矛盾と純粋の狭間で。
「かえるのうたが聴こえてきたぞ。ぐわ、ぐわ、ぐわ、ぐあ、げげげのげのぐわ、ぐわぐわ」
ちょっと疲れてる鏡の中の私。歯磨きオーケー。歯ブラシオーケー。睡眠不足はさておき。さて、行きますか。昨日、スーパーで買い物をしていたら、レジで阪神タイガースの帽子をかぶった男の子に言われた。
「お姉ちゃんの目って窮屈な目をしてないね。のんびりした目をしてる。最近の大人の人って目が窮屈そうで嫌なんだ」
「そうなの。ありがとう」
「俺、卓球部、小林大輔。お姉ちゃんはなにをしているの。仕事とか」
「私はそうだな。色屋さんかな」
「色屋って。なんの仕事なの」
レジのおばちゃんがにこりと笑って大輔くんに目を向けた。
「お姉ちゃんは画家さんなんだよ。凄いでしょ」
「画家さんは色屋さんって呼び方もあるんだ。知らなかった」
窮屈な目をしていない。難しいけど、なんとなく分かるような気がする。絵の世界もそうである。歳をとると絵が窮屈になる人もいる。私は確かに画家である。でも絵で食べているというわけではない。いつかはそうなればと良いなとは思うぐらいで賞は獲ってはいるけれどコンテストにかかるお金。審査料に絵の運賃。絵の具代。キャンバスや額縁。正直言って元は取れない。色屋と私のことをいったのは私が通うアトリエの師匠、飯永先生。私の色の作り方を師匠は褒めてくれた。独特の色を作ると師匠は私に言った。
「お姉ちゃん、絵、頑張ってね。俺、卓球、頑張る」
「ありがとう。またね」
キャンバスを自転車に乗せる。何故だろう。溜め息一つ。少し疲れてるのかな。ま、それだけ頑張ってる証拠でしょう。昨日、ナカイクレパスさんに出品した作品の入選通知が来た。嬉しかった。五年連続入選。使った色は、赤と青と黄色と白。キャンバスの中央に赤い瞳と青い瞳を描いて、黄色と白で作った色をバックに使った。絵は料理に近い。こしょう、塩、砂糖、マヨネーズ。沢山の調味料と例えばステーキを焼くように鍋を炊くように成り立っている。
「おはようございます。今日も陽子さん、アトリエに行くんですか」
いつも走る道沿いの交番の駐在さんがニコニコと笑っている。彼とは以前、働いていた工場で知り合った。駐在さんには辛い過去があった。大学を出てから銀行に就職したがお金を触っていると気が狂ってしまう。という理由で銀行を辞めた。私と知り合った工場でも誰とでも上手くやれない臆病者そのものであった。そして、精神を病み三年程ひきこもりの生活を送っていた。私が気晴らしに映画へ誘った。ぶるぶると震える彼の手や表情をその日、映画館で私は何度も目にした。飛行士ものの映画であった。その夜、彼の家まで送って行った。帰りの車中で彼は、「制服を着てみたい」と助手席で呟いた。そして、警察官の試験を受け合格した。今ではもう、以前の彼とは別人。優しく正義感の強い駐在さんである。彼をからかってみる。
「でさ、あんた少しは私に感謝してるの」
「はい。勿論です。陽子さん、今度、ご飯一緒にどうですか」
「変わらないね、あんたって人は」
「陽子さんのファンですから」
「髪の毛薄くなったね。駐在さん」
「それだけ頑張ってる証拠でしょ。制服かっこいいでしょ」
「それだけがあんたのとりえだね。あんたをからかってるとほんとに面白いよ。じゃ、今日も街の平和の為に頑張って」
「いってらしゃい。師匠によろしく」
「はい。じゃあね」
彼は本当に面白い。憎めない奴だ。趣味で俳句を作っていて投稿もしている。出世に興味なし。キャリアにはなりたくない。彼の夢は貯金してフェラーリに乗ることだとか。雨が降るとこの交番で私は時々雨宿り。私は車を売っちゃったとこだし、あと二カ月ぐらいは絵だけに専念できる。
人というのはなんだろう。人はどう成り立っているんだろう。私は夜中に時々こんなことを考える。独り言をぶつぶつ言いながらテレビを観て横になって。師匠は私にこう言った。
「心を病まないと絵は描けません。良い意味でどんどん病みなさい」
