夢の終わりの口づけを、孤独なエルフと現実《ここ》で
『ミリィといるこの時間が、無機質に過ぎていく日々の中で唯一の幸せだよ』
夢の中で彼は、まるで愛おしいものを見るように優しく微笑んでくれた。
月光のように輝く銀髪と吸い込まれそうな翠の瞳、そして特徴的な長い耳。彼の隣だけが、私が私でいられる場所だった——。
♢♢♢
「おい、いつまで寝ているんだ!出来損ないのくせに、朝寝坊だけは一人前だな」
冷たい罵声で、私は現実へと叩き起こされた。
枕元でガチャン!と大きな音を立てて置かれたのは、古びた銀のトレイ。乗っているのは、カチカチに硬くなったパンと具のないスープだけ。
最低限の仕事もする気のない侍女が、不機嫌な足音を響かせて部屋から出ていくのを、寝起きのぼーっとした頭で眺めていた。
『気味が悪い』『出来損ない』『嫌われ者』。
幼少期から刃物のように投げつけられてきたその痛みに、もう心は慣れてしまった。
ここはグラディウス王国。王宮の片隅に、きらびやかな本宮から見放された離宮がぽつんとあった。手入れは行き届いておらず、専属の従者や侍女もいないそこで、私は生活している。
離宮での楽しみは、裏庭につくった畑で薬草を栽培すること。涼やかな風が吹き抜けるその場所が、この広い王国で唯一の私の居場所だ。
ドレスが泥だらけになるのも気にせず、私は畑の中にしゃがみ込む。薬草の葉にそっと触れると、指先を通じて愛らしい声を届けてくれた。
『今日はおひさまが気持ちいい』
『お水がほしいな』
『あったかい魔力だいすき』
王宮の誰にも信じてもらえない、生まれ持った不思議な能力。私はこの子たちの声を感じとることができる。
健気に生きようとする植物の無垢な声は、私の冷えた心をいつも温かくしてくれる。
「大丈夫よ。今お水をあげるからね」
私は元気のない薬草に声をかけて、水をあげる。すると、枯れかけていた薬草が瑞々しく息を吹き返し、鮮やかな緑の葉を広げた。
その様子に微笑んでいると、くすくすと棘のある笑い声が私の背中に突き刺さった。
「あら、また薄汚い草と不気味なお喋りをしているわ」
「一応は第三王女だっていうのに。旅芸人の子ですもの、高貴な血の自覚なんて持ち合わせていないのかしらね」
振り返ると、美しいドレスを汚さないように遠巻きにこちらを見下ろす異母姉たちの姿があった。
「お姉様……」
「まぁ、我が国には似合わない汚い黒髪も、不気味で泥だらけの貴方にはお似合いよね」
「ほんと、名前だけのお飾り姫ね」
姉たちの後ろに控える侍女や護衛たちも、こちらに冷ややかな、そしてどこか憐れんだ視線を向けている。
言い返したい言葉が喉まで出かかったけれど、私はそっと唇を噛んで飲み込んだ。反論したって無駄、返ってくるのは嘲笑だけだということを、これまでに何度も繰り返してきたやり取りで理解している。私は姉たちから視線を逸らして、薬草に水をあげながらこの時間が過ぎるのをただただ待った。
異国出身の旅芸人だった母とこの国の国王、二人の決して許されない不貞によって生まれたのが、この私、ラミリアだった。母は私を産むとすぐに、旅芸人としての人生を歩むために去っていったという。
母親から受け継いだ黒髪と深緑の瞳という容姿はこの国に馴染まず、ただ不浄の証として悪目立ちしている。
それに加えて、魔力の実力が価値になるこの世界で、私の魔力は微弱と判定された。出生、容姿、魔力、そのすべてにおいて落第点をつけられた私は、この王宮で、国で、誰にも必要とされない嫌われ者なのだ。
ひとしきり私を貶した姉たちは満足した様子で去っていき、私は張り詰めていた肩の力を抜いてふぅと息を吐く。
水を浴びて生き生きと輝く薬草をひと撫ですると、風に揺れた葉が『ありがとう』と言ってくれたように感じて、思わず目頭が熱くなった。
いつまでもここでグズグズしていられない。
私は、よし!と気合いをいれて立ち上がり、ドレスについた泥を手で払った。
色々と言われるのには慣れてしまったが、ただじっと耐えているわけではないのだ。
私は部屋に戻ると、体をすっぽりと覆えるくらいのマントを羽織り、黒髪や顔が隠れるようフードを深く被る。そして、収穫したばかりの薬草をいくつか鞄に詰め込んだ。
王宮の裏口から従者たちの目を盗んでこっそりと抜け出すと、向かうのは王都の賑やかな下町にある小さな薬売りの店。
「おや、今日もいい薬草だね。あんたの持ってくる薬草はそこらの医者よりよっぽど効く。この前も原因不明の高熱が一瞬で引いてね」
「それは、本当によかったです。ありがとうございます、店主さん」
薬草と引き換えに手渡されたのは、数枚の銅貨。
その小さな輝きをぎゅっと手に握りしめ、急ぎ足で離宮に戻った。
部屋の軋む床板を一枚剥がして、そこに隠している小さな木箱を取り出す。
中に銅貨を落とすと、チリンと澄んだ音が響いた。一回で得る額は決して多くはないけれど、私は何年も何年も、大切に貯め続けてきたのだ。
