汝の名は 南野智治
土曜日の昼下がり。
オレは駅前のスーパーに来ていた。
もうじき梅雨入りしようかという季節、夏物のトップスが一、二枚欲しかったからだ。
二階の紳士服フロアにある専門店をいくつか回って目的を果たすと、足の向くまま他のフロアをブラブラ見て廻ることにした。
普段、目当ての物が手に入るなりさっさと退散するオレにしては、自分で言うのもなんだが珍しい行動だった。
まあ中間テストも終わって気分的にも解放されたこの時期、必要のない行動に時間を使うというのも悪くない。
書店、家電コーナー、ペットショップ。週末ということもあってどこもかなりの人混みだが、三階の生活用品コーナーは比較的人が少なくて静かだ。
静かなだけに、その人の声はよく通った。
「ダメだねぇ、こんなことでは」
棚の前に立って、ずらりと並べられた商品を眺める男性。
年齢は七十前後というところだろうか。両手を後ろに組んで、眉根に皺を寄せている。
「数の出ないこんな大きな商品を棚の中段に置く必要はないだろう。下の段にある客が頻繁に手にする小物をこの高さに置くべきだ」
「も、申し訳ありません」
隣に控えた若い女性店員が恐縮したように返事をする。
どうやら商品の陳列に関してお叱りを受けているらしい。察するに、商品販売部長のお忍びでの見回りか何かだろうか。
「商品陳列一つにしたって、顧客の立場に立たないと売り上げは伸びないよ」
お偉いさんらしい男性のお説教は続く。
だが、こういう場面は端で見ていて楽しいものじゃない。上司に叱られる部下の図。
業務に関する指示なんか、閉店後に客のいないところでやって欲しいもんだ。
「頂いたご意見をフロアの責任者に伝えまして、参考にさせて頂きます」
女性店員がそう言って頭を下げる。
「頂いたご意見」と「参考」という単語が何かひっかかる。
上司に対する言葉としてはちょっとおかしい。普通は「指示」に「従う」んじゃないのか?
「そんなのんびりしたことでどうするんだ!」
男性が突然声を荒げる。
おいおい。いくら何でも営業時間中にやりすぎじゃないのか。
「せっかく客である私が貴重な意見を聞かせてやっているというのに、すぐに実行に移さないでどうする!」
何だって?
客? 今、客って言った? あなた店の人じゃないの?
「しかし、営業中に商品陳列の変更をするのは他のお客様のご迷惑にもなりますし……」
そう答える女性店員はオロオロして、今にも泣き出しそうな顔をしている。
「迷惑だと!?」
逆に男性の声はさらにエスカレートし、周囲の客も何事かと注目し始めた。
「四十年も商品販売のコンサルタントをしてきた私の意見が迷惑だと言うのか!!!?」
ようやく話が飲み込めた。この人「モンスター・クレイマー」ってやつだ、きっと。
しかも話の端々から察するに、商品や従業員の対応で不利益を被ったとかじゃなく、単に陳列の仕方が気に入らないという話らしい。店にしてみれば、ある意味「余計なお世話」だ。
「かつて何社もの小売業社が高いコンサル料を払って得たノウハウを、特別に無料で披露してやっているんだぞ。これがどれほど有難いことか分かっているのか、君は!」
え~、なにそれ。お金を支払った挙げ句にこんな理不尽なお説教聞かされるとか、いったいどんな罰ゲームだよ。
ただならぬ雰囲気に、行き交う客が次々に足を止める。さっきまで静かだったフロアの人口密度が急激に上がり始めた。
「た、大変失礼しました!」
女性店員が声を震わせながら再び頭を下げる。
ドンッ!
いきなり背中をどつかれた。
ただでさえ胸くそ悪い光景を見せられていたオレは、イラッとしながら振り向いて犯人を睨み付ける。
そこに立っていたのは北条姫火、……じゃなくて姫禍?
なんでコイツがここに? トラブルの匂いあるところ、必ずコイツの姿ありだ。
「お前、なんでここに……」
「手伝いなさい」
オレの質問をまるっと無視して、北条が短く言い放つ。
「あれを取ってきて」
北条の指差す先には、買い物用の手押しカート。本来の目的以外にも、時おり小さな子供の乗用に供されるアレだ。
ワケが分からないままカートを手にして振り返ると、北条は既に件の男性と女性店員のそばまでスタスタ歩いて行ってしまっている。
おい。あいついったい何をする気だ?
「お~い、智くん。あったよ! ここ、ここ!」
北条がぞわっと身体中の産毛が逆立つような呼び方でオレに手を振る。
今、あいつ何て言った?「智くん」だと?
