2 回転する時間
高緯度にあるドイツ国、その首都ベルリンの秋は短い。
あっという間に夏は終わり、秋が来て、そうして長い長い冬が来る。十月を目前にした頃、綺麗にまとめた長い金髪を覆っていたスカーフを外しながら地下の木工作業所から上がってきたリーゼは、中庭で煙草を吸いながら小休止を入れていたらしい研究所長――エミール・フィッシャーの姿を認めて目を伏せた。
あっちへ行け、とでも言いたげにひらひらと鬱陶しそうに手を振るフィッシャーのどこか苦々しげな表情に、リーゼは溜め息をついた。
ぺこりと頭を下げてから歩きだす。
まだ、実験物理学研究所で大した成果も見せていないのだから、フィッシャーに認められるわけもない。そもそも、彼女がオットー・ハーンの共同研究者となった時ですら、エミール・フィッシャーは彼女の知性と存在を認めはしなかった。
そもそもリーゼの知性を認めるとか認めないとかといった問題以前に、実験物理学研究所には女性用トイレが存在しない。それがどういうことなのか、少し考えれば誰にでもわかることだ。
時代はまだまだ女性に厳しい。
女性の社会進出――こと、こうした研究分野での社会進出――を現在のヨーロッパの人間たちは受け入れられない。女性は家を守り、子供の面倒を見るべきだという意見が「一般的」だった。
それはリーゼ自身にもよくわかっている。
けれども、と彼女は思った。
「それがわたしの選んだ道だもの」
ぎゅっと右の拳を握りしめた。
自分自身に誓うというほど大袈裟なものでもなく、独白するようにつぶやいたリーゼ・マイトナーはふと嗅ぎ慣れたタバコの香りに目を上げた。
中肉中背の青年が立っている。
「なにが君の選んだ道だって?」
「あら、ハーンさん」
タバコをくわえたままくぐもった問いかけを放つハーンに、リーゼはにこりと笑みを返した。
「なんでもないわよ」
「本当に?」
勘ぐるような彼の眼差しは、なにかに気遣っているかのようでもある。彼の気遣いの正体もわかっていて、リーゼはあえて気がつかない振りをして、くるりと痩せた体で一転する。
「あなたはわたしのことを心配しているようだけど、わたしはキュリー先生という先駆者を知っているからまだまだ幸せよ!」
そんなことよりも、と続けながらリーゼはオットー・ハーンから手渡された新聞を受け取りながら瞳を曇らせた。
シンプルな研究用の白いスモックと、ポケットに突っ込んだスカーフ。長い金髪はすっきりとひとつにまとめられていて、目鼻立ちの整った彼女の横顔に青年はわずかに見とれた。
こんなに美しい女性なら、結婚相手は山ほどいただろうに。
「……世界は相変わらずものものしさに満ちているわね」
「全くだ」
これではいつまでたっても中世の群雄割拠と大して変わらん。
「問題は、為政者の決定的な情勢認識の欠落だな」
「そんなこと言うなら、あなたが政治家になればいいのではないの?」
自分の横でタバコを吸っている同年齢の青年を横目に見やってからリーゼが告げると、オットー・ハーンーは小さく肩をすくめて見せた。
「僕がいなくて困るのは君だろう。それに、君も知っての通り、僕は政治家には向いていない」
「それもそうだけど」
否定もせずに、率直で気の良い青年に応じたリーゼは、唐突にハーンから手渡された小さな紙袋に目を丸くした。
「ルーベンス博士からもらった」
「はい?」
「後で、木工作業所で煎れてくれよ」
タバコをふかした彼はそうしてリーゼの横をすり抜けるようにして歩き去りながら片手を肩の上で振って見せた。
「フィッシャー博士には内緒だぞ。あの人は、僕が君になにかと肩入れしていると煙たがってるしな」
オットー・ハーンの上司でもあるエミール・フィッシャー博士がリーゼが実験物理学研究所に出入りすることを快く思っていない。なにかにつけては、リーゼに肩入れをするなとハーンに言いつのっているらしい。
もっとも頑固で保守的なだけでそれほど悪い人間でもないことを、リーゼも彼も知っているから、あきれるだけでそれ以上の悪口雑言を連ねるわけでもない。
「はいはい、わかったわ。わたしはおとなしくしてればいいってわけね?」
「君は目立つから仕方あるまい」
綺麗だから。
口の中で独白してから、短くなった紙巻きタバコの火に触れてしまってオットーは「うわっち!」と悲鳴を上げて飛び上がった。
「研究の時以外はぼさっとしてるからそうなるのよ。もう少し注意深くしなさいな」
怒鳴りつけたリーゼに、ひらひらと口ひげの青年は片手を振っている。
「まるで君は僕のママみたいだな」
「なんですって!」
あなたみたいな手のかかる子供はいらないわ!
コーヒー豆の入った小さな紙袋を片手にしたまま、両手を腰に当てて頬を膨らませて怒って見せたリーゼに、オットーは肩越しに振り返ってからタバコを地面に落とすと爪先で踏みつぶした。
「君の”ご高説”はいつもありがたいと思っているさ」
「本気でそんなことを思っているのかは怪しいものね」
言いながらスイス製の懐中時計の針を確認したリーゼは、所長のハインリヒ・ルーベンスに呼ばれていたことを思い出して歩きだした。
一度地下の木工作業所に戻ってコーヒー豆を置いてから、ルーベンスの執務室へ向かえばいいだろう。マイペースなオットー・ハーンは、リーゼの予定など考えもせずにコーヒー豆を渡したに違いない。
小さく溜め息をついてから、辺りを見回してエミール・フィッシャーの姿がないことを確認すると木工作業所へ引き返した。
世間は不穏に満ちていて、それがどのように自分たちに影響を与えるのかはわからない。
とりとめもなくそんなことを考えながら、リーゼは光の届かない地下の研究室への扉を押した。