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小食な彼女

作者: 森椰恭輔

 電車が通り過ぎる音を横で聞きながら、広志は腕時計に目をやった。時刻は22時30を示していた。本来なら今頃家でくつろいでいるのだが、現実はそううまく行かないものだ。

 広志は勤め先のコンビニのアルバイトを定時まで勤務し、それから15分程の残業をし、帰りがけに弁当や飲み物を買っていたら、こんな時間になっていた。そもそもの原因は、今日広志と一緒に仕事をしていた大学生の要領が良くなかったせいだ。あいつ今度一回絞めてやるか。広志は道端の石ころを蹴った。

 線路沿いの道を早足で歩きながら、家で待つ恋人の加奈子が腹を空かせて待っているだろうな、と広志は彼女に対して少し申し訳なくなった。空腹ほどつらいものはない、と広志は重々理解していた。

 しかし加奈子はこの弁当を食べてくれるだろうか、と広志は袋に入った弁当を眺めながら少し不安になった。加奈子は小食なのだ。

 美容師をして朝早くから働く加奈子と夕勤をしている広志は仕事をする時間が違い、食事を共にすることは珍しい。だがまれに広志と一緒に食事をしても、加奈子は少しだけ食べて残りは捨ててしまう。付き合い始めた頃、好き嫌いが激しいのだろうか、と広志は思っていたが、加奈子は広志の前だと何を食べても結局は料理を残していた。だから広志は加奈子を小食だと思い、人間には体の構造で食べられる量が決まっているから仕方ない、と結論付けた。

 賃貸アパートに帰ってきた広志は家の前でズボンのポケットを探って鍵を取り出し、それを差し込んでドアを開けた。靴を乱雑に脱ぎながら「ただいま」と声を出すが、返事は返ってこなかった。広志は別段気にせず部屋に上がって食卓テーブルにコンビニ袋を置き、大げさにため息をついてソファに腰を下ろした。それから目の前にあるテレビのリモコンを操作してテレビを付けると、複数の芸能人が出演しているトーク番組がやっていた。コンビの司会者の片方がぼけをすると、もう片方の司会者が頭をはたいた。それを見た広志はテレビに指さしながらげらげらと笑った。

 広志が何気なく食卓テーブルの方を見ると、加奈子が冷蔵庫の中から2リットルペットボトルの麦茶を取り出しているのが目に入った。広志が座ったまま手をあげて陽気に「ただいまー」と言うと、加奈子は広志の方を向いて「お帰りなさい」と無表情な顔で返した。

「なあ、俺が帰ってきた時にどこにいたんだ?」

 加奈子がコップに麦茶を注ぐのを眺めながら、広志は加奈子に訊いたが、彼女は無言だった。聞こえなかったのかな。今度は少し大きな声で広志はもう一度訊くと、加奈子は「トイレにいた」とぶっきらぼうに答えた。それに対し広志は特に関心を見せず、またトーク番組を見始めた。

 相変わらず加奈子はクールだなあ、と思う傍ら、トーク番組に出ているある芸能人のアナログの腕時計が50万円すると聞き、広志は「げえ」と言って舌を巻いた。一回の買い物に50万円を出すことが、広志には信じられなかった。

 広志と加奈子が知り合ったのは、駅前の喫茶店にて月一で開かれる読書会でのことだった。読書会の参加者のほとんどが中年のおじさん、おばさんばかりで、広志と同じくらいの若者が加奈子しかいなかった。年が近いという理由で広志は加奈子に話しかけると、彼女も心細かったのか話は弾み、お互いに好きな小説家が共通しているということで意気投合するようになった。広志が加奈子と付き合い始めたのが3か月前で、2か月前には同棲までこぎつけた。3か月付き合って、広志は、加奈子は笑わないことはないが、感情の起伏が少ないことが分かった。