なんだこれ。もしかして「彼氏、彼女」とかいう設定なのか?
とにかく、例によって北条のやつ何か企んでいるらしい。どんな狙いか分からないが、ここは調子を合わせておこう。
「お、おう」
引き攣りそうになる顔をなだめながら、オレはカートを押して北条のところへ向かった。
北条のそばには、突然の闖入者に話の腰を折られた自称コンサルの男性と、目にうっすら涙を浮かべた女性店員が立っている。
「ほら、智くんこれ! やっと見つけたあ」
そう言って北条が指差したのは家庭用の流しそうめん器。電池で動く「ミニ流れるプール」みたいなやつだ。さっき自称コンサルの男性が「こんな棚の中段に置く必要はない」と言っていたのはどうやらこれらしい。もうこんなものが出回る季節なんだなあ。
「智くん、カートこっちに持ってきて」
「ああ」
言われるままに、カートを棚の前につけるオレ。
「よいしょっと」
北条が流しそうめん器の箱を両手で棚から取り出す。箱は女の子が持つにはかなり大きく、重さもそれなりにありそうだ。
「おい、大丈夫か?」
思わず手を出しかけた。
だがそうめん器が並べられた棚はそのままカートに取り付けられたカゴのヘリと同じ高さで、北条はそのままヘリを支えに箱を滑らせ楽々とカゴに納めた。
「へへえ。大丈夫、大丈夫」
北条はニッと笑うと、クルリとさっきの女性店員に向き直った。
「こういう大きくて重い商品は、カートのヘリと同じ高さの棚に置いてあると楽ですよね。下の段に置いてあると、女の子の力じゃ持ち上げるのが大変で……」
そこで、北条が視線をちらりと自称コンサルの男性に走らせる。
「他人の身になって物を考えられない、理屈先行の人間には絶対分からないことなんでしょうケド」
「むう……!」
コンサルおじさんが唸る。
なるほど。北条のやり口を何度か見てきたお陰で、今回の狙いも何となく分かった。
「まあ確かに。小さくて軽いものなら、下の段に置いてあってもしゃがんで取るのはそんなにおっくうじゃないしな」
ささやかながら、オレも援護射撃を入れた。
「そ。このお店、女性のお客さんのことよく考えてるよね」
北条の言葉に、店員さんがホッとしたような笑顔を浮かべる。
「あ、ありがとうございます……」
「なあ。どうすんだよ、コレ」
オレは手に提げた流しそうめん器に目をやりながら、前を歩く北条に声を掛けた。
クレーマー撃退のためにカートに入れて見せただけの商品だったが、女性店員から事情を聞いたフロアの責任者さんが「お礼がわりに持っていけ」と無料でくれたのだ。
「せっかくもらったんだから、使えばいいじゃない」
振り向きもせずに北条が言う。
「いらねえよ、うちにはもうあるし。お前が持っていけばイイじゃねえか」
オレが面倒くさげにそう言うと、北条が突然ピタリと立ち止まった。
「……そんな重いものを女の子に押し付けようって言うの?」
いや、そんなこと言われてもな。
まあ確かに、女の子がコレを持ち帰るのはちょっとホネかも知れないが。
何と返事をしたものか迷っていると、北条がちょっとソワソワした様子で口を開く。
「まあ、あなたが私の家まで運ぶっていうなら、もらってあげないこともないわ」
うお。上から目線で無料宅配サービス要求しやがった。しかもオレがまだ返事してねえのにすたすた歩き出してやがる。
こっちが文句を言おうと口を開くより早く、北条がスマホを取り出してどこかへ電話をかけ始めた。
オレは抵抗を諦め、北条の後について重い足取りで歩き出す。
「……あ、お母さん? これから友達連れて行くから、お茶の用意しておいてくれない? ……うん、クラスの子。南野っていうボーッとしたヤツ」
おいテメ! 聞き捨てならない形容詞聞こえたぞ、今!
……だけど今コイツ、オレの名前間違えなかったな。しかもさっきはオレのこと「智くん」とか呼んでたし。
こいつもようやくオレの名前覚えたってワケだ。
油断したオレに、電話を切った北条が振り返って声を掛ける。
「さあ、早くそれを家まで運んで。南大路智久クン」
「おんまえ! さっき電話でちゃんと『南野』って言ってたじゃねえかよ!」
オレの抗議にペロッと舌を出して見せると、北条姫華はこう言った。
「名前を間違えられたくなかったら、もう少し私の役に立つ男になりなさい。南野智治」
『北条姫華はかく語りき』 了