第8話
構内社の前で待つこと数分後。
影美がじっと一点を見つめたまま、小さく呟いた。
「そろそろ来るよ」
「……やっとか」
工場建屋の角――死角になる曲がりの先から、二つの影が姿を現す。
一瞬こちらに気づいたかと思うと、すぐに引っ込んだ。
物陰に隠れたというより、様子をうかがっているという感じ。
影美はかなり前から相手に気付いてたのに、あちらはようやく俺たちの存在に気づいたようだ。
彼女が言っていたとおり、種族によって索敵能力にかなりの差があるらしい。
あちらの使い魔は、人間並の感度ってとこだな。
息を深く吐き、影美の横顔をちらりと見る。
彼女は微動だにせず、ただその方向を睨んでいた。
「そんなに睨まない。まだ……な」
俺の作戦は伝えてあるが、念のため釘を刺しておいた。
「わかってる。……あっちのマスターめっちゃやばい顔してたけど、いいの? ピアスだらけで、イカれてそうな顔だったんだけど」
「この距離から顔までわかるとか、すげえな」
相手の出方を伺いながら言った。
距離20メートルは離れてるし、夕方みたいな薄暗さで見通しもよくないのに顔まで見えてるとは。
「あっちの使い魔は、多分鬼系のなにかだと思う」
鬼系? なんか力とか強そうで怖いな。
としか俺はわからないし、言われても困る。
影美が続けて言う。
「本当に大丈夫なの? 話、通じなさそうな顔してたよ。私が話つけようか?」
正直、怖いと思った。
話し合いどころか、急に襲われる可能性だってあるし、そもそも俺って、話し合い上手いタイプじゃないだろ。
でも、ここで引いたら、影美に何も言えなくなる気がして……「大丈夫」と、なんとか声を絞り出した。
「大丈夫じゃないって。声、震えてるよ? 怖いのは仕方ないよ。実際、殺されてもおかしくないんだから」
影美が苦笑いしながらも、俺を気遣うように、優しく言った。
妖怪とはいえ、こんな少女に気遣われるなんて、情けなさすぎて自分が嫌になる。
でも、何より嫌だったのは、影美に責任を押し付ける合理的な言い訳が頭に浮かんだことだ。
俺が死んだら困るのは影美。
もし危険な目に遭っても、生存率が高いのは影美。
つまり、影美の方が矢面に立つべきだろ? だから、頼む。
……そんなふざけた言い訳が一瞬、口から漏れそうになって――殺されたくなった。
でも、だからこそ、腹が決まった。
自分にムカついて、理性的じゃなかっただけかもしれないけど。
相手方を見ると、まだ様子見しているのか、姿が見えない。
緊張しすぎで吐きそうになるのを堪えて、深呼吸すると、一歩前に出た。
「大丈夫。というか、大丈夫だと思うしかないんだ」
「洸太君って、マジで面倒臭いね」
そう愚痴りながらも、影美は一歩、俺の隣に並んでくれた。
俺の作戦は至って単純。実は作『戦』ですらないし。
身を隠して、本当に敵なのかもわからない奴を不意打ち――なんて卑劣な真似はせず、堂々と、ただこちらから「話をしよう」と伝える。
それだけ。
それでも、もし……相手が話に乗らず襲ってきたり、好戦的だったなら――その時は仕方ない。
俺だって、死ぬのは嫌だ。
いざとなったら、影美がケリをつけてくれる。
……それだけは、彼女が譲らなかった。
大きく息を吸って、大声で叫んだ。
「こんにちはー!」
だが、返事が返ってこない。
「私まで恥ずかしかったのに。シカトされてる」
もしかして、聞こえなかった?
近づいて喋りかけたいけど、敵意有りと勘違いされそうで危険か?