あとどれくらい貯まれば、彼の元へ行けるのだろう。
ああ、シルに会いたい。
ふと、遥か遠い場所にいる彼に思いを馳せる。その名前を心の中で呼ぶだけで、不思議と息がしやすくなった。
私は冷えきった粗末なベッドに横たわる。
今日もあなたに会えますように。そう祈るように瞼を閉じて、意識を深い闇へと委ねていく——。
♢♢♢
どこまでも深く透き通っている空気。心地のよい小鳥のさえずりと、深緑の木々の葉が軽やかに揺れるささやき。きらきらと太陽の光を反射する湖の周囲には、実体をもたない微精霊たちが温かな光を放ちながら楽しそうに浮遊している。
まるでお伽話にでてくるような神秘的で美しい楽園。
「今日も会えて嬉しいよ、ミリィ」
そんな風景をどこかふわふわとした気持ちで眺めていた私に届く、鼓膜を撫でるような低く穏やかな声。
声のした方を向くと、この森の守り人であるエルフのシルヴァンが立っていた。この世界でたった一人、私を『ミリィ』と呼んでくれる彼。
「私も、貴方と会えて嬉しいわ。シル」
少し恥ずかしそうに視線を伏せてこたえる私を、彼は目を細めて愛おしそうに見つめる。
私には誰にも言えない秘密がある——。
それは、夢の中で彼に会っていること。
幼い頃、姉たちと共に連れていかれた遠い北の地で、私は妖精の森に迷い込んでしまった。そこは本来強力な結界に守られていて、人間が立ち入ることを許されない神聖な場所。
恐怖で泣きそうになっていたあの日、私はシルに出会ったのだ。
その時、どういうわけか私たちの間で魔力回路が繋がってしまった。シル曰く、彼と私の魔力の性質がとても似ていることが原因らしい。
何百年も独りで森を守り続けている彼と、王国で冷遇されている私。境遇が似ていることもあってか、逢瀬を重ねるうちに、だんだんと距離が縮まった。そして今では、私は彼に特別な感情を抱くようになってしまった。
現実の彼に会いたい。その一心でお金を貯めてきた。いつか必ず王宮を抜け出して、彼の元へ行くために。
幾千年もの時を重ねたであろう大樹の根に二人並んで腰を下ろすと、彼はその細長い指で私の黒髪をそっと撫でてくれた。
「いつ見ても、ミリィの髪は美しいね」
「……そんなことないわ。シルの銀髪や翠瞳のほうが、よっぽど綺麗よ」
私の言葉にシルはきょとんとした顔をする。
「もしかして、また人間に何か言われたのかい?君は落ち込んでいる時、左側の髪を触る癖がある」
鋭い指摘にドキリとした私をよそに、彼は髪を撫でる手を止めずに続ける。
「本当に人間は不思議だね。こんなに綺麗なものを見て、どうして酷いことを言えるのだろう。ミリィの髪はとても美しいし、瞳の色もお揃いのようで私は嬉しいよ」
そんな風に思ってくれていたなんて。その言葉に私は少し目を見開いた。
「またそんな顔をする」
「え?」
シルはその端正な眉を少しだけ下げた。
「私が褒めるたび、信じられないって顔をするんだ。私がこれまでお世辞なんてものを言ったことがあったかい?」
「……いいえ、ないわ。貴方の言葉はいつも真っ直ぐよ。シル、ありがとう」
王宮では汚いと言われる黒髪も瞳も、彼に褒められると本当に美しいように思えてくる。
なにより、お揃いという言葉がとても嬉しかった。
温かい沈黙が、二人の間に心地よく流れる。
先に立ち上がったシルが、衣服についた木屑を軽く払ってから私を見下ろした。
「さて、魔草たちの様子をみに行こうか。ミリィが丹精込めて育てていたから、きっと最高の蜜がとれるはずだよ」
「そうね!みんなの成長を見るのが楽しみだわ」
お互いに笑い合うと、シルは魔草のある庭園の方へ私の手を優しく引いてくれる。
触れ合った手のひらを通して確かに伝わってくる温もりに、じんわりと愛おしさが広がっていく。
しかし、すぐ近くにあるはずの彼の体温は、どこか水面に映る月のように遠く、胸の奥をかすかな寂しさが掠めた。
この時間が永遠に続けばいいのに。切実な願いを胸の奥に閉じ込めながら、私はそっとその手を握り返した。
♢♢♢
その日は珍しく、扉を叩く音がした。
不思議に思いながら開けると、そこには数回しか見かけたことのない本宮に仕える執事長が立っていた。
「国王陛下がお呼びです」
丁寧に告げられた言葉に、心臓がドクリと波打つ。
お父様が一体私に何の用かしら……。
「かしこまりました。すぐに向かいます」
私が答えると、執事長は一礼すら残さず冷ややかに背を向けた。急いで身支度を整えて彼の後を追う。
静まり返った離宮を抜け、本宮へと続く渡り廊下を進んでいくと、周囲の景色は目まぐるしく変わっていく。
床には足音が消えるほど肉厚な絨毯が敷き詰められ、壁には黄金の燭台と歴代の王の肖像画。
すれ違う貴族や官僚たちは、誰もが煌びやかな衣服を身にまとっている。
眩しいほどの光と富に満ちた、これが本来の王宮の姿。
