好がついて丁度いいそうだ。
「んー、ボチボチかな。まぁでもシーゾナルが出たからランチにしては売上良かった方。一本だけだけどモエも出たしね」
「へーそうなんだ! すごいね」
「橋田チーフご機嫌だったんじゃね?」
三人はおそらく今日の営業の話をしているのだろう。鉄板焼きの事もわからなければ会話にカタカナが多く、何を言っているのか全く理解できそうにない。だが、私はそれでいいと思っていた。なのに、
「あ? ナカバついてこれてる?」
「えっ? い、いえ、全然。でっ、でも大丈夫です、私の事はお気になさらず……」
疋田さんはそれを察して気に掛けてくれるが、出来るだけ会話に混ざりたくない私にとってはその気遣いが有難迷惑。そっとしておいてほしいのに、みんなの意識は私に集中した。
「へー、ナカバちゃんっていうのね。かわいい名前」
大野さんも気を遣って話掛けてくれる。麻生さんもうんうんと頷いていた。
「楓もいい名前じゃん」
疋田さんがそう言うと、私も含めてみんなが頷いたが当の本人はあまりそう思っていなかった様で、くっと眉尻を下げた。
「えー? でもなんだか忍びみたいじゃない?」
「ぷっ! 忍びて! 楓って自分の名前の事そんな風に思ってたのかよ」
「あー、確かに楓はくノ一っぽいね。背後から襲われそう」
「あー、京介酷い! もうね、京介は人当たりよさそうな顔してる割に結構ズバズバ言うから、気を付けてねナカバちゃん」
「は? え? あ、はははい」
あはは、とみんな笑っている。家族以外の人達と一緒に食事をするなんて殆どしたことがなかったけれど、思っているより楽しいかもしれないと思い始めてきた。
「さてと、僕は先に行くね。早く戻らなきゃ光典が上がれなくて怒るから」
「ありえる。いってらー」
いつの間にか食べ終わっていた麻生さんはそう言うと、食堂の人に「ご馳走様でした」とキチンとお礼を言ってから食堂を後にした。
「あの」
「んー?」
「光典さんって……?」
ここのスタッフは全員挨拶を交わしたと思っていたが、もしかしたらまだ他にもいたのかも知れない。自分から話しかけるのは勇気がいったが思い切って聞いてみた。
「あー、飯島さんのこと」
「あー……」
やはりそうだったか。いくら仲良しだとは言え、一番偉いであろうマネージャーを下の名前で呼び捨てにしないだろうし、一通り挨拶した中で下の名前を聞かされていないのは彼だけだと思うと、消去法で飯島さんの事を言っているのだとわかった。しかし、レフィーノのスタッフの関係性が良くわからない。麻生さんと疋田さんと大野さんは名前で呼び合ってるのに、疋田さんは飯島さんに敬語で話していた。どういうことかと頭の中で考えていると、私が何を考えているのかわかったのか疋田さんが説明してくれた。
「俺と楓と京介は同期なんだ。で、京介と飯島さんが同い年」
「はぁ……?」
いまいちピンときていない私に、大野さんが更に詳しく説明してくれた。
「私とリョーマは専門学校卒の三年目で二十三歳、同期の京介は大卒の三年目で二十五歳。飯島さんは高卒の七年目で二十五歳。で、京介と同い年ね」
「あーなるほど」
「ちなみに、柳マネージャーは去年中途で入ってきたから、何気にここでは一番新人だったりする」
「へー!」
あまり良くわからないけれど、二人に対する疋田さんの態度を見るからに、少し複雑な関係性だったりするのだろうと推測する。三年目の麻生さんはアシスタントマネージャーと言っていたが、七年目の飯島さんのメインバーテンダーと言うのとどっちが上なんだろう。
「あの」
「お? まだ何か気になることでも?」
「あ、あああ、いえ、その……」
「もう、リョーマはいちいち言い方が腹立つ」
「ええー?」
大野さんが間に入り「なんでも聞いてね」と優しく微笑んだ。
「あの、――アシスタントマネージャーとメインバーテンダーってどっちが上なんでしょうか」
そう尋ねた瞬間、二人とも急に顔が硬直した。
「おおっと、そうきたか」
「そうね、そりゃあ気になるでしょうね」
にこやかだった表情が一気に真顔に変わる。少しの間、二人で目を合わせて無言で相談するかの様にうんと一つ頷いた。
「メインバーテンダーっていうのはキャプテンで、一般企業でいうところの主任なの。アシスタントマネージャーはいわゆる係長ね」
「てことは――」
「ナカバ!」
七年目の飯島さんより三年目の麻生さんの方が立場が上なのかとわかったその時、箸をなぶっていた疋田さんが私の顔の前にその箸を突き出した。
「ここで長く働きたいと思ってるなら、そこから先は口に出すのはよした方がいい。お前にはまだわからないだろうが、まぁ、あれだ、大人の事情ってやつだ」
「は……、はははい!」
「わかったならさっさと食え」と言われて、私は慌てて掻き込んだ。
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食事を終え、疋田さんは残りの時間をタバコ休憩で使うらしく、足早に去っていった。タバコを吸うこともなければ知らないところで一人で過ごす術を持たない私は、残りの時間一体どうしたらよいのだろう。とりあえず、大野さんと一緒にロッカールームに入ると、ここでもまた思っていることが顔にでも出ていたのか「あまり人が来ない休憩室があるから」と声を掛けてもらった。
エレベーターで十九階まで上がり、以前は客室だったという物置部屋へと到着する。部屋の半分以上は客室で使用されていたであろうベッドや枕などが山積みされていて、端のほうにある大きな窓の前には長いソファーと丸いガラスのテーブルが置かれていた。
「わぁ……」
いつも部屋の中に閉じこもっていたせいか、十九階から見る夕暮れはとても感傷的にさせられる。まるで小さな子供のようにソファーの上に膝立ちになり、窓から見える景色を眺めていた。
「ナカバちゃん、リョーマのこと嫌いにならないであげてね」
思いがけない言葉に聞き間違えたかと耳を疑う。大野さんは窓から見える景色はとうに見慣れていて興味がないのか、背中を向けて隣に座った。
「えっ?」
「地下で初めて会った時、ナカバちゃんの表情がすごく強張ってるのがわかって思わず声を掛けたんだけど。なんか嫌な事言われたんじゃない?」
「あ、いえ。……はい」
あんな一瞬でそこまでばれていたんだということに、驚きを隠せない。最初は否定したが、どうせそれもばれているだろうと思い素直にそう言うと、大野さんは「やっぱり!」と言った後に大きなため息を吐き、額に手を当てて項垂れた。
「あの子、ちょっと人の顔色を読めないところあるから。ごめんね、悪気はないの」
「あ、いえ、だ、大丈夫です」
「一応気を付けてみとくけど、また嫌な事言われたらすぐに私に言ってね。懲らしめてあげるから」
「――はい。ありがとうございます……」
なんでここの人はまだよく知りもしない私なんかにこんなに良くしてくれるんだろう。今の今まで外に出るのが怖かったのが嘘の様に、少しづつ居心地が良いものだと感じていた。




