事故物件、内見します
プロローグ ひなた不動産
面接の最後に、社長は、私にこう聞いた。
「あんた、人が死んだ部屋に、入れるか」
荒川区町屋。都電の停留所から歩いて三分の、古い商店街の外れ。間口二間ほどの小さな店のガラス戸に、色褪せた物件チラシが何十枚も貼られていた。看板には、ペンキの剥げかけた文字で、「ひなた不動産」。
店の奥の、スチール机を挟んで、私は、社長と向かい合っていた。
宇佐美源三。七十二歳。白髪を短く刈り込み、灰色のカーディガンを着た、小柄な老人だった。老眼鏡の奥の目だけが、妙に鋭かった。
「……人が、死んだ部屋、ですか」
「うちは、そういう部屋を、よく扱う」
社長は、机の引き出しから、ファイルを一冊取り出して、私の前に置いた。
表紙に、マジックで「告知事項あり」と書かれていた。
「孤独死。自殺。事件。火事。前の住人が、何かの事情で、その部屋で亡くなった物件だ。世間じゃ、事故物件と呼ぶ」
私は、ファイルを開かずに、表紙を見つめていた。
「大手の不動産屋は、こういう物件を嫌がる。手間がかかるし、客に説明するのも気が重い。だから、大家さんたちは、困ってうちに持ってくる。うちは、断らない」
「……どうしてですか」
「部屋に、罪はないからだ」
社長は、老眼鏡を外して、目頭を押さえた。
「部屋は、住む人がいて初めて、部屋になる。誰も住まなくなった部屋は、ただの箱だ。前の住人に何があったとしても、次の住人が見つかれば、部屋は、また部屋に戻れる」
社長は、私を見た。
「うちの仕事は、それだけだ。で、あんたは、入れるか。人が死んだ部屋に」
私は、少しだけ迷った。
それから、正直に答えた。
「――入れます」
「ほう」
「というか、入りたくて、ここに来ました」
社長の眉が、ぴくりと動いた。
私は、鞄から、一枚の紙を取り出した。
古い賃貸契約書の、コピーだった。物件の所在地。荒川区東尾久、コーポ若葉、二〇四号室。管理会社の欄に、小さく印刷された社名。
――ひなた不動産。
借主の欄には、私と同じ苗字が書いてあった。
椎名灯子。
「五年前に、その部屋で亡くなった、私の姉です」
社長の顔から、表情が消えた。
「病死でした。心臓の病気で。一人暮らしで、見つかったのは、亡くなって二週間たってからでした」
私は、膝の上で、拳を握った。
「私と姉は、ずっと、仲が悪かったんです。三年くらい、口もきいてなかった。姉が亡くなったときも、私、警察から電話がかかってくるまで、姉がどこに住んでるのかさえ、知らなかった」
「……」
「姉の部屋の片づけは、両親がやりました。私は、行かなかった。行けなかった。怖くて」
声が、少しだけ震えた。
「でも、去年、母から聞いたんです。姉の部屋の玄関のドアノブに、姉が亡くなったあと、毎月、小さな花束が掛けられていたって。誰が掛けたのか、分からないって。部屋を引き払うまでの、三か月間、ずっと」
社長は、黙って聞いていた。
「姉に、そんなことをしてくれる人がいたなんて、私は知らなかった。姉は、孤独に死んだんだと思ってた。誰にも気づかれずに、二週間も」
私は、社長をまっすぐに見た。
「姉が、あの部屋で、どんなふうに暮らしてたのか。誰が、花を掛けてくれたのか。それが、知りたいんです。そのためには、姉の部屋を管理していた不動産屋さんで働くのが、いちばんの近道だと思いました」
店の中が、しんと静まり返った。
表を、都電が、ごとごとと通り過ぎていった。
「……宅建は」
「持ってます。去年、取りました。ほかに、何もできないので」
「大学は」
「美大です。絵画の修復を勉強してました。中退ですけど」
「修復?」
「古い絵の、汚れや傷を調べて、元の姿に戻す勉強です。絵の具の層を、一枚ずつ見ていくんです。前の人が、何を描いて、何を塗りつぶしたのか」
社長は、しばらく黙っていた。
それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「明日から来い。給料は安いぞ」
*
ひなた不動産の社員は、社長と私の二人だけだった。
いや、正確には、もう一人いた。社員ではないけれど、ほとんど毎日、店に顔を出す男が。
「――あんたが、新人?」
入社して三日目の朝、店のガラス戸を開けて入ってきたのは、紺色の作業着を着た、背の高い若い男だった。二十代の終わりくらいだろうか。無精ひげを生やし、首にタオルを巻いている。手には、コンビニの袋。
「黒木です。『クリーンリーフ』って会社で、特殊清掃やってる」
特殊清掃。
人が亡くなった部屋の、遺体の痕跡や、臭いや、汚れを、専門に清掃する仕事だ。孤独死で発見が遅れた部屋や、事件のあった部屋。普通の清掃業者では手に負えない部屋を、元の状態に戻す。
「宇佐美さんの物件は、ほとんどうちがやってる。だから、まあ、よろしく」
黒木は、コンビニの袋から、缶コーヒーを二本取り出して、一本を私の机に置いた。
「……ありがとうございます」
「社長から、聞いた。お姉さんのこと」
私は、缶コーヒーを握ったまま、固まった。
「五年前の、コーポ若葉の二〇四。あれ、俺が清掃したんだ」
「――え」
「俺が、この仕事を始めて、二年目くらいの現場だった。よく覚えてる」
黒木は、自分の缶コーヒーのプルタブを開けた。
「花のことも、覚えてる。清掃に入った日、玄関のドアノブに、小さな花束が掛かってた。白い、マーガレットだったかな。輪ゴムで留めただけの、手作りっぽいやつ」
私は、息を呑んだ。
「誰が掛けたか、知ってますか」
「知らない。でも――」
黒木は、少しだけ迷うような顔をした。
「部屋の中に、変なものがあった。清掃しながら、ずっと気になってたんだけど」
「変なもの?」
「冷蔵庫の扉に、子供の絵が、何枚も貼ってあったんだ。クレヨンで描いた。お姉さんに、子供は?」
「……いません。結婚もしてなかった」
「だよな」
黒木は、缶コーヒーを一口飲んだ。
「絵には、全部、同じ女の人が描いてあった。髪の長い、笑ってる女の人。その横に、たどたどしい字で、『とうこちゃん』って」
私の手の中で、缶コーヒーが、かすかに震えた。
とうこちゃん。
姉の名前だった。
「絵は、どうなったんですか」
「遺品として、ご両親に渡したはずだ。俺が、全部まとめて、段ボールに入れた」
両親の家の、押し入れの奥。姉の遺品の段ボールは、五年間、一度も開けられていない。母が、開けられないと言っていた。
「――おい、黒木。新人に、余計な話をするな」
店の奥から、社長の声が飛んできた。
社長は、老眼鏡を額に押し上げて、黒木を睨んでいた。
「こいつには、まず、仕事を覚えてもらう。姉さんのことは、そのあとだ」
「へいへい」
黒木は、肩をすくめた。
社長は、机の上のファイルを一冊、私のほうへ放り投げた。
表紙に、「告知事項あり」。
「今日の午後、内見が一件入ってる。あんたが行け」
「えっ、私一人で、ですか」
「黒木を連れていけ。どうせ、暇なんだろう」
「暇じゃないっすよ」
黒木が、ぼやいた。
私は、ファイルを開いた。
――荒川区西日暮里、メゾン・ソレイユ、三〇二号室。
――告知事項:前入居者(七十八歳男性)、室内にて病死。死後約三週間で発見。特殊清掃済み。
――内見希望者:二十六歳女性。
事故物件の、最初の内見だった。
第一話 三〇二号室の柱
メゾン・ソレイユは、西日暮里の線路沿いに建つ、築四十年の古いマンションだった。
五階建て。外壁のタイルは、ところどころ剥がれ、エレベーターはない。三階まで、狭い階段を上っていく。踊り場の窓から、山手線の電車が、すぐ目の前を通り過ぎていくのが見えた。
「――告知事項の説明、ちゃんとできるか」
階段を上りながら、黒木が聞いた。
「たぶん。昨日の夜、ガイドライン、読み込んできました」
「言ってみ」
「えっと」
私は、頭の中で、昨夜覚えた内容をなぞった。
「何年か前に、国土交通省が、人の死の告知に関するガイドラインを出しました。老衰や病気による自然死や、家の中での転倒なんかの事故死は、原則として、告知しなくていい。でも、亡くなってから発見までに時間がかかって、特殊清掃や大規模なリフォームが必要になった場合は、告知の対象になる。賃貸の場合は、おおむね三年がたつまでは」
「合格」
黒木は、少しだけ笑った。
「この部屋は、まさにそれだ。病死だけど、三週間見つからなかった。俺が、清掃に入った」
三階の、いちばん奥の部屋の前で、黒木は足を止めた。
三〇二号室。
鉄の扉の表面は、新しく塗り直されていた。ドアノブも、新品に交換されていた。
「ひどかったんですか、中」
「……夏だったからな」
黒木は、それ以上言わなかった。
内見の客は、約束の時間ちょうどに、階段を上ってきた。
二十六歳の女性。野口美咲さん。
小柄で、髪を後ろで一つに束ねていた。グレーのパーカーに、ジーンズ。化粧は薄く、どこか緊張した顔をしていた。
「ひなた不動産の、椎名です。本日は、よろしくお願いします」
「……よろしくお願いします」
野口さんは、小さく頭を下げた。
それから、三〇二号室の扉を、じっと見つめた。
「お部屋に入る前に、ご説明しておかなければならないことがあります」
私は、ファイルを開いた。
「このお部屋では、昨年の八月に、前の入居者の方が、室内で病気のため亡くなっています。七十八歳の、男性の方です。発見までに、およそ三週間かかりました。そのため、専門の業者による特殊清掃と、床と壁の張り替えを行っています」
野口さんは、扉を見つめたまま、黙って聞いていた。
「家賃は、周辺の相場より、二割ほど安くなっています。それも、この事情によるものです。――ご説明は、以上です。それでも、お部屋をご覧になりますか」
「はい」
野口さんは、即答した。
迷いのない声だった。
私は、少しだけ意外に思った。事故物件の内見の客は、たいてい、説明を聞いて顔を曇らせる。安さに惹かれて来たものの、いざとなると、怖気づく人が多いのだと、社長は言っていた。
野口さんは、むしろ、早く中に入りたがっているように見えた。
部屋は、1DKだった。
玄関を入ると、短い廊下の先に、六畳ほどのダイニングキッチン。その奥に、六畳の和室。和室の窓の向こうを、山手線が通り過ぎていく。
床は、真新しいフローリングに張り替えられていた。壁紙も、白い新しいものに替わっていた。台所のシンクも、換気扇も、新品だった。
どこにも、前の住人の痕跡はなかった。
――いや。
一つだけ、あった。
ダイニングと和室のあいだの、柱だった。
古い、焦げ茶色の木の柱。壁紙は張り替えられていたが、柱だけは、元のまま残されていた。
その柱の、腰の高さから下に、細い線が、何本も刻まれていた。
鉛筆の線だった。横に一本ずつ、少しずつ高さを変えて。線の横に、小さな数字が書き込まれている。
――3さい。4さい。5さい。6さい。
子供の、背の高さの記録だった。
「……これ、残したんですか」
私が小声で聞くと、黒木が頷いた。
「大家さんに、頼んだんだ。消さないでくれって」
「どうして」
「清掃に入ったとき、亡くなったじいさんの枕元に、写真が一枚、落ちてた。小さな女の子と、じいさんが、この柱の前で並んでる写真。女の子が、柱に背中をつけて、じいさんが、頭の上に鉛筆を当ててた」
黒木は、柱の線を見下ろした。
「なんか――消したら、いけない気がした」
野口さんは、ダイニングの真ん中に立って、部屋を見回していた。
台所。窓。和室の押し入れ。
それから、ゆっくりと、柱の前へ歩いていった。
柱の前で、足を止めた。
長いあいだ、黙って、鉛筆の線を見下ろしていた。
それから、しゃがみ込んで、いちばん下の線に、そっと指先を触れた。
――3さい。
「……野口さん?」
私が声をかけると、野口さんの肩が、びくりと震えた。
振り返った顔が、涙で濡れていた。
「すみません」
野口さんは、慌てて袖で目元を拭った。
「すみません、ちょっと、思い出しちゃって」
「――お祖父様、ですか」
私の口から、勝手に言葉が出ていた。
野口さんの目が、大きく見開かれた。
「どうして……」
「その柱の線を、ずっと見ていらしたから」
私は、柱の、いちばん上の線を指さした。
「6さい、で止まってますよね。その上には、何も書いてない。でも、柱の木の色が、6さいの線の上で、少しだけ違うんです。ほら、ここ」
私は、柱に顔を近づけた。
6さいの線の、少し上。木の表面が、そこだけ、わずかに白っぽく、すり減っていた。
「この高さに、何度も、何かが触れた跡です。たぶん、手のひら。誰かが、何年も、毎日のように、ここに手を当てていた」
野口さんは、口を両手で押さえた。
「美大で、古い絵の修復を勉強してたんです。絵の表面の、こすれた跡とか、指の脂の跡とか、そういうのを、毎日見てました。だから、なんとなく、分かるんです」
私は、柱の、すり減った跡を見つめた。
「6さいで、線が止まった。でも、そのあとも、誰かが、毎日、この柱に手を当てていた。7さいの線を引くはずだった高さに」
野口さんは、柱の前に座り込んで、声を殺して泣いた。
黒木が、黙って、和室の窓を少しだけ開けた。山手線の音が、遠くから流れ込んできた。
しばらくして、野口さんは、ぽつりぽつりと話し始めた。
「――祖父は、私が三歳のときから六歳まで、ここで、私を育ててくれたんです」
両親が離婚して、母が仕事に出るあいだ、野口さんは、母方の祖父に預けられた。祖父は、この部屋で、一人暮らしをしていた。元は、町工場の旋盤工だったという。
「毎年、誕生日に、この柱に、背の高さを書いてくれました。大きくなったなあって。お前が、この柱を越えるまで、じいちゃんは長生きするぞって」