私は以前、自主映画の監督をしていた。そこで、絵コンテを描けるようになりたいと思い、アトリエを探し、師匠に弟子入りをした。小中といじめられっ子だった私を支えたものは映画と絵である。学校には勿論行かない。家の中では毎日のようにお母さんとおばあちゃんが口論。中学になると一つ年下の妹はシンナー中毒になり、私はこそこそと部屋の中だけで昼夜逆転したひきこもる生活を送っていた。小学生の頃、まだ妹と仲が良かった頃である。私とお父さんと妹の三人でとある画家の個展を観に行った。衝撃的であった。今でもくっきりと覚えている。絵の中で花火がドカーンと音を響かすように描かれていた。その日、魅せられた私はお父さんに色鉛筆とクレヨン、画用紙をおねだりした。そして、毎日のように、深夜は映画を観て、私は絵を描く。その頃の私は、とりつかれるように花火の絵を描いていた。楽しかった。朝に寝て夜に生きる。自己分析すると私はセックスや母体を求めて描いている。サイコパスであるとか。師匠の言葉。「良い意味で病みなさい」が今、私の中で少しは達成できていると思う。
二十歳の時、映画を撮った。かなり、考えた。悩んだ。叱られた。私と一緒に編集をしてくれて主演までやってくれた美穂は一番の友。私はファッション性を重視した。映画というよりはプロモーションビデオに近い。15分間の中で何が出来るのか。何を表現出来るのか。を美穂やその頃、役者やスタッフを頼んだ友達と探った。勿論、行き違いやもめごとというのは頻繁に起こるものだということも学んだ。私に無いものを美穂は沢山持っている。映画で使った音楽も美穂が作ってくれた。私が初めて監督した映画は、美穂があらゆる場所で階段を降りる。歩道橋、駅や公園の階段を美穂が降りる。舞い降りる。女神が舞い降りるという設定にした。ワンカットごとに美穂はあらゆる衣装を着る。全てのカットで美穂はあらゆる女神を演じてくれた。しかし、我々は惨敗。完敗もいいところだった。ある映画祭に出品をして、他の監督、団体とはレベルが違った。結局、審査員のプロの映像作家さんに、お叱りを受けた。
「心がない。人間とロボットの違いがお前達には分からないのか。人間はロボットではないんだよ。役者もスタッフも人間なんだ。人間のお話が映画であり芸術なんだ。きれいな姉ちゃんときれいな景色だけで映画は撮れないんだよ」
映写室から私と美穂が観た私達の映画。こんなに大きな贅沢の後で予選敗退はきつかった。人間のお話。相反するようにアトリエでの日々は心地が良いものになっていく。
師匠との初対面。初めて、アトリエで交わした言葉。
「映画ですか。僕も映画はよく観ますよ。最近の映画というのは作っているほうが楽しいといった映画が多いですね。お客さんのことよりも自分のこと。自己満足に走らないようにしてくださいね。今日はのんびりデッサンしていってください」
第一印象。目が優しい人。背の高い紳士。今でも師匠はどの弟子にも敬語で接する。その日、私は鉛筆で色んなものをデッサンした。瓦。トイレットペーパー。ウイスキーの瓶。師匠が可愛がるアトリエのアイドル、猫の小梅。
「固いものと柔らかいものの違いを描いてください」
師匠の見つめる中で動く私の鉛筆。小梅は可愛い。おとなしい猫だ。思わず笑ってしまう私に欠伸をする小梅。
「出来ました」
私の画用紙を覗きこむ師匠。少しの沈黙に緊張する私。
「ううん。筋は良いですね。少し肩に力が入っているというイメージはありますがよく出来ていると思います。なかなか、良いですよ。緊張したでしょう」
「いえ、あの、その、はい」
「前田陽子さん。僕は飯永一郎といいます。これからよろしくお願いします。僕は少し散歩に出るので。小梅とのんびりしておいてください。10分くらいで帰ります。もうすぐしたら面白いのが一人来ますから。あなたは純粋な人ですね」
「あの、どういうことでしょうか」
「小梅が僕よりもあなたをよく見ていました。猫ほど純粋な生き物はいないです」
私は笑った。大笑いをした。師匠もにこやかに笑って散歩へ行った。
「起きろ。起きろや。陽子。いつまで寝てんねん」
「え、ここどこですか」
「お前、どこまで記憶あるんや」
「え、えっと師匠の部屋でご飯食べて、小梅に鼻にひっかき傷作られて、え、ここどこなんですか」
重い目をこすって辺りを見渡すと、え、点滴。ベッド。ここ病室。病院だ。何故。
「あの吉本さん。なんでここ病院なんですか」
「お前、小梅にやられたのはおぼえてるんやろ。それでお前が酔っぱらって、救急車に乗ったんおぼえてないんか」
