5,急変
雲一つなく、とても気持ちのいい、夜だった。
伸羅はもう準備ができ、夢をコピーしに出ようとしていた。湧奈はまだ来ていない。
「湧奈、来ませんね」
「まあ、このところ、忙しかったからね。今日は急ぎの仕事はないし、少しは許してあげよう」
推関はそう言い、もう一言、付け加えた。
「笠石さんが来るまで、休んでていいよ」
「いや、」
伸羅は断った。
「コピーした夢の数、湧奈にいっつも負けてるんで、今日は先に行って勝ちますよ」
「そうか、気を付けてね」
「はい」
伸羅が出て行ってから、宏忠は時計に視線を移す。
いつもなら、もう来ているはずなんだが……。
次の瞬間、湧奈が部屋に飛び込んできた。
「ごめんなさいっ!寝坊しましたっ!」
「よかった。何かあったのかって心配になってたところだったんだよ。ついさっき北郷君が出掛けたよ」
「ほんっと、すみません……。え、伸羅?ヤバッ!今週今んところ全勝なのに!」
「北郷君もそのこと言ってたよ。今日は勝つって」
が、湧奈はもう、宏忠の話を聞いてはいなかった。すぐに準備を済ませ、
「行って来ます!」
言うが早いか部屋から出ていった。
宏忠は椅子に座り直した。
「……まだ、もう少しかかるかな……」
会社をでて、一時間ほどが経っていた。伸羅は家の壁に寄り掛かって空を見上げていた。
「早く……」
誰でもいい。気づいてくれ……。
ちょうどその時、湧奈がその側を通り過ぎた。
「ゆ……」
一方湧奈も、家と家との間に見える人影に気づいた。
「あれ?伸羅かな」
さっきまではなかった小さな雲が月を覆い、
辺りは少し暗い。だが、それがBAKUの制服であることは認識できた。
「なーにやってんだろ?」
そちらの方に一歩踏み出した時、月が出てきた。
「?」
赤い壁。
違う。あんな模様のある壁なんてない。
では、あれは……?
「……血……!」
湧奈はそこまで、一気に走り抜けた。
鼓動が激しくなる。苦しい。
伸羅は、壁に寄り掛かっていた。その目にはもう、光はない。ただ、口だけが微かに動いている。
「伸羅!」
「……お、」
「?」
「女……」
「女って何?アタシだよっ!湧奈!」
言いつつ、湧奈は携帯を取り出す。
「もしもし!救急車をお願いします!人が!伸羅が!血が……!」
が、まともに話すことができない。
『落ち着いてください!場所は!?』
「ば、場所?」
『あなたが今いる場所です!』
「あ、えと……」
頭の中は真っ白であった。
「ここ、どこ……?」
携帯を取り落とした。涙がこぼれ始めた。相手は湧奈に訊くのを諦めたようだった。
『この電波はどこから出ている!?』
逆に伸羅は、湧奈の声でわずかに意識を取り戻した。
「見た……こ、と、ある……顔……」
「当た、当たり、前でしょ……」
湧奈は嗚咽しながら言う。
「姉妹、か、親戚、か……」
「何を……」
「……恨み、だ……」
「伸羅!目覚ましてっ!」
そこまで言って、湧奈は咽せてしまった。
が、伸羅は冷静だった。視界がますますぼやけるのを感じ、自分がもう助からないと、悟った。だからこそ、冷静になれた。
あと、言わなきゃいけないことは……
伸羅は倒れた。湧奈はそれを受け止めたが、その血を見まいと、おもわず目をそらしてしまった。しかし、湧奈の耳が近くにあることは、伸羅にとっては好都合だった。もう、ほとんど声がでないのだ。
「湧奈……」
湧奈は嗚咽しながらも、耳をすました。
少し間が空いてから、微かな声が聞こえた。
「恨むなよ……」
「う、ら、むわけっ……ない、でしょ……」
湧奈は勇気をだして伸羅を見た。が、伸羅の目はもう、完全に濁ってしまっていた。
救急車が到着したのは、その三分ほどあとのことだった。まだ、湧奈は嗚咽していて、伸羅の身体が運ばれると、静かに泣き出した。堪えていたものがあふれ出した。
次の日の午後、伸羅の葬式が行われた。湧奈は会場に姿を現したものの、式が始まってしばらくすると、式場を出ていってしまった。修斗はその態度に腹を立てていたが、宏忠は
「今は、そっとしておいてあげよう」
と言っただけだった。
突然起こった殺人事件、北郷伸羅の死は、BAKUの人々を悲しませ、また、恐怖させた。