誰かがやった村おこし
村おこしって実際にはすごく行動力のある人がいないと何も始まらないと思いますが、みんなで始められるには?と思って書きました
春の終わり、鹿波村の駅前には、一本だけ残された桜の木がまだ花をつけていた。ほとんどの花は風に散り、枝先には新緑が顔を出し始めている。山あいにあるこの村では、季節が一歩遅れてやって来る。
海渡は、軽トラの荷台に積んだ肥料袋をロープで括り直しながら、駅前をぼんやりと眺めていた。午後の列車で、隣の家の孫が東京へ戻るらしい。村を出ていく若者はまた一人増えた。残ったのは、引退を待つ年寄りと、しがみつくように働く中年たち。そして自分のような、物好きだけだ。
「お前も早く町に出りゃあよかったのにな」
そう言われ続けてきた。だが、出る理由が見つからなかった。村が嫌いではなかったし、土地も、作物も、人も、全部がまだ“手を入れる余地”を残しているように見えたからだ。
海渡は農家の次男坊。兄は東京で会社勤めをしている。親は既にいない。祖父母の面倒を見ながら、小さな畑と古びた納屋を管理していた。
その合間に、ネットで調べ物をし、土の配合を変えたり、自作の温室を作ってみたり、冷蔵庫の裏側を改造して乾燥室にしてみたり。村の誰もが“おっちょこちょいの変わり者”だと思っている青年。それが海渡だった。
けれど彼には、他人には見えないもう一つの世界があった。
たとえば今、目の前にあるロープ。手をかざすと、微細な繊維の振動が脳内に伝わってくる。それを「見て」、強度が弱くなった部分を指先でなぞる。すると繊維の結びつきが、ほんの少しだけ整う。修理ではない。分子構造に、干渉している。
これが海渡の“力”だった。子どもの頃から、自分だけが「何かに触れて動かせる」感覚があった。中学のとき、腐りかけた柿が目の前で熟し直したとき、これは普通じゃないと確信した。
だが誰にも言っていない。言ったところで理解されるはずがないし、証明のしようもなかった。
だからこそ、この力をただの“特技”ではなく、“実益”に変えたかった。
村を、変えることができるのかもしれない。
海渡は荷台のロープを引き、軽トラのドアを閉めた。振り返ると、桜の枝から一枚の花びらが風に乗って舞った。
今日から始める。
羊の準備は済んだ。次は、あの古い池でイワナを干す計画だ。
誰も期待していない。だからこそ、やる価値がある。
朝六時。海渡は納屋の裏に作った羊舎で、えさのバケツを抱えていた。十頭のサフォーク種が、まだ眠たげに鼻を鳴らしている。
「こいつらが金になるって、誰が信じるかね」
近所の農家、安藤が言ったのは先月のことだった。豚や鶏ならわかる。流通ルートもある。だが羊は珍しすぎるし、肉はクセがある。売れないし、処理場もない。そんなのは、都会の金持ちの趣味だ――そう言って、笑った。
海渡は答えなかった。だが実はもう、出荷のあてはある。隣県のレストランと契約し、少量でも高値で引き取ってもらえる話をつけてあった。こだわりのマトン。国産、放牧、無投薬。それだけで価値はある。
ただし、普通に育てていたらその品質は出ない。
羊のえさに少量混ぜている牧草は、自分で育てたものだ。栄養価が高く、病気を防ぐ。だがその秘密は、配合でもなく品種でもない。海渡が“見えない手”で細胞の吸収効率を微調整している。微生物のバランス、水分の滞留、根の成長。そんなものにほんの少しだけ干渉しているだけだ。
見た目は何も変わらない。けれど、羊の糞が違う。体温が安定し、肉付きが良く、なにより臭みが減る。
「科学的根拠はあるのか?」と聞かれれば、答えられない。
けれど、現実が結果を出し始めている。
初回の出荷。3頭だけ。それでも想像以上の値がついた。
レストランからの注文はすぐに追加が入った。肉質が良く、焼いても縮まない。脂がすっきりしていると評判になったらしい。写真つきで「生産者紹介を載せたい」と連絡も来た。
海渡は断った。