六歳の春、母が再婚した。新しい父親は、九州の人だった。母と野口さんは、九州へ引っ越すことになった。
「母と祖父は、そのとき、ひどい喧嘩をしたみたいで。それきり、二十年、一度も連絡を取りませんでした。私も、祖父に会いたいって、言えなかった。新しい父に、悪い気がして」
野口さんは、柱の、すり減った跡に手を当てた。
「去年の秋に、警察から、母に電話がありました。祖父が、亡くなったって。三週間、誰にも気づかれずに」
「……」
「母は、葬儀にも行きませんでした。私が、一人で行きました。東京に出てきて、就職して、二年目でした。祖父がまだここに住んでるって、なんとなく知ってたのに。一度も、会いに来なかった」
野口さんの声が、震えた。
「この部屋が、空き部屋の情報サイトに出てるのを、見つけたんです。告知事項あり、って。安いからとかじゃなくて――祖父が、最後に暮らした部屋に、住みたいと思った。祖父が、一人で死んだ部屋に。私が、来なかった部屋に」
野口さんは、私を見た。
「でも、怖かったんです。亡くなった人の孫だって言ったら、断られるんじゃないかって。気持ち悪がられるんじゃないかって。だから、黙ってました」
「断りません」
私は、言った。
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
「うちの社長は、言ってました。部屋は、住む人がいて初めて、部屋になるって。この部屋に住みたい人がいるなら、断る理由なんて、ありません」
そのとき、黒木が、和室の押し入れの前で、低い声を出した。
「――椎名。ちょっと、来てくれ」
押し入れの襖は、新しく張り替えられていた。その奥の、壁の部分。
黒木は、押し入れの上段の、天井近くの壁を、指さしていた。
「清掃のとき、ここだけ、壁紙を張り替えなかったんだ。押し入れの中は汚れてなかったから。で、さっき、窓を開けたときに、光の加減で気づいたんだけど」
私は、押し入れの上段に、上半身を入れた。
古い、黄ばんだ壁紙だった。花柄の、昭和の頃の。
その花柄の一部が、ほんのわずかに、色が違っていた。
四角く、ハガキほどの大きさだけ。
周りの壁紙より、花柄の色が、少しだけ鮮やかだった。日に焼けていない。そして、四角の縁が、ほんのわずかに、浮いていた。
「……後から、上に貼ってありますね」
修復の授業で、何度も見たことがあった。古い絵の上に、後の時代の誰かが、別の絵の具を重ねた跡。周りと、色の褪せ方が違う。
「同じ柄の壁紙を、切り抜いて、上から貼ってある。下に、何かを隠すために」
私は、野口さんを振り返った。
「――剥がしても、いいですか」
野口さんは、黙って頷いた。
壁紙の縁に、そっと爪をかけた。
古い糊は、もう乾ききっていた。四角い壁紙は、ほとんど抵抗なく、ぺりぺりと剥がれた。
その下の壁に、小さな窪みがあった。
壁板を、四角く切り抜いて作った、浅い隠し棚だった。
中に、ビニール袋に包まれた、薄いものが一つ。
私は、それを取り出して、野口さんに渡した。
野口さんは、震える指で、ビニール袋を開いた。
中から出てきたのは、通帳と、一枚の便箋だった。
通帳の名義は、「ノグチ ミサキ」。
二十年分の、記帳があった。毎月、一万円ずつ。一度も欠かさずに。最後の記帳は、亡くなる一か月前だった。
便箋には、震える鉛筆の字で、短い文が書かれていた。
――みさきへ。
――じいちゃんは、柱をこえるまで、長生きできなかった。ごめんな。
――このお金で、好きなものを、買いなさい。
――七さいからの線は、じいちゃんが、毎年、手で、はかっておいた。お前は、きっと、もう、じいちゃんより、大きくなっただろう。
――じいちゃん。
野口さんは、便箋を胸に抱いて、柱の前に崩れ落ちた。
柱の、6さいの線の上の、すり減った跡。
二十年間、祖父が、毎年、孫の誕生日に、手のひらを当てていた場所。
七歳の高さ。八歳の高さ。九歳の高さ。会えなかった孫が、今ごろどのくらい大きくなったか、想像しながら。
私は、何も言えなかった。
黒木が、黙って、私の肩を、軽く叩いた。
その週の金曜日、野口さんは、三〇二号室の賃貸契約書に、判を押した。
契約の日、野口さんは、店に小さな紙袋を持ってきた。
「柱に、線を引いてもいいですか」
「線、ですか」
「祖父の、横に」
野口さんは、紙袋から、新しい鉛筆を一本、取り出した。
「二十六歳の、私の線を。祖父が、手で測ってくれた高さより、ずっと上に」
社長が、店の奥から、ふんと鼻を鳴らした。
「柱は、大家さんのもんだ。勝手に書いたら、退去のときに、修繕費を取られるぞ」
野口さんの顔が、曇った。
「――が、俺から大家さんに、話しておく」
社長は、老眼鏡を外して、目頭を押さえた。
「消さなくていい柱も、あるだろう」
第二話 スイッチの位置
二件目の事故物件は、南千住の、隅田川に近いアパートだった。
コーポ白鷺、一〇三号室。築三十年の、木造二階建て。一階の角部屋で、窓の外に、小さな庭がついている。
ファイルの告知事項の欄を読んで、私は、思わず手を止めた。
――告知事項:四年前、前入居者(三十四歳男性)が室内にて死亡。他殺。犯人は未検挙。
「……未検挙」
「まだ、捕まってないってことだ」
社長が、店の奥の机から、低い声で言った。
「四年前の冬だった。会社員の男が、部屋で刺されて死んでた。発見したのは、無断欠勤を心配して来た同僚だ。部屋は荒らされてなかった。財布も、そのまま。顔見知りの犯行だろうって、警察は言ってたが、結局、誰も捕まらなかった」
「……そういう部屋も、扱うんですね」
「大家さんが、困ってる。四年、誰も入らない。事件のあった部屋は、自然死とは違って、何年たっても告知しなきゃならない。家賃を半分にしても、内見に来る客は、説明を聞いた瞬間に帰っていく」
社長は、老眼鏡を外した。
「それが、今週、内見の予約が入った。夫婦で。しかも、向こうから、この部屋を指名してきた」
「指名……」
「物件サイトで見つけたそうだ。告知事項も、全部読んだ上で。それでも、ぜひ見たいと」
社長の目が、私を見た。
「あんた、こういうときは、どう思う」
私は、少し考えた。
「……安さに、惹かれた?」
「それもある。だが、それだけじゃないかもしれん」
社長は、引き出しから、古い名刺を一枚取り出して、私の机に置いた。
――荒川警察署 刑事課 権藤。
「四年前の事件の担当刑事だ。昔からの知り合いでな。何か気になることがあったら、こいつに電話しろ」
「……気になること、って」
「事件のあった部屋に、自分から入りたがる客には、いろんな奴がいる」
社長は、老眼鏡をかけ直した。
「怖いもの見たさの物好き。安けりゃ何でもいい奴。亡くなった人の知り合い。――それから、ごくたまに、部屋に、置き忘れたものを取りに来る奴もいる」
内見は、土曜の午後だった。
夫婦は、時間より少し早く、アパートの前で待っていた。
夫は、堀田という四十代の男だった。背が高く、日に焼けた顔に、人懐っこい笑みを浮かべている。作業着の上に、ダウンジャケットを羽織っていた。
妻は、三十代の後半くらいだろうか。細身で、長い髪を背中に垂らしていた。ベージュのコートの襟を立てて、少し離れたところに立っていた。夫が挨拶をしているあいだも、ずっと、アパートの一〇三号室の窓を見つめていた。
「ひなた不動産の、椎名です。こちらは、協力業者の黒木です」
黒木は、黙って頭を下げた。社長に言われて、今日も一緒に来てもらっていた。
「いやあ、すみませんね、こんな部屋の内見なんか頼んじゃって」
堀田さんは、頭を掻いて笑った。
「建設現場で働いてるんですけどね、去年、会社が傾いちゃって。給料が三割カット。家賃の安いところを探してたら、ここが出てきて。事件のことは、まあ、気にしないほうなんで」
「奥様も、ですか」
私が聞くと、妻は、ゆっくりとこちらを振り返った。
「……ええ。主人が、いいと言うなら」
小さな、抑揚のない声だった。
告知事項の説明をした。四年前の冬。三十四歳の男性。他殺。犯人は、まだ捕まっていない。
堀田さんは、神妙な顔で頷きながら聞いていた。妻は、その間も、ずっと窓を見ていた。
「――以上です。それでも、お部屋をご覧になりますか」
「もちろん」
堀田さんが、即答した。
私は、鍵を開けた。
部屋は、1LDKだった。玄関を入ると、すぐに十畳ほどのリビング。その奥に、六畳の和室。リビングの窓の向こうに、小さな庭。
事件のあと、部屋は全面的に改装されていた。床も、壁も、天井も、すべて新しくなっていた。キッチンも、浴室も、トイレも。間取りまで、少し変えたのだという。もとはリビングと和室のあいだにあった壁を取り払って、広い一部屋にした。
黒木が、清掃と、改装の一部を手がけていた。
「改装のとき、電気の配線も、全部やり直した。スイッチの位置も変わってる。もとは玄関の右側にあったのを、左側に」
黒木が、玄関の左の壁を指さした。真新しい、白いスイッチのプレートがあった。
「――暗いですね」
玄関で靴を脱ぎながら、堀田さんが言った。
確かに、窓のカーテンが閉まっていて、部屋の中は薄暗かった。
「電気、つけますね」
私が言うより先に、堀田さんの右手が、すっと玄関の右側の壁に伸びた。
何もない壁を、手のひらが、ぱたぱたと探った。
「……あれ?」
「スイッチ、そっちじゃないです。左です」
黒木が、左の壁のスイッチを押した。天井の照明が、ぱっと灯った。
「ああ、すみません。うちのアパート、右側なもんで、つい」
堀田さんは、照れくさそうに笑った。
私は、何も言わなかった。
だが、黒木と、一瞬だけ、目が合った。
――初めて来た部屋で、迷わずに、右の壁に手を伸ばした。
四年前まで、スイッチがあった場所に。
堀田さんは、部屋の中を、あちこち見て回った。キッチンの収納を開け、浴室を覗き、クローゼットの中を確かめた。窓を開けて、庭を眺めた。
「いいですねえ。日当たりもいいし、庭もある」
妻は、玄関から一歩入ったところに、立ち尽くしていた。
靴を脱いでいなかった。
「奥様も、どうぞ。中を、ご覧になってください」
私が声をかけると、妻は、ゆっくりと首を振った。
「……ここで、いいです」
「でも――」
「ここで、いいんです」
妻の目は、リビングの奥を見ていた。
もとは和室だった場所。今は、リビングとひと続きの、フローリングの一角。
その一角の、天井を。
堀田さんが、そこへ歩いていった。
「この上、何かあるんですか? 四角い蓋みたいなの」
天井に、四十センチ四方ほどの、白い枠があった。
天井点検口だった。天井裏の配線や配管を点検するための、取り外し式の蓋。
「点検口です。天井裏に、電気の配線が通ってるので」
黒木が答えた。
「改装のとき、開けました?」
「配線を替えるときに、何度か。――何か、気になります?」
「いや、別に。ほら、ネズミとか出たら嫌だなと思って」
堀田さんは、笑って、点検口から目を離した。
玄関で、妻が、コートの襟を、ぎゅっと握りしめていた。
内見は、三十分ほどで終わった。
堀田さんは、アパートの前で、深々と頭を下げた。
「前向きに考えます。たぶん、借りると思います。来週、もう一回、見せてもらってもいいですか。今度は、俺一人で」
「……はい。ご連絡、お待ちしています」
夫婦が去っていくのを、私と黒木は、アパートの前で見送った。
夫が、何か話しかけていた。妻は、答えなかった。一度も、振り返らなかった。
「――黒木さん」
「ああ」
「スイッチ」
「見た」
黒木は、煙草を取り出しかけて、やめた。
「初めて来た部屋で、迷わず右に手を伸ばす奴は、いない。間取り図にも、スイッチの位置までは載ってない」
「四年前の部屋を、知ってるんですね」
「たぶんな」
「それに、点検口」
「……ああ」
黒木は、アパートの一〇三号室の窓を見上げた。
「改装のとき、点検口は開けた。でも、俺が見たのは、点検口のまわりだけだ。天井裏の奥までは、潜ってない。配線の業者も、たぶん同じだ」
「四年前の警察は」
「さあな。事件のあと、現場検証はしたはずだ。でも、天井裏の、奥の奥まで這いずり回ったかどうかは」
私は、ポケットから、社長に渡された名刺を取り出した。
――荒川警察署 刑事課 権藤。
「……来週、もう一回、一人で見に来たいって」
「天井裏に、何か忘れ物でもしたんだろう」
黒木の声が、低くなった。
「四年前に」
店に戻ると、社長は、私たちの話を、黙って聞いていた。
話し終えると、社長は、老眼鏡を外して、長いあいだ目を閉じていた。
「――権藤に、電話しろ」
「はい」
「それと、椎名」
「はい」
「来週の内見は、あんたは行くな。黒木と、権藤に任せろ」
「でも――」
「人が死んだ部屋に入るのと、人を殺した奴と同じ部屋に入るのは、違う」
社長の声は、静かだったが、有無を言わせなかった。
私は、唇を噛んだ。
頭の中に、妻の顔が浮かんでいた。
玄関から一歩も中に入らずに、靴も脱がずに、ずっと、点検口の下の一角を見つめていた、あの顔が。
――ここで、いいんです。
何かが、引っかかっていた。
スイッチに手を伸ばしたのは、夫だった。点検口のことを聞いたのも、夫だった。
でも、あの部屋を、いちばん怖がっていたのは、妻だった。
権藤刑事は、社長と同じくらいの年に見える、がっしりした体つきの男だった。
ひなた不動産の店の奥で、私と黒木の話を聞き終えると、権藤刑事は、手帳を閉じて、深いため息をついた。
「――堀田、か」
「ご存じなんですか」