しかし、私は景色を楽しむ余裕などなく、ただ下を向いて一歩一歩を踏みしめていた。
生まれてから今日まで、実の父親である国王と会話した記憶は片手で数えるほどしかない。
あの人にとって私は汚点なのだ。そんな相手をわざわざ呼び出すなんて、ろくな理由じゃないだろう。
嫌な予感は、重苦しい足枷のように私の歩みを鈍らせる。
しかし、私の躊躇いなど置き去りにして、執事長によって重厚な謁見の間の扉が開けられた。
「遅いぞ」
部屋の奥、一段高い玉座から見下ろすお父様の目は、実の娘を見るものとは思えないほど冷たかった。その隣には、何を考えているのか分からない薄ら笑いを浮かべた王妃。
そして、部屋の片隅に、もう一人。口元に弧を描き、値踏みするような視線を這わせてくる男性がいた。年齢は、お父様よりもさらに上に違いない。
その男と目が合った瞬間、背筋にゾワリと悪寒が走った。
「用件を伝える。お前にある御方との縁談を用意した」
お父様は、まるで不要になった道具の処分を言い渡すかのように、淡々と淡白に言葉を紡ぐ。
「そちらにいらっしゃる、ローズベル公爵閣下だ。これより我が国は閣下の領地を足がかりに、北の地へと進軍する。その同盟の証として、お前を公爵の妻として差し出すことにした」
「え……?」
頭を鈍器で強く殴られたような衝撃だった。
言葉の意味が、うまく脳に届かない。
ローズベル公爵。彼の悪名は離宮にまで届いていた。女癖が悪く、これまでに何人もの若い妻を迎えたけれど、その誰もが不審な死を遂げているという。
「ふふ、出来損ないと聞いていたが、上等じゃないか。大人しそうな顔立ちも悪くない」
公爵がねっとりとした声でそう囁きながら、距離を詰めてくる。
生理的な嫌悪感で、全身の毛穴が総毛立つ。
後退りした私の行く手を阻むように、彼のしわがれた手が、強引に私の顎を掴んで上を向かせた。
「ひっ……!」
「大切に可愛がってあげよう、ラミリア王女」
逃げ出したい。拒絶したい。けれど、足がすくんで動くことができなかった。
「感謝するが良い。魔力も持たぬ役立たずのお前が、ようやく我が国の役に立つのだ。……婚礼は一週間後だ。それまでに荷物をまとめておけ」
お父様の冷酷な声が、謁見の間に響き渡る。
これまで周囲から虐げられてきたことなんて生ぬるいと思えるほどの、絶対的な暴力がそこにあった。
そこからの記憶は、ほとんどない。
どのように謁見の間を退室し、自分の冷え切った部屋まで戻ってきたのか。恐怖と絶望で頭が真っ白になっていて覚えていなかった。
部屋に鍵をかけた瞬間、張り詰めていた糸が切れ、私は床に崩れ落ちる。溢れ出す涙はそのままに、ただガタガタと震えることしかできない。
「嫌……嫌よ……、シル、助けて……っ」
一刻も早く、現実から逃げ出したかった。
私はすがるようにベッドへ這い上がり、涙で濡れた瞳をぎゅっと閉じる。
どうか、彼のいるあの場所へ。私を優しく包んでくれる、彼の元へ——。
♢♢♢
目を開けると、そこはいつもと変わらない、どこまでも美しいお伽話のような楽園だった。
けれど、私の心は限界を迎えていたようだ。
シルのいる場所にこれた安心感と、間もなく地獄へ送られるという恐怖が一気に押し寄せ、視界が涙で激しく歪む。
「……ミリィ!?」
私の異変に気づいたシルが慌てた様子で駆け寄ってきた。そして、私の両肩を優しくも力強く掴んだ。
「どうしたんだ、その涙は……!一体何があったんだ……っ!?」
シルの美しい瞳が、見たこともないほどの不安と動揺に揺れている。
伝えなきゃ。私、もうここに来られなくなっちゃうかもしれない。あの醜い男のところに連れていかれちゃうの。
「シル、わたし……っ」
声を出そうとしたけれど、心身ともにすり減った私はもう限界だった。頭がぐわんぐわんと揺れて、視界が急激に黒くなっていく。
遠ざかる意識の境界線で、私を呼ぶシルの悲痛な叫びが聞こえた。
——そして、次の瞬間。
ガタガタと世界そのものが震えているかのように、大地が鳴動を始める。穏やかだった風が暴風へと一変し、美しい湖の水面は荒れ狂う。微精霊たちが怯えたように逃げ惑った。
「安心しておくれ、愛しいミリィ……」
意識を失っていく私の耳に届いたのは、地獄の底から響くような、低く冷徹極まりない声。
「君をそこまで追い詰めた人間どもを、私は絶対に許さない」
♢♢♢
「——っ、はあぁっ……!」
はっと目を見開くと、今まで窒息でもしていたかのように、私は大きく息を吸い込んで上半身を起こした。
視界が酷くぼやけている。手の甲で無造作に顔を拭うと、冷え切った涙が溢れてきて、顔や手をびっしょりと濡らした。
シル——。
まだ温もりが残っているような気がして、私は自分の身体をきつく抱きしめた。
あんなに震えたシルの声を、私は聞いたことがない。あんなに荒れ狂う妖精の森を、私は見たことがない。
私のために怒ってくれたのだろうか……。こんな時なのに、彼を想って温かい気持ちになる。