 番組がコマーシャルに入った所で、広志は加奈子に自分が買ってきた弁当を食べるか訊いた。しかし加奈子はただ素っ気なく「食べたくない」とだけ答え、二杯目の麦茶を注いで飲んだ。目を伏せて自分の方を見ようともしない加奈子に少しむっとした広志は、ソファに身を乗り出した。

「加奈子、お前いくら何でも食べなさすぎだよ。食べないと体に悪い」

「質素な食生活でスタイルが綺麗に保てるって聞いたから」

「誰だよ、そんなこと言った奴」

 すると加奈子はある小説家の名前と作品のタイトルを口にした。それは二人が意気投合するきっかけになった小説家であり、作品は広志も一度読んだことのあるものだった。

「ああ、あの人ね。でもさ、あの人の書く登場人物って特殊だからさ、真似しても意味なんてないって」

 加奈子が無言で流しにコップを置くところを眺めながら、広志は加奈子が口にした作品にそんなこと書いてあったかどうかを思い出そうとしたが、どうしても無理だった。その小説家の作品で覚えていることは、セックスのシーンが大体生々しいことだけだった。

 二人の間にしばし沈黙が流れる。お互いに沈黙は少なくないので広志は別段気になることはなかった。その沈黙が水道から流れる水によってかき消され、台所に立ってコップを洗っている加奈子の背中をひとしきり眺めてから、広志は再びテレビに視線を戻した。テレビでは相変わらず芸能人が金持ち自慢をしていた。金持ちはずりいよなあ。広志はあからさまな悪態をついた。

 加奈子の声が聞こえたような気がして広志は振り返った。加奈子はコップを洗い終えて手についた水を拭っている。加奈子が何を言ったのか聞き取れなかった広志は加奈子に尋ねると、加奈子は柔和な笑みを浮かべて言った。

「食べたいものがね、急に浮かんできたの」

「ん? 何なに?」

 広志はもう一度ソファに身を乗り出した。加奈子が何かをねだることなど滅多にない。

「スーパーに売ってる豆腐のサラダ。あれ結構おいしいの。ヘルシーだし。それなら食べられるかも。買って来てくれない?」

 広志は壁にかかっている時計に目を向けた。時刻は23時を示していた。一番近いスーパーが閉店するのは0時で、家から歩いて行くと約20分かかる。自転車も車も持っていない広志としては、スーパーに行って戻ってくるだけでどうしても40分以上はかかってしまう。ましてや夜も更けると外は冷え込み、そんな中を出歩くのは億劫だった。

 広志が時計を見つめながら嫌そうな顔をしていると、加奈子が近づいて片目をつむって「お願い」と甘い声を出して小首を傾げた。その様子に広志は参ってしまった。口ではしぶしぶ承諾するも、加奈子から可愛い仕草で頼みごとをされて内心では舞い上がっていた。

 広志は財布を持って玄関に行こうとしたその時、加奈子から呼び止められた。加奈子はぱたぱたと電話の方へ近づき、その傍らにあったメモ帳に何か書き込み、それを広志に渡した。文面を読んでみるとそこには上から順に、サランラップ、ヨーグルト、生クリーム、落花生、と書いてあった。

 これはなんだ、と広志が尋ねるよりも早く、加奈子は「切らしちゃったからついでに買ってきて」と先ほどと同じ仕草でそう言った。それで広志は言いかけた言葉を飲み込み、適当な返事をして家を出た。

 スーパーの自動ドアを抜けると、夜の空気による冷えがいくらか緩和された。店内は暖房がよく効いている。広志はその暖かさに一度息をついてから、真っ直ぐに惣菜売り場へと向かった。閉店時間近くとあってか陳列されている惣菜は残り少なく、そこにはお目当ての豆腐サラダはなかった。広志は舌打ちをして大げさにため息をつくと、近くを通りかかった中年の男性がちらと広志を見たが、広志は中年男性には見向きもしなかった。