理由は明確だ。この成功は、努力と才能のあいだのどこかにある。人に見せていいのか、自分でもわからない。
それでも、村の空気は少しずつ変わっていく。
「あの若造のマトン、高く売れたらしいぞ」
「でもたまたまだろ。どうせすぐ失敗する」
「いや、うちの甥が都会から来て、『羊の世話、やってみたい』って言い出しててな……」
皮肉交じりの噂話が、徐々に興味へと変わっていく。
安藤の表情が変わったのは、それから数日後だった。
「……ちょっと、うちの畑の空き地、貸してみようかと思ってな。お前、放牧のやり方、教えられるか?」
その言葉を聞いたとき、海渡は笑いかけて、ふとやめた。あまりに普通すぎて、逆に感情が浮かばなかった。
「簡単じゃないですが、がんばれますかね」
「もちろんだ、あんな評判になるなら誰だってがんばるさ」
安藤の裏庭のでもヒツジの飼育が始まった。もちろん海渡の羊にはおよばない。
しかし、すでに海渡が示したように良いものは作れるし作れれば高く売れる。
安藤も安藤の息子も熱心に粘り強く取り組んだ。
海渡は安藤の羊舎で眠るサフォークの間を見て回るとき、不意に胸が熱くなった。
変わり始めている。自分が起こした風が、誰かの背中を押している。
それが、どれほど価値のあることか。
村の北側、杉林を抜けた先に古びた養魚池がある。今は使われていない。水は澄んでいて、底にわずかにイワナが泳いでいた。海渡はそこに立ち、風の向きを見た。
「この池、まだ生きてるな」
かつて村の漁業組合が管理していた池。補助金が打ち切られ、撤退してから十年以上が経つ。だが水は地下から湧き、イワナは細々と命をつないでいた。
海渡はここで、干物加工の実験をすることに決めていた。
干物といえば海のもの――そう考える村人たちは、口を揃えてこう言った。
「山の魚で商売になるか」
「イワナは焼いて食うもんだろ」
けれど海渡は、干物に価値があると確信していた。輸送しやすく、保存が効き、なにより味を凝縮できる。問題は、風と空気のコントロールだ。うまくいかなければ傷んでしまう。
通常の天日乾燥の干物作りでは、気温、湿度、風速を調整するのが難しい。だから大量生産はできないし、品質にもムラが出る。アジなどは工場で温風乾燥をしている。
だが海渡には、それが“見えて”いた。
風の粒子、湿度を帯びた空気の分子、そして魚の繊維内部の水分。それらに微細な振動を与え、少しずつ水を抜いていく。急がない。急げば臭みが残る。だが、全体を均質に、丁寧に抜く。
三日間。天候も読んで、イワナの中の水を動かして、整えた。
完成した干物を、最初に持っていったのは村の古い漁師・寺本だった。
「……これ、どこで作ったんだ?」
「例の池です」
「干したのか?こんな味の濃いのは初めてだぞ。焼いたとき、いい香りも立ち上る」
寺本は無言で干物を割き、手に取り、じっと見た。
「簡単にできるとは思えないが。……だが、実際にできたんだもんな」
その言葉を聞いたとき、海渡はうなずいた。これが第一歩だ。
数日後、小さなマルシェに出した試作品は、昼前に完売した。パッケージには地味なラベル、「鹿波のイワナ干し」。だが都心から来たバイヤーが目を止め、「試食で客の反応が良かった」と言ってきた。
やがて、村の若者が真似を始める。風の向きを読んで、網の張り方を工夫し、水抜き用の自作棚まで作った。天候が変わるとどう味が変わるかしっかりデータを取って、海渡の味に近づけようとする。まだ、出来栄えはバラバラだが、少しずつ良くなっていく。
海渡の超能力なしでも、人は工夫すればできるようになるのだ。
それが嬉しい。けれど同時に、胸の奥に、妙な“寂しさ”が残る。
あの精密な調整がなければ、最初の干物はここまで注目されなかっただろう。
けれど今、それは誰にも伝わらない。
「たまたまだろ」
誰かがそう言うのを聞いて、海渡はうなずいた。
そうだ、たまたま、だ。
自分はただ、水を少し“しぼった”だけ。