しかし、いつまでも浸っている時間はない。
夢の中に逃げたくなる気持ちをぐっと堪え、私は震える膝を叩いてベッドから下りる。そして、床下から木箱を取り出して、床に向かってひっくり返した。
ジャラジャラと銅貨が床に散らばる音が響く。
焦りで震える指先で何度も硬貨を落としながら、「一、二、三……」と必死に北の果てまでの費用を計算する。けれど、何度計算し直しても、必要な馬車代や宿代には届かなかった。
「っ、足りない!どうしよう、あと一週間しかないのに……!」
悔しさと、迫り来る制限時間の恐怖が押し寄せてきて、息が詰まる。王国の誰もが私を嫌い、道具のように売り飛ばそうとしている。頼れる人なんて一人もいない。
また自然と涙が滲んでくる。
けれど、ここで泣いて縮こまっていたら、もうシルに会えなくなるかもしれない。そんなの嫌だ。何もしないで自分の人生を諦めるなんて、絶対に嫌だ。
今ある貨幣で行けるところまで行く。足りない分は、途中で薬草を売りながら稼げばいい。
今夜、必ずここを抜け出す——。
私は覚悟を決めて、時間が過ぎるのを息を潜めて待った。
♢♢♢
夜が更け、静まり返った王宮。
貨幣と少しの衣服、そして今ある薬草を小さな鞄に詰め込む。マントのフードを深く被り、夜の闇に溶け込むようにして静かに離宮を後にした。
私はいつも街へ行く時に使っている王宮の裏口を目指す。警備が手薄で、抜け出しやすいはずだ。
冷たい夜風がマントを揺らす。心細さに押し潰されそうになりながらも、シルの顔を思い浮かべながら足を前へと進める。
しかし、その場所に近づくと、暗闇に浮かぶランプの光が見えた。物陰に身を潜めて様子を伺うと、重々しい鎧を身にまとった兵士たちが、鋭い視線で周囲を警戒するように立っていた。
私の逃亡がバレたのだろうか。見つかれば地下牢に入れられるか、即座に公爵の元へ引き渡されるだろう。
恐怖で無意識に大きくなる息遣いが聞こえないよう、私は両手で必死に口をおさえた。
兵士たちがいなくなるまで、なんとかやり過ごせないだろうか。じわりと嫌な汗が背中を伝う中、ただ息を殺して機会を待つ。
じっと耳を澄ませていると、兵士たちの会話が漏れ聞こえてきた。
「……先行の偵察部隊から、まだ連絡はないのか?」
「ああ。だが、結界を破るための魔導具はすべて揃っているし、なんといっても精鋭部隊だ。じきに吉報が届くはずさ」
何の話をしているのかしら。
私のことではないと安心した一方で、会話内容が気になった。何故か胸騒ぎがする……。
「それにしても、国王陛下は大胆なことを考えられたものだ。まさか、妖精の森に進軍されるとは」
「第三王女とローズベル公爵の婚姻も、すべてはそのための布石だからな。あの森の最奥に眠るとされる伝説の『世界樹のコア』。あれさえ手に入れば、我が国の魔導軍事力は大陸一になる。陛下は何が何でも、あの莫大な魔力の結晶を手に入れるおつもりだ」
男たちの笑い声が、夜の静寂に響く。
心臓を突き刺されたような激しい衝撃と怒りに襲われた。
お父様たちの目的は、ただの領土拡大などではなかった。シルが何百年も大切に守り続けてきた森の心臓、世界樹のコアを強奪するために、すでに動き出していたのだ。
あの優しい世界を壊されてたまるものか。
シルは何も知らないかもしれない。今もあの楽園で、魔草のお世話をしながら私のことを待っているかもしれない。
森が狙われていることを、今すぐ知らせなきゃ。
さっきまでの自分の逃亡に対する恐怖は、いつの間にか消え失せていた。
私は兵士たちに見つからないよう、地面を這うようにしてゆっくりと後退した。一歩、また一歩と下がり、人の気配から遠ざかる。
ようやく誰も来ない寂れた離宮の入り口まで戻ってきた時には、全身が冷や汗で濡れていた。
入り口を入ってすぐ、塀の横に立っている大きな木に寄りかかって座り、未だ緊張でどくどくと激しく脈打っている心臓を落ち着かせるように、深く深く深呼吸する。
お願い、繋がって。シル、いま行くから。
私はぎゅっと瞼を閉じる。
しばらくすると優しく溶けていくような感覚がして、気づいたらあの美しい楽園に立っている。
——はずだった。
しかし次の瞬間、奥底で繋がろうとしていた意識が、まるで火花を散らすかのようにバチッ!と激しく弾け飛んだ。
「——っ!?」
私はその反動で地面に突っ伏し、激しく咳き込む。肌がチリチリと焼けるような感覚が残り、指先がガタガタと震えて止まらない。
何が起こったの……!?
こんなこと今までに一度もない。
私は言い表せない恐怖を感じ、全身から血の気が引いていく。
『結界を破るための魔導具はすべて揃っているし、なんといっても精鋭部隊だ。じきに吉報が届くはずさ』
先ほどの兵士の言葉が脳裏をよぎり、ハッとする。
すでに先行部隊の攻撃が始まっていて、妖精の森が、シルが、大変な目に遭っているんだわ……!