 仕方ねえな、と自分に言い聞かせ、広志は加奈子からもらったメモを取り出して売り場のあちこちを歩き回り、加奈子から買ってくるように頼まれた物を探した。惣菜と違って目的の物はたくさん陳列してあった。広志はメモの上から書かれている順に商品をかごの中に入れ、レジで会計を済ませてそそくさと店を出て行った。自動ドアを抜けた瞬間、夜の冷たい風が吹いて広志は一度身を震わせた。

 ビニール袋を手首に引っかけて両手をこすり合わせながら、広志はバイト先から帰ってきた道をまた歩いた。電車が通り過ぎる音が聞こえ、広志は顔を上げると、電車の中はほとんど乗客がいないことが分かった。腕時計で時刻を確認すると、もう0時に近かった。この時間に電車に乗っている方が異常だろう、もしもいたとしたらそいつは会社に飼いならされた家畜だ、と広志は遠ざかる電車を見つめながらそう考えた。

 再び帰路につく途中、先ほど広志がいたスーパーの袋を両手に持った主婦が広志の脇を駆けていった。明らかに大変そうな彼女の背中を見ながら、ご苦労なことだ、と思うのと同時に、あの人の旦那は一体何をやっているのだろうか、といわれのない憤りを感じた。自分は加奈子の為に買い出しをしてしっかりと彼女に貢献しているのに、世の中にはそんな当たり前のことすらできない奴もいるのか。主婦の背中を眺めながら、あそこの家庭はじきに崩壊するだろう、と広志は鼻で笑った。

 そこで広志は自分が加奈子と結婚することを意識した。広志の収入はコンビニでアルバイトをするだけであるが、美容師である加奈子の収入を足し合わせれば、二人でやっていけるだろう。広志はそんな確信があった。

 玄関は鍵がかけられておらず、広志は「ただいま」と声を出して家の中に入った。だが出迎えの返事は全くなく、それよりも点けっぱなしだったはずのテレビの音も聞こえてこなかった。

 おかしいな、と広志は辺りを見渡すと、テーブルの上に一枚のA4サイズのルーズリーフが置いてあるのが目に付いた。表面には何も書かれていない。心の奥底で不安を感じるも、広志はすぐさま手を伸ばしてルーズリーフの裏面を見てみた。そこには文字がびっしりと詰まっており、初めこそは端正に書かれてあったが、後半には字がいくらか崩れていた。それでも広志には加奈子の字だとすぐに分かった。



 私はあなたと一緒に生活することが耐えられません。ですから私はこの家を出て行くことに決めました。あなたとはこれでお別れです。きっと二度と会うことはないでしょう。

 この際なので言ってしまいたいと思います。あなたと初めて食事をした時、あなたは食べ物を口に入れながらもごもご喋るわ、くちゃくちゃ音を立てながら食べるわと酷かったです。それが嫌でその時の私はできるだけ控えめに注意をしたのに、あなたは一向に直そうとしませんでした。今もそうですよ。あなたは私が小食だと思っているようですが、それは大きな間違いです。私は単にあなたと一緒に食事をしたくないだけです。

 不満は他にもありますよ。家に帰ってきたらまず手を洗ってください。下品な笑い方はやめてください。デリカシーを持ってください。言葉づかいを直してください。いやらしい目をして私を見ないでください。私の給料をあてにしないでください。人間性を変えてください。分かりましたか。

 とにかく私はもうあなたの嫌な部分を見ながら生活をしたくありません。だから私は出て行きます。家にあるものは全部あなたにあげますから、これで私とは縁を完全に切ってください。

加奈子



 最後まで読み終わった広志には怒りが沸々と湧き上がり、無意識にルーズリーフを握りつぶしていた。理不尽だ。俺は加奈子のことが好きで彼女のことを考えていたのに、彼女と言えばさよならも言わずに自分の前から逃げたのだ。あんな女などこっちから願い下げだ。

 広志は大げさにため息をつき、ルーズリーフと一緒にスーパーで買った物をまとめてゴミ箱に放り込んだ。


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