朽ちる屋敷と、まだ残る心臓の音
朝なのか夜なのか、もうよく分からない。
屋敷の中はいつだって薄暗く、カーテン越しの光は、死んだ水みたいに濁って床に落ちているだけだった。
私はベッドの上で、しばらく動けずにいた。
動かない、というより「動かなくても平気」だからだ。呼吸は浅く、心臓は時々思い出したように打つ。血は冷たく、指先の感覚は曖昧で、シーツの感触があるのかないのか分からない。
左腕を持ち上げる。
皮膚は相変わらず白く、ところどころ青黒い影が残っている。昨日より少し、関節の動きが重い。腐敗が進んでいるのだと、頭のどこかで理解しているのに、焦りはなかった。
――ああ、今日もちゃんとゾンビ。
そう思って、少しだけ笑う。
口角がうまく上がらなくて、たぶん歪んだ顔をしている。でも、それでいい。生きていた頃の「お嬢様らしい微笑み」なんて、もう必要ない。
ベッドから降りると、足裏が床に貼りつくような感覚がした。ぺり、と小さな音がする。血か、体液か、それともただの錯覚か。拭こうとは思わなかった。
廊下に出る。
長い廊下は静まり返っていて、時計の針の音だけがやけに大きく響く。壁に掛けられた肖像画の目が、私を追ってくる気がした。
「……おはよう」
誰に言うでもなく呟く。
返事はない。使用人たちはもういないし、逃げたのか、死んだのか、それすら分からない。屋敷に残っているのは、私と、この腐りかけの建物だけ。
階段を下りる途中、急に眩暈がした。
世界がぐらりと傾き、視界の端が黒く滲む。慌てて手すりを掴むと、木がぎしりと嫌な音を立てた。手のひらにささくれが刺さる感覚は、ほとんど痛くない。
「……感覚、鈍くなってきてる」
独り言がやけに現実味を帯びる。
それでも、完全に何も感じなくなるのは、まだ少し怖かった。
食堂に入ると、昨日のままの食卓が広がっていた。
銀のカトラリー、冷え切ったスープ、手をつけられていないパン。腐った匂いと、かすかな鉄の匂いが混じっている。
パンを手に取る。
硬い。噛みちぎろうとしても、顎がうまく動かない。結局、床に落とした。床に落ちたパンは、私よりずっと「死んでいる」ように見えた。
――食べなくても、死なない。
――でも、生きてもいない。
その中間にいる自分が、少しだけ滑稽だった。
窓の外を見る。
霧が濃く、庭の先は見えない。ただ、遠くで何かが動いた気がした。人影……かもしれないし、ただの木の揺れかもしれない。
胸の奥が、きゅっと縮む。
人間だとしたら。
見つかったら。
ゾンビだと、知られたら。
逃げたい、と思う。でも、どこへ?
この屋敷は檻みたいなものだ。それでも、私を守ってくれる唯一の場所でもある。
私はそっとカーテンを閉めた。
指先に、布の繊維が絡みつく感触。まだ、触覚は残っている。それだけで、少し安心する自分がいた。
「……大丈夫」
誰に言い聞かせるでもなく、また呟く。
声はかすれて、喉の奥で引っかかる。それでも、言葉にしないと、崩れてしまいそうだった。
階段の上から、どさり、と音がした。
心臓が一瞬、強く跳ねる。生きていた頃みたいに。
ゆっくり、音のした方を見る。
影が揺れた。何かが、確かに屋敷の中にいる。
私は唇を噛んだ。
血の味はしない。ただ、冷たい感覚だけが残る。
――来るなら、来ればいい。
――私はもう、お嬢様でも、人間でもない。
それでも。
それでも、壊れきる前に、守りたいものがある気がしていた。
自分自身なのか、この屋敷なのか。
それとも、まだ名も分からない「何か」なのか。
私は一歩、前に出た。
足音は鈍く、重く、確かに――生者のものではなかった。




