それはまた、別のお話
「君のことはもう信じられない!」
くらくらした頭に誰かの声がガンガン響く。何かひやりとした感覚がした。
「そうやってわざとらしく倒れてみせても、誰が心配などしてやるものか!」
……ああ、転んでしまっていたのね。
目を瞑ったまま頭を押さえてゆっくりと起き上がり深呼吸を繰り返す。
何かを大声で怒鳴っている。何をそんなに怒っているのかわからないけれど止めてほしい。こっちまでつられて血圧が上がってしまいそう。
「よって、この場で君との婚約を破棄する!」
そうして紡がれた宣言に周囲がざわざわと騒ぎ出す。あら、耳の聞こえがとても良いわ。
「……婚約破棄と言われましても……私、もう結婚しておりますけれども」
ぼそりと呟くと周囲がいっそうざわついた。
戸惑いと怒りが混じった声で「今何と言った!?」とひと際大きな声が聞こえて顔を上げる。
照明の明るさに一瞬目が眩んだけれど、すぐに慣れてピントが合う。こんなにもはっきりと物が見えたのはいつぶりかしら。
何かのステージ? 広い階段の上に小さな踊り場のような場所があり、そこに豪奢な椅子が置かれていた。さらに周囲に置かれている品の良い調度品の数々。何かのイベントホールなのかしら? かかっている垂れ幕や階段に敷かれている絨毯の高級さと言ったら! ここからでもわかるくらいにどれもこれも手触りが良さそうで思わず触りたくなってしまう。
「聞いているのか!?」
苛立った声が聞こえてきて、声のした方に目を向ける。そこにはキラキラとした装飾品と衣装に包まれた男女が二人立っていた。男女というよりは少年少女といったようにも見えた。孫よりも若い子たちかもしれない。一番下の子は大学生だから、もしかしたら高校生くらいかしらね。でも外国の方のようだから、見た目の年齢が当たっているかはわからないわね。
仕立ての良い礼服に身を包んだ男の子は、綺麗なブロンドの髪に透き通るような青い瞳。彼の側にいる女の子はふわふわ巻き髪で……ピンク色の髪の毛は少し派手かしらとも思ったのだけれど、涙が零れてしまいそうな大きな瞳と白いお肌にはとても合っているように思う。なんだかお人形さんみたいだわ。
「おい! 聞いているのか、と言っているだろう!!」
男の子はさらに声を荒げるものだから、怒られている相手はさぞ委縮してしまっているだろうと思わず辺りを見回す。思ったよりも人が多い。けれど、なぜか周囲の視線は私に向いている。
あら、もしかして私?
と思ったところで「何をふざけている! お前以外に誰がいると言うんだ!」とさらに怒声が飛んできた。
思わず自分を指差して少年たちに確認するようにすると、「そうだ!」と言われた。
そんなに怒ってばかりじゃ血圧が上がってしまうわ。と思ったけれど、口には出さない。昔のお義父さんのようだわ。お酒に飲まれてしまう人だったから、酔って誰彼構わず怒鳴り散らして大変だったわね。暴れることは少なかったのは幸いだったけれど。
「さっきのはどういう意味だ? 説明しろ!」
すぐ隣にいる女の子はぐすぐすと目元を抑えながら、隣で怒ったままの男の子にぴったりと寄り添っている。あら、でもちょっと口元は笑っているわね。もしかしたら泣き真似かしら。どこにでも強かな子はいるものね。
「どうもこうも……私、あなたと婚約はしておりませんけども?」
「なんだと……!? 自分が何を言っているのかわかっているのか!?」
「えぇ……そもそもあなたのことは存じませんし、私は結婚しております。どなたと間違えているかはわかりませんが、大勢の前で話す内容ではないのでは……?」
「は……はぁ!?」
「な、何を……!」
ざわざわとあちこちから声が聞こえる。耳の聞こえが良いのは嬉しいけれど、こういう間違われ方をしている時はちっとも嬉しくはないわね。
はぁ、と溜息をついて頭を押さえて下を向く。綺麗に磨かれた床とグラス、飲み物だろう赤い液体が零れていた。
というか、私がさっきまで見ていたのはコンクリートだったはず。なのになぜ、こんなにもピカピカの――大理石かしら――な床に座り込んでいるのだろう?