「四年前の、第一発見者だよ」
私は、息を呑んだ。
「被害者の石川拓也は、設計事務所の社員だった。堀田は、石川が担当してた建設現場の、現場監督でな。仕事の付き合いだけじゃなく、飲み仲間でもあった。石川が三日無断欠勤して、電話にも出ないってんで、堀田が様子を見に来た。合鍵の場所を知ってたらしい。郵便受けの裏に、磁石で貼りつけてあったそうだ」
「じゃあ、スイッチの位置を知ってたのは――」
「何度も、あの部屋に遊びに行ってたからだろうな」
権藤刑事は、手帳をとんとんと机に打ちつけた。
「当然、俺たちは、真っ先に堀田を疑った。第一発見者は、まず疑うのが鉄則だ。だが、堀田には、アリバイがあった。犯行推定時刻には、千葉の現場で、夜通しのコンクリート打設に立ち会ってた。作業員が二十人、証言した」
「……じゃあ、堀田さんは、犯人じゃない」
「少なくとも、刺したのは、堀田じゃない」
権藤刑事は、少しだけ目を細めた。
「だが、その堀田が、四年たって、わざわざあの部屋を借りたがってる。しかも、天井の点検口を気にしてる。――気にならないと言えば、嘘になる」
「奥さんのことは」
私が聞くと、権藤刑事は、怪訝そうに眉を上げた。
「奥さん?」
「堀田さんの、奥さんです。内見のとき、一度も、部屋に上がらなかったんです。靴も脱がずに、玄関に立ったまま。ずっと、点検口の下を見てました」
権藤刑事は、黙って、手帳を開き直した。
頁を、何枚もめくった。
それから、ある頁で、指を止めた。
「……堀田が結婚したのは、事件の一年後だ。相手は――」
権藤刑事の声が、低くなった。
「被害者の石川が、事件の半年前まで、付き合ってた女だ」
店の中が、しんと静まり返った。
表を、都電が、ごとごとと通り過ぎていった。
「当時、俺たちは、その女にも話を聞いた。石川とは、別れてから一度も会っていないと言っていた。事件の夜は、自宅で一人だった。アリバイは、なかった。だが、証拠もなかった。凶器の包丁は、部屋から消えてた。犯人が持ち去ったと、俺たちは考えた」
権藤刑事は、手帳を閉じた。
「その女が、石川の飲み仲間の堀田と、事件の一年後に結婚した。――当時も、少しは引っかかったんだ。だが、それだけじゃ、何も言えなかった」
社長が、低い声で言った。
「その女が、元恋人の部屋の合鍵の場所を、知らなかったはずはないな」
「……ああ」
「部屋の天井の、点検口のことも」
権藤刑事は、答えなかった。
黒木が、腕を組んだまま、ぽつりと言った。
「天井裏は、奥まで潜れば、人一人が這いずれるくらいの広さがある。断熱材の隙間に、何か押し込んでおけば、点検口から覗いたくらいじゃ、まず見つからない」
「――来週の内見だ」
権藤刑事が、立ち上がった。
「堀田が、一人で来ると言ったんだな」
「はい」
「俺も行く。黒木くん、案内を頼む」
「了解」
権藤刑事は、私を見た。
「お嬢さんは、店にいてくれ。社長の言うとおりだ」
私は、何も言わずに、頷いた。
――本当に、それでいいのか。
胸の奥で、何かが、ざわざわと鳴っていた。
翌週の土曜日。
私は、店にいなかった。
コーポ白鷺の、道を挟んだ向かいの、小さな児童公園のベンチに座っていた。
社長には、銀行に行ってくると言って、店を出てきた。嘘だった。
公園から、一〇三号室の窓が見えた。カーテンが、少しだけ開いていた。中に、黒木と、権藤刑事と、堀田さんの影が動いていた。
内見が始まって、二十分ほどたっていた。
私は、部屋の窓ではなく、アパートの前の通りを見ていた。
――来る気がした。
理由は、分からなかった。ただ、あの妻の顔が、頭から離れなかった。夫が一人で部屋を見に来ると言ったとき、あの人は、家で、じっと待っていられるだろうか。
通りの角に、ベージュのコートが見えた。
長い髪を、背中に垂らした女性。
堀田さんの、妻だった。
妻は、アパートの前で、足を止めた。一〇三号室の窓を見上げた。カーテンの隙間から、中の人影が動くのが見えたのだろう。
妻の顔が、真っ白になった。
その場に、立ち尽くしていた。
私は、ベンチから立ち上がった。
「――堀田さん」
声をかけると、妻は、びくりと肩を震わせて、振り返った。
「……不動産屋さん」
「椎名です。先週は、ありがとうございました」
妻の目が、私と、一〇三号室の窓とを、行き来した。
「主人は、中に?」
「はい。うちの協力業者と、それから――」
私は、少しだけ迷った。
「荒川署の、刑事さんが」
妻の膝から、力が抜けた。
私は、とっさに、妻の腕を支えた。細い腕だった。コートの下で、小刻みに震えていた。
「……座りましょう。公園に、ベンチがあります」
公園のベンチに並んで座っても、妻は、しばらく何も言わなかった。
両手で、コートの裾を握りしめていた。視線は、ずっと、一〇三号室の窓に向いていた。
「――主人が、あの部屋を見つけてきたんです」
妻が、ぽつりと言った。
「家賃が安い、事件のあった部屋だって。石川さんの部屋だって、すぐに分かった。主人は、知らないんです。私が、石川さんと付き合ってたこと。石川さんの部屋に、何度も泊まってたこと」
「……」
「主人は、言いました。石川の部屋に住めば、あいつの供養になる気がするって。四年前、あいつの部屋で、あいつを見つけたのは、俺だから。あの部屋を、誰も住まない部屋のままにしておくのは、可哀想だって」
妻の声が、震えた。
「やめてって、言えなかった。言ったら、理由を聞かれるから」
私は、黙って聞いていた。
「先週、一緒に見に行ったのは、確かめたかったからです。あの部屋が、どうなってるのか。全部、新しくなってた。床も、壁も、キッチンも。間取りまで、変わってた。――でも、天井の点検口だけは、昔のまま、同じ場所にあった」
妻は、顔を両手で覆った。
「主人が、点検口を見上げて、何か気になりますかって、聞いたとき。心臓が、止まるかと思った」
アパートの一〇三号室の窓の中で、影が、大きく動いた。
誰かが、脚立に上っているようだった。天井の、点検口のあたりで。
妻は、それを、指のあいだから見ていた。
「……あの夜、私、石川さんに、会いに行ったんです」
小さな、消え入りそうな声だった。
「別れてから、半年。石川さんに、新しい恋人ができたって聞いて。どうしても、もう一度、話がしたくて。合鍵の場所は、知ってました。郵便受けの裏の、磁石」
「……」
「石川さんは、私の顔を見て、怒りました。何しに来たんだって。もう終わったんだって。台所で、料理を作ってる途中でした。私は、泣いて、すがって――石川さんが、私の腕を振り払って」
妻の肩が、大きく震えた。
「気がついたら、台所の包丁が、私の手の中にありました」
公園の木の枝で、カラスが一羽、鳴いた。
「怖くて、包丁を、どこかに隠さなきゃって思った。持って帰ったら、見つかる。捨てたら、見つかる。そう思ったら、和室の天井の、点検口が目に入った。石川さんが、前に、ここは天井裏に入れるんだぜって、見せてくれたことがあったから」
妻は、両手で顔を覆ったまま、泣き崩れた。
「四年間、毎晩、夢に見ました。天井裏の、あの包丁を。誰かが見つけるんじゃないかって。誰も見つけないまま、ずっとあそこにあるんじゃないかって。どっちも、怖かった」
「……」
「主人と結婚したのは、石川さんの話ができる人が、主人しかいなかったからです。主人は、石川さんのこと、本当の弟みたいに思ってた。主人と、石川さんの思い出話をしてるときだけ、私、少しだけ、息ができた」
妻は、顔を上げた。
涙で、顔がぐしゃぐしゃだった。
「最低ですよね。主人を、ずっと、騙してた」
一〇三号室の窓が、開いた。
黒木が、窓から身を乗り出して、こちらを見ていた。
私と、隣に座る妻を見て、黒木の顔が強張った。
黒木の手に、何かが握られていた。
薄汚れた、布に包まれた、細長いもの。
布は、色褪せた、花柄のスカーフだった。
妻が、それを見て、小さな悲鳴を上げた。
アパートの玄関から、堀田さんが、飛び出してきた。
通りを渡って、公園の入口で、足を止めた。
ベンチに座る妻を、見つめた。
「――由紀」
堀田さんの声が、かすれていた。
「あのスカーフ、お前のだよな。結婚したとき、お前、言ってたよな。昔、大事にしてたスカーフを、なくしたって」
妻は、答えなかった。
ただ、ベンチから立ち上がって、夫の前まで歩いていった。
夫の胸に、額をつけた。
「……ごめんなさい」
堀田さんは、妻を抱きしめなかった。
突き放しもしなかった。
ただ、両腕を、だらりと下げたまま、空を見上げていた。
その目から、涙が、一筋、こぼれた。
権藤刑事が、公園の入口に立っていた。
しばらく、二人を黙って見ていた。
それから、静かに、妻の肩に手を置いた。
「――署で、話を聞かせてもらえますか」
妻は、黙って頷いた。
堀田さんの胸から、ゆっくりと額を離した。
パトカーに乗り込む前に、妻は、一度だけ、一〇三号室の窓を振り返った。
四年ぶりに、天井裏が空になった部屋を。
*
その夜、店に戻ると、社長が、店の奥の机で、腕を組んで待っていた。
「――銀行は、どうだった」
私は、何も言えずに、立ち尽くした。
社長は、長いあいだ、私を睨んでいた。
それから、ふっと、息を吐いた。
「権藤から、電話があった。あんたが公園にいなかったら、女房は、あのまま、どこかへ消えてたかもしれないそうだ」
「……すみません。行くなって、言われたのに」
「謝るなら、最初からやるな」
社長は、老眼鏡を外した。
「――が、よく見てた」
社長は、机の上の、コーポ白鷺のファイルを、私のほうへ押しやった。
「堀田は、あの部屋を、借りるそうだ」
「えっ」
「さっき、電話してきた。女房が、四年、毎晩夢に見た部屋だ。自分が住んで、毎晩、天井を見上げてやる。女房が、戻ってくるまで、って」
私は、ファイルを見下ろした。
告知事項の欄に、新しい一行が、書き加えられることになるのだろう。
――四年前の事件について、犯人が判明。
部屋は、それでも、部屋だった。
住む人が、いる限り。
幕間 黒木の理由
三月の終わりの、雨の夜だった。
仕事帰りに、黒木に誘われて、町屋の駅前の小さな焼き鳥屋に入った。カウンターだけの、煙の充満した店だった。黒木は、慣れた様子で、ねぎまと、つくねと、ビールを二つ頼んだ。
「――南千住の件、権藤さんから、礼を言っといてくれって」
黒木が、ジョッキを傾けながら言った。
「由紀さん、全部、話したそうだ。四年分、全部。それから、拘置所の中で、毎日、手紙を書いてるって。旦那宛てに」
「……堀田さんは」
「毎週、面会に行ってる。何も話さないで、ただ、ガラス越しに座ってるだけらしいけどな」
黒木は、焼き鳥の串を、皿の上に置いた。
「あの部屋で、毎晩、天井を見上げて寝てるそうだ。点検口の下に、布団を敷いて」
私は、ジョッキを両手で包んだ。
冷たいガラスの表面に、水滴が、いくつも流れていた。
「――黒木さんは、どうして、この仕事をしてるんですか」
ずっと、聞きたかったことだった。
黒木は、しばらく黙って、焼き鳥屋の煙の向こうを見ていた。
「……親父が、孤独死したんだ」
私は、息を止めた。
「俺が、二十三のとき。大学を出て、IT企業に就職して、二年目だった。親父とは、高校のころから、ほとんど口をきいてなかった。お袋が出ていったのを、親父のせいだと思ってたから」
黒木は、ジョッキの縁を、指でなぞった。
「親父は、葛飾の、古いアパートで一人暮らしだった。死んで、一か月、誰にも気づかれなかった。夏だった」
「……」
「警察から電話があって、アパートに行った。大家さんに、部屋を何とかしてくれって言われた。俺は、何をどうしていいか、分からなかった。部屋のドアを開けることさえ、できなかった」
黒木は、少しだけ笑った。乾いた笑いだった。
「業者を呼んだ。特殊清掃の。来たのは、五十過ぎの、無口なおっさんだった。防護服を着て、マスクをして、一人で部屋に入っていった。三日かかった。三日目の夕方、おっさんが、部屋から出てきて、俺に、段ボール箱を一つ、渡したんだ」
「段ボール箱?」
「親父の、遺品だ。ほとんど全部、処分するしかなかった。でも、おっさんが、これだけは、と言って、取っておいてくれたもの」
黒木は、ジョッキを置いた。
「中に、俺の写真が入ってた。小学校の運動会の。中学の卒業式の。高校の、サッカー部の試合の。全部、遠くから撮った写真だった。俺が気づかないところから、親父が、こっそり撮ってた」
焼き鳥屋の煙が、ゆらゆらと、天井へ昇っていった。
「それから、俺が就職したIT企業の、会社案内のパンフレット。どこで手に入れたのか知らないけど、新入社員紹介の頁に、俺の顔写真が載ってた。その頁だけ、何度も開いたみたいに、折り目がついてた」
黒木は、しばらく黙っていた。
「おっさんが、言ったんだ。『部屋は、全部覚えてますよ。住んでた人が、何を大事にしてたか。片づけるのは、忘れるためじゃない。次の人に、手渡すためです』って」
――部屋は、住む人がいて初めて、部屋になる。
社長の言葉と、同じだった。
「俺は、次の月に、会社を辞めた。そのおっさんの会社に、弟子入りした。それが、クリーンリーフだ。おっさんは、三年前に引退して、俺が会社を継いだ」
黒木は、ジョッキの残りを、一気に飲み干した。
「――だから、まあ、あんたと同じだよ。来なかった奴が、来なかった部屋に、遅れて入ってるだけだ」
店の外で、雨が、強くなっていた。
軒先から、雨だれが、ぽたぽたと落ちていた。
「……私も、話していいですか」
「ああ」
「どうして、美大を辞めたか」
