1 出会いとはじまり
歌が聞こえる。
彼女の姉は素晴らしいピアノの名手だったけれど、彼女自身はそうではない。だから音楽会に参加しても演奏はしなかった。
彼女は尊敬する高名な物理学の教授であるマックス・プランクの自宅に招かれたその中に素晴らしいテノールの歌声を披露する化学者がおり、彼と彼女はすぐに意気投合した。
彼は洗練されたセンスと天才的な化学に対する勘を持っていて、傍目には誰が見ても男前だった。名前をオットー・ハーンという。
同い年の化学者は、それから生涯かけて彼女の友人となるのだった。
彼女に対して偏見的な視線を向けるわけでもなければ、無粋ないやらしい視線を送るわけでもない。
演奏に耳を傾けている女性科学者にオットー・ハーンは好奇心に満ちあふれた興味深い眼差しを向けて、穏やかな、けれども明朗な声で彼女に右手を差しだして自己紹介をした。
「僕はオットー・ハーンだ。プランク博士に師事している。専門は化学でね。君の噂は聞いているよ。ウィーンで女性でふたり目の博士号らしいじゃないか!」
彼はそう言った。
*
「フロイライン! 聞いているか! マイトナー嬢……!」
叫ぶような声が聞こえて若い女は顔を上げた。
「叫ばなくても聞こえるわよ、ハーンさん」
あきれたような声を吐き出しながら彼女が告げると、彼はうんざりとした顔でネクタイを緩めながら深く溜め息をついた。
「暑い……」
「だからなんだって言うんです。暑いと言えば涼しくなるわけでもないわ」
「君は女性だから体温が低いんだ」
「なんなの、その理屈は」
暑さからかハーンの不機嫌そうな顔に、リーゼは腰に両手を当てて胸をそらせて小首をかしげる。
「暑ければその辺から扇風機でも持ってくればいいじゃない。だいたい、扇風機がなかったころは暑さを凌ぐ手段なんて仰ぐくらいしかなかったんだからあるだけ贅沢だと思いなさいな」
互いに若いとは言えないし、もうすぐ三十歳であることを考えるとすでに人生の曲がり角は過ぎていると言えるかも知れない。しかし、そんなこと彼女にとってはどうでも良かった。彼女と友人としてつきあいを続けるオットー・ハーンにも余り関係のある話ではなかった。
「まぁ、扇風機の構造は単純だが、製品化しようと考えた者勝ちといったところだな」
「単純でもなんでも電気がなければどうにもならないじゃない」
「それもそうだが」
清潔感のある半袖のスモックを着ているリーゼは額の汗を腕で拭ってから、窓辺に歩み寄ると「ところで」と首をすくめた。
「キュリー先生の話は聞いた?」
「あぁ、いろいろと心配になる噂も聞いているが、本人の責任というか、ご本人もよくわかっているだろう」
「……それはそうだけど」
言葉を選ぶように視線をさまよわせた彼女はふと青い瞳を伏せてから夏の日差しの降り注ぐ窓枠を指で触れた。
「ともかく、キュリー先生のことは我々が心配しても仕方あるまい」
「……そうね」
数秒の沈黙を挟んで、リーゼはぽつりとつぶやいた。
「なんだ、その納得できていなさそうな顔は」
「納得なんてできるわけがあるんですか!」
ぴしゃりと言ったリーゼにハーンは肩をすくめると、実験用のテーブルの上に放り出されていた紙切れを取りあげてそこに走り書きされた数式を眺めた。
「同じ分野の研究をしている以上、気にならないわけではないが、僕は医者ではないからな」
「お医者様たちと、神学者たちはわたしたちが神を冒涜しているのだと言っているわ。ピエール先生も、だから亡くなられたのだと」
「……ふん、そんなくだらんこと勝手に言わせておけばいい」
ハーンは一蹴するようにそう言葉を返して、リーゼにぞんざいに万年筆を放り投げた。
「僕の部屋にペンを忘れていっただろう」
「ちょっと……! 乱暴に扱わないでくれない?」
危うく取り落としかけて抗議したリーゼに、金髪の青年は口ひげの下でにやりと笑うと腕を組み直した。
「君の運動神経が鈍っていないようでなによりだ」
「そんなだからいつまでも子供だと言われるのよ」
つけつけと咎めるような口ぶりになるリーゼにオットー・ハーンは鼻で笑う。
「科学者はいつでも子供みたいなもんさ」
「そんなこと言っても社会的な責任というものがあるでしょう」
打てば響く。
そんなふたりの関係は友人以上、恋愛未満。互いに敬意を払い、互いに認め合う。同年のふたりの関係は、ひとつの研究所で巡り会った。