ふぅ、と息を吐きながら手を下ろすと、綺麗な手袋が見えた。これまた私のものではない。というか、手袋に包まれた先の腕がとても白くて細い。私のやせ細った腕とはとても似つかない肌だ。はらりと落ちてきた髪は綺麗に手入れされた茶髪。私の髪はこんなに長くはなかったし、すっかり白くなっていたはず。そういえば着ている服もなんだか違うわね。声も今よりもっと若い頃の感じがするわ。肩が出ているからスース―するし、なんだか足も痛いわ。靴は……と見れば、海外のモデルさんが履くような高さのハイヒール。あらあらあら。
本当に、これはいったいどういうことかしら。
「な……な……なんっ……」
「スチュアード様! しっかりしてくださいっ!」
「ナぁ……っ! クッ……そ、そうだな、私が取り乱してどうするっ!」
「そうですっ! その意気です、スチュアード様!」
思いっきり抱きつかれて……というよりも技をかけられたような絞められた声がでていたけれど、彼はようやく我に返ってこちらをビシッと指さしてきた。人に指を差すのは失礼だと教わらなかったのかしら。あらあら。
「この私、スチュアード・ピット・フォーリッシュが言っているのだ! お前とは婚約破棄させてもらうぞ! ミティエーリ・ウェルヴィス伯爵令嬢!!」
「…………?」
きょろきょろと辺りを見回しても、やはり誰もが私のほうを見ていた。私の後ろの誰かかとも思ったけれど、そんなこともなかったようで。
「重ね重ね失礼ですよ、ミティエーリ様!」
少女がこちらに向かって声を上げた。あら、声もなんて可愛らしい。娘が小さかった頃を思い出すわね。
「そして! 私はこちらのナターリエ嬢を新たに婚約者に迎えることをここに宣言する!」
何だって!? 特待生を? 平民上がりなのに……とあちこちから声が上がっている。もしかしたら障害のある恋に燃え上がってしまっているのかしらね。お昼時にそんなドラマもやってたわねぇ。
「ふふ……どうしたミティエーリ嬢? 悔しさのあまり声もでないか? それもこれも、お前が自分でしでかしたことの結果だろう! 自分の胸に手を当てて考えてみるんだな!」
「そうです! いったい私がどれくらいの苦労をしてきたか……うぅっ」
「もう大丈夫だよ、ナターリエ。これからは私が君を守ってあげるからね」
「はいっ……! スチュアード様!」
スチュアードと呼ばれた少年は少女を引き連れてこちらへと近づいてくる。そしてなんとも勝ち誇ったような顔でこちらを見下ろしてきた。
「……ということだ。婚約破棄の書面はすぐにでも君の実家に送らせるからすぐに対応を――なんだ、そんなに変な顔をして。ああ、そんなに私との婚約破棄がショックだったのか?」
「いえ。ですから人違いですと」
「っ……まだそんな強がりを……っ!」
困ったように答えれば、驚いたのは少年ではなく少女の方だった。
「よほどスチュアード様との婚約破棄がショックだったのでしょう? 傷ついたのでしょう? そんなに青い顔をして―――して……してないわね」
「女性は化粧で顔色を隠しているものだろう、ナターリエ」
「そういう問題じゃないです、スチュアード様」
目の前で繰り広げられる会話はなんだろう。コントか喜劇か、息子が好きだったわね。一時期『芸人になる!』と騒いでいた頃が懐かしいわ。
「ともかく! 今日からスチュアード様の婚約者は私なので! 大人しく身を引いてくださいね、ミティエーリ様!」
ふん、と先ほどまで泣いて縋っていた姿はもう脱ぎ捨ててしまったのか、少女は実に強気な口調で告げてくる。のはいいのだけれど。
「えぇと……その、ミティ……なんとかというのはどちら様……?」
ここで一瞬の沈黙が訪れる。シンと静まり返る周囲に、衣擦れの音とこつりと床を叩くヒールの足音、誰かがごくりと唾をのむ音が聞こえた。
「なっ――」