と考えていたら、二つの人影が角からゆっくり姿を現して、近づいてきた。
一人は女。肩下まで流れる長い黒髪を、きっちりセンター分けにしていて、整った顔立ちが、気後れするほどの美人だ。
もう一人は、俺と同じ作業着姿の男。
短髪の金髪で、顔中にジャラジャラとピアスが光っていて、いかにも狂人って面構えだ。
女の方が一歩先に出て、男はその背後に隠れるように、数歩遅れてついてくる。
合理的とはいえ、自分よりも小さい女の子を盾にするって、側から見ても情けないもんだな。
まあ、俺も人の事言えないけど。
自分を殺すつもりかもしれない二人組、美女と狂人みたいなペアが近づいてくる中――なぜだか、不思議と安心してしまった。
というのも――。
「……あいつだったのか」
思わず漏れた心の声に、隣から小声が返ってくる。
「知り合い? キャラ濃すぎでしょ」
「ま、そんなところだ。名前は知らんけど」
うちの工場、かなりデカいし部署も多いから、従業員の数も相当だ。
だから、ほとんどは名前も知らない奴だけど、通勤や食堂で、顔合わせるわけだから、嫌でも顔見知りになってしまう。
特に、あんなエグい顔面なんて、一度見たら忘れようにも忘れられない。
「とにかく、知り合いでも油断しないでね」
影美が小声で忠告してくる。
確かに知り合いとはいえ、危険なのに変わりはない。
あんな顔してるし、友だちってわけじゃないからな。
急に襲い掛かられても反応できるように、軽く身構えていると、二人はギリギリ飛びかかれないくらいの距離で足を止めた。
そして、ピアス男が口を開いた。
ちらっとこちらを見て、口を開きかけて――また閉じる。
小さく息を吐いてから、ようやく発した声は。
「…………ちわ」
え? 声小さすぎだろ。
攻めた顔面してるのに、態度と声が小さすぎる。
「こんにちはー。アタシらに、何か用でも?」
女が、仕方なく助け舟を出した……そんな口ぶりだった。
黒いタンクトップに、今時珍しいシースルーな羽織を羽織っていて、下は袴っぽい、ゆったりしたスカート。
背筋を伸ばして立つその姿はオーラが見えそうだった。
「用ってほどでもないけど、ただ……その……そちらが、どういうスタンスなのか、知りたかったというか……」
いざ目の前にしてみると、俺も緊張して上手く喋れない。
でも、もの凄い美人に「コイツ何がしたいんだ?」って目で、見つめられながら上手く喋れる男なんていないだろ。
そもそも命の危険だってあるし。
「そっちに、私達と戦うつもりがあるか、知りたかったんだけど……ないよね?」
今度は、影美が俺を気遣って言った。
「それは……」と、女がピアス男に目線を送ると、男が慌てて否定。
「い、いやいや、無いですって! 僕たちが戦う理由、マジでなく無いですか?」
あまりの慌てぶりに、思わず吹き出してしまった。
「ふふ、ですよね。急に襲うなんて、そんなの化け物と一緒ですもんね」
女が皮肉っぽく笑って言った。
「とにかく、無駄に争う理由なくてよかったです」
俺も苦笑いで応じて続ける。
「そちらは、どうしてここに?」
ま、多分今朝の俺と同じなんだろうけど。
「スマホに、知らないアプリがいつのまにかインストールされてて……試しに開いてみたら、この人が出てきて、ここに案内されたんです」
男はそう言い、隣に立つ女を指差した。
「なるほど。……やっぱり、俺だけじゃなかったんだ」
「あ、あなたも一緒なんですね。そういえば……名前は……よく加工区の方にいらっしゃいますよね?」
ピアス男がもじもじと申し訳なさげに聞いてきた。
本当に、態度小さすぎだろ。
「俺は、加工区の、加藤洸太って言います。それでこっちが俺の使い魔の、影美です」
社員証を見せながら自己紹介した。
こういう時、名刺持ってたらな……。
「どうも。影に美しいって書いて、エイミって言います」
影美も俺に倣って自己紹介した。
わざわざ名前の漢字まで伝えるとは……そんなにこの名前、気に入ってくれてたのか。
「僕は組み立て課の、西尾健介って言います。よろしくお願いします」
ピアス男改め、西尾健介も、社員証引っ張り出して自己紹介してきた。
続けて「それで、この人は――」と、隣に立つ女――使い魔の紹介しようとしたら、彼女が口を挟んだ。
「鬼に姫って書いて、キキと言います。よろしく」
うーん……これは確かに、鬼だわ。
言い方は優しいんだけど、伝え方というか、タイミングというか……我の強さ、芯の強さがガツンと伝わってきたな。
そんな彼女――鬼姫に向かって、影美がとんでもない事を言った。