腐らない静けさ
屋敷は、音を飲み込む生き物みたいだった。
私が一歩進むたび、床板は鳴く寸前で黙り込み、空気だけが微かに震える。さっき聞こえたはずの足音は、もうどこにもなかった。
幻聴かもしれない。
そう思えるほど、私はまだ人間じゃない。
耳を澄ます。
自分の鼓動が、遅れて、鈍く、遠くで鳴る。生きていた頃なら気味が悪くて仕方なかっただろうこの音が、今は確認作業みたいなものになっていた。
――まだ、動ける。
――まだ、考えられる。
それだけで、今日という一日を続ける理由になる。
廊下の突き当たり、小さな控え室の扉が半開きになっていた。
昔は使用人たちが息を整えるための部屋だったはずだ。今は、埃と静寂が住み着いている。
中に入ると、空気が一段冷たくなる。
腐敗臭は薄く、代わりに古い木と布の匂いがした。私はその匂いが、なぜか好きだった。生きていた頃の記憶に、近いから。
椅子に腰を下ろす。
座る、という動作が相変わらずぎこちない。関節がずれて、皮膚が引き攣れる。それでも痛みは来ない。ただ、「壊れている」という事実だけが、淡々と伝わってくる。
膝の上に手を置く。
指が一本、わずかに痙攣した。
「……大丈夫」
また同じ言葉。
誰も聞いていないのに、何度も口にする。言葉は、腐らない。だから安心できる。
壁に掛けられた小さな鏡が目に入った。
近づいて覗き込むと、そこにいるのは、確かに私だった。でも、生きていた頃の私とは、決定的に違う。
目の下に影。
唇の色は失われ、皮膚は人形みたいに冷たい。視線だけが、妙に澄んでいる。
「……お嬢様、ね」
かつてそう呼ばれていた自分を、思い出す。
優雅で、無知で、守られる側だった存在。今の私は、その残骸だ。
それでも、嫌じゃなかった。
むしろ、不思議な自由を感じていた。食べなくていい、眠らなくていい、誰にも期待されない。失敗しても、失うものがない。
鏡から離れた瞬間、遠くでまた、音がした。
今度ははっきりと。人の足音だ。
胸の奥が、微かに熱を持つ。
恐怖と、好奇心と、ほんの少しの怒り。
――ここは、私の場所。
腐っていても、死んでいても、ここにいる権利はある。
私は立ち上がり、ゆっくりと音の方へ向かった。足取りは重く、確実に、人ではない。
それでも、逃げなかった。
逃げる理由が、もうなかったから。
廊下の闇が、私を受け入れる。
静けさは、相変わらず腐らないままだった。