そうしてようやく少年が声を絞り出そうとしたところ、バタバタとたくさんの足音が聞こえてきた。バァンッと大きな音が響き、誰もが驚いて音のする方を向いた。ああ、あんな素敵な扉を思いっきり壁にぶつかる勢いで開けたのかしら! 建具職人だった夫がここにいたら、勢いよく怒鳴っていたかもしれないわね。
「げっ」
小さく声が聞こえた。思わず少年たちを見れば、二人とも『まずい』と顔に書いてあった。
「――――ぃ――!」
ドタドタドタと音がして、男性がこちらへ駆け寄ってきた。目の色が違うけれど、ちょっと息子に似ているわね。
「大丈夫か、ミティエーリ!」
「……こ、これはこれはウェルヴィス伯爵。まさかこんな一介の学生のパーティーに顔を出していただけるなんて」
「何を仰っている。王族の貴方がいらっしゃる学園の卒業パーティーです。どの貴族が周辺の警備に当たっているか、覚えていらっしゃらないので?」
「そっ……んなことは……ないぞ、うむ」
目が泳ぎまくっていた。全くと言っていいほど覚えていなかったんでしょうね。
「えっ? えっ? ウェルヴィス卿……!? って、ミティエーリのパパよね!? どうしてここにいるのよ……!」
少女の声は耳に入らないようで、息子によく似た男性は必死に私の心配をしていた。
「怪我は!? ああ、頬が赤くなってる! まさか誰かに叩かれたのか!?」
「いえ……ちょっと転んだだけで……」
「ああ! だからそんなに高いヒールを履くなと言ったんだ! ほら、足もくじいたんだろう。赤くなっているじゃないか!」
ああ、なんだか懐かしい。
初めて私が倒れた時――といってもめまいでうっかり階段を数段踏み外しただけなのだけれど――娘も息子も孫も、みんな揃って心配してくれていたわね。そして夫。職人らしく多くを語らない人だったけど、私が倒れた時は顔を真っ青にして、結婚してから聞いたことがないほどたくさん声をかけてくれたんだったわね……。
数年前に病気で亡くなってしまったからもう話すこともできないけれど、余計な心配をあなたにかけ続けることがなくて良かったわ。でも……やっぱりもう少し一緒にいたかったわね。
思わずほろりと涙腺が緩んでしまった。年のせいね。まったく。
息子似の男性が目に見えて慌てだす。
「どうした!? どこか痛むのか!? そうだな、すぐに家に帰ろう! 主治医も待機してくれているから、遠慮なく言うんだぞ!」
あわあわと焦りながら言う男性が、いつかの夫のようで思わず笑ってしまった。「はい」と答えるとどこかほっとしたように見えた。
「ウェルヴィス卿! やはり手紙に書かれていた通り……」
「! ……わかった。証拠は残らず持ち帰れ。私たちは先に戻る」
「はっ!」
えっ、と思った瞬間にはふわりと抱えあげられていた。これは、お姫様抱っこという形では。あらやだ、介護現場でもないのに、こんな年になって公衆の面前で恥ずかしい……!
「殿下、私たちはこれで失礼させていただきます」
「……え? あ、あぁ……」
「それと、婚約破棄についてはご心配なさらず。既に我が家から送らせていただいております。お父上にも、ご了承いただいておりますので」
「そ……そうか。そういえば、伯爵は父と旧知の仲だったな……?」
「はい。ですので、今回の件に関しては後ほど詳しくお話をお伺いさせていただきたく存じます。殿下と――それから、そちらのナターリエ・ストラシナ嬢にも」
「え!? わ、私も!?」
「当事者なのですから当然でしょう。ねぇ、殿下?」
「え? あ、あぁ……そうだな。私は構わないが……」
ちらりと少年は少女を見た。
「…………」
しかし少女は目を逸らして黙ったまま。
「ナターリエ、いいチャンスじゃないか。父上たちに私たちのことを話すタイミングが早まっただけのことだよ」
「そうですね。お母上もぜひ話を、と仰っていましたよ」
「――っ!」
少女の顔に焦りが見える。どうやら少年の母親は苦手なのかしら。
――今、王妃様もって……
あの氷の女王様が?