黒木は、黙って、新しいビールを二つ、頼んだ。
「修復科に、いたんです。三年生まで。古い絵の、上に塗られた絵の具を剥がしたり、破れたところを繕ったり、褪せた色を、元の色に戻したり。好きでした。毎日、楽しかった」
私は、ジョッキの水滴を、指でなぞった。
「姉が亡くなったのは、三年生の秋でした」
黒木は、何も言わなかった。
「葬式が終わって、大学に戻って、修復の作業台の前に座ったら、手が、動かなくなったんです。目の前に、百年前の絵がある。破れて、色が褪せて、上から別の絵の具で塗られて。それを、元に戻すのが、私の仕事だった。でも――」
声が、少しだけ震えた。
「三年、口をきかなかった姉と、私は、一度も、仲直りしようとしなかった。修復しようとしなかった。それなのに、知らない人が描いた、百年前の絵を、元に戻して、何になるんだろうって」
私は、ジョッキを置いた。
「それから、一度も、作業台の前に座れなくなりました。半年休学して、そのまま、辞めました」
「……」
「宅建を取ったのは、何かしなきゃって思ったからです。それで、姉の部屋の契約書を見てたら、ひなた不動産の名前があって」
私は、少しだけ笑った。
「修復は、できなかったのに。姉の部屋のドアなら、叩けるかもしれないって、思ったんです」
黒木は、新しいジョッキを、私の前に置いた。
「――柱の線」
「え?」
「西日暮里の、三〇二の。あんた、柱のすり減った跡を見て、毎日誰かが手を当ててたって、言い当てただろ」
「……はい」
「あれ、修復の目だろ」
黒木は、自分のジョッキを、少しだけ持ち上げた。
「南千住の点検口も。あんたは、天井じゃなくて、女房の目を見てた。何を見ないようにしてるか。それも、修復の目だ。上から塗られたもんの下に、何があるか、見ようとする目」
「……」
「辞めたって言うけど、あんた、全然、辞めてないじゃないか」
黒木は、ジョッキを、私のジョッキに、こつんと当てた。
「絵の代わりに、部屋を、修復してるだけだ」
私は、何も言えなかった。
焼き鳥屋の煙が、目に染みた。
――たぶん、煙のせいだけでは、なかった。
「黒木さん」
「なんだ」
「姉の部屋を、清掃したとき。何か、取っておいてくれたもの、ありますか」
黒木は、少しだけ迷うような顔をした。
「……冷蔵庫の絵は、全部、ご両親に渡した。それ以外は、ほとんど、処分した」
「ほとんど?」
「――押し入れの中に、一つだけ、どうしても処分できないものがあった」
黒木は、ジョッキを見つめた。
「でも、それは、持ち出せるもんじゃなかった。壁に、直接、描いてあったから」
私の心臓が、どくんと跳ねた。
「壁に?」
「……いつか、話す」
黒木は、それ以上、何も言わなかった。
「あんたが、姉さんの部屋のドアを、自分で叩けるようになったらな」
焼き鳥屋の外で、雨が、まだ降り続いていた。
私は、黒木の横顔を見ていた。
煙の向こうで、黒木は、ジョッキの中の泡が、少しずつ消えていくのを、黙って見つめていた。
第三話 夜ごとの訪問者
四月の半ば、ひなた不動産の電話が、朝いちばんに鳴った。
「――はい、ひなた不動産です」
『あの、すみません。尾久の、さくら荘の、二〇一号室の佐藤ですけど』
若い男の声だった。ひどく、慌てていた。
『部屋に、誰か、入ってるんです』
「……え?」
『夜中に。俺が寝てるあいだに。誰かが、部屋に入ってきてるんです』
私は、受話器を握りしめた。
さくら荘、二〇一号室。三か月前に、私が契約を担当した部屋だった。
告知事項あり。二年前、前の入居者の四十代の男性が、室内で病死。発見は、翌日。特殊清掃は不要だったが、本人の希望で、告知の対象にしていた物件だった。
借りたのは、二十三歳の会社員、佐藤健太さん。地方から出てきたばかりの、新社会人だった。
――幽霊とか、信じないんで。安けりゃ、全然。
契約のとき、佐藤さんは、そう言って笑っていた。
さくら荘は、尾久の住宅街にある、二階建ての小さなアパートだった。
佐藤さんは、アパートの前で、私と黒木を待っていた。目の下に、隈ができていた。
「すみません、朝から。でも、もう、限界で」
「何が、あったんですか」
「最初は、気のせいだと思ったんです」
佐藤さんは、二〇一号室の扉を開けて、私たちを中に入れた。
1Kの、小さな部屋だった。ワンルームの奥に、ベッドと、テレビと、パソコンデスク。手前の台所の脇に、小さな冷蔵庫。
「三週間くらい前から、冷蔵庫の中に、知らないものが入ってるようになったんです」
佐藤さんは、冷蔵庫の扉を開けた。
中に、タッパーが三つ、並んでいた。
「肉じゃが。きんぴらごぼう。ほうれん草のおひたし」
佐藤さんは、タッパーを一つずつ指さした。
「俺、料理、しないんです。コンビニ弁当ばっかりで。こんなもの、買った覚えも、作った覚えもない。なのに、朝起きると、冷蔵庫に入ってるんです。一週間に、二回か、三回」
私は、タッパーを一つ、手に取った。
蓋を開けると、甘辛い醤油の匂いが、ふわりと漂った。肉じゃがだった。じゃがいもの角が、丁寧に面取りされていた。
「それだけじゃないんです」
佐藤さんは、台所の流しを指さした。
「夜、寝る前に、シンクに洗い物を溜めておくと、朝には、全部、洗って片づけてある。脱ぎっぱなしにしておいたシャツが、畳んで、ベッドの脇に置いてある。――こないだなんか、テーブルの上に、書き置きがあった」
佐藤さんは、ポケットから、くしゃくしゃになったメモ用紙を取り出した。
鉛筆の、震えるような字だった。
――ちゃんと、野菜も食べなさい。母より。
私と黒木は、顔を見合わせた。
「母より、って……」
「俺の母親じゃないです」
佐藤さんの声が、震えた。
「うちの母親は、山形にいる。それに、母親の字じゃない。――椎名さん。この部屋の、前の住人の人って、どうして亡くなったんですか」
「……病気です。心臓の」
「家族は」
「お母様が、一人だけ、いらっしゃったと」
佐藤さんの顔が、真っ白になった。
「その、お母さんは、今、どこに」
私は、答えられなかった。
知らなかった。
契約のときのファイルには、前の入居者の名前と、亡くなった理由と、発見の経緯しか、書かれていなかった。
「――鍵は、交換しましたか」
黒木が、扉の鍵穴を見ながら、低い声で言った。
「前の住人が亡くなったあと。普通は、入居者が替わるたびに、鍵を交換する。前の住人の合鍵が、どこかに残ってるかもしれないから」
私は、ファイルを開いた。
――鍵交換:未実施(大家様のご意向により)。
息が、止まった。
「……交換、してません」
黒木の顔が、強張った。
「大家さんが、費用を惜しんだのか」
「たぶん。前の住人のお母さんから、鍵は全部返してもらったって、大家さんが言ってたって、メモに」
「全部、か」
黒木は、鍵穴を見つめた。
「誰かが、スペアを作ってたら、分からねえな」
佐藤さんが、壁にもたれかかった。
「じゃあ、誰かが、合鍵で、夜中に――」
「すぐに、鍵を交換します。今日中に」
私は、言った。
「それから、警察にも――」
「――待て」
黒木が、私を遮った。
黒木は、冷蔵庫の中の、タッパーを見ていた。
「椎名。このタッパー、見てみろ」
私は、タッパーを、もう一度、手に取った。
プラスチックの、古びた容器だった。ところどころ、色が褪せて、白く曇っていた。蓋の縁に、油性のペンで、小さく文字が書かれていた。
擦れて、ほとんど消えかけていた。
――たかし。
「たかし……」
「前の住人の、名前は」
黒木の声が、低くなった。
私は、ファイルを見た。
――前入居者:山口隆。四十六歳。
部屋の中が、しんと静まり返った。
窓の外で、近所の子供たちが、遊んでいる声が聞こえた。
「……息子のための、タッパーだ」
黒木が、静かに言った。
「息子が死んだことを、知らない誰かが。――いや、知ってて、忘れちまった誰かが、毎晩、息子の部屋に、ご飯を届けに来てる」
その夜、私と黒木は、さくら荘の向かいの、月極駐車場に停めた黒木の軽トラックの中にいた。
佐藤さんには、今夜だけは、近くのビジネスホテルに泊まってもらった。部屋の鍵は、まだ交換していなかった。
――誰が来るのか、確かめたいんです。
私がそう言うと、佐藤さんは、怯えた顔で、それでも、頷いてくれた。
――もし、本当に、亡くなった人のお母さんだったら。いきなり鍵を替えて、締め出したら、可哀想な気がするから。
軽トラックの窓から、二〇一号室の扉が見えた。
夜の十一時。零時。午前一時。
アパートの廊下の明かりだけが、ぼんやりと灯っていた。
「――来た」
黒木が、小声で言った。
午前一時半。
アパートの一階の、いちばん奥の部屋の扉が、そっと開いた。
小柄な人影が、出てきた。
白髪の、腰の曲がった、老婦人だった。花柄の割烹着を着ていた。手に、風呂敷包みを一つ、大事そうに抱えていた。
老婦人は、ゆっくりと、外階段を上り始めた。一段ずつ、手すりにつかまりながら。
二階の廊下に上がると、迷わず、二〇一号室の前で足を止めた。
割烹着のポケットから、鍵を取り出した。
鍵穴に差し込んで、回した。
扉を開けて、中に、入っていった。
「……一階の住人だ」
黒木が、つぶやいた。
「同じアパートに、住んでたのか」
私は、軽トラックのドアを開けた。
「椎名」
「行ってきます」
「待て。俺も――」
「一人で、行かせてください」
私は、黒木を振り返った。
「大きな男の人が二人で行ったら、怖がらせちゃう」
黒木は、しばらく私を見ていた。
それから、黙って、頷いた。
「――何かあったら、叫べ」
二〇一号室の扉は、少しだけ、開いていた。
中から、台所の明かりが、細く漏れていた。水の流れる音。食器が、かちゃかちゃと触れ合う音。
私は、そっと扉を開けた。
台所の流しの前に、老婦人が立っていた。
割烹着の袖をまくって、佐藤さんが溜めておいた洗い物を、一つずつ、丁寧に洗っていた。流しの脇には、風呂敷が広げられて、新しいタッパーが二つ、並んでいた。
「――こんばんは」
私が、できるだけ静かな声で言うと、老婦人は、ゆっくりと振り返った。
八十を過ぎているだろうか。小さな顔に、深い皺が刻まれていた。目が、少しだけ、焦点を結んでいなかった。
「……あら」
老婦人は、少しも驚いた様子を見せなかった。
「隆の、お友達?」
「……はい。椎名と言います」
「まあ、まあ。こんな夜中に。隆は、まだ帰ってないのよ。今日も、残業なのね。あの子は、働きすぎだから」
老婦人は、濡れた手を、割烹着で拭いた。
「お腹、空いてない? 肉じゃが、作ってきたの。隆の好物なのよ。よかったら、あなたも食べていって」
私は、何も言えなかった。
老婦人は、冷蔵庫を開けて、中のタッパーを確かめた。
「あら、まだ、こないだのが残ってる。あの子、ちゃんと食べないんだから。野菜も、食べなさいって、書いておいたのに」
老婦人は、残っていたタッパーを取り出して、新しいタッパーと入れ替えた。
その手つきは、何十年も、そうしてきた人の手つきだった。
「――山口さん」
私は、老婦人の前に、膝をついた。
「隆さんの、お母様ですか」
「ええ、そうよ。隆の母です」
老婦人は、にこにこと笑った。
「あの子、四十を過ぎても、お嫁さんももらわないで。一人暮らしなんて、ご飯もろくに食べないでしょう。だから、私が、同じアパートの一階に引っ越してきたの。夜中に、こっそり、ご飯を届けてるのよ。あの子、照れくさいみたいで、昼間に持っていくと、怒るから」
老婦人は、少しだけ、いたずらっぽく笑った。
「合鍵、内緒で作っちゃったの。大家さんには、内緒ね」
私は、喉の奥が、熱くなるのを感じた。
隆さんが亡くなって、二年。
このお母さんは、二年間、ずっと――いや、違う。佐藤さんの話では、冷蔵庫にタッパーが入るようになったのは、三週間前からだ。
隆さんが亡くなってから、佐藤さんが入居するまでの、一年九か月。そのあいだ、この部屋は、空き部屋だった。
「――山口さん。最近、何か、変わったことは、ありませんでしたか」
「変わったこと?」
「お体のこととか。病院に、行かれたりとか」
老婦人は、少しだけ首を傾げた。
「そうねえ。先月、ちょっと転んで、頭を打っちゃってね。病院に、一週間くらい入院してたかしら。でも、もう、すっかり元気よ」
老婦人は、自分の頭を、軽く叩いて笑った。
「退院して帰ってきたら、隆の部屋に、明かりがついてたの。ああ、隆、ちゃんと帰ってきてるわって、嬉しくてね。また、ご飯を届けなきゃって」
私は、目を閉じた。
――隆の部屋に、明かりがついてた。
佐藤さんの部屋の、明かりだった。
頭を打って、入院して、退院してきたとき。このお母さんの中から、息子が死んだという記憶が、どこかへ、こぼれ落ちてしまったのだ。
そして、明かりのついた二〇一号室を見て、息子が、まだ、そこにいると思った。
「――隆は、今日も、遅いのねえ」
老婦人は、流しに戻って、また洗い物を始めた。
「ねえ、あなた。隆に、会ったら、伝えてくれる? お母さん、来てたよって。ちゃんと、野菜も食べなさいって」
老婦人の背中が、ひどく、小さく見えた。
「あの子、子供のころから、野菜が嫌いでね。ほうれん草なんか、いつも残して。お父さんが早くに亡くなって、私が一人で育てたから、甘やかしちゃったのかしら。でも、優しい子なのよ。私の誕生日には、毎年、花を買ってきてくれるの」
私は、膝の上で、拳を握りしめた。
何と言えばいいのか、分からなかった。
息子さんは、二年前に、亡くなりました。この部屋で。今、ここに住んでいるのは、別の人です。
――言えなかった。
