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4 シオンの長老たちによるプロトコル

 知識階層の言論を弾圧し個人の優れた能力が、人種や宗教などの些末な問題で否定されるというのであれば、そんな狭量な政権に将来などあるはずがないし、遠からずそんな政権は破綻するだろう。無論、その時代時代で犠牲になる世代は生まれるだろうが。

 ある日の午後のことだ。

 そう言った彼に、リーゼは少しだけ眉をひそめてから真底の嫌悪を感じているとでも言いたげな眼差しを流しやると、テーブルの上で組んでいた指をほどいてからじっと新聞を睨み付けてから顔を上げる。

「つまり、あなたの言い分を要約すると多少の犠牲はつきものだから目をつむるべきとでも言いたいの?」

 嫌み混じりのリーゼの言葉にオットー・ハーンは鼻から息を抜くと憮然とした。

「違う違う。そうではない、フロイライン・マイトナー」

 君だってわかっているだろう。

 歴史は止まらない。

 時間は立ち止まらない。

 全ての人という人は、常に時間と寄り添って生きていかなければならないのだ。どんなに強引な手段を使ってみても、時間をさかのぼることもできなければ、その先を覗き見ることもできはしない。

 せいぜい少しばかり頭の回転の速い人間は、それらの未来を推察できる程度だろう。

 過去になにが起きたのかを完全に知る事などできはしないし、未来になにが起きるのかも予測できはしない。

 時間とはどこまでも残酷で、そして限りあるもの。

 そもそもどうして「科学者」の自分たちがこんな「くだらないこと」を議題にして、渋面をつきあわせていなければならないのか。

 きっかけは、研究所の誰かが持ち込んだらしいくだらないオカルティズム書籍だった。

 ――シオンの長老たちにによるプロトコル。

 限りある時間をこんなことに費やしている暇はないのだ。

 苛立たしげにがりがりと金髪をかき回したオットー・ハーンは、憮然としたままで実験用のテーブルの端に追いやられた書籍を忌々しそうに見やってから腕を組み直した。

「わたしを言い負かすつもり? ハーンさん?」

「そうじゃない、フロイライン・マイトナー……」

 弱り切って何度目かの溜め息をついたハーンは、腕を伸ばして「シオンの長老たちによるプロトコル」を取りあげると、おもむろに立ち上がった。そうして早くもなければ遅くもない歩調で部屋の片隅に置かれたゴミ箱へと歩み寄ると、さもありがたみを感じさせるような装丁の本を無造作に放り込んだ。

 もっともらしい論調で、もっともらしい宣伝は。

 時に、無知蒙昧の一般庶民たちには馴染みやすい。

 この時代、誰もが当たり前のように論理的に考えられるわけではない。世間にはまだまだオカルトめいた主義主張が蔓延している。

 世界はすでに「科学」の時代へと突入したというのに!

 それは市井の人のみならず、政治的な権力を握る者たちの間にもごく当たり前のようにはびこっている事実が、オットー・ハーンにとってもリーゼ・マイトナーにとっても全くもって嘆かわしい。

 世界に不確定の出来事などあるはずがない。

 仮に、不確定の出来事があるように見えても、人類の技術が未熟であるために、その法則が解明されていないだけに過ぎない。

 そして知性とは、常に過去から受け継がれてきた知識を成熟させることでもある。

 人の知性と技術の発達に過去を否定することなどあってはならない。

「わたし、揚げ足取りは大嫌いなの」

 憮然としたリーゼにハーンは肩を落としてから口ひげを撫でて小首を傾げた。

「そりゃ、僕だってくだらん連中に揚げ足取りをされるのは大嫌いだし、面白くないが、そうしたくだらん連中が流布する噂の(たぐい)を馬鹿にすることができんのもわかっているだろう」

 人の感情は理屈ではない。

 理論と理屈。それらに感情で簡単に納得できるほど、人間というものは単純にできてはいない。

 これについては、科学者たちですら「そう」なのだ。

 もちろん心理学的に考えれば、それらの「人間の感情の移ろい」についても、論理的な説明もできるのであるが、そんなことを無学な一般庶民相手に議論したところで時間の無駄だ。

 まだまだ情報を得られる手段が限られている現代において、多くの者たちは「もっともらしく書かれた」「もっともらしい情報媒体」を信用するものだ。

 もっともらしい情報媒体――それはたとえば新聞であったり、こうした根拠のない書籍であったりする。

 得てして情報の提供者というものは、真偽の如何に関わらずそれらの手段を元手にして「金儲けができれば良い」と思っている者が多いのも事実である。それらの浅はかな行動が結果的にどんな現実へとつながるのかを考えることもしない。