「え、救急車」
「そうや。お前、救急車、救急車言うて大騒ぎして。あほやの。鼻にバンソウコウがあるん確認してみろ」
鼻を触る間抜けな私。ほんとだ。バンソウコウ。もしかして。
「もしかして、私、手術しました」
「正解。師匠から伝言や。最近、忙しかったので少し休みなさい。ということや」
「良い意味でですか。悪い意味でですか」
「良い意味やと俺は思うけどな。ほんま久々に師匠が大笑いしたのを見れて俺としては嬉しかったわ。そうやな、お前、最近ハードやったやろ。デッサン一から出直します。言うて。でも、おめでとう。ナカイクレパス入選。俺は遂にナカイさんで佳作獲れたぞ」
「それはおぼえてます」
吉本さんは師匠の一番弟子といっていい。大柄で鈴鹿に生まれてF1レーサーに憧れて挫折。そして画家を目指して美大まで出て師匠に弟子入りした。彼は筆を使わない。指でキャンバスへと向かう。佳作を獲った作品に使った絵の具は赤とピンク、白。それだけ。優しい絵を描くほんまにおもろい先輩である。アトリエで二番目に会った人が吉本さんであった。初めはなんじゃこいつ。絶対友達にはなれへんと私は思った。そりゃ誰でも思うはずだ。
あの日、師匠が散歩へ行って、初めて吉本さんと会話した時の彼の開口一番がこれ。
「お前、俺のこと、好きやろ」
「はっ。私は一目惚れしないタイプですから」
「冗談、冗談。俺、吉本一樹といいます。姉ちゃん、デッサン見せてくれるか」
「あ、はい」
私は画用紙を吉本さんに渡した。彼の目つきが強張った。
「姉ちゃん。もしかして師匠、かなり褒めへんかったか」
「はい。筋は良いとは言われました」
「やっぱりな。姉ちゃん、こんな迫力あるデッサン見たの俺、久々や。よく出来てるわ。そりゃ師匠が褒めるわけや」彼は、「ちょっと待ってや。俺の絵見てくれ」と言って、アトリエの倉庫から油絵を一枚抱えて、私に見せた。優しい絵だった。大人になったガキ大将が描いた絵。その絵の中には一人の女性のヌードとその周りを多くの色とりどりの花が囲んでいた。
「こんな俺からは思いつかへん絵やろ。俺なバイクでこけて死にかけたことあるんよ。というか自殺やなくて自殺未遂やな。その時見た景色がこれやねん。半分あの世。半分この世。あの世とこの世の境目を俺は右往左往してたんやろな」
私はこの人、大丈夫かなと思いつつ話を聞いた。にこにこと話す吉本さん。「それ笑い話では済まないですよ」と最近、私も言えるようになった。何せ、気絶して意識がもうろうとしていた吉本さんは、
「死んだじいちゃんが昔、民宿やっててな。今は親父がビジネスホテルいう形で運営しとんやけどな。その時、死んだじいちゃんを見たんよ。間違いない。あれはじいちゃんの民宿や。不思議なことに民宿の隣りに花屋があってきれいな姉ちゃんが向日葵を売ってるんよ。あれは女神様やな。観音様や。なあ姉ちゃん。人は死んだらきれいに微笑むように穏やかに笑えるらしいわ。じいちゃんも女神様も穏やかな笑顔やったで。でな」
「あの、この先、お話、長いんですか。もしかして、その女神と私が似てるから口説いてるとか」
吉本さんは豪快に笑った。大爆笑してた。何やねん、こいつ。
「ちゃう、ちゃう。その女神様に会ったら、俺は多分死んでまうわ。俺はその女神様を探すために絵を描いてるというわけよ。わけ分からんやろ」
「はい。全く分かりません」
「姉ちゃん、名前は」
「前田陽子です」
「そうか。陽子ちゃんやったら画家になれるわ」
あれからもう五年か。病院のベッドの上で間抜けな私。芸風をシンプルに変えた吉本さんが佳作。私は、いまだ入選止まり。喜ばしいことだけど私はまだそこまでお呼びでない。少し悔しい。でも部屋に飾る賞状がまた一枚増えた。
「あ、ちょっと待って、電話や。もしもし、今、病院やから後でかけなおすわ。おつかれ」
「美穂からでしょ」
「いや、すまん。俺、用事が出来たから帰るわ。美穂に車出してもらうように一応メールしとこか」
「はい、助かります」
「ほな、俺、帰るわ。看護婦の、えっと、中野さんって人がお前の担当やからブザー鳴らして帰り支度しとき。ほなな。おつかれ」
「おつかれさまです」
吉本さんの優しさが嬉しかった。美穂と吉本さんの優しさに私は欠けている。はあ。抜糸まであと何日なのかい。ブザーブザーと。