言えば、このお母さんは、二年前と同じ悲しみを、もう一度、最初から味わうことになる。
でも、言わなければ、佐藤さんは、毎晩、知らない誰かが部屋に入ってくる恐怖に、怯え続けることになる。
「――お母さん」
背後から、声がした。
振り返ると、扉のところに、佐藤さんが立っていた。
ビジネスホテルにいるはずの、佐藤さんだった。その後ろに、黒木が、困ったような顔で立っていた。
「……ごめん。眠れなくて、戻ってきちまった」
佐藤さんが、小声で言った。
佐藤さんは、台所の老婦人の背中を、じっと見つめていた。
老婦人が、ゆっくりと振り返った。
佐藤さんの顔を見て、目を細めた。
「――隆?」
部屋の中が、しんと静まり返った。
佐藤さんの顔が、強張った。
老婦人の目は、焦点が合っていなかった。佐藤さんの顔を見ているのに、その向こうの、誰かを見ているようだった。
「隆。おかえり。遅かったのね」
老婦人は、濡れた手のまま、佐藤さんに歩み寄った。
「肉じゃが、作ってきたわよ。冷蔵庫に入れておいたから。ちゃんと、食べなさいね」
佐藤さんは、動かなかった。
私は、佐藤さんを見た。
佐藤さんは、長いあいだ、老婦人の顔を見下ろしていた。
それから、ゆっくりと、口を開いた。
「――うん。ありがとう」
佐藤さんの声は、少しだけ、震えていた。
「ちゃんと、食べるよ。野菜も」
老婦人の顔が、ぱっと明るくなった。
「まあ、珍しい。素直ね」
老婦人は、佐藤さんの腕を、ぽんぽんと叩いた。
「じゃあ、お母さん、もう帰るわね。夜更かししないで、早く寝なさいよ」
老婦人は、風呂敷をたたんで、割烹着のポケットにしまった。
扉の前で、一度、振り返った。
「おやすみ、隆」
「……おやすみ」
老婦人は、外階段を、ゆっくりと下りていった。
一段ずつ、手すりにつかまりながら。
扉が閉まると、佐藤さんは、台所の床に、へたり込んだ。
「……何やってんだ、俺」
佐藤さんは、両手で顔を覆った。
「知らない人の、息子のふりなんかして」
「佐藤さん」
「でも、言えなかったんです」
佐藤さんの声が、くぐもっていた。
「あの人の顔、見たら。息子さんが死んだなんて、言えなかった」
佐藤さんは、顔を上げた。目が、赤かった。
「うちの母親、山形で、一人暮らしなんです。父親は、俺が高校のときに死んで。俺、東京に出てきてから、一回も、帰ってない。電話も、ほとんどしてない。――あの人、うちの母親と、同じくらいの年なんです」
佐藤さんは、冷蔵庫を開けた。
新しいタッパーが、二つ、並んでいた。
佐藤さんは、一つを取り出して、蓋を開けた。肉じゃがだった。面取りされたじゃがいもが、甘辛い煮汁の中で、つやつやと光っていた。
佐藤さんは、指で、じゃがいもを一つつまんで、口に入れた。
しばらく、黙って噛んでいた。
「……うまい」
佐藤さんの目から、涙がこぼれた。
「うちの母親の肉じゃがと、同じ味がする」
翌日、私は、社長に、すべてを話した。
社長は、黙って聞いていた。それから、受話器を取って、どこかに電話をかけた。
地域包括支援センターだった。高齢者の、介護や福祉の相談窓口。
「――山口さんっていう、八十過ぎのおばあさんがな。一人暮らしで、頭を打ってから、少し、記憶が混乱してる。誰か、様子を見に行ってやってくれ」
社長は、電話を切ると、私を見た。
「鍵は、交換しろ。今日中だ」
「……はい」
「それから、大家には、俺から話す。鍵を替えなかったのは、大家の落ち度だ。佐藤さんに、ひと月分、家賃を返させる」
社長は、老眼鏡を外して、目頭を押さえた。
「――で、佐藤さんは、どうするって」
「住み続けるそうです」
私は、少しだけ笑った。
「それから、週に一回、日曜の夕方に、一階の山口さんの部屋に、ご飯を食べに行くことにしたって。山口さんには、隆さんの会社の後輩だって、言うことにしたそうです。隆さんが出張中だから、代わりに来たって」
社長は、目を閉じた。
「……それで、いいのか」
「分かりません」
私は、正直に答えた。
「本当のことを言わないのが、正しいのかどうか。でも、佐藤さんは、言ってました。山口さんが、いつか、隆さんのことを思い出したら、そのときは、ちゃんと、一緒に泣くって」
社長は、長いあいだ、黙っていた。
それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「――部屋は、住む人がいて初めて、部屋になる」
社長は、老眼鏡をかけ直した。
「住む人が、隣の人の飯を食いに行く部屋なら、なおさらだ」
次の日曜日の夕方、私は、さくら荘の前を通りかかった。
一階の、いちばん奥の部屋の窓から、明かりが漏れていた。
窓の向こうに、小さなちゃぶ台を囲んで、二つの人影が見えた。
割烹着の老婦人と、スウェット姿の若い男。
老婦人が、何かを言って、笑っていた。若い男が、ほうれん草のおひたしを、しかめっ面で口に運んでいた。
台所の窓から、肉じゃがの、甘辛い匂いが、夕暮れの路地に流れていた。
第四話 焦げた床
四件目のファイルを渡されたのは、梅雨が始まったばかりの、六月の初めだった。
――荒川区町屋、室井ハイツ、一〇一号室。
――告知事項:二年前、前入居者(七十六歳女性)が、室内の火災により死亡。出火原因は、寝たばこの火の不始末と推定。内装は全面改修済み。
「室井さんは、うちのいちばん古いお得意さんだ」
社長が、店の奥の机から言った。
「この辺りに、アパートを五棟持ってる。先代の、俺の親父の代から、ずっと、うちに管理を任せてくれてる」
「火事の部屋、ですか」
「二年、空いてる。今度、内見の客がついた」
社長は、老眼鏡の奥から、私を見た。
「シングルマザーだ。小学生の男の子が一人。家賃の安いところを、必死に探してる」
ファイルの、内見希望者の欄に、名前が書いてあった。
――高木奈々。三十二歳。長男、蒼太、八歳。
「火事の部屋に、子供を住まわせるのは、気が進まないって言ってた。でも、ほかに予算に合う部屋がない。だから、一度だけ見てみたいと」
社長は、少しだけ眉間に皺を寄せた。
「――ちゃんと、説明してやってくれ」
内見の前日、私は、黒木の事務所を訪ねた。
クリーンリーフの事務所は、町屋の外れの、古い倉庫を改装した建物だった。中には、清掃用の機材や薬剤が、ずらりと並んでいる。奥の机で、黒木が、パソコンに向かっていた。
「――室井ハイツの一〇一?」
黒木は、私の顔を見るなり、眉をひそめた。
「火事の部屋だな。二年前の」
「清掃、黒木さんが?」
「ああ。焼け跡の清掃と、解体の手伝い。改装は、室井さんのとこの身内の業者がやった」
「現場の写真、残ってますか」
黒木は、少しだけ怪訝そうな顔をした。
「残ってるけど。何で」
「小学生の男の子が、住むかもしれないんです」
私は、ファイルを開いた。
「出火原因は、寝たばこの不始末と推定、って書いてあります。でも、亡くなった佐々木さんっていうおばあさん、七十六歳でしょう。七十六歳の女性で、たばこを吸う人って、そんなに多くないと思って」
「……吸う人もいるだろ」
「いると思います。でも、気になったんです。もし、たばこじゃなかったら。火事の原因が、部屋の中に、まだ残ってたら」
黒木は、しばらく黙って私を見ていた。
それから、パソコンのフォルダを開いた。
「――二年前の、六月だ」
画面に、焼け焦げた部屋の写真が、何枚も並んだ。
黒く煤けた壁。焼け落ちた天井の板。炭になった家具の残骸。床に散らばった、溶けたプラスチック。
私は、思わず目をそらしかけて、それから、もう一度、画面を見た。
見なければならなかった。
「火元は、和室の、ベッドの脇だって言われてる」
黒木が、一枚の写真を拡大した。
焼け焦げたベッドの、残骸。その脇の床に、ガラスの灰皿が転がっていた。中に、吸い殻が数本。
「消防の現場検証のあとに、俺たちが入った。そのときには、もう、警察と消防の調査は終わってた。灰皿は、ベッドの脇にあった。寝たばこで布団に火がついて、燃え広がった。そういう見立てだ」
私は、写真を、じっと見つめた。
灰皿。吸い殻。焼けたベッド。
――何かが、おかしい気がした。
「黒木さん。焼け跡の、いちばん焦げてるところって、どこですか」
「いちばん?」
「火元がいちばん長く燃えるから、いちばん深く焦げるはずですよね。絵の修復でも、昔、火事で焼けた絵を見たことがあって。いちばん傷みがひどいところから、火が回ってるんです」
黒木は、少し考えてから、別のフォルダを開いた。
「――床を剥がしたときの、写真だ」
焼けた畳を剥がしたあとの、床板の写真だった。
黒く炭化した床板が、何枚も並んでいた。
その中で、一か所だけ、ひときわ深く、黒く焼けているところがあった。床板が炭になって、えぐれるように穴が空いていた。
ベッドの脇では、なかった。
部屋の、反対側の壁際だった。
「……ここ、何があったんですか」
黒木が、写真を拡大した。
炭になった床板の上に、壁のコンセントの、焼けただれた残骸が見えた。そこから、黒く焦げた電気のコードが、何本も、床を這うように伸びていた。
たこ足配線だった。
一つのコンセントに、延長コードが何本も繋がれて、その先に、さらに電源タップが、いくつも。
黒木の顔から、表情が消えた。
「――火元は、ベッドじゃない」
黒木の声が、低くなった。
「こっちだ。コンセントの、たこ足配線」
「でも、消防の検証では――」
「消防が来たときに、この床が、どうなってたか、だな」
黒木は、写真の日付を見た。
「俺たちが入ったのは、火事の三日後。消防と警察の検証が終わった、次の日だ。そのとき、このコードは、ここにあった」
「消防は、見なかったんですか」
「見なかったのか。――それとも、検証のときには、なかったのか」
翌日の内見は、雨だった。
高木奈々さんは、黄色い傘を差して、小さな男の子の手を引いて、室井ハイツの前に立っていた。
「――すみません、子供、預けるところがなくて」
「大丈夫ですよ。蒼太くん、こんにちは」
蒼太くんは、母親の後ろに隠れて、小さく頭を下げた。眼鏡をかけた、色白の男の子だった。手に、恐竜の図鑑を抱えていた。
告知事項を説明した。二年前の火事。七十六歳の女性。寝たばこの不始末と推定。内装は、全面改修済み。
「……推定、なんですね」
高木さんが、小さな声で聞き返した。
「はい。消防の調査で、そう推定された、ということです」
私は、少しだけ迷った。
それから、言った。
「高木さん。お部屋を見ていただく前に、一つだけ、お願いがあります」
「……はい」
「お部屋の、電気の配線を、うちの協力業者に、点検させてもらえませんか。契約をするかどうかは、その結果を見てから、決めていただきたいんです」
高木さんは、目を瞬いた。
「点検、ですか。改修済みって、書いてありますけど」
「改修は、されています。でも、私は、まだ、この部屋の火事の原因に、納得していないんです」
高木さんは、蒼太くんの手を、ぎゅっと握った。
「――どういう、意味ですか」
「この部屋の火事は、たばこじゃなくて、電気の配線が原因だったかもしれない。もし、そうなら、その配線が、ちゃんと直されているかどうか、確かめないと、お子さんを住まわせるわけにはいきません」
雨の音が、傘の上で、ぱらぱらと鳴っていた。
高木さんは、長いあいだ、黙って私を見ていた。
「……不動産屋さんって、そんなこと、言っていいんですか」
「たぶん、だめです」
私は、正直に言った。
「社長に、叱られると思います。この部屋の大家さんは、うちのいちばん古いお得意様なので」
「じゃあ、どうして」
私は、高木さんの後ろに隠れている、蒼太くんを見た。
恐竜の図鑑を、両手で抱きしめていた。
「――部屋は、住む人がいて初めて、部屋になるって、社長が言ってました」
私は、蒼太くんに、少しだけ笑いかけた。
「住む人が、安心して眠れない部屋は、部屋じゃないと思うんです」
部屋の中は、真新しかった。
白い壁紙。明るい色のフローリング。新しいキッチン。和室は洋室に変わり、そこにベッドを置けるようになっていた。
焼け跡の痕跡は、どこにもなかった。
黒木が、工具箱を開けて、壁のコンセントのプレートを、一つずつ外していった。
洋室の、窓と反対側の壁際。
二年前の写真で、床板がいちばん深く焼けていた場所の、真上。
黒木が、そこのコンセントのプレートを外したとき、手が止まった。
「――椎名」
黒木の声が、硬かった。
私は、黒木の手元を覗き込んだ。
壁の中の、コンセントの裏側。そこから伸びる電線が、見えた。
黒く、焦げていた。
被覆が溶けて、中の銅線が、むき出しになりかけていた。
「……壁紙と床は、全部新しくした。でも、壁の中の配線は、替えてない」
黒木の声に、怒りがにじんでいた。
「焼けた電線を、そのまま壁の中に残して、上から新しいプレートと壁紙を貼っただけだ。これで、また、たこ足で家電を繋いだら――」
黒木は、それ以上、言わなかった。
高木さんが、蒼太くんを抱き寄せて、口を押さえていた。
店に戻ると、社長が、電話の受話器を置いたところだった。
社長の顔は、見たことがないほど、険しかった。
「――室井さんからだ」
社長は、低い声で言った。
「うちの社員が、勝手に部屋の壁を開けたそうだな。内見の客の前で。大家の許可もなく」
「……はい」
「室井さんは、カンカンだ。五十年の付き合いを、新人の小娘に、泥を塗られたってな。管理の契約を、全部、ほかの不動産屋に移すと言ってる。五棟、全部だ」
店の中が、しんと静まり返った。
五棟。ひなた不動産の管理物件の、半分近くだった。
