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#ゾンビお嬢様はじめました  作者: 櫻木サヱ
生きていない足音

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37/39

朽ちる屋敷と、まだ残る心臓の音

朝なのか夜なのか、もうよく分からない。

屋敷の中はいつだって薄暗く、カーテン越しの光は、死んだ水みたいに濁って床に落ちているだけだった。


私はベッドの上で、しばらく動けずにいた。

動かない、というより「動かなくても平気」だからだ。呼吸は浅く、心臓は時々思い出したように打つ。血は冷たく、指先の感覚は曖昧で、シーツの感触があるのかないのか分からない。


左腕を持ち上げる。

皮膚は相変わらず白く、ところどころ青黒い影が残っている。昨日より少し、関節の動きが重い。腐敗が進んでいるのだと、頭のどこかで理解しているのに、焦りはなかった。


――ああ、今日もちゃんとゾンビ。


そう思って、少しだけ笑う。

口角がうまく上がらなくて、たぶん歪んだ顔をしている。でも、それでいい。生きていた頃の「お嬢様らしい微笑み」なんて、もう必要ない。


ベッドから降りると、足裏が床に貼りつくような感覚がした。ぺり、と小さな音がする。血か、体液か、それともただの錯覚か。拭こうとは思わなかった。


廊下に出る。

長い廊下は静まり返っていて、時計の針の音だけがやけに大きく響く。壁に掛けられた肖像画の目が、私を追ってくる気がした。


「……おはよう」


誰に言うでもなく呟く。

返事はない。使用人たちはもういないし、逃げたのか、死んだのか、それすら分からない。屋敷に残っているのは、私と、この腐りかけの建物だけ。


階段を下りる途中、急に眩暈がした。

世界がぐらりと傾き、視界の端が黒く滲む。慌てて手すりを掴むと、木がぎしりと嫌な音を立てた。手のひらにささくれが刺さる感覚は、ほとんど痛くない。


「……感覚、鈍くなってきてる」


独り言がやけに現実味を帯びる。

それでも、完全に何も感じなくなるのは、まだ少し怖かった。


食堂に入ると、昨日のままの食卓が広がっていた。

銀のカトラリー、冷え切ったスープ、手をつけられていないパン。腐った匂いと、かすかな鉄の匂いが混じっている。


パンを手に取る。

硬い。噛みちぎろうとしても、顎がうまく動かない。結局、床に落とした。床に落ちたパンは、私よりずっと「死んでいる」ように見えた。


――食べなくても、死なない。

――でも、生きてもいない。


その中間にいる自分が、少しだけ滑稽だった。


窓の外を見る。

霧が濃く、庭の先は見えない。ただ、遠くで何かが動いた気がした。人影……かもしれないし、ただの木の揺れかもしれない。


胸の奥が、きゅっと縮む。

人間だとしたら。

見つかったら。

ゾンビだと、知られたら。


逃げたい、と思う。でも、どこへ?

この屋敷は檻みたいなものだ。それでも、私を守ってくれる唯一の場所でもある。


私はそっとカーテンを閉めた。

指先に、布の繊維が絡みつく感触。まだ、触覚は残っている。それだけで、少し安心する自分がいた。


「……大丈夫」


誰に言い聞かせるでもなく、また呟く。

声はかすれて、喉の奥で引っかかる。それでも、言葉にしないと、崩れてしまいそうだった。


階段の上から、どさり、と音がした。

心臓が一瞬、強く跳ねる。生きていた頃みたいに。


ゆっくり、音のした方を見る。

影が揺れた。何かが、確かに屋敷の中にいる。


私は唇を噛んだ。

血の味はしない。ただ、冷たい感覚だけが残る。


――来るなら、来ればいい。

――私はもう、お嬢様でも、人間でもない。


それでも。

それでも、壊れきる前に、守りたいものがある気がしていた。


自分自身なのか、この屋敷なのか。

それとも、まだ名も分からない「何か」なのか。


私は一歩、前に出た。

足音は鈍く、重く、確かに――生者のものではなかった。

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