きょうだいの靴
兄弟は性格が違うものですが同じ靴屋ならで考えてみました
和馬が父の古い事務所で、黄ばんだ帳簿とにらめっこしていたとき、電話が鳴った。病院からだった。
「お父さまが、危篤です」
その言葉に背筋が伸びた。無言で受話器を置き、工具棚の前に立ち尽くす。長年使い込まれたラストブラウンの棚板の匂いが、やけに強く鼻を突いた。
父・孝三は町の小さな靴屋「ミライ堂」の店主だった。修理もオーダーもこなす職人気質で、無口ながらも背中で「仕事とは何か」を語るような人だった。
病室に駆けつけた時には、父はすでに意識がなかった。機械音だけが小さく鳴り続ける。
やや遅れて翔太も現れた。無精ひげにサングラス、革ジャンのまま。久しぶりに見る弟は、昔よりも痩せて見えた。
「おう、兄貴……久しぶりだな」
その声に、和馬は応えなかった。
父が息を引き取ったのは、夜明け前だった。葬儀の後、和馬は実家の納戸で一枚の封筒を見つけた。中には父の筆跡でこう書かれていた。
「和馬と翔太へ。ミライ堂は、ふたりでやれ。形はどうでもいい。ふたりで支え合って、靴で人の人生を支えてやれ。」
和馬は黙って手紙をたたんだ。翔太は読み終えると、短く鼻で笑った。
「無理だな。俺は俺でやる」
それが、兄弟の分岐点だった。
和馬は「ミライ堂」の経営を本格的に引き継ぎ、地道な改革を進めた。靴の分類を明確にし、子供用、学生用、ビジネスマン用と、ターゲットごとのニーズに応じた商品を展開した。
子供の靴は軽くて丈夫で、安く。学生にはデザイン性と動きやすさ。ビジネスマンには実用性と、ちょっとしたお洒落を。
市場をよく調べ、客の声を丁寧に拾い上げた。どの靴にも父の教えである「人の人生を支える」が芯にある。
店舗は徐々に増え、業績も伸びた。結婚し、子どもも生まれた。責任と重さを感じながらも、着実に“父の仕事”を自分のものにしていった。
一方の翔太は、さまざまなプロジェクトを立ち上げた。デザイン特化の靴ブランド、アーティストとのコラボ、VRと連動した靴の開発。だが、どれも途中で資金難や方向性の迷走により消えた。
「人は夢を履くんだよ、兄貴」
そう言っていた翔太の会社は、ついに10年目で倒産した。社員の未払い給与が問題になり、翔太は夜逃げのように姿を消した。
和馬は何も言わなかった。ただ心のどこかで、あの父の遺言がまた遠ざかっていく気がしていた。
それから数年後。あるニュースがSNSで急拡散された。
「宇宙船内専用靴、民間で開発。開発者は元倒産社長の翔太氏」
記事には、翔太が設計したという「無重力空間用軽量シューズ」がNASAの関連プロジェクトで採用されたとある。スリッポン型のミニマルなデザインに、特殊な軽量素材と圧縮構造。スタジオでの再現映像もあり、実にスタイリッシュだった。
メディアがこぞって報じた。「宇宙から来た靴」というキャッチコピーがウケ、モデルやアイドルが着用。高価格にもかかわらず、売れに売れた。
和馬はテレビを見ながら、苦笑いをした。
「……変わらないな、あいつ」
彼は弟を羨ましかったわけではない。ただ、弟が“靴”を捨てていなかったことに、胸のどこかがざわついた。
兄弟はそれぞれの足音で、別々の道を歩いていた。だが、その先に何があるかは、まだ誰も知らなかった。
秋の夕暮れ、和馬のスマートフォンが鳴った。病院からだった。
「お母さまが倒れられました。脳梗塞の疑いがあります」
仕事を切り上げて病院へ駆けつけると、母・節子は集中治療室にいた。幸い命には別状なかったが、左半身に軽い麻痺が残るという。
ベッドの横で、和馬は母の手を握った。節子は微かに笑った。
「……靴、履いてる?」
「うん。母さんが買ってくれた、あの黒いやつ。大事にしてるよ」
和馬の声に、母は目を細めた。
数時間後、面会時間を終えようとしたとき、病室のドアが音もなく開いた。
翔太だった。茶色のコートにスニーカー、以前より顔が引き締まっていた。無言で母のベッドに近づき、小さく頭を下げた。
「……来たのか」と和馬が呟く。
「兄貴も……来てたか」
二人は並んで母を見つめた。言葉が出なかった。
節子が目を開けた。「……ふたりとも、そろったのねぇ」
翔太はぎこちなく笑いながら言った。「……こんな時だけで、ごめんな」
母は首を振る。「そんなの、どうでもいいの。ふたりとも、自分の足で歩いてる。それだけで、私は……」
目にうっすらと涙が浮かんでいた。
和馬は思わず言った。「母さん……あいつ、夢みたいな靴作って、また話題になってるんだよ」
「宇宙の靴?」と節子が小さく笑う。
翔太は照れくさそうに頭をかいた。「まあ、宇宙って言っても、国際宇宙ステーションの船内用だよ。軽くて、滑らないだけのシューズさ。でもね、夢って言われると……ちょっと嬉しいかな」
和馬は横目で弟を見た。言いたいことは山ほどあった。「勝手にやって、勝手に消えて、今さら……」と何度も思った。けれど、母の穏やかな表情を見たとき、それが全部、どうでもよく思えてきた。
「俺の靴は、実用ばっかだ。弟のは、夢ばっか」
ふと出たその言葉に、母はくすっと笑った。
「どっちもいいじゃない。足元がしっかりしてたら、夢を見ても転ばない。夢があれば、歩き続けたくなるわ」
和馬は息を呑んだ。
翔太も、言葉を失っていた。
病室の外の窓に、夜の明かりがにじんでいた。
母・節子の入院生活は長引いた。ある日、病室での会話の中で、節子がふいに言った。
「ねえ……ふたりで、靴を作ってみたらどう?」
和馬は「無理だよ」と即座に否定した。翔太は一拍おいて、「俺も、兄貴の会社には合わない」と苦笑した。
しかしその夜、和馬は自宅で古い靴箱を開いた。中に入っていたのは、小学