作者より頭のいいキャラしかいない
実は同じタイトルの記事を活動報告でも書いたのですが、エッセイに仕立ててみました。
自作の制作裏話的なものを含みます。
俗に「作者より頭のいいキャラはいない」と言われることがありますが、あれは嘘です。
たとえばミステリを考えてみましょう。
作者は謎と答えと、すべてを知っている立場から話を知っているわけです。そうして答えを知っている立場から必要最低限のヒントをバラ撒いて、探偵役に真相を見抜かせることになります(もちろん構想の一番最初は「密室殺人事件にしよう、で真相はどんなのにしようか」と謎から先に考えるかもしれませんが、問題はそういう順番ではありません。大事なのは、いずれにせよ真相とそこへ至る謎解きを同時に俯瞰できる立場から書いているということです)。
真相を知っている立場から逆算して謎解きの過程を描くのと、真相を知らないで謎に直面するのとではまるで違います。作者が作中に放り込まれて謎に直面したら、自分の書いた探偵には分かる真相が分からなくても当然です。
謎を解く探偵でなく、知謀を巡らす人物の類を考えても事情は同じです。
また、登場人物が他の人物の心情を察するようにさせるのも作者には簡単です。作者は答えを知っているんですから。作者自身の察する能力はあまり関係ありません。
さらに言えば、作者は自分が長い時間をかけて理解した洞察に登場人物を一瞬で至らせることもできますし、自分がその作品を書くために多くの取材をして揃えた、来月には忘れているような知識を、さも当然知っているかのように作中人物に語らせることもできます。さらにはそれ以上のことを分かっていると仄めかすこともできます。
「でも、そこまでにかかった時間はともかく、具体的に書ける洞察や知識は作者が分かっていることの範囲内に留まるだろう。作者が分からないことを分かっているかのように見せても、その内容を具体的に言うことはできないはずだ。そこに至る洞察力はともかく、結果として得た知識については作者の限界が登場人物の限界じゃないのか」
そう仰るかもしれません。
まあ現に、「高度な知識や見解を持っている」という設定のキャラの発言内容から作者の限界が知れることはあります。
でもそれは、ある程度までは腕の問題です。「かのように」見せるのは上手くやれば、どこまでが作者の限界なのか分からなくできるものです。
もちろん、上のミステリの例は解決編を先に想定して物語と人物の行動をそこへと導く「帰納型」の作劇法です。
「この場面ではこの人物はどう行動するだろうか」「ここで次は何を起こしたら面白いだろうか」と、作者も先を知らないまま前の場面から次の場面を考えていく「演繹型」の作劇では、そういう形で「頭のいいキャラ」を書くのは難しくなるでしょう。
まあ純粋に演繹型の作品とはつまり「勢いで突っ走る作品」なので、作中人物も頭のいい行動どころではないでしょう。
もちろん普通は、「演繹型」と「帰納型」を組み合わせるものです。ミステリのように計画的な話でも、書いてみなければ分からない部分はあるでしょう。
(なお、「帰納型」と「演繹型」の話作りという表現を誰が言っていたのかは忘れました。もしかしたら手塚治虫先生のマンガ論だった気もします。でも一般的な表現なのでご了承ください)
言うまでもないことですが、このエッセイのタイトルは明らかに誇張です。少なくとも一般論ではありません。
作者より頭の悪いキャラを書くことはいくらでもできるはずです。
でもわたくし湯田久印はバカキャラというのをあまり書いたことがありません。小学生時代まで遡ってもどれだけあったか怪しいくらいです。
ですから本当に頭の悪いキャラは書けないのかもしれません。
その原因として一つには、バカキャラを書く意味と理由があります。
バカキャラの役割と言えば、まず思い浮かぶのがギャグ要員です。でも笑いには独自のセンスが必要です。
特にわざわざボケ要員としてバカを出したなら、ハイペースでどんどんボケて貰わねばなりません。たまにしかネタを思いつかない人間には難しいことです。
その場でのボケに限らず、勘違いは喜劇の王道です。事態を正しく把握していない人物が見当違いな行動をして、思わぬ方向に転がっていきます。でもこれも、作者に高度なプロット作成能力が必要です。
はたまた極端なバカではなくても、探偵小説の語り手、いわゆるワトスン役はどうでしょうか。ああいう役は起こったことを忠実に伝えるけれども謎については「分からないよ、教えてくれ」と探偵役に頼りっぱなし、常人の知能をわずかに下回っているくらいが望ましいと言われています。
でもこれも、謎解きという高度に頭を使ったネタと、探偵役という頭のいいキャラあってのものです。
こうして見ると、頭のいいキャラを書くより頭の悪いキャラを書く方が作者の頭脳が要求されるように思えてきます。少なくとも私にとってはそうです。
だいたい、バカにはバカの、頭のおかしい人には頭のおかしい人なりの行動原理があるのであって、作者の頭が悪いからそれをきちんと設定できないのは「頭の悪いキャラ」ではなく、ただの「支離滅裂な表現(キャラではない)」になってしまうのです。
だからキャラの頭の悪さは作者の頭の悪さによっては決まりません。
さて、私が『兄妹のヰタ・セクスアリス』を書くに当たっては、物語を書くのが苦手な湯田久印でも書けるものということでいくつかの方針を考えました。
まずストーリー性も盛り上がりもへったくれもない、性愛に関するウダウダした日常に絞ること。
そして、その性愛というテーマについてあれこれ考察を展開することです。
主人公が一人で考え込んでいるとか、誰かと話しているだけならば、傍から見れば動きはゼロです。でも考察そのものとそれを考える主人公の心の動きが主題ならそれもアリだろう、と。
もちろんそういう小説の先例は多々ありますが、WEBでそんなものを読みたがる人が多くないのは分かっていました。でも私にさしあたって書けそうなものというと、そうならざるを得ませんでした。
しかし主人公の少年時代からの性遍歴を書くと同時にそういう考察を展開させるわけですから大変です。成長した主人公の回想という形を取ることで、考察パートは子供だった当時の主人公が考えたことだけではないという体裁にしましたが、それでも限度がありました。だって、完全に後からの視点に徹するなら、考察なんて一箇所でまとめてやってしまえばいいんですから。
その結果として、主人公は作者が大人になってから、時には年月をかけて考えたことを少年時代から考え、洞察に至ることになりました。作者よりはるかに頭いいです。
サブキャラに関しても、上のようなわけで露骨なバカキャラは書いていません。それどころか察しのいいキャラに事態を察して動いてもらわないと話が進められない有り様です。
私が今後、作風の違う作品を書けるかどうかは分かりません。ただ目下、頭のいいインテリ主人公以外は書ける気がしません。私に書けるものからあれこれ小難しいことを考えたり蘊蓄を展開したりする要素を取り去ったら何も残らないからです。
結局、頭の悪いキャラを使いこなすよりも、頭のいいキャラにさっさと的確な動きをしてもらった方が実は楽なのです。ですから湯田久印のような不器用な作者の書くものは作者より頭のいいキャラばかりです。
それの度が過ぎると、「登場人物がプロットを知っていて、それに沿って動いているかのようだ」という不自然な印象を与えることになりますが。