『陽子さんの絵は何か走っている、急いでいる。のんびりと構えることも大事です』
師匠の言葉が痛いほどに鼻にしみる。良い意味で休みなさいか。でも休み方が分からない間抜けな私。足音。美穂の足音だ。
「おつかれ。陽子。写真一枚撮らせてよ」
「お、題して、笑えるおもろい美人画家」
「はいはい」
美穂の笑顔に救われた。美穂と吉本さん。結婚秒読みか。お互いの両親に挨拶は済ませたところ。
「あ、前田陽子さん。あなた、画家さんなんだって」
「あの何故それを」
「だってカルテに職業画家って書いてあったから」
白衣のバッジに「中野」と表示。面白そうなおばちゃんだった。
「えっと、退院の手続きね。私の主人、洋服のデザイナーでね。最初は画家を目指してたんだけど挫折しちゃってね。一応デザイナーやってますよ」
「そうなんですか」
「でもお酒も絵もほどほどにね」
「すみません」
「来週にでも抜糸に来てください」
「ほんとにすみません」
病院の自販機でコーヒーを二つお買い上げ。美穂の笑いが止まらない。
「陽子さ、あんた、絵になる女だよね」
「一応画家ですから」
「早く本職になれればいいね。一応じゃなくて」
「確かにね。あっ煙草持ってる」
一応画家か。煙草をぷかぷか。夢を持つことは時として残酷なことかもしれない。ジャンクフードにアルバイト。睡眠時間はほとんどない。私は絵を愛している。それだけは私が出した答えだ。
その出来事は起こってしまう。吉本さんのお母さんが自殺をした。美穂からの電話でその連絡を受けて、その夜、部屋で喪服を探して眠りに就こうとしていた時、私はDVDプレイヤーが回る音にびくびくとしていた。人が死ぬことは理解出来ている。どんな形であろうと。身近な人の大事な人が亡くなるということを経験的に初めて理解した。でも臆病者の私にはすんなりとは飲み下せない結果だった。起きておこう。眠りたくなかった。携帯を何度もいじる。重い気持ちに素直になって吉本さん宛てにメールを送った。
「吉本さんへ。この度はお悔やみ申し上げます。お力落しの無いようにしてください。明日、そちらへ向います」
すると、電話が鳴った。吉本さんからであった。
「おう。陽子。ありがとうな。自殺する奴が一番あほやって言う奴が自殺するんやから世の中、よくわからんわ。でな、お前には師匠を任せる。気持ちだけ受け取っとくわ」
「なんでですか」
「なんでもあるか。お前、絵を描けへんようになってもええんか。お前が人の死体見たらええこと一つもない。お前がおかんの姿見たら、絵を描けへんようになる。分かるか。とにかく今、師匠と連絡取れたからアトリエへ行け。師匠のこと頼むぞ」
一方的に電話が途切れた。美穂からすぐメールが届く。
「ごめんね。吉本くん、言い過ぎたから陽子にほんとごめんとのことです。実際私もそうだと思う。お母さんの姿を陽子が見たら、陽子の性格上、吉本くんの言うとおりになると思うの。今は師匠のとこで心を落ち着かせてね。明日、また連絡します」
私は複雑な想いを煙草の煙と共にした。どこへも行きたくなかった。アトリエにさえも。でも小梅が私を呼んでいるような気がした。たかが猫。されど愛猫。小梅、寂しいだろうな。師匠が小梅に餌をあげるイメージで絵を描いた。鉛筆走る。だけど、私はふらふらくらくら。喪服を着て自転車にまたがった。
「陽子さん。起きてください。警察です。公園のベンチにしがみついてベンチに御用ですか」
「うわ、あんた、何してんの」
「それこっちのセリフです。パトロールです。なにかあったんでしょ。コンテストに落ちてやけ酒とか。でも酒臭くはないんでセーフです。ちょっと来る」
「うん、行く」
駐在さんの後ろをてくてく歩く。彼の背中、太ったよな。で、私は今まで何してたっけ。お酒は飲んでないでしょ。ま、いいか。交番に着いて、あることだけをそのまま喋った。
「それ、てんかんってやつかもしれないですね。それより陽子さん、アトリエ行かなきゃ駄目でしょ。師匠を任せた兄弟子とは通常は聖なる上司でしょ。俺がフェラーリを崇拝するように。ね。師匠のところへ行きましょう。さ。早く」
「え、てんかん。あんたさ、ほんと空気読めないね。だからもてないんだよ」
優しい嘘を吐く男が一人、トランシーバーへと向かう。少し格好をつけて。