特待生が王族に謁見するとか――
警備兵の足音や鎧が擦れるガチャガチャした音に紛れて、周りで遠巻きに見ている他の子たちのヒソヒソ声が聞こえてくる。
……王妃様って聞こえたわね。殿下と呼ばれていたし、王子様ってことよね。王様と知り合いなんて、息子に似たこの人はどういう立ち位置の人なのかしら。
「……わかりました」
渋々といったように少女は返事をする。
「本当に?」
そんな彼女をギロリと鋭い目で睨みつけたようで、「ひっ」と小さく悲鳴が上がった。
「もういいだろう。ウェルヴィス卿。別に逃げるようなことでもないのだから」
「……その言葉、違えることがないように願っておりますよ」
それでは、と男性が軽く会釈をすると、ガチャガチャと鎧を来た男性たちが数人、少年たちを取り囲んだ。
「なっ、なんなんだ!?」
「殿下とこちらの平民には、ウェルヴィス伯爵令嬢へ危害を加えた疑いがかかっております。申し訳ございませんが、ご同行願います」
「なんだと!?」
「は!? 何よこの展開!? 知らないわよ、私! こんなの!」
先ほどまでの可愛さはどこへやら、甲高くキーキーと叫ぶ声が聞こえる。
「危害って言うならそっちの女のほうでしょ!? なんで私なのよ!」
「……こちらではお話できません。詳しくは後日改めて――」
「証拠は!? 証拠なんかないでしょう!? 放しなさいよ!」
「…………」
「よろしいですか、殿下?」
「あ、あぁ……」
少女の変わりように少年は言葉を失っていたようだった。
その後大人しく同行してパーティー会場を後にしたと聞いた。
私はと言えば。
その後抱きかかえられたまま会場の外まで連れ出された。夜だったのね。広がる星空に思わず目が奪われた。小さい頃に見たような澄んだ空にたくさんの星が散らばっている。すっかり都会になってしまった街ではビルや明かりに隠れてしまっていて、もうここまでの光景は見ることがないだろうなと思っていた。
綺麗に手入れされた庭園を抜けた先に馬車が停まっていた。映画で見るような光景に思わず「まぁ」と声が出てしまった。
最初は物珍しかったが、次第に揺れと振動でおしりが痛くなってきてしまった。
ようやく揺れから解放され馬車から降りると、そこには立派なお屋敷が。
あらあら、と思っている間に手を引かれて屋敷の中を進んでいく。
どこもかしこも広くて、天井も高い。なんてお掃除のしがいがありそうなのかしら。でも、天井が高すぎて業者さんに頼む方が良さそうね。あのシャンデリアは磨きがいがありそうね。一つ一つ綺麗に磨いてもっとピカピカにしてみたいわ。
敷かれた絨毯も良い物だと一目でわかる。所々に置かれた調度品や飾られた花もどれもこれもセンスが良いわ。あちこちに目が奪われながら手を引かれ、部屋に案内された。
中には数人の男女と、少年少女。小さな子もいるわね。それに白衣を着た男性がいた。お医者様かしら。私と同じくらいか少し若いくらいかしらね。
「ミティエーリ!」
「ミティお姉さま!」
こちらを見るなりそれぞれがこちらへと駆け寄って来る。
「体は大丈夫なの!?」
「ぅぇぇ……っ、おねえさまぁっ」
青い顔で私の体のあちこちを確認する女性。私のスカートの裾を掴んでぐずぐずと泣き出す男の子。
「あらあらあら、」
何が何だかわからないままの私だったけれど、ふと部屋の端に置かれた鏡が目に入った。そこに映っていたのは……なんとなくわかっていたつもりだったけど、私ではない私の姿。日本人……ではないわね。少し目元がキリッとしているけれど、どこからみても美人さんだわ。なるほど、こんな顔をしているのね。
私はベッドに座らされて、白衣の男性にいろいろと質問された。
それから血液を調べると言って、なぜか両手を握られた。と思ったら淡い光がぽうっと私の手を包み込む。何が起きているのか混乱しているうちに光はおさまり、「少し成分が残っていますが、この量であれば大丈夫でしょう」と男性は言った。
採血とかはしていないようだけれど、なぜいろいろなことがわかるのかしら?
