猫路地さんの、いるところ2
「ノックバックって受けたことある?」
昨日に引き続き、今日も地雨は続いていた。
少しだけ重みを増した髪を後ろで結び直す。
早々に家路につくクラスメイトを横目に、私は静かに本を開いた。
つかの間の休息。
読書というのは本当によいものだ。
到底手に入れられないものが手にはいったり、些細なことも別の目線で見ることができて、場所も時間も問わずに手ごろに未知を感じられるから。
耳障りの良い雨音に、活字への集中は増す。
読み進める度にただの文字だったものが、楽譜となって私に流れ込んでくる。
小さなころに口に入れてみた、おはじきの味。
自分のために買ってもらった、初めての鉛筆の書き心地。
新品の絵具の重み。
いつか感じた檸檬の、その香り。
一文字一文字を読み進める度に心が動く。
主人公が自分と一体化していくような感覚に徐々に身体が慣れていく。
メランコリックな気持ちが心を破って、私と彼の身体を包む。
そして最後には、私自身が文豪になっているような得も言われぬ感覚があって。
そんな余韻が好きだった。
だけれども今はそうはいかない。
毎度毎度、驚くべき勢いで戸をあけられる身にもなってほしい。
カリフォルニヤの香りが簡単に薄らいで、完璧な笑顔で今日も、得体のしれない不吉な塊がやってきた。
「ねえよ」
私はぶっきらぼうに答えた。
けれども、どういうわけかその答えは奴にとって好ましかったようで、完璧な笑顔は完璧を超えた。
「斎岡さん。ノックバックしてみない?」
「してみない。それ私がダメージ負うじゃん」
「猫路地と斎岡さんの二人きりなんだから大丈夫だよ」
「何を持ってして二人なら大丈夫だと思った?」
彼女の思考は、本の結末よりもわからない。
「いったん、いったんシールドかバリア張ってみてよ。猫路地が窓から叩き落とすからさ」
「叩き落とすからさ、じゃないよ。狂気だよ」
「痛くしないから」
「叩き落とすのに?」
「目を見張るほどきれいに落とすから」
「落ちることに変わりないよね。君の目玉は飾りなの?」
「飾りじゃないよ。猫路地にはさ、未来と希望と夢と明日がばっちり見えてるよ」
「じゃあろくに見えてないんだ」
「この曇りある眼で見定めるね」
ようやく彼女は指定席たる私の前の机に腰を下ろす。
喧騒が一段落したと見た私は、本に目を落とした。
すると奴は視界の端で、自分自身を抱きしめながらウズウズと身悶えた。
「ねーえー斎岡さん、暇でしょー?落とされてよ〜」
「暇じゃない。本読んでる」
「本...、え?それ、Knock backとLook bookをかけたって...こと?」
「誰が言うかそんなこと」
親父ギャグに寒気を覚えたところで、再度私は文を読み進める。
文字は変わらず五線をかたどっていたが、意味が私には入ってこない。
奴のいる空間では、集中力も雨に紛れて散ったようだ。
それに読書ならRead bookだ。
小さくため息をついて本を閉じた。
「そもそも、ノックバック受けてみないってどういうこと?」
また奴の調子に合わせてしまうことがひどく悔しい。けれどもそう言わずにはいられなかった。
「斎岡さんはノックバックって知らないん?」
ノックバック。
ゲームやなんやでは聞いたことがあるかもしれない。だけれども「それ、何?」と聞かれれば、答えるのには微妙に難しい。
私的には殴られたりして軽く吹き飛ぶような、そんなイメージ。
だが確証はない。
ここは素直にネットの力を借りることにした。
「見せてー斎岡さん。なになに?えーっと、敵キャラクターを後方に弾き飛ばす効果」
スマホ画面を覗き込み、奴は言った。
「後は車のブレーキが効きにくくなるとかもノックバックっていうらしい。あと、たらふく食べる、とか」
アホは何度か神妙に頷いた。
「ふむふむ。猫路地のは前者かな。斎岡さん、敵になって」
「敵になってって日本語初めて聞いた」
「どのくらいの勢いで殴ったらいいかな?」
「糠に釘を打つくらいの強さが丁度いいんじゃない。君のように」
「おっ!これがノックバックか!斎岡さんやるぅ〜」
「言葉でもヒット判定生まれるんだ」
「これが愛の鞭かぁ。痛いもんだね。猫路地全身亜脱臼しちゃった」
「そっか。じゃあ今日は帰ったほうがいいよ。私、本読むから」
「...Knock backってこと?」
「そんな意味は知らん」
「おいお〜い、猫路地と斎岡さんは永遠の愛を誓った一生の仲だって言ったじゃ〜ん」
「いつ言った?」
「まさにmatch upって」
「存在しない記憶と鬱陶しさに驚きを隠せないよ」
「Knock backだけにね。」
「うるさいわ」