私は手をぎっと握りしめる。指が土を抉り爪に食い込んだが、微塵も気にならなかった。
シルの危機を確信した瞬間、身体を支配していた恐怖はすべて消え去り、ガタガタと震えていた足に確かな力が戻った。
私はすっと立ち上がってマントを外す。夜風に黒髪が激しくなびいた。
そして、闇の向こうにそびえ立つ、煌びやかで醜い本宮を真っ直ぐに見据える。
いつも私を救ってくれた。誰も私を必要としてくれなかったこの世界で、彼だけが私の居場所になってくれた。
そんな彼を、今度は私が助ける番だ。
私が貴方を守ってみせる——。
♢♢♢
私は目的の部屋へと続く廊下をがむしゃらに走った。
ドレスや手足は土で汚れ、髪も乱れている。けれど、そんなことはどうでもよかった。
「おい、待て!……っ、ラミリア様!?」
「なぜ貴方が!?」
「ここは、貴方が立ち入っていい場所では——」
立ちはだかる近衛兵の手をすり抜け、国王の執務室前まで辿り着く。そして、重厚な扉を両手で力任せに押し開けた。
バァン!と、静まり返った室内に生々しい音が響き渡る。
「……何事だ」
室内の奥で書類に目を落としていた厳格な男が、酷く冷たい目をこちらに向けた。
側近たちが突然の乱入者に息を呑み、私へ軽蔑の視線を浴びせる。いつもならその視線で足がすくみ、声が出なくなっていたはずだ。
「出来損ないのラミリアか。夜分に醜態を晒して、何の真似だ。下がれ」
氷のように冷たい、お父様の声。
けれど、今の私には、その冷たさすら心地よいほどに頭が冴え渡っていた。私は一歩も引かず、まっすぐにお父様の目を睨み返す。
「お父様——いえ、国王陛下。今すぐ、妖精の森への進軍を中止してください!」
「……何だと?」
「罠です。この計画は、すでに敵に筒抜けになっています。このまま進めば、我が国の誇る兵士たちは、一人残らず全滅します」
私が一気にまくしたてると、一瞬の静寂の後、お父様はフッと鼻で笑った。
「敵、だと?お前は何を言っている。それに、進軍の情報をどこで知った」
「妖精の森にはエルフがいて、攻撃を仕掛けてくる者から世界樹を守っているそうです。全て植物たちが教えてくれました。お父様もご存じでしょう?不気味と嘲笑われてきた、私の能力を」
私はここに向かいながら考えた嘘を織り交ぜて伝える。
「ほう。進軍のことは該当の兵士にしか伝えていない情報だ。お前の能力は認めてやろう。……だが、計画は中止しない。たかがエルフに何ができる」
「っ、たかがエルフと侮るのは危険です!植物たちが森の怒りを伝えてきているのです。このまま進めば、本当に大変なことに「黙れ」
お父様の地を這うような声が、私の言葉を遮った。
「たとえ何百人、何千人と死のうが、大した問題ではない。世界樹のコアさえ手に入れることができれば、我が国は大陸一の軍事力を得る。兵など、いくらでも替えがきくのだ」
冷徹に言い放たれた本音に、私は息を呑んだ。
この人は、人の命なんて何とも思っていない。何と言おうと、コアを手に入れるまで進軍をやめるつもりはないんだ。
説得は不可能だと、一瞬で悟った。
だったら、選ぶべき道はもう一つしかない。
私はすっと背筋を伸ばし、手を強く握りしめてお父様を見据えた。
「——では、私がそのコアを手に入れるお手伝いをします。私を一緒に、妖精の森へ連れて行ってください」
「……何だと?」
お父様が不快そうに眉をひそめる。
「何を血迷っている。お前には、ローズベル公爵との婚姻が控えているんだぞ」
「私は幼い頃、妖精の森に迷い込んだことがあります。その時の記憶から安全なルートをご案内します。それに、植物の声が聞ける力を駆使して、兵士たちを確実に世界樹へと導くことができます。コアさえ手に入れば、私の婚姻がどうなろうと、お父様にとっては些細なことのはずです」
私の言葉に、お父様の目が値踏みするような鋭さを帯びた。
無能だとゴミのように扱ってきた娘が、今初めて国益になる提案をしている。その事実がお父様の強欲さを揺さぶっているのが分かった。
「それと万が一、エルフの怒りに触れて軍が危機に陥った時は、私を生贄として差し出していただいて構いません。私が必ず、王国の役に立ってみせます」
私が、シルの盾になる。彼と森を狙う刃は、全部私が受け止める。そのために、私は私のすべてを利用する。
重苦しい沈黙が室内を支配した。
やがて、お父様は口元を歪め、低く笑った。
「ははっ……、そこまで言うならよかろう。婚姻の儀は進軍の後だ。行け、出来損ない。せいぜい国のための盾となれ」
「——感謝いたします、国王陛下」
私は深く一礼し、執務室を後にした。
待っていて、シル。今、私がそっちへ行くから。
♢♢♢
数日後。私を乗せた馬車は、鬱蒼とした大樹が立ち並ぶ妖精の森の境界線へと到着した。
あれから何度か夢での繋がりを試したが、一度もあの楽園へ入れることはなかった。
馬車を下りると、視界を埋め尽くすほどの圧倒的な木々が目に飛び込んでくる。ひんやりとした森の空気が肌を包み込み、その実感がじんわりと胸に広がっていく。
やっと来れた。何年も夢で訪れていた場所。今、私は本当にここに立っているんだ。
しかし、胸の高鳴りは一瞬で凍りつく。
そこには、待望していた光景とは異なり、数千人規模の魔導士団と重々しい鎧をまとった騎士たちが、森を囲むように陣を敷いているのだ。
「おい」
金属擦れの音とともに、冷ややかな声が降ってくる。
今回の進軍を率いる騎士長が、簡易ドレスの上にマントを羽織っただけの私を、値踏みするように一瞥した。
「陛下から話は聞いている。お前が案内人兼生贄の王女だな。足手纏いになるなよ」
「……私の心配は無用です。それよりも、先行部隊がどこにも見当たりません」
私は騎士長の言葉を受け流し、森の入り口へと視線を向けた。