黒木が、私の隣に一歩、出た。
「社長。椎名は、間違ってない。壁の中の配線は、焼けたまんまだった。あのまま貸してたら――」
「黙ってろ、黒木」
社長の声が、黒木を遮った。
社長は、私を、じっと見つめていた。
「椎名。理由を、言え」
私は、深く息を吸った。
黒木の事務所で見た、二年前の写真の話をした。床板が、いちばん深く焼けていたのは、ベッドの脇ではなく、コンセントの前だったこと。そこから、黒く焦げたたこ足配線のコードが、何本も伸びていたこと。消防の検証のあとに、黒木たちが入ったときには、そのコードが、確かにそこにあったこと。
そして、今日、壁の中から出てきた、焦げた電線のこと。
「――火事の原因は、たばこじゃなかったと思います。電気の配線です。たこ足配線のコンセントから、出火した」
社長は、黙って聞いていた。
「でも、それなら、どうして消防は、寝たばこだと判断したのか。黒木さんの写真には、ベッドの脇に、灰皿がありました。吸い殻も。でも、佐々木さんのご家族に、確かめたいんです。佐々木さんは、本当に、たばこを吸っていたのか」
「……確かめて、どうする」
「もし、吸っていなかったら」
私は、拳を握った。
「誰かが、灰皿を、置いたことになります。消防の検証の前に」
社長は、長いあいだ、黙っていた。
それから、老眼鏡を外して、机の上に置いた。
「――佐々木さんの娘さんの連絡先は、ファイルに入ってる」
社長は、私を見なかった。
「行ってこい。ただし、黒木も一緒だ」
佐々木さんの娘さんは、埼玉の川口の、小さな団地に住んでいた。
五十代の、疲れた顔をした女性だった。玄関で、私たちの名刺を見ると、少しだけ眉をひそめた。
「……不動産屋さんが、今さら、何のご用ですか」
「お母様のことで、お伺いしたいことがありまして」
娘さんは、ためらってから、私たちを部屋に上げてくれた。
居間の小さな仏壇に、白髪の、穏やかな顔をした老婦人の写真が飾られていた。
「――母は、たばこなんか、吸いませんでした」
私が質問を口にする前に、娘さんが、ぽつりと言った。
「若いころは、吸ってたんです。でも、私が生まれたとき、きっぱりやめた。それから五十年、一本も吸ってない。父が吸おうとすると、怒って、ベランダに追い出してたくらい」
娘さんの声が、震えた。
「消防の人から、寝たばこが原因だって聞かされたとき、何かの間違いだって言いました。でも、灰皿と吸い殻が、ベッドの脇にあったって。母は、一人暮らしで寂しくて、また吸い始めたんだろうって。最後には、私も、そう思うしかなかった」
娘さんは、仏壇の写真を見た。
「ずっと、自分を責めてました。母を、一人にしたから。寂しくて、五十年やめてたたばこに、また手を出して、それで火事を出して、死んだんだって。私が、もっと会いに行ってれば」
私は、膝の上で、手を握りしめた。
「――佐々木さん」
「はい」
「お母様が亡くなる前に、部屋のことで、何か困っていたことは、ありませんでしたか。電気のこととか」
娘さんの顔が、強張った。
「……どうして、それを」
娘さんは、立ち上がって、押し入れの奥から、古い紙袋を一つ、持ってきた。
中に、便箋の束が入っていた。
「母の、遺品です。火事で、ほとんど全部焼けたんですけど、これだけは、母が、近所のお友達に預けてたらしくて」
便箋は、手紙の下書きだった。宛先は、全部、同じだった。
――室井ハイツ 大家様。
――一〇一号室の、和室のコンセントが、使うたびに熱くなります。焦げたような匂いもします。一度、見ていただけないでしょうか。
――先月お願いしたコンセントの件、まだ直していただけておりません。最近は、ぱちぱちと音がすることもあります。怖くて、夜も眠れません。
――三度目のお願いです。どうか、電気屋さんを呼んでください。
日付は、火事の三か月前から、半月前まで。五通。
娘さんは、震える声で言った。
「母は、何度も、大家さんに頼んでたんです。でも、直してもらえなかった。――私、これを見つけたのは、葬儀が全部終わったあとで。消防の人にも、警察の人にも、見せてないんです。もう、どうしようもないと思って」
帰りの車の中で、黒木は、ずっと黙っていた。
川口から町屋へ向かう、夕暮れの道だった。フロントガラスに、また雨が、ぽつぽつと落ち始めていた。
「……灰皿を置いたのは、大家か」
黒木が、ぽつりと言った。
「たぶん」
「消防の検証の前に、焦げたたこ足配線のコードを外して、代わりに、ベッドの脇に灰皿と吸い殻を置いた。三か月も、修理を頼まれてたのを、放っておいたことが、ばれないように」
「でも、黒木さんが清掃に入ったときには、コードは、元の場所にあった」
「検証が終わったあとで、戻したんだろ。持ち出して捨てたら、かえって怪しまれる。焼けたゴミとして、清掃業者に処分させるほうが、ずっと自然だ」
黒木は、ハンドルを握る手に、力を込めた。
「俺は、それを、何も考えずに、ゴミとして運び出した」
「……黒木さんのせいじゃないです」
「分かってる」
黒木は、前を見たまま、言った。
「でも、写真だけは撮っといた。それだけは、よかった」
店に戻ると、社長は、まだ机に座っていた。
蛍光灯の下で、一人、古い帳簿をめくっていた。
私は、佐々木さんの手紙の下書きの、コピーを、社長の机の上に置いた。
社長は、一通ずつ、黙って読んだ。
五通、読み終えると、社長は、老眼鏡を外した。
長いあいだ、目を閉じていた。
「――室井さんの、息子だ」
社長が、低い声で言った。
「室井さんは、八十を過ぎて、もう物件のことは、ほとんど息子に任せてる。息子は、電気工事の会社をやってる。二年前、火事のあと、真っ先に現場に駆けつけたのも、息子だ。改装を請け負ったのも」
「……」
「室井さんは、五十年、俺の店を支えてくれた人だ。先代の社長――俺の親父の代からな。この店がつぶれかけたとき、物件の管理を全部うちに任せて、助けてくれたこともある」
社長は、手紙のコピーを、机の上で揃えた。
「その恩人の息子を、告発しろってのか。あんたは」
私は、答えられなかった。
社長は、立ち上がって、店の奥の、古い金庫の前にしゃがんだ。
ダイヤルを回して、扉を開けた。
中から、一冊の、古い大学ノートを取り出した。
表紙に、マジックで、「告知」と書かれていた。
「――うちが扱った、事故物件の記録だ。三十年分」
社長は、ノートを開いた。
一頁ごとに、一つの部屋。住所。亡くなった人の名前と年齢。亡くなった理由。そして、次に入った住人の名前。
「俺はな、椎名。この三十年、一度だけ、告知を、ごまかしたことがある」
私は、息を呑んだ。
「客に、本当のことを言わなかった。大家に、頼まれてな。前の住人は、病院で亡くなったことにしてくれって。本当は、部屋で、自ら――」
社長は、言葉を切った。
「次に入った若い夫婦は、半年で出ていった。理由は、言わなかった。でも、たぶん、近所から聞いたんだろう。俺は、それから、三十年、あの夫婦の顔を、忘れたことがない」
社長は、ノートの、ある頁を開いた。
そこには、何も書かれていなかった。住所だけが書かれて、その下は、白紙だった。
「書けなかったんだ。本当のことを」
社長は、ノートを閉じた。
「――室井さんには、俺が、話をしにいく」
「社長……」
「告知文は、書き直す。火災の原因は、電気配線の不具合の可能性が高い、と。壁の中の配線は、全部やり直させる。消防にも、写真と手紙を持っていく。室井さんの息子が、どうなるかは、消防と警察が決めることだ」
社長は、老眼鏡をかけ直した。
「管理契約は、たぶん、全部切られる。うちは、来年あたり、つぶれるかもしれん」
「……すみません」
「謝るな」
社長は、少しだけ、口の端を上げた。
「三十年前に、俺が書けなかった頁を、あんたが書いたんだ。――それで、十分だ」
一か月後、室井ハイツ一〇一号室の壁の中の配線は、すべて新しいものに取り替えられた。
告知文は、書き直された。
――告知事項:二年前、前入居者(七十六歳女性)が、室内の火災により死亡。出火原因は、当初、寝たばこと推定されたが、その後の調査により、電気配線の不具合による可能性が高いことが判明した。配線は、すべて交換済み。
室井さんは、ひなた不動産との管理契約を、五棟すべて、解約した。
社長は、何も言わなかった。
佐々木さんの娘さんからは、短い手紙が届いた。
――母は、たばこを吸っていなかった。それが分かっただけで、二年分、息ができるようになりました。ありがとうございました。
そして、八月の終わり。
高木奈々さんと蒼太くんが、一〇一号室に引っ越してきた。
引っ越しの日、蒼太くんは、恐竜の図鑑を抱えて、私の前に立った。
「――コンセント、もう、熱くならない?」
「ならないよ。全部、新しくしたから」
「ほんとに?」
「ほんと。黒木さんが、ちゃんと確かめた」
蒼太くんは、少し考えてから、図鑑を開いて、一枚の紙を差し出した。
クレヨンで描いた、絵だった。
大きな家の前で、髪の長い女の人と、背の高い男の人と、小さな男の子が、手をつないで笑っていた。
「ふどうさんやさんと、そうじやさん」
蒼太くんは、少しだけ照れくさそうに言った。
私は、絵を受け取って、しばらく、何も言えなかった。
クレヨンの、女の人の絵。
――姉の冷蔵庫に貼られていた、子供の絵のことを、思い出していた。
第五話 二〇四号室の絵
九月の最初の日曜日、私は、両親の家の、押し入れの前に座っていた。
埼玉の、所沢の、古い一軒家。私と姉が育った家だった。
押し入れの奥に、段ボール箱が三つ、積まれていた。ガムテープで、厳重に封がしてある。側面に、母の字で、「灯子」と書かれていた。
五年間、一度も開けられていない箱だった。
「――本当に、開けるの」
背後で、母が、小さな声で言った。
六十を過ぎて、母は、ずいぶん小さくなった。姉が亡くなってから、急に、年を取った。
「開ける。お母さんは、見なくていいよ」
「……見るわよ」
母は、私の隣に、ゆっくりと腰を下ろした。
「五年、怖くて開けられなかった。あなたが開けるなら、私も、一緒に見る」
私は、カッターナイフで、ガムテープを切った。
一つ目の箱には、服が入っていた。
姉の、セーター。ジーンズ。古いコート。どれも、きちんと畳まれて、ビニール袋に入っていた。特殊清掃のあと、黒木が、一枚ずつ、クリーニングに出してくれたのだと、母が言った。
二つ目の箱には、本と、食器と、小物。
三つ目の箱を開けたとき、私の手が、止まった。
いちばん上に、紙の束が載っていた。
クレヨンの、絵だった。
画用紙に描かれた、子供の絵。何十枚も。
どの絵にも、同じ女の人が描かれていた。髪の長い、大きな口で笑っている女の人。その横に、小さな女の子。二人が、手をつないでいた。公園で。花畑で。台所で。
絵の隅に、たどたどしい平仮名で、名前が書いてあった。
――とうこちゃん。
――ひなの。
「ひなの……」
私は、絵を一枚ずつ、めくっていった。
ひなのという女の子が、とうこちゃんと一緒に、ホットケーキを焼いている絵。とうこちゃんの膝の上で、絵本を読んでもらっている絵。二人で、アパートの階段に並んで座って、アイスを食べている絵。
アパートの階段の絵には、ドアが二つ、描かれていた。
一つのドアに、「204」。もう一つに、「202」。
――隣の部屋だ。
姉の部屋の、二つ隣の、二〇二号室。
「お母さん。お姉ちゃん、隣の部屋の子と、仲良かったの」
「……知らないわ」
母は、絵を見つめたまま、首を振った。
「灯子は、何も話してくれなかったもの。あの子が東京で、どんな暮らしをしてたのか。誰と、仲良くしてたのか」
母の声が、震えた。
「家を出てから、電話も、年に二回くらい。あなたと喧嘩して、それから、ますます寄りつかなくなって」
私は、唇を噛んだ。
――喧嘩。
五年前の、そのまた三年前。私が、美大に入った年だった。
姉は、高校を出てから、ずっと、地元のスーパーでパートをしていた。絵が好きで、本当は美大に行きたかったのに、うちにはお金がなかった。私が美大に受かったとき、両親は、姉の分まで、私に注ぎ込んだ。
――灯は、いいよね。好きなこと、させてもらえて。
姉が、ぽつりとそう言ったとき、私は、かっとなった。
――お姉ちゃんが、自分で諦めたんでしょ。私のせいにしないでよ。
それきり、姉とは、口をきかなくなった。
姉は、その年の秋、家を出て、東京で一人暮らしを始めた。
私は、一度も、姉の部屋を訪ねなかった。
絵の束の、いちばん下に、一枚だけ、子供の絵ではないものが、挟まっていた。
ハガキだった。
幼稚園の、お知らせのハガキ。
――ひまわり幼稚園 年長組 はるかぜ発表会のご案内。
宛名は、姉だった。
――椎名灯子様。
その下に、先生の字で、短い書き込みがあった。
――ひなのちゃんのお父様から、ぜひ灯子さんにもとのことで、お送りします。ひなのちゃん、灯子さんに見てもらうのを、楽しみにしています。
差出人の住所は、荒川区東尾久。姉のアパートから、歩いて五分ほどの幼稚園だった。
「……ひなのちゃんの、お父さん」
私は、ハガキを握りしめた。
玄関のドアノブに、毎月、小さな花束を掛けてくれた人。
二〇二号室の、ひなのちゃん。
もう、小学生のはずだった。五年前に年長組なら、今は、たぶん、五年生か六年生。
月曜日の朝、私は、店に出ると、真っ先に社長の机の前に立った。
「社長。コーポ若葉の、二〇二号室の、五年前の入居者を、教えてください」
社長は、老眼鏡の奥から、私を見上げた。
長いあいだ、黙っていた。
「……見つけたのか」