「複合されているようなので治癒をかけてしまうと変に作用してしまうかもしれませんので、自然治癒を待った方が良さそうですね。念のため解毒剤を出しておきますので、こちらを飲んでくださいね」
「ありがとうございます、先生!」
「ただ……」
男性はなんとも言えない表情でちらりとこちらを見た。
「ミティエーリお嬢様は……おそらく記憶を無くされています」
えぇっ!? とざわめきが部屋に響いた。
お医者様が帰って、小さな子たちも夜遅いからと寝るように促されて部屋を出て行った。息子似の男性と、女性の二人が部屋に残った。
神妙な顔つきで私の両隣に腰かける。
「つらかったのね……ごめんなさい。気付いてあげられなくて……」
女性はほろほろと涙を流して私の手を取った。
「お前がそこまで追い詰められているとは知らなかった。お前のためを思って、とやったことだったが、本当にすまなかった」
息子似の男性は頭を下げる。
おそらく、この体の持ち主の両親なのだろう。
「あの……いったい何があったのでしょう?」
「お前の残した手紙と……すまないと思ったが日記も読ませてもらった」
渡された手紙は、おそらく遺書のようなものだった。
二人が部屋を出てから、私は両方に目を通した。
家族へのお礼と、婚約者に取り入ろうとする相手からの度を越えた嫌がらせの数々、そしてそんな状況をしりつつも守ろうとしない婚約者への気持ちがつらつらと書いてあった。
そして、今夜のパーティーで命を狙われている可能性があること。精神的に疲れ切ってしまったため、その策略にあえてのり、そのまま生涯を終えたいことが綴られていた。
いったいどんな気持ちで書いたのだろう。もし私の子どもたちがこんな手紙を残して姿を消してしまったら、すぐにでも助けに向かうことだろう。
どれだけ今がつらくても、生きていればいいことだってある。それを知らずに人生を終えてしまうのも、選択の自由といってしまえばそうなのかもしれないけれど。それでもやはり親としては、生きて、そして幸せになってほしい。
日記には、彼女がされてきたであろう嫌がらせなど、実にたくさんのことが記されていた。最初こそ彼女のつらいという気持ちや、どうしてといった声が書いてあったが、いつからか淡々とした事務的な文章になり、いかに彼女の心が深く沈んでいったのかがわかるようだった。
そして、彼女は自分の地位をかすめ取ろうとする存在が、自分を事故に見せかけて殺そうとしていることを知った。
しかし、どうせならそうではなく、きちんと殺されたのだとわかるように仕向け、罠にはめてやることにしたようだった。……自分の命をかけて。
私が見た床に零れていた液体は、毒を含んだ飲み物だったよう。
もしかしたら、あの時にこの体の持ち主は望み通り死んでしまったのかもしれない。意識は眠っているだけかもしれないけれど。
そして……きっと、私は死んでしまったのでしょうね。
あっ、と思ううちに階段からアスファルトが一気に近づいて来たのが最後だった。
いったいなぜこうなったのかはわからないけれど、きっと、私がやらなきゃいけないことがあるのかもしれない。
人は、何かやらなければならない使命があるから、まだ生きていられるのだと祖母が言っていた。それくらい人はあっという間に死んでしまうし、生きていられることは奇跡なのだと。空襲を生き抜いた祖母は、まさに運が良かったのだろう。命をつないで、そうして私もまた、ここにいる。
きっとここでなすべき何かがあるのだろう。
いつかまた終わりが来るまで……やれることをやっていきましょう。
右も左もわからないけれど、人間やればなんとかなる。
その精神でまずはできることを探してみましょうか。
息子に似た彼が父親なんて、なんだかおかしな感じもするけれど、おかげで寂しさがちょっとは薄らぐ気もするし。なんて、私ってば薄情かしら?
ひとまずは、家族を悲しませないように。もしもこの体の持ち主が戻ってこれるのであれば、その日までに彼女が少しでも穏やかに過ごせていけるようにしてあげたい。
笑って過ごせるようにしてあげたい。
「できることからやっていきましょうか」
こんなおばあさんに何ができるかわからないけれど、人生なんとかなるものよ。
それを見せてあげるから、待っててね。
それから。
学園に通うことになった私が、既に結婚していて子どもまでいるというパーティーでの発言についての誤解を解いて回ったり、思春期らしく周りの付き合いに悩んでいる子に社会に出てからのアドバイスをしてあげたり、また別のパーティーに出た時には、おばあちゃんの知恵でドレスの染み抜きを手伝ってあげたりと、自分の経験を生かした方法でできることをやっていった。他の子の家で雇っているメイドさんと家事談義に盛り上がったりしたのは楽しかったわね。
そうしてるうちによその国からの留学生と仲良くなったり、なぜかそんな若い子から付き合ってほしいと言われたりしたのだけれど、私は夫が好きだし、この体の持ち主の子の承諾もなく、勝手をするわけにもいかないからお断りしている。
それでも懲りずにアピールを続けてくるのだけれど、それはまた別のお話。
おばあさんが令嬢に入ってしまった冒頭が書きたくて書きました。