予定では、結界を破った先行部隊が本軍の合流を待っているはずだった。確かに、いつもなら森の存在を隠しているはずの結界が消失している。
なのに、おかしい。
なぜ、森の入り口はこれほどまでに静まり返っているのだろう。
兵士たちの姿も、彼らが灯しているはずの光すら一切見当たらない。ただ、肺を圧迫するような、おぞましいほどの濃密な魔力だけが森の奥から這い出てきている。
私がその異様な気配に身を震わせている横で、騎士長は苛立たしげに舌を打つ。
「……チッ、足止めを喰らったか」
そして、私の忠告を無視するように、腰の剣を荒々しく引き抜いた。
「先行部隊からの合図はないが、結界は消えている。——全軍、突入せよ!世界樹のコアを必ず手に入れるのだ!」
騎士長が傲慢な号令をかける。
その声を合図に、魔導士たちが一斉に火属性の攻撃魔法を放ち、森の木々が激しい爆音と共に燃え上がった。
「ああ……っ、森が……!」
シルが愛した美しい森が、人間の身勝手な炎に包まれていく。
理不尽に焼かれていく木々を見つめるうち、悲しみは怒りへと変わっていった。拳にぐっと力を込める。
私はじっとその時を待った。
次々と兵士たちが森に突撃し、周囲が爆炎と怒号で包まれている。——今だ。全員の目が森へと逸れたその隙を見計らい、私は本隊を脱走した。
「シル……!」
炎の粉が舞う中、夢の記憶だけを頼りに森の奥へと飛び込んだ。
けれど、夢の中とは違い、視界を遮るように濃い霧が立ち込め行く手を阻む。足元にも植物が生い茂り、一歩一歩進んでいくのも困難だった。
鋭い茨が長いスカートを容赦なく引き裂き、足首を切りつける。所々にじわりと赤い血が滲んでいるけれど、私はただ一秒でも早くシルの元へ辿り着くことしか頭になかった。
薄くなる霧の向こうにひらけた場所が見えた時、そこに広がる光景に私は足を止めた。
「そんな……」
そこは、何度も夢の中で訪れ、シルと過ごしてきたあの美しい湖畔だった。
いつも透き通った水面がキラキラと輝き、周囲には色鮮やかな花々や微精霊が舞っていた。
私が笑った時も泣いてしまった時も、いつも隣にはシルがいて、いつも優しく微笑んでくれた。愛おしい思い出の詰まった場所——。
なのに、目の前には見る影もない惨状が広がっていた。
大樹の幹は抉られ、何百年もかけて育ったであろう美しい木花は黒く焼け焦げている。大切に育てていた魔草園は、無残にも踏み荒らされていた。
「あ……、ああ……っ」
これまでの二人の時間が、場所が、人間の強欲によって無神経に壊されたのだと理解した瞬間、目の前が真っ暗になった。悔しさと悲しみで、ボロボロと涙が溢れ出して止まらない。
呆然と立ち尽くしていると、ズズズ……、と地響きのような音が森を揺らした。
「……っ!」
ハッとして振り返った霧の向こう、木々をなぎ倒すようにして本軍の影が迫ってきている。
そうだ、泣いている場合じゃない。
森の奥から這い出てくるあのおぞましい魔力——、きっとあの場所で、シルは世界樹を守っているんだ。軍が到達する前に、私が彼の元へ辿り着かなきゃ。
壊されてたまるものか。
私のたった一つの居場所を。私の愛おしい人を。
私は涙を拭い、さらに森の奥を目指して走り出した。
けれど、霧で足元が見えない上に、スカートの裾が木の枝や茨に何度も絡まり、激しく足をもつれさせる。
「っ、ああもう、邪魔っ……!」
私は両手でスカートを力任せに掴んだ。
そして、これまでの自分の弱さと決別するかのように、ビリビリッ!!と長い裾を豪快に膝上まで破り捨てた。
今の私には、王女としての気品も誇りもどうだっていい。
軽くなった足でさらに速度を上げる。
むき出しになった肌に容赦なく棘や枝が刺さり、息が苦しくて心臓が破裂しそうになっても、足を止める選択肢なんてなかった。
けれど、どれだけ気持ちが急いでも、普段運動をしない肉体は容赦なく限界をむかえる。
悲鳴を上げる足がもつれ、地面に激しく転びそうになった。
「っ、きゃあ!」
咄嗟に、近くに立っていた大きな古木の幹に、しがみつくようにして両手をつく。
ゴツゴツとした樹皮の冷たい感触が手のひらに伝わってきた、その時。
『シルヴァンはこの先だ』
脳裏に直接響いてきた微かな声に、私は息を呑む。
「え……っ?」
驚いて顔を上げると、古木の葉がざわわと揺れた。すると、それに続くように、周囲の草木たちがざわざわと葉を揺らし始めた。
『こっちだよ』
『大丈夫』
『待ってるよ』
それはまるで、葉を揺らして道を教えてくれているかのようだった。
「みんな……。ありがとう!」
植物たちの愛おしい声が、限界をむかえた身体に新しい力を注いでくれた。
目的地は分かった。もう迷わない。
私はぐっと前を向いて、植物たちが囁いてくれる導きの通りに、深い霧を切り裂いて全力で走り出した。
♢♢♢
視界を塞いでいた霧が、一気にひらける。
私の目に飛び込んできたのは、天を突くほどに巨大な世界樹の姿だった。
圧倒的な存在感。この世界の中心。
けれど、その神聖な大樹の幹は、先行部隊の放った炎によって無残に黒く焼け焦げ、灰色の煙を上げていた。炭と化した樹皮が、痛々しく剥がれ落ちていく。
あまりの光景に世界樹へ駆け寄ろうとした私は、その場に縫い止められたように足を止めた。
——世界樹の前に、彼が立っていた。
しかし、夢の中の優しい彼とはまるで違っていた。その瞳は凍てつくほどに冷酷で、人間を拒絶するように圧倒的な魔力を放っている。
その足元には、破壊された先行部隊の武器や魔導具が転がっていた。
「シル……!」
ボロボロの姿で声をあげる私に、シルがハッとして視線を向けた。その氷のような瞳が、驚愕に揺れる。
「ミリィ……!?なぜここに……」
現実の世界で交わる視線。
私を見つめるその瞳に、よく知っている優しい彼の面影が戻った気がした。
やっと、やっとシルに会えた……!