「姉の遺品の中に、子供の絵が、たくさんありました。二〇二号室の、ひなのちゃんっていう女の子の」
社長は、老眼鏡を外した。
机の引き出しから、あの、古い大学ノートを取り出した。
表紙に、「告知」。
社長は、ノートの、ある頁を開いて、私の前に置いた。
――荒川区東尾久、コーポ若葉、二〇四号室。
――椎名灯子。二十八歳。病死(心疾患)。死後約二週間で発見。
――発見者:宇佐美源三。
私は、息を止めた。
「……社長が、見つけたんですか」
「家賃が、二か月、振り込まれなかった」
社長の声は、静かだった。
「灯子さんは、それまで、一度も遅れたことがなかった。毎月、二十五日に、きっちり。それが、二か月。電話をしても、出ない。それで、合鍵を持って、見に行った」
社長は、目を閉じた。
「――ドアを開ける前に、分かったよ。匂いで」
私は、何も言えなかった。
「ドアノブに、花束が掛かってた。白いマーガレットの、小さな。それを、手に持ったまま、ドアを開けた」
社長は、目を開けて、私を見た。
「あんたが、面接で、姉さんの契約書を出したとき。俺は、あんたの顔を見て、すぐに分かった。灯子さんの、妹だって。目元が、そっくりだった」
「……どうして、言ってくれなかったんですか」
「言えなかった」
社長は、ノートの頁を、指でなぞった。
「俺はな、灯子さんが亡くなる前の月に、一度、あのアパートの前を通ったんだ。二〇四号室の窓の明かりが、夜になっても、つかなかった。おかしいと思った。でも、出かけてるんだろうと思って、そのまま帰った」
社長の指が、ノートの上で、止まった。
「あのとき、ドアを叩いてれば。灯子さんは、助かったかもしれん。いや――もう、間に合わなかったかもしれん。それは、分からん。でも、俺は、叩かなかった」
店の中が、しんと静まり返った。
表を、都電が、ごとごとと通り過ぎていった。
「この店で、事故物件を断らないのはな、椎名」
社長は、静かに言った。
「誰かがドアを叩かなかった部屋を、もう一度、誰かが住む部屋に戻したいからだ。罪滅ぼしなんて、きれいなもんじゃない。ただ、そうしないと、眠れないんだ」
社長は、ノートの、隣の頁を開いた。
――コーポ若葉、二〇二号室。
――入居者:森下健一。長女、陽菜乃。
――退去:灯子さん死亡の、十日前。父親の転勤により、千葉県船橋市へ。
「……十日前」
「灯子さんが亡くなったのは、隣の親子が引っ越して、すぐあとだった。たぶん、それで、誰も気づかなかったんだ。灯子さんの様子を、毎日見てたのは、たぶん、あの親子だけだったから」
社長は、ノートを閉じた。
「引っ越し先の住所は、退去の書類に残ってる。――行くか」
私は、頷いた。
声が、出なかった。
船橋の、駅から少し離れた住宅街に、その家はあった。
二階建ての、小さな建売住宅。玄関の脇に、プランターがいくつも並んでいて、白い花が、たくさん咲いていた。
マーガレットだった。
私は、門の前で、しばらく動けなかった。
「――押すぞ」
隣で、黒木が言った。社長に、ついていけと言われたのだという。社長自身は、来なかった。俺が行ったら、向こうが困るだろう、と言って。
黒木が、インターホンを押した。
しばらくして、扉が開いた。
四十代の、痩せた男性が、顔を出した。紺色のポロシャツに、首から、職員証のようなものを下げていた。
「……はい」
「突然、申し訳ありません。ひなた不動産の、椎名と申します」
私は、名刺を差し出した。
「五年前に、コーポ若葉の二〇二号室に、お住まいだった、森下さんでしょうか」
男性の顔が、強張った。
「……そうですが」
「私、二〇四号室にいた、椎名灯子の、妹です」
男性の手から、名刺が、はらりと落ちた。
森下さんは、介護施設で働いていた。
五年前は、東尾久の特別養護老人ホームで、夜勤の多い仕事をしていた。妻とは、陽菜乃ちゃんが三歳のときに離婚した。一人で、幼い娘を育てていた。
「夜勤の日は、陽菜乃を、一人で家に置いておくしかなかったんです」
居間のソファで、森下さんは、膝の上で両手を組んで話した。
「保育園の延長保育も、夜中までは見てくれない。実家は、遠い。どうしようもなくて。陽菜乃が寝たのを確かめてから、こっそり出勤してました。最低の親です」
「……」
「ある晩、夜勤明けで帰ってきたら、陽菜乃が、うちにいなかったんです」
森下さんは、少しだけ笑った。
「真っ青になって、アパートじゅう探し回ったら、隣の二〇四号室から、陽菜乃の笑い声が聞こえてきた。ドアを叩いたら、灯子さんが出てきて」
――夜中に、二〇二から、泣き声が聞こえたんです。何度ノックしても、誰も出てこなくて。そしたら、ドアが少し開いて、この子が、パパがいないって泣いてて。
「灯子さんは、陽菜乃を、自分の部屋に連れていって、朝まで一緒にいてくれたんです。ホットケーキを焼いて、絵本を読んで」
森下さんの声が、かすれた。
「それから、灯子さんが、言ってくれたんです。夜勤の日は、陽菜乃ちゃんを、うちで預かりますよって。どうせ、私も、夜は一人だからって」
私は、膝の上で、拳を握りしめていた。
――私も、夜は一人だから。
「一年半、ずっとです。夜勤のたびに。灯子さんは、お金を受け取ってくれませんでした。その代わりに、陽菜乃と一緒に、絵を描くのが楽しいからって」
「――パパ」
居間の入口から、小さな声がした。
女の子が、立っていた。
十歳か、十一歳くらいだろうか。髪を、肩のあたりで切りそろえて、大きな目で、こちらを見ていた。手に、スケッチブックを一冊、抱えていた。
「陽菜乃。こちら、灯子さんの、妹さんだって」
陽菜乃ちゃんの目が、大きく見開かれた。
私の顔を、じっと見つめた。
それから、ぽつりと言った。
「……あかりちゃん?」
私は、息を止めた。
「私の名前、知ってるの」
「とうこちゃんが、いつも言ってた」
陽菜乃ちゃんは、スケッチブックを、ぎゅっと抱きしめた。
「妹のあかりは、絵がすごく上手なんだって。美術の大学に行ってるんだって。私なんかより、ずっと上手なんだって。とうこちゃんの、自慢だったよ」
私は、何も言えなかった。
喉の奥が、焼けるように熱くなった。
――灯は、いいよね。好きなこと、させてもらえて。
あの日、姉が言った言葉。
私は、それを、嫌味だと思った。妬みだと思った。だから、怒鳴り返した。
でも、姉は、東京で、隣の家の小さな女の子に、私のことを、自慢していたのだ。
一度も、口をきかなくなったあとも。
「とうこちゃん、絵、描くの好きだったよ」
陽菜乃ちゃんは、スケッチブックを開いて、私に見せた。
色鉛筆で描かれた、たくさんの絵があった。花。猫。空。アパートの階段。
「とうこちゃんに、教えてもらったの。こうやって、影をつけると、本物みたいになるんだよって」
陽菜乃ちゃんは、スケッチブックの、いちばん最後の頁を開いた。
そこには、まだ何も描かれていなかった。
ただ、頁の隅に、鉛筆で、小さく文字が書かれていた。大人の字だった。
――ひなのへ。この頁は、いつか、ひなのが、いちばん描きたいものを描く頁。とうこ。
「これだけ、まだ、描けないの」
陽菜乃ちゃんは、その頁を、そっと指でなぞった。
「いちばん描きたいもの、まだ、分からないから」
「――花のことを、聞きに来たんですよね」
森下さんが、静かに言った。
私は、顔を上げた。
「灯子さんが亡くなったことを、私たちが知ったのは、引っ越して、一か月半くらいたってからでした。陽菜乃が、どうしても灯子さんに手紙を出したいって言って。それで、アパートの大家さんに、転送してもらえないかって電話したら」
森下さんは、目を伏せた。
「……もう、亡くなったって」
「陽菜乃に、どう話せばいいか、分からなかった。でも、隠しておけなくて。話したら、陽菜乃は、三日、口をきかなかった。四日目に、言ったんです。とうこちゃんのおうちに、お花を持っていきたいって」
「それで、毎月」
「部屋の片づけが終わるまで、月に一度、日曜日に、車で。陽菜乃が、庭のプランターで育てたマーガレットを摘んで、輪ゴムで留めて」
森下さんは、窓の外の、プランターを見た。
白い花が、九月の風に、揺れていた。
「灯子さんは、マーガレットが好きだったんです。陽菜乃と一緒に、二〇四号室のベランダで、育ててた。引っ越すとき、灯子さんが、プランターを一つ、陽菜乃にくれたんです。船橋でも、育ててねって」
私は、窓の外の花を見つめた。
五年前、姉の部屋のドアノブに、毎月掛けられていた、白いマーガレット。
それは、姉自身が育てた花の、子供たちだった。
「――あかりちゃん」
陽菜乃ちゃんが、私の袖を、そっと引いた。
「とうこちゃんの、秘密、知ってる?」
「秘密?」
陽菜乃ちゃんは、少しだけ迷うように、父親の顔を見た。森下さんが、小さく頷いた。
「とうこちゃんの部屋の、押し入れの中。上の段の、いちばん奥の壁に、絵が描いてあったの。とうこちゃんが、描いた絵」
私の背中を、何かが、ゆっくりと這い上がった。
「どんな、絵?」
「見せてもらったの、一回だけ。ナイショだよって。大家さんに見つかったら、怒られちゃうからって」
陽菜乃ちゃんは、目を閉じて、記憶を探るような顔をした。
「大きな木があってね。その下で、女の子が二人、手をつないでるの。一人は、大きくて、一人は、小さくて。とうこちゃんが、これは、私と、妹だよって」
私は、口を押さえた。
「まだ、途中なんだって。完成したら、妹に見せたいんだって。――でも、妹とは、今、ケンカしてるから、いつ見せられるか分からないって、とうこちゃん、ちょっと、さびしそうに笑ってた」
帰りの車の中で、私は、ずっと、窓の外を見ていた。
夕暮れの、京葉道路。車のテールランプが、赤く連なっていた。
「――黒木さん」
「ああ」
「五年前、姉の部屋の清掃のとき。押し入れの中、見ましたか」
黒木は、しばらく黙っていた。
「……見た」
「絵、ありましたか」
「あった」
黒木は、前を見たまま、言った。
「押し入れの上段の、奥の壁。ベニヤ板に、直接、アクリル絵の具で描いてあった。大きな木と、女の子が二人。途中までだった。下書きの線が、まだ半分、残ってた」
「……どうなったんですか」
「改装のときに、塗りつぶされた」
黒木の声が、低くなった。
「押し入れの中は、汚れてなかった。でも、大家さんが、次の入居者に貸す前に、全部、白く塗り直せって。俺は、清掃までで、塗装は別の業者だった。止められなかった」
黒木は、ハンドルを、強く握った。
「――ずっと、気になってた。あの絵のことが。誰に見せるために描いてたんだろうって」
私は、窓ガラスに、額をつけた。
白く塗りつぶされた、姉の絵。
途中までしか描かれていない、大きな木と、手をつないだ二人の姉妹。
「黒木さん」
「……ああ」
「塗りつぶされた絵は、消えたわけじゃないんです」
黒木が、ちらりと、こちらを見た。
「上から塗られた白い塗料の下に、まだ、残ってる。修復の授業で、何度もやりました。上の層だけを、溶剤で、少しずつ、少しずつ、取り除いていくんです。下の絵を、傷つけないように」
私は、自分の手を見下ろした。
美大を、中退した手。修復の勉強を、途中で投げ出した手。
「――私、あの絵を、取り戻したい」
コーポ若葉は、五年前と、ほとんど変わっていないように見えた。
東尾久の、細い路地の奥。木造モルタルの、二階建て。外階段の手すりは、ところどころ錆びていた。二階の廊下に、扉が四つ、並んでいる。二〇一。二〇二。二〇三。二〇四。
私は、外階段の下で、長いあいだ、二〇四号室の扉を見上げていた。
五年前、私は、ここに来なかった。
警察から電話があったときも。両親が、遺品を引き取りに来たときも。
――怖くて。
姉が、どんなふうに暮らしていたのか、知るのが怖かった。知ってしまったら、もう、姉を恨めなくなる気がした。恨めなくなったら、自分が、姉に何をしたのか、向き合わなければならなくなる。
「――行くぞ」
隣で、社長が言った。
社長は、自分で来ると言って、きかなかった。大家の若林さんに、押し入れの絵を修復させてもらう許可を取りに行ったのも、社長だった。
八十を過ぎた、小柄な老婦人の大家さんは、社長の話を聞いて、目に涙を浮かべたという。
――あの絵、塗りつぶすように言ったのは、私なんです。次の人が、気味悪がるといけないと思って。でも、ずっと、後悔してました。灯子さん、いつも、家賃を手渡しで持ってきてくれて。大家さん、マーガレット、咲きましたよって、一輪くれたこともあったのに。
二〇四号室は、先月まで、大学生が住んでいた。その学生が、九月の終わりに、就職で地方へ引っ越していった。次の入居者が決まるまでの、二週間。それが、私に与えられた時間だった。
私は、外階段を、一段ずつ、上った。
二〇四号室の扉の前に立った。
ドアノブは、五年前とは違う、新しいものに替えられていた。
社長が、鍵を差し出した。
私は、それを受け取って、鍵穴に差し込んだ。
回した。
部屋は、空っぽだった。
六畳の和室と、四畳半ほどの台所。和室の窓の向こうに、小さなベランダ。日当たりのいい、明るい部屋だった。
畳は、新しかった。壁紙も、白く張り替えられていた。五年前の痕跡は、どこにもなかった。
私は、台所の真ん中に立って、部屋を見回した。
ここで、姉は、暮らしていた。
この台所で、陽菜乃ちゃんに、ホットケーキを焼いた。あの窓際で、絵本を読んだ。ベランダで、マーガレットを育てた。冷蔵庫には、陽菜乃ちゃんの描いた絵が、何十枚も貼られていた。
そして、この部屋で、一人で、死んだ。