 そうした守銭奴のような精神が、物事の真偽を追及しようとする科学者たちには鼻についてならなかった。もちろん、リーゼ・マイトナーもオットー・ハーンも金銭が無駄なものだとは思っているわけではない。

 出資者(パトロン)がいなければ、科学者たちが事実の究明に能力の全てを傾けることなどできはしないし、そうしたパトロンを得られる科学者は世間でも一握りと相場は決まっているものだ。

「君はまったくもって頑固だな、マイトナー嬢」

「あら、頑固でなければひとりでベルリンにまでなんて来るもんですか!」

 頑固で強情でなければ、たったひとりで学問のためにウィーンからベルリンまで来たりはしない。

 女ひとりで。

 志の高い彼女に、ハーンは運命的な巡り会いを果たした。

「……そうだったなぁ」

 彼女の言葉に心の底から納得したハーンは大きな溜め息をつきながら呟いた。

 彼女が学問の追究のために貪欲で、頑固で強情であったからこそオーストリア生まれのリーゼ・マイトナーとドイツ生まれのオットー・ハーンは巡り会った。

 男たちの世界に、単身飛び込むような彼女であったからこそ。

 運命とは皮肉なもので、仮に美貌の女性がウィーンでごく一般的に男性と知り合って結婚して家庭を持っていなかったら、ハーンはリーゼという女性と顔を合わせてもいないだろう。

「君は学問には無鉄砲で意地っ張りで、強情だ」

「なんなの、それは。それじゃわたしに良いところがひとつもないみたいじゃない」

 気軽に冗談をたたき合える間柄。

 それはとても貴重な関係だ。

 科学者という特異な立場にいるハーンにとっては。

 もっと若くして自分が彼女と出会っていれば、もっと違った形で彼女との関係の発展もあったのだろうかと考えてしまえる程度に彼女は美人だ。

 ――いや。

 そんなことはないだろう。

 リーゼがもしもドイツ生まれのドイツ人であったとしても学問には今と同じように強い好奇心を持っただろうし、彼女が学問に恋する以外のことはあり得ない。つまるところ、リーゼが恋をするような男などいはしない。

 ハーン自身も同様だ。

 彼女は物理学に恋をしている。

「邪推しすぎじゃないか? フロイライン・マイトナー。そもそも僕は君が学問に対して無鉄砲だということが、君の悪いところだなんて一言も言ってないじゃないか」

「じゃあ、なに?」

 つっけんどんなリーゼの物言いに、ハーンは苦笑した。

 まるで打てば響くように、リーゼはハーンの一言一句に反応する。

 周囲からは彼と彼女が特別な関係にあるようにも見られることもあるが、全くそんなことはありはしない。

 ごく普通の友人同士の関係だ。

「君が自分で言う”悪いところ”とやらは、そのまま君の長所に決まっているだろう」

 ハーンの率直な物言いに、リーゼはプッと吹き出すとゴミ箱に視線を放ってから肩をすくめてみせる。

「学者は君くらい強情っぱりで威勢が良いほうがいいに決まっている」

「そうね、学者が尻込みいしていたら予算なんていつまでたっても下りないものね!」

「そうそうそれだ。君は元気なほうがいい」

 フィッシャー博士だってそのうちわかってくれる。

 オットー・ハーンの言葉に、リーゼは無言のまま再び首をすくめると「それにしても誰が今さらこんなものをおもしろがって読んでるのかしらね」と言った。

「もっともらしく書いてはあるが、根拠もなければ理屈も通っていない低俗な内容だな」

 ばっさりと切って捨てたハーンにリーゼは思考を切り替えてから笑顔に戻ると、スモックのポケットに突っ込んでいたスカーフを頭に巻いた。

「さて、実験の続きをしましょう」

 いつまでもオカルトなどについて論争を繰り広げていても不毛以外のなにものでもない。

 科学者らしく現実的な彼女の提案に、ハーンはうなずいてから実験用のテーブルに乗った計算に使っていたノートを取りあげた。

 首は動かすこともせず、視線だけを滑らせたハーンは胸の奥に小さな不安を感じて、誰にも気取られることなくかすかに眉をひそめた。

 ――シオンの長老たちによるプロトコル。

 低俗な内容だ。

 しかし、低俗な内容はもっともらしい説得力がある分、なにかとてつもない事件を引き起こしそうで、それがオットー・ハーンに強い不安を感じさせた。

 胸の内に渦巻くようなこの不安はいったい何物だろう。

 低俗なオカルト書籍。

 そう言い切ってしまえれば気分も楽だが、はたして世間の時流を見る限り、それだけですむのだろうか。自分の不安を言葉にはせず、彼はそんなことを思考した。

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