彼の元へ一歩踏み出そうとした、その瞬間。
私の背後の霧を切り裂いて、魔道士や騎士たち数十人が一斉に突入してきた。
「ははは!案内ご苦労様でした、ラミリア王女!おかげで世界樹の元まで容易く来られましたぞ!」
騎士長が、勝ち誇った卑劣な笑みを浮かべて私に声をかける。
「え……!?ち、違う、私は——」
まさか、最初から後をつけられていたの……!?
騎士長の言葉を聞いたシルの顔から、一瞬で血の気が引いていくのが分かった。シルの美しい瞳が、絶望の色に染まっていく。
違う。私は案内なんてしていない。シルを助けたくて、一人で走ってきただけなのに。
胸を引き裂くような誤解に、心臓が痛いほどに脈打つ。しかし、言い訳をする時間さえ与えてはくれなかった。
「もう終わりだエルフ!すぐに全軍が到着する!お前たち、その化け物を殺せ!そして、世界樹のコアを奪い取るのだ!」
騎士長の号令と共に、魔導士たちが呪文を唱え始める。
シルは対抗するために暴風の魔術を放ち、迫る兵士たちを次々と吹き飛ばしていく。けれど、その表情は苦痛に歪んでいた。
そして霧の中から、無数の炎の矢が雨となって世界樹へと降り注いだ。地を揺らす轟音と共に、全軍が到着したのだ。
「ウッ……、ガハッ……!」
シルが地面に膝をつく。
世界樹と命を繋いでいるシルは、世界樹が傷つけられるたびに、その肉体や魔力を内側から削りとられているのだ。
「ハハハ!これで終わりだ!」
勝ち誇る騎士長の影で、何かがキラリと光った。
矛先をシルへと向けるそれを視界に捉えた瞬間、私の身体は考えるよりも先に動いていた。
「シル——!!」
彼の前に私は全力で飛び出した。
直後、ドスッ!!という重く生々しい衝撃が、私の胸を貫いた。
「が、はっ……」
凄まじい衝撃と激痛が全身を駆け巡り、私の身体は糸の切れた人形のように、ゆっくりと地面に崩れ落ちた。
「な……っ、ミリィ……!?」
シルの驚愕に満ちた声が響く。
倒れる私の身体を、彼が必死に抱きとめた。
夢なんかじゃない。現実で初めて触れるシルの手は、温かくて、大きくて、酷く震えていた。
「なぜだ……!なぜ私を……!」
綺麗な顔が、混乱と恐怖で激しく歪んでいる。その目から溢れた大粒の涙が、私の頬を濡らした。
薄れる意識の中で、そんな彼がたまらなく愛おしくて、私は小さく微笑んだ。
「やっと……貴方に、触れたわ……」
最後の力を振り絞り、シルの胸にそっと手を添える。
「世界樹も……貴方も……絶対に、死なせない……!」
——ドクン。私の心臓が、大きく一つ波打った。
私の胸から溢れた鮮血が、世界樹の乾いた根へと深く深く染み込んでいく。
その瞬間、視界が眩いほどの緑色の光に包まれた。
『いつもありがとう』
『今度は私たちが、あなたを助けるよ』
脳裏が愛おしい植物たちの声で満たされる。
ゴオオオオッ!!と地響きが鳴り響く。
枯れかけていた世界樹が一瞬で瑞々しく蘇り、天を覆うほどの巨木へと急成長を遂げる。
さらに、世界樹から溢れ出る莫大な魔力が、シルへ濁流のように流れていくのがわかった。
「な、んだ……この、魔力は……っ!?」
シルの傷が瞬時に癒え、その背後に見たこともないほど巨大な魔法陣が何重にも展開されていく。彼の魔力は、元の何十倍、何百倍にも膨れ上がっていた。
シルは、腕の中でぐったりと目を閉じる私を、壊れ物を扱うかのように強く抱きしめた。
「貴様ら人間ども、私の最愛によくも……!」
地鳴りのような冷たい声。
直後、王国軍の上に天から無数の光の劫火が降り注いだ。
「な、なんだこれはぁぁぁっ!?」
騎士長の絶叫も虚しく、数千人の大軍が、戦うことすら許されず一瞬で消し去られたのだった。
激しい痛みと、燃えるような熱さ。
最後に見たのは、絶望に染まったシルの泣き出しそうな顔。
ああ、最後にちゃんとシルに触れられてよかったな。
そんなことを思いながら、私の意識は深い闇の底へとゆっくり沈んでいった——。
♢♢♢
どれくらいの時間が経ったのだろう。
ふいに、耳の奥でざわざわと楽しげに揺れる、愛おしい葉擦れの音が聞こえた。
『起きて』
『私たちのお姫様』
『シルヴァンが、ずっと泣いちゃうよ』
植物たちの優しい囁きに背中を押されるようにして、私はゆっくりと重い瞼を持ち上げた。
「……っ、う……」
視界が焦点を結んだ瞬間、目の前にあったのは、涙でボロボロに濡れたシルの美しい顔だった。