「すみません。分りました。今日で最初で最後ですよ。キーオーケー345連絡。保護。異常なし。疲れからくると思われる、気絶。薬物所持なし。アルコールなし。どうぞ。345。西村。了解。家に送る。了解。345了解しました」
「そういえばあんた、西村さんだったね。東西南北、西村です。ってウケナイこと言ってたよね。で、下の名前が。そうだ、うちのおばあちゃんと一緒でテルさんだ」
「陽子さん、この部屋、警察の秘密の中の秘密ってやつです。一応こうなってます」
「何、私を無視するの」
「はい、というかなんというか、東西南北、西村テルです。やっぱ恥ずかしい。でも久々に言うとすっきりしたあ」
鍵が空き、秘密の部屋へと入った。凄い。きれいに整理整頓されているビジネスホテルの一室のようだ。で、パソコンが一台。ほんとに凄い。警察は謎が多いな。この横にいる人が何故だか一生懸命だ。
「よいしょ。てんかん」
彼はパソコンに向かい検索する。
「所謂、睡眠障害の一種です。陽子さん、こういった症状初めてですか」
「うん。そうだよ。酒癖は悪いけどね」
「あ、そうか。あなた、いや、いいわ」
「口に一旦、出したことは言いなさい」
「あの俺、この仕事、辞めようと思ってるんです。かなり、今の陽子さんに近い状態です」
「どういうこと」
「頑張れるんだけど本職というか一生の仕事にできるかどうか、いえ、陽子さんがプロになれない、いや」
「気持ち、分かるよ。あんたの頭の中、すっごく、よく分かる。で、今、何時」
「三時四十分過ぎです。アトリエまで送ります。今、決めました。俺はこの仕事、今日で辞めます。えっと、この辺りだと精神科は、ちょっと待ってくださいよ」
「いいの。いいの。こんなの疲れ。一応、あんたにご褒美」
私は携帯電話の番号を優しい人には教える。この人はとても心がきれいで優しい人。とても。
「いらっしゃい。陽子さん。すきやきを作りましたから一緒にどうですか。あ、あなたが噂の駐在さんですね。陽子さんからよく聞いてます。お二人ともどうぞ」
「あの、僕、仕事中なので帰ります。陽子さん、俺、今日辞表出してきます。先生、お会いできて嬉しいです。また」
「あ、はい。ではまた会いましょう」
私は願う。強くありたいと。私は想う。私でありたいと。てくてくと歩いて帰る西村くんの背中を見て私はこう感じた。自然と涙が出てきた。私の肩を師匠が握ってくれた。小梅が私を呼ぶ。涙は流れ続ける。小梅に言ってみた。
「よ、小梅。お前は、猫背だね。おいおい。小梅」
「陽子さん。人間、無理に笑わなくてもいいんですよ」
「はい。すみません」
「今日は少し飲みますか」
「はい」
こみ上げるものを指で拭いた。私に何ができるのだろう。中途半端な自分自身を責めるもう一人の私が心の中にいる。師匠と小梅の後ろを歩く私という人間が虚しかった。
師匠とテーブルを囲む。小梅は椅子の上で寝てしまった。
「じゃあ、いただきましょうか」
「はい」
「では、お疲れ様です。いただきます」
ビールをごくりと飲んだ。師匠の顔は豊かである。いつも。どんな時も。
「陽子さん。僕は昔、ボクサーになりたかったんです」
「え、そうなんですか」
「そうなんですよ。とにかく、ボクシングが大好きでね。知ってます。具志堅さんや輪島さんとか。ガッツ石松さんとか。最近じゃ亀田くんに内藤くん」
「あ、はい。名前は聞いたことがあります。でも、師匠からは正直、ボクシングは連想出来ないです」
「そうでしょ。よく言われるんです。でも、一度も勝てなくてね。どうも、そのハングリー精神が絵に向かってるんですよ。鍛えたんだけど、すぐにダウンを取られてしまう。吉本くんのレーサー志願と僕のボクサー志願がよく似ててね。彼は強い反面壊れやすい。セナとかシューマッハとか。あの人達のパワーってどこから来るんだろうねって。よく二人で絵を描く時に話すんです」
「セナって亡くなった人ですよね」
「そう。あの子は死んでセナのところに行きたいと出会った頃に何度も言ってました。吉本くんが大胆な絵を毎回用意できるのは凄いハングリー精神があるからです。彼のパワーはとても大きいところから来てるんですよ」
「師匠、少し酔いました」
「かもしれないですね」
師匠の顔は笑った。私はそれが嬉しくて。