隣の親子が引っ越して、十日後に。誰にも気づかれずに。二週間。
膝から、力が抜けた。
私は、台所の床に、座り込んだ。
「……お姉ちゃん」
声が、震えた。
「ごめんね。来なくて、ごめんね」
涙が、止まらなかった。
五年分の涙だった。
社長は、何も言わなかった。玄関の脇に立って、黙って、窓の外を見ていた。
どれくらい、そうしていただろう。
やがて、私は、袖で顔を拭って、立ち上がった。
和室の、押し入れの前に立った。
襖を開けた。
上段と、下段。上段の奥の壁は、白いペンキで、きれいに塗られていた。何の変哲もない、白い壁だった。
私は、上段に上半身を入れて、持ってきた懐中電灯を、壁に斜めに当てた。
光を、壁の表面に、這わせるように。
――見えた。
白いペンキの表面に、ほんのわずかな凹凸があった。
筆の跡だった。ペンキの下の、絵の具の盛り上がりが、上から塗られた白を、かすかに押し上げていた。
大きな、丸い形。木の葉の茂みだった。
その下に、細い線が二本。木の幹。
幹の根元に、小さな形が、二つ。
並んで立つ、二人の人の形。
「……あった」
私の声が、かすれた。
「ちゃんと、あった」
それから、二週間。
私は、毎日、仕事のあとに、二〇四号室に通った。
押し入れの上段に、小さな作業台を作った。黒木が、照明と、換気扇を取りつけてくれた。美大の修復科の、昔の先生に電話をかけて、溶剤のことを相談した。先生は、中退した私のことを、覚えていてくれた。
――アクリル絵の具の上に、水性のペンキか。難しいけど、できないことはない。焦るなよ、椎名。一ミリずつだ。
綿棒の先に、ほんの少しだけ、溶剤を含ませる。白いペンキの表面に、そっと当てる。円を描くように、ゆっくりと。ペンキが、わずかに柔らかくなったところを、竹のへらで、薄く、薄く、削り取る。
一ミリ。また一ミリ。
下の絵の具を、傷つけないように。
一日に、手のひらほどの広さしか、進まなかった。
最初に現れたのは、緑だった。
白いペンキの下から、深い、柔らかな緑が、少しずつ顔を出した。木の葉の色だった。姉が好きだった、若葉の色。
三日目に、木の幹が現れた。
五日目に、空が現れた。淡い、夕暮れの橙色の空。
七日目に、一人目の女の子が現れた。
背の高い女の子。長い髪。白いブラウスに、紺色のスカート。高校の制服だった。顔は、まだ下書きの鉛筆の線のままだった。目と、鼻と、口の位置だけが、薄く描かれていた。
九日目に、二人目の女の子が現れた。
小さな女の子。短い髪。黄色いワンピース。大きな女の子の手を、ぎゅっと握っている。
顔は、もう、塗られていた。
大きな口を開けて、笑っていた。
――私だった。
子供のころの、私だった。所沢の家の庭の、柿の木の下で。姉と、手をつないで。
あの柿の木は、私が中学に上がった年に、切られてしまった。古くなって、台風で傾いたからだ。私は、もう、その木のことを、ほとんど忘れていた。
姉は、覚えていた。
十二日目の夜。
最後の白いペンキを、木の根元から取り除いたとき、私の手が、止まった。
木の根元の、草の陰に、小さな文字が、書かれていた。
鉛筆の、下書きの線だった。まだ、絵の具を塗る前の。
――あかりへ。
その下に、少しだけ、震えた字で。
――あの日は、うらやましかっただけ。ほんとうは、ずっと、じまんだった。
――いつか、この絵を、見にきてね。それまでに、わたしの顔も、ちゃんと描いておくから。
私は、綿棒を握ったまま、押し入れの上段で、動けなくなった。
懐中電灯の光の中で、姉の字が、にじんで見えた。
――わたしの顔も、ちゃんと描いておくから。
大きな女の子の顔は、まだ、下書きの線のままだった。
姉は、自分の顔を、描き終えないまま、死んだのだ。
私が、見に来るのを、待ちながら。
「――あかりちゃん」
背後から、小さな声がした。
振り返ると、陽菜乃ちゃんが、押し入れの前に立っていた。その後ろに、森下さんと、社長と、黒木。修復が終わりそうだと、黒木が連絡してくれたのだという。
陽菜乃ちゃんは、押し入れの上段の、絵を見上げた。
「……とうこちゃんの、絵だ」
陽菜乃ちゃんの目に、涙が浮かんだ。
「とうこちゃんの顔、まだ、描いてない」
「うん」
「描かないの?」
私は、陽菜乃ちゃんを見た。
それから、絵の中の、顔のない姉を見た。
「――描こうか」
陽菜乃ちゃんが、目を見開いた。
「一緒に。陽菜乃ちゃんと、私で」
陽菜乃ちゃんは、背中のリュックから、スケッチブックを取り出した。
いちばん最後の頁を、開いた。
――ひなのへ。この頁は、いつか、ひなのが、いちばん描きたいものを描く頁。とうこ。
「――いちばん描きたいもの、分かった」
陽菜乃ちゃんは、鉛筆を握りしめた。
「とうこちゃんの、顔」
その夜、押し入れの上段で、私と陽菜乃ちゃんは、二人で、姉の顔を描いた。
陽菜乃ちゃんが、スケッチブックに、記憶の中の姉の顔を描いた。何度も描き直して。大きな口で笑う顔。目を細めて、少し照れたように。
私は、それを見ながら、壁の下書きの線の上に、アクリル絵の具を、そっと置いていった。
姉が使っていたのと、同じ色を探して。肌の色。髪の黒。笑った口元の、淡い紅。
社長と、森下さんと、黒木は、台所の床に座って、黙って待っていた。
夜の十一時を過ぎたころ、最後の一筆を置いた。
私は、押し入れの上段から、ゆっくりと体を抜いた。
陽菜乃ちゃんと並んで、絵を見上げた。
柿の木の下で、二人の姉妹が、手をつないでいた。
夕暮れの空の下で。
大きな女の子は、大きな口を開けて、笑っていた。
小さな女の子も、笑っていた。
「……とうこちゃんだ」
陽菜乃ちゃんが、つぶやいた。
「ほんとの、とうこちゃんだ」
私は、陽菜乃ちゃんの肩を、そっと抱き寄せた。
台所のほうで、社長が、老眼鏡を外して、目頭を押さえているのが見えた。
黒木は、天井を見上げていた。
森下さんは、両手で顔を覆っていた。
押し入れの上段の、小さな絵の前で、私は、ようやく、言えた。
「――見に来たよ、お姉ちゃん」
五年、遅れて。
エピローグ 内見します
十月の終わり、私は、二〇四号室の賃貸契約書に、判を押した。
借主の欄に、自分の名前を書いた。
――椎名灯。
社長は、契約書を受け取って、長いあいだ、黙って見つめていた。
「……本気か」
「本気です」
「事故物件だぞ。告知事項あり。五年前に、前の入居者が、室内で病死。発見まで二週間」
「知ってます。その入居者の、妹なので」
社長は、ふん、と鼻を鳴らした。
「家賃は、まけんぞ」
「まけてください。社員割引で」
「そんなもんは、ない」
社長は、契約書に、自分の判を押した。
それから、引き出しから、あの古い大学ノートを取り出した。
表紙に、「告知」。
社長は、ノートの、二〇四号室の頁を開いた。
――椎名灯子。二十八歳。病死(心疾患)。死後約二週間で発見。
――発見者:宇佐美源三。
その下の、「次の入居者」の欄は、五年間、ずっと空白だった。前の大学生の名前は、別の頁に書かれていた。社長は、この頁にだけは、誰の名前も書かなかったのだという。
社長は、ペンを取って、私に差し出した。
「――あんたが、書け」
私は、ペンを受け取った。
空白の欄に、ゆっくりと、書いた。
――椎名灯。妹。
社長は、その字を、長いあいだ見つめていた。
それから、ノートを閉じて、金庫にしまった。
「これで、あの頁は、終わりだ」
社長は、老眼鏡をかけ直した。
「五年かかったな」
引っ越しは、黒木が手伝ってくれた。
軽トラックに、私の少ない荷物を積んで、町屋の古いアパートから、東尾久のコーポ若葉まで。段ボール箱が、十個。布団が一組。小さなテーブルと、本棚と、美大時代から使っているイーゼル。
それから、所沢の実家から引き取ってきた、姉の段ボール箱が三つ。
「本当に、これも持ってくのか」
黒木が、姉の箱を抱えながら聞いた。
「うん。お母さんが、灯が持ってなさいって」
母は、引っ越しの前の週に、初めて、二〇四号室を訪ねてきた。
押し入れの上段の、柿の木の絵を見上げて、母は、声を上げて泣いた。それから、台所に立って、姉が使っていたのと同じ場所で、私のために、味噌汁を作ってくれた。
――灯子が、ここで、ご飯を作ってたのね。
母は、そう言って、また少し泣いた。
父は、来なかった。まだ、来られないと言った。でも、帰り際に、母が、父からだと言って、小さな包みを渡してくれた。
開けると、白いマーガレットの、苗が入っていた。
ベランダに、プランターを二つ、並べた。
一つには、父がくれたマーガレットの苗を植えた。
もう一つには、陽菜乃ちゃんが、船橋の家から持ってきてくれた株を植えた。五年前、姉が陽菜乃ちゃんにあげたプランターの、子供の、そのまた子供の株だった。
「――とうこちゃんのマーガレット、帰ってきたね」
陽菜乃ちゃんは、ベランダにしゃがんで、植えたばかりの株に、じょうろで水をやった。
「うん。帰ってきた」
「あかりちゃん、ちゃんと育ててね。枯らしたら、だめだよ」
「がんばる」
「とうこちゃんは、すごく上手だったよ。毎日、話しかけてた。今日もきれいだねって」
陽菜乃ちゃんは、少し考えてから、付け加えた。
「――あと、たまに、あかりちゃんの話もしてた。マーガレットに」
「……私の、話?」
「あかりは、今ごろ、何描いてるかなって」
私は、ベランダの手すりに、もたれかかった。
秋の空が、高かった。
遠くで、都電の踏切の音が、かんかんと鳴っていた。
十一月。
ひなた不動産の店のガラス戸を開けると、社長が、電話の受話器を置いたところだった。
「――室井さんからだ」
私は、思わず身構えた。
「……また、怒ってるんですか」
「いや」
社長は、少しだけ、口の端を上げた。
「息子が、消防の調べで、全部認めたそうだ。灰皿を置いたことも、配線を替えなかったことも。室井さん、八十三にもなって、息子と一緒に、佐々木さんの娘さんのとこに、頭を下げに行ったそうだ」
「……」
「それで、うちに電話してきた。五棟のうち、二棟だけ、戻してもいいって。残りの三棟は、息子が、ほかの不動産屋と契約しちまったから、どうにもならんそうだが」
社長は、老眼鏡を外して、目頭を押さえた。
「――あの人も、五十年、この商売をしてきた人だ。分かってるんだよ。部屋に、罪はないって」
社長は、机の上の、新しいファイルを一冊、私のほうへ放り投げた。
表紙に、マジックで、「告知事項あり」。
「今日の午後、内見が一件、入ってる」
私は、ファイルを開いた。
――荒川区町屋、グリーンハイツ、二〇三号室。
――告知事項:一年前、前入居者(四十一歳男性)が、室内にて死亡。死因、不詳。
「……不詳?」
「警察も、首をひねった件だ。事件か、事故か、病気か。結局、分からずじまい」
社長は、老眼鏡をかけ直した。
「内見の客は、亡くなった男の、別れた奥さんだそうだ。理由は、言わなかった。ただ、どうしても、あの部屋を見たいと」
私は、ファイルを閉じた。
「黒木さん、今日、空いてますか」
「――空いてねえよ」
店のガラス戸が開いて、黒木が入ってきた。紺色の作業着。首にタオル。手に、コンビニの袋。
「空いてねえけど、行く」
黒木は、袋から缶コーヒーを二本取り出して、一本を私の机に置いた。
「死因、不詳だろ。俺が清掃したときの写真、持ってきた。気になるとこが、二つ、三つある」
午後の陽射しの中を、私と黒木は、都電の線路沿いの道を歩いた。
商店街の八百屋の店先で、白い菊が、バケツに入って売られていた。踏切が鳴り、一両だけの都電が、ごとごとと目の前を通り過ぎていった。
「――なあ、椎名」
「なに」
「あんた、なんで、この仕事、続けてんの」
黒木が、缶コーヒーを飲みながら聞いた。
「姉さんの部屋のことは、もう、分かったろ。花のことも。絵のことも。もう、ここにいる理由、ないんじゃないのか」
私は、少し考えた。
それから、正直に答えた。
「――ドアを、叩きたいから」
黒木が、ちらりとこちらを見た。
「誰かが叩かなかったドアを。誰も住まなくなった部屋の、ドアを。叩いて、開けて、中に入って、前に住んでた人が、どんなふうに暮らしてたのか、見たいの」
私は、手の中のファイルを、握りしめた。
「柱の線とか。天井裏のスカーフとか。壁の中の焦げた電線とか。押し入れの絵とか。部屋は、ちゃんと、覚えてるんだよ。前に住んでた人のこと。誰も見ようとしないだけで」
「……修復家みたいなこと言うな」
「中退だけどね」
私は、少しだけ笑った。
「部屋の、上に塗られたペンキを、一枚ずつ剥がしていくの。前の人が、何を描いて、何を塗りつぶしたのか。それを見つけて、次に住む人に、手渡す」
私は、前を見た。
商店街の外れに、古い三階建てのアパートが見えてきた。外壁が、緑色に塗られていた。グリーンハイツ。
その前に、黒いコートの女性が一人、立っていた。
二〇三号室の窓を、じっと見上げていた。
五年前の私と、同じ顔をしていた。
来なかった人の、顔だった。
「――ひなた不動産の、椎名です」
私は、女性の前に立って、頭を下げた。
「本日は、よろしくお願いします。お部屋に入る前に、ご説明しておかなければならないことがあります」
女性が、ゆっくりと、こちらを振り返った。
私は、ファイルを開いた。
部屋は、住む人がいて初めて、部屋になる。
そして、ドアを叩く人がいて初めて、部屋は、もう一度、語り始める。
「――それでも、お部屋を、ご覧になりますか」
女性は、長いあいだ、黙って私を見つめていた。
それから、小さく、頷いた。
私は、鍵を、鍵穴に差し込んだ。
回した。
(了)