少しばかり満足したのか、奴は「シシシ」と妙な笑みを浮かべて、ようやくリュックをおろした。
ガサガサと中を漁ると、出てきたのは鮮やかなパッケージ。
おもむろに袋を破ると、その口をこちらに向けた。
遠慮なくそれを口にする。
ほのかな甘みと一緒に、爽やかな檸檬の香りが口に広がる。
どうやらレモンクッキーだったらしい。
軽い食感と程よい酸味が、梅雨のジメジメにちょうどいい。
初めて食べたが、これはいい。
でも気に入らない点もある。
それはきっと、奴がこの後ドヤ顔もドヤ顔で「Knock back?」と聞いてくることだ。
それに対処する術として、さも満足げに水を飲み干して一矢報いることにした。
しかしそれでへこたれないのが奴だった。
「リュックサックからサックサックのGOODスナック出てKnock back?」
「ブフっ」
思わず咳き込む。
「水までKnock backあっぷあっぷだなんて...。猫路地はKnock backだよ」
「やめ、まて、ストップ...」
むせる呼吸を何とか抑えて、ギリギリ平静を保つ。
そうして怒りの目線を向けた。
「......おい」
「ごめんごめん。猫路地すこし調子乗っちゃった」
チョロンと出された舌に、奴の薄く頬が染まる。
もしこれが他の誰かなら、すぐさま許すことはなかっただろう。でも、彼女の愛嬌は不可能を可能にする。
「...もうするなよ」
「はーい。もう四苦八苦させません!」
「やっぱり許さん」
「ごめんて〜」
そう言いながら彼女はクッキーを口に含んで、背後から私を抱くようにのしかかる。
「重いって」
「猫路地は重くありませ〜ん」
顔のそばに寄せられたクッキーの袋。
青と黄色のパッケージには一輪の白い花が描かれている。
思いがけず息を吸い込んでみるも、檸檬の花から爽やかな香りはしなかった。
かわりに、分厚く広がる梅雨と猫路地が鼻腔をくすぐった。
鼓動がひとつ、ひとつと鳴る度に溶けていく気がした。
猫路地が自分と一体化していくような感覚に徐々に身体が慣れていく。
メランコリックな気持ちが心を破って、私と奴の身体を包む。
彼にとっての檸檬。
私にとっての猫路地。
奴にとっての...。
つまりはこの重さなんだな。なんて。
「斎岡さん」
「ん」
「檸檬の味ってさ、よく言うじゃん?」
「何が」
「何がとは言わないけれど、ね」
猫路地が私の顔へ触れる。
季節を忘れるような温もりの手だった。
手繰られるようにして、自然と横を向いてしまう。
顔は何度も合わせたが、鼻を合わせたのは初めてだ。
薄茶色の瞳をこんなにまじまじと見るのも初めてだ。
猫路地にとっての重さは、きっとこれ。
放課後にダラダラと話し込むことでも。
妙な言葉遊びを仕掛けられることでも。
お菓子を食べることでもない。
私にとってのちょうどいいは、彼女にとっては軽すぎるらしい。
猫路地にとっての始まりで、私にとっての終わり。
つまりはこれが、彼女にとっての重さなんだろうと、そう思う。
私たちの檸檬の重みは、全然ちがう。
だけど、望まない私でさえ思ってしまった。
『後少し──』と、
直後、ドスン、と静寂を割いて衝撃音がした。
それからすぐに何かの散らばる音。
猫路地は名前の通り猫のように毛を逆立てて、私から距離をとった。
「何!何!びっくり!」
「......君のリュックが床に落ちたんだよ」
私たちの行いを嗜めるように床に落ちたリュックサックは、だらしなく口を開いてパステルカラーのペンをばら撒いていた。
「っわー、びっくり。猫路地はびっくりしてしまったよ。ほら聞いて、猫路地の鼓動が凄まじいよ」
そういって彼女は胸を張った。
「この距離で聞こえるとでも?」
「ありゃ聞こえぬ?猫路地の鼓動、そのくらいスゴイと思ったんだけどな」
猫路地は胸を押さえて大きく深呼吸を繰り返した。
そうして不意に、何かを思いついたように顔を上げた。
「斎岡さん斎岡さん」
「なに?」
「猫路地はまた閃いたよ。バッグ落ちた音にビックリ、これがホントの Knock bag。なんちって」
「しょうもな」
私はわざとらしく呆れた素振りをして活字へ目を落とす。
だけれども音を奏でていた文学は、すでにただの文字だった。
そこに文豪はもういない。
彼女の心音はすでに落ち着いただろうか。
ただ雨音にかき消されているだけだろうか。
それは私にはわからない。
でも、ひとつだけ確かにわかる。
彼女の画策に、私の脈拍はバクバクで、忘れられないくらい手痛いノックバックを受けたということだ。
幸いにも、今日の雨も止みそうにはない。
やっぱり私には、今くらいがちょうどいい。