鹿波村の山は広い。だが、そのほとんどが戦後に植えられた杉と檜。かつては住宅や建材として価値があったが、今は安価な外材に押されて値がつかない。手入れされない森は荒れ、倒木や病気が増えていた。
「山は負債だ」
それが村での共通認識だった。
海渡は、そこに“価値の種”が眠っていると考えていた。
放置された林の中で、幹がまっすぐ育った黒柿の古木を見つけたのは偶然だった。表皮を削ると、芯に黒い縞模様が浮かんでいた。数が少なく、希少な木材で、茶道具や高級家具の装飾材になるという。
この木が他の木に負けずにちゃんと育つのかは、成長時の条件――微妙な水分量、養分の偏り、菌との共存――によって決まる。
つまり、**条件を“作れる”なら、価値も“育てられる”**はずだ。
海渡は、山の一部を借り、杉や檜を伐採して、黒柿と槇、花梨など装飾価値のある樹種に植え直すことにした。
反応は、予想通りだった。
「木で金が取れるなら、誰も苦労せんわ」
「植えても売れるのは何十年後だ。馬鹿かお前は」
けれど海渡の目論見はそこではなかった。目的は“今すぐ売る木”ではない。“植え替える”という動きそのものに、補助金と企業支援を引き込むことができる。
植林プランの図面をデータにまとめ、木材加工会社に持ち込んだ。山林整備に意欲を持つ大手の製紙会社にも連絡した。興味を示した会社が視察に来ると、村の雰囲気が一変した。
「木を売るんじゃなく、価値を売るんだってさ」
村の会議で誰かがそう言った。
それは、海渡がずっと言いたかった言葉だった。
超能力は、ここでも役に立った。
土壌の状態を“触って”、酸度とミネラルバランスを調整した。植えた苗が定着しやすくなり、生育が早く曲がりにくい。誰にも気づかれない、小さな改良の積み重ねだ。
そうして1年後、山は変わり始めた。手入れされた山肌に、違う緑が育ち始めていた。
木はすぐには金にならない。けれど、「今から始める価値」が生まれた。
村の若者が、枝打ちや間伐を学び始める。ドローンで木の成長を管理する仕組みも導入された。
それを見て、村を昔から仕切っている川端家が動いた。
「このプロジェクト、村として正式に進めよう」
川端修司が、会議の場で宣言した。
そのとき海渡は座っていたが、名前は呼ばれなかった。
会議が終わったあと、川端が近づいてきてこう言った。
「お前、最初に変な木を植えてただろ。あれが種だったんだな」
それだけ言って、肩を叩いて去っていった。
褒められたようで、そうではない。お前の手柄ではないが、まあ参考にはした――そんな響きがあった。
海渡は黙っていた。
木は、根を張るのに時間がかかる。今はまだ、何も言わない。
鹿波村は寒いところだ。冬は根雪がずっと残り、毎日霜が降る。夏は比較的涼しく過ごしやすい。山に囲まれているので、日が当たる時間も短い。そんな場所で、熱帯のバナナを育てようという奴がいる――村人たちは笑った。
「こんなところでバナナ?寒さでパーになるのが目に見えている」
それでも海渡は、廃校になった小学校の温室跡地を借り、再生させていた。天井のガラスはところどころ割れており、床は落ち葉に埋もれていたが、柱と水回りはまだ生きていた。
彼が最初にしたのは、空間の構造を調整することだった。
断熱フィルムを張り、日光の反射角を測って配置を変え、微細な空気の流れを“ならす”。わずかな温度差も、湿度の変化も、彼には“触れる”対象だった。
夜間の冷え込みが始まる前、温室内部の空気を細かく調整して蓄熱効果を高める。水槽に張った水も、彼の手でゆっくりと分子の振動を抑え、凍結を防ぐ。
普通の人にはただの「よくできた温室」にしか見えない。だがその中で、南国の果樹が静かに育ち始めていた。
苗は特別なものではなかった。普通のバナナ。だが、半年も経つ頃には葉が驚くほど大きく育ち、夏には房をつけた。
最初の試食会は、村の集会所で開かれた。
「え、これ……あの温室で?」
「本当に? 売ってるのより甘くないか?」