夢の中では見たこともないような、ひどく情けなくて必死な顔。私の右手を、両手でぎゅっと握り締めている。
「ミリィ……!?気がついたのか……っ!?」
現実の世界で、初めてはっきりと鼓膜を震わせる彼の声。
私が小さく頷いた瞬間、シルは強い力で私をその胸に抱きしめた。あんなに激しく胸を貫かれたはずなのに、痛みはどこにもない。
触れ合う彼の体温が驚くほどに熱くて、ドクドクと脈打つ心臓の音が私の身体に直接響いてくる。
「シル……苦しい、わ……」
「離さない。もう絶対に離さない……!よくも私に、あんな生きた心地のしない思いをさせてくれたな。……本当に、無事で、本当によかった……っ」
私の肩口に顔を埋め、子供のように何度も私の名前を呟くシル。その背中が、微かに震えている。
「……裏切って、ない、よ……?シルを、助けたくて……」
「分かっている。分かっているから、もう喋るな……!」
「シル——」
愛おしさに胸が詰まり、その名前を呼ぼうとした私の唇は、問答無用で熱い何かによって塞がれた。
「……んっ、」
夢の中で何度も見つめ合い、けれど一度だって触れられなかった、憧れの体温。
現実に交わす初めての口づけは深く熱い。
唇が離れたとき、シルは潤んだ瞳で私を見つめ、私の額にそっと自分の額を合わせた。
「夢の終わりじゃない。……ここに、ミリィがいる」
掠れた声で愛おしそうに囁くシルの吐息が、至近距離で私の顔をくすぐる。
「もう、どこにも渡さない。人間たちの国にも、お前を虐げたあの王宮にも。……これからはずっと私の隣で、私のすべてになってくれ、ミリィ」
私は彼の首にそっと腕を回し、今度は自分から、大好きな彼の唇へと小さく甘いお返しを紡いだ。
♢♢♢
グラディウス王国の反対側にある街では、近頃ちょっとした噂が流れているらしい。曰く、妖精の森には軍隊を一瞬で消し去る力をもった恐ろしい『死神』と、効果抜群の劇薬を作る『魔女』が暮らしている、と——。
……なんて言われているけれど、その魔女の正体は私、ラミリアだ。
進軍事件から数ヶ月後。私は王女としての身分を捨て、妖精の森でシルと共に穏やかで幸せな日々を送っていた。
今日も新しく芽吹いた魔草にお水をあげていると、ふと思い出した疑問を、隣で優しく微笑むシルに投げかけてみた。
「ねえ、シル。そういえば、どうしてあの時、夢で会えなくなっちゃってたの?」
「ああ……。人間どもがこの森に入り込んで、世界樹の結界を荒らしていたからだよ。その影響で一時的に夢の同調が途切れてしまっていたんだ」
やっぱり、あの先行部隊の仕業だったのだ。
「私が走って行かなくても、シルは大丈夫だったの……?」
「もちろん。あの程度の羽虫一瞬で片付けて、そのままミリィを虐げたあの国を滅ぼしに行こうとしていたところだったからね」
「えぇ……っ!?じゃあ、あの必死のダッシュも、胸をブスリと貫かれた命懸けのダイブも、全部いらなかったの!?」
ドレスをビリビリに破いて茨の道を走り、身代わりに大出血した私の覚悟は一体……。
ガーンとショックを受ける私を、シルは愛おしそうに抱き寄せて髪に口づけを落とした。
「そんなことはないよ。ミリィが命懸けで私を庇ってくれたから、私はこうしてミリィをこの腕に抱きしめられているんだ。……まあ、ミリィを傷つけた『家族』とやらには、それ相応の罰を与えておいたけど」
かつてのように、シルの瞳が冷酷に光る。
「え、……罰って、何かしたの?」
「一生、太陽の下を歩けない呪いをかけた。光を浴びれば皮膚が焼け爛れる呪いだ。これでもう彼らは二度と表舞台へは出られない。周囲から不気味な一族だと忌み嫌われ、遠からずあの王家は衰退するだろう」
ゾクりとするほど冷徹な声。けれど、シルは誇らしげに胸を張ってこう続けた。
「本当はもっと惨たらしく魂ごと引き裂いてやろうと思ったのだけれど……ミリィが泣いて止めるだろうから、太陽を浴びられない程度に手加減しておいてあげたよ」
「いや、太陽も十分やりすぎだから……!」
思わずツッコミを入れてしまったけれど。
私のためにそこまで怒って、世界を敵に回すことも厭わないこの過保護な彼が、私はたまらなく愛おしい。
「もう、これからは物騒なことは無しね?」
「ミリィが私の側から離れないと約束してくれるなら、ね」
そう言って悪戯っぽく微笑むシルの唇が、私の言葉を優しく塞いだ。
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