ステキな靴
俺は今日、一足の靴を買った。
立ち止まり、じろじろと眺め、持ち上げては降ろし、値札をめくる。ATMに駆け込んで、わざわざ金をおろす。
「二万四一五〇円になります」
おいおい、聞いたか? たかが靴が二万越したぞ。
今まで買った中で、間違いなく最も高価。
「これは一点ものの靴ですからね、彼女さんが羨ましいです。プレゼント用のラッピングをかけましょうか?」
いいや、やめといてくれ。地球資源の無駄だから。
箱のままもって帰るよ。自転車のかごに入らないから、まぁバスにでも乗ろう。
「今月はもう何も買えんぞ」
自宅に帰って一声。
最新号の雑誌の上、鎮座した靴に言ってやった。
まだ一度も履いちゃいないが、埃まみれの床に置く気にはなれなかったのだ。
室内に靴があるなんて、なんだかおかしな感じもする。
ふわふわとしたファーの口元、編み上げの紐は皮製で縛るのに苦労した。
つま先をなぞる白の縁取りに、コントラストを強調する黒とこげ茶のボディ。
「うん、ここが一番のチャームポイントだよな」
軸に沿って、これまた白いうさぎ毛ライン。
膝丈に達しないくらいの“カワイイブーツ”。
それが今日の買い物。
「お前二万もしたんだからな、名前は……そうだな、ニマにしよう」
かたっぽを持ち上げて、そう命名した。
風呂上がり、洗面台の前でもう一度ニマを眺める。鏡があるのはここだけなのだ。
「よっ、はっ」
右足を上げ、無理な角度になることを承知で足を通した。
ニマを傷めぬよう出来る限り気を遣ったが、本当はすぐにでも履いてしまいたい。
そんな気持ちを抑え……の、つもりだったが、口元のファーの部分に手をかけていたら、すこし毟れてしまった。
「むむ」
緩めた編み上げを調節して、きゅっと締め上げればしっかりとした安定感がある。
そのまま足を付いたら、カカトが高いのがやはり気になった。
「慣れないと……な」
だらしなく歩けば、それだけニマの寿命が減る。
左はあっさりと済んだので、今度は洗濯機と洗い場にそれぞれ手をついた。
「ふー……」
一呼吸置いたあと、力をこめて下半身を持ち上げる。
臍から上の高さしか映し出さない鏡に向かい、思い切り足を差し出した。
「おっ」
苦しげな顔が、一瞬にして喜びに染まる。
ああ、すっげぇカワイイ。
ず―ガッゴン
思わず手が滑ったが、今は充足感のほうが勝ってる。
「これに似合う服を探さないと」
翌日、引出しをひっくり返したが、ニマに似合う気の効いたデザインのものはなかった。
「着合わせでなんとかするか……」
と、口にしてはみたものの、地味なものをいくつ重ねてみたところで変化は起こらない。
まぁ、服がどうとかって問題でもないけれど。
「せめてもうちょい垢抜けたもんがあれば……」
携帯を引き寄せ、迷ったあげく弟にコール。
「なぁ、お前の服貸してくんねー?」
弟は、二つ返事でOKを出した。
「来たぜ、兄ちゃん」
日が傾いた頃、サンタクロースよろしく袋をかかえた状態でのご登場、
「さっそく始めよう」
二人で部屋にこもり、ニマをみながら服の取り合わせを考える。
それこそ長い間真剣に。
「兄ちゃんダサダサだな」
「うっせぇ」
「でも、このニマだっけ? これはすげぇいいと思うよ」
「……うん」
弟に言われるまま、様々な服に袖を通しまくった。
短時間にこんなに着脱を繰り返すのは初めてだ。
正直しんどい……。
「これコムサで買ったチノパン。ブーツの中に裾しまって」
「ん」
「DKNYのシャツなんてどう?」
「いいかもな」
「あとは黒のハーフコート!」
「なんでも持ってるなおまえは……」
で、で、で。
「おおっ、兄ちゃんかっこいい!」
弟が用意した鏡(車に積んできたらしい)の前で、くるりと身を翻す俺。
もちろんニマは装着済みだ。白い縁取りの鏡面で、彼女は楽しげに踊っていた。
「ありがとう」
急に居づらい気分になって、ぽりぽりと頬を掻く。
今の格好は、自分で言うのもなんだかすごくイケてる。
もう完璧。
しかし弟はちっちっちと指を振った。
「仕上げにこれを被らなきゃ」
ぐいとかぶせられたのは、ファーにあわせた新雪を思わせる色。布に余裕のあるベレー帽。
昨日こさえたこぶが痛むけど、これもすんげぇ……イイ。
「ああ、やっぱ似合う」
「そっか?」
「本当だよ、これで街を歩いたらホストにスカウトされるかも」
「それはどうなんだ……」
「あはは、冗談だよ、冗談」
弟が後片付けをする間、ずっとずっと鏡を見詰めていた。
これ、本当に俺なのかな……。
なんだかカッカする。ファーに覆われたふくらはぎが熱い。
こんな俺をおかしく思わないのか、弟は終始にこにこと笑っていた。
「せっかく服もきまったんだからさ、これから外に飯食いにいこうよ」
「え、でも今金ないし……」
そう返事しながら、街灯のかがやく街並みを想像する。
「いいよいいよ、今日はおごるから」
***
人通りも少ない、深夜の街。
数件の居酒屋を回った後である。
カカトの高いニマはやっぱり歩き難かったけど、弟はさり気なく支えてくれていた。
「兄ちゃん歩くの下手だね。これじゃあすぐにヒールがダメになっちゃうよ」
「そうだよな、どうしよう」
「何深刻な顔してんの、そんなときの修繕でしょ」
ばんばんと背中を叩かれた。やめろ、靴底が磨り減る。
「おまえ酔ってるな」
「んー? そおんなことないね」
弟は数歩前へ歩くと、ぐわっと両手を広げ、空を仰いだ。
通りのシャッターは閉まっていて、寂しげな空間には何も無い。
「兄ちゃん」
「……」
「その格好、すごくカワイイよ」
じくっと、頭のこぶが痛んだ気がした。
靴は、履いて歩けば削れていく。
でも、このまま履きつづければきっと、磨り減らない歩き方を見つけられる。
「慣れないと……な」
見上げれば―
空は重く垂れ込め、今にも白い雪をふきこぼしそうに見えた。