バナナをかじった村人たちは、しばし無言になった後、ぽつりぽつりと驚きの声を漏らした。冷やかし半分だった連中の目が変わったのが、海渡にははっきりわかった。
「ちょっと見に行ってもいいか?」
「育て方、教えてくれ」
見たい、知りたい、やってみたい――言葉はそのまま行動への予兆だった。
後日、葵が温室に訪ねてきた。
昔から近所に住んでいて、なにかというとちょっかいを出してくる。
今日も野次馬的雰囲気を醸し出しながらきいてきた。
「ねえ、どうしてバナナ?」
「みんなとれたての農産物が好きだけど、バナナって船で運ばれるからみんなとれたてを食べたことがなかったじゃない。食べてみると特別においしいから、みんな、ちょっとだけ前向きになると思った」
海渡の言葉に、葵は笑った。
「それ、思ってたよりずっとロマンチストの理由」
けれど、その「ちょっとだけ前向きになる」が、村の空気を大きく変えていた。
真似しようとする者が出てくる。最初は失敗続きだ。温度が安定せず、葉が焼け、実がしょぼい。
でも誰も、もう「無理だ」とは言わない。見たからだ。できるという現実を。
安藤の兄が言った。
「お前ができて、俺にできんわけがねえ」
それは負けず嫌いの発言ではなかった。事実としての、希望だった。
やがて、小さな苗が村のあちこちのビニールハウスに植えられていく。
海渡はそれを見ながら、何とも言えない気持ちになっていた。
みんなが真似し、そしてそのうち“できるようになっていく”。
超能力は、ただの火種だったのかもしれない。
人の行動に火をつけるには、奇跡のような結果が必要だった。でも、火がついたあとは、誰の火かなんて関係なくなる。
それが、少しだけ、寂しかった。
鹿波村の棚田は美しい。だがその景色の中で、米作りは儲からない。
「うちはコシヒカリだよ、東京のスーパーで売ってるやつと変わらん」
「だからキロ400円切る。卸に泣かされて終わりだ」
それが村の現実だった。
だが、海渡は違う道を示した。
“安い米”ではなく、“酒になる米”を作ろう。
酒米は粒が大きく、芯白という白い部分がある特殊な品種で、栽培が難しい。割れやすく、病気に弱く、収量も少ない。誰もやりたがらなかった。
でも、逆に言えば、需要はある。品質が高ければ、引き合いも強い。
「田んぼを変えるのか?」
「水を変えます。あと、土と温度と……まあ、いろいろ」
海渡の目は田んぼを見ていたが、見ているのはもっと“奥”だった。
水に含まれる微生物。土中のミネラル。苗の導管の通りやすさ。根の伸びる向き。
それらを少しずつ“なぞり”、“触れて”、成長のブレを整えていく。
——でもやりすぎない。人の力で再現できないレベルにはしない。
最初の年は少量だけ収穫できた。粒は小ぶりだが、芯白の入り方がよく、試験醸造に回された。
酒になったのは、わずか300本。そのうちの1本を、葵と一緒に開けた。
「……すっきりしてるけど、芯がある」
「それ、たぶん米のせいだね」
地元の酒蔵の杜氏は驚いていた。
「こんなところで、よくここまで」
その声に、海渡は苦笑した。「こんなところ」は問題じゃなく、「水の中のバランスを変えた」のだ。
だが、それは説明しても仕方ないことだった。
村の中でも、少しずつ他の農家が動き始めた。
「うちの田んぼも、今年は酒米やってみるか」
「難しいっつっても、お前がやれてるなら、やれんこともなかろ」
村人たちは、最初は真似事のように始めた。だが、繰り返すうちに自分たちなりの方法を編み出し始めた。
田んぼの水温を調べ、土の入れ替えを試み、品種改良について学ぶ者まで現れた。
海渡は田んぼの脇でそれを眺めながら、ある種の“敗北感”にも似た感覚を味わっていた。
自分のやってきたことが「普通にできること」として吸収されていく。
嬉しくないわけじゃない。でも、自分だけができたはずのことが、誰にでもできるように見えるとき、人は“特別であること”を手放す。
——それでいいのか?
正直、まだ答えは出ていなかった。
けれど、夜になってひとりで残った田んぼに立ち、稲の葉先をそっと撫でたとき、彼はその震えにだけ、確かな手応えを感じた。
この稲は、知っている。自分が何をしたかを。
夏祭りの日、鹿波村は少し浮かれていた。
今年は例年になく観光客が増え、メディアの取材も入った。「田舎再生の成功例」として、雑誌にもテレビにも取り上げられた。
その記事には、こう書かれていた。
**“地元の名家・川端家の若手が主導し、羊牧場、酒米栽培、植林再生、温室栽培といった複数のプロジェクトを束ねて村の再生を進めた”**と。
海渡の名前は、どこにもなかった。
村の会議室には、全国からやってきた行政や企業の視察団が集まり、川端修司がスーツ姿で説明をしていた。
「このマトンは、村の若者がやっていた小規模実験をもとに制度化しました」
「バナナ栽培は、気候への適応の可能性として私のほうで支援を進めました」
“やっていた若者”は海渡だ。だがそこには、もう名前は必要なかった。
村人もまた、それを否定しない。
「いや、ほんとに川端さんの言った通りだったな。今じゃ羊は大人気だ」
「マトンもうまかったけど、あれも川端さんの話から始まったんだろ?」
「どの作物もうまくいくまでは大変だったけど、みんなでむちゃくちゃがんばったんで実現した」
「内藤さんの頑張りはすごかった、息子さんもお兄さんも」
「若者たちが戻ってきて自主的に頑張ったからこその成果だ」
「この村の者は昔から粘り強い。それが何よりも大事なことだった」
誰も嘘を言ってはいない。でも、真実はズレていく。
それが一番、堪えた。
控え室で海渡はひとり、缶コーヒーを飲んでいた。
ドアの隙間から入ってくる話し声には、自分の成果の断片が、他人の名前で語られていた。
そこへ葵が入ってきた。
「なんか、いつのまにかあんたが関係なくなってる
……悔しくないの?」
「悔しいさ」
即答して、海渡は少し笑った。
「でも……仕方ないだろ。誰も俺が“どうやってやったか”なんて知らないんだから」
「それでも言えばいい。黙ってたら、全部あいつらのもんになるよ」
海渡は首を横に振った。
「言ったって伝わらない。“偶然うまくいった”って思ってる。村の人はさ、俺が最初に“やった”ことより、“自分たちががんばった”ことに価値を感じてるんだと思う」
「……じゃあ、あなたは?」
葵の目はまっすぐだった。痛いほどに。
「俺は、……超能力があったから、できただけだ」
小さな声だった。口にしてから、自分で驚いた。初めて、他人の前でその言葉を出した。
「みんなは、自分の力でやったんだ。それは嘘じゃないよ」
会場から拍手が聞こえてきた。表彰式が始まったようだった。
海渡は椅子から立ち上がり、窓の外を見た。
村の広場では提灯が揺れ、夜の風に笛の音が流れていた。
静かに、そのまま荷物をまとめた。
村を去る理由はなかった。だが、いる理由ももうなかった。
乗ったバスが峠を越える途中、後ろを振り返った。
鹿波村の景色が遠ざかっていく。
ただ、その目には確かに一瞬、小さくも強い光が見えた気がした。
村の誰もが、自分たちの足で、次の一歩を踏み出す瞬間だった。
あれから三年が経った。
海渡は村の入口に車を止めた。木々の枝が広がり、道路は舗装が進んでいた。冬前の空気は澄んでいて、山の匂いが懐かしかった。
村を出てから、海渡は隣県の農業試験場に職を得た。表向きは“施設管理員”だが、実際は植物の成長データを見ながら密かに“触れて”調整を続けていた。名前も出さず、手柄も取らず。ただ、静かに誰かの努力を支えていた。
久々の鹿波村は、あちこちが変わっていた。
養魚池には新しい加工小屋が建ち、「鹿波干し」の看板が下がっている。
温室には地元のご婦人方が出入りしており、バナナの他にパパイヤやカカオまで栽培されていた。
驚いたのは、林業だった。
装飾用の広葉樹が育ち、ドローンで樹木を管理し、伐採と輸送の自動化が進められていた。山が“産業”として回り始めていた。
そして酒蔵。
「鹿波天泉」という地酒は、近隣のコンテストで賞を取ったという。
だがどこにも、“海渡”の名前はない。
彼はそれを見て、ようやく、あきらめがついた。
手柄ではなく、根が残って芽が出て育っていたのだ。
村の中学校に立っていると、懐かしい声がした。
「おかえり。遅かったじゃん」
振り向くと、葵がいた。作業着のひざに泥がついていた。
「村を見たよ。あちこち変わったね」
「うん。……でも、変わったのはあんたが見せてくれてからだよ」
海渡は小さく笑った。
「俺は風を吹かせただけだ」
葵は首を振った。
「違うよ。あんたがはっきり示してくれたの。“できる”ってことを。だから、みんなやった。
できることが分かっていなければ誰もやらないよ
今までと違う成功が目の前にあったから真似したの」
少し沈黙があって、海渡は尋ねた。
「……俺もずっといた方が、よかったと思う?」
葵は答えなかった。ただ、静かにかばんから小さな干物を出した。
「これ、あんたの干し方と一緒。自分なりに試して、ここまできた」
その干物は、形も厚みも完璧だった。空気と水分と時間を、きちんと理解している者の仕事だった。
海渡はそれを受け取り、言った。
「……もう、俺がやらなくても大丈夫だな」
夕日が山の向こうに沈んでいく。村の空は、少しだけ明るかった。
最初にできることを示した人は本当に偉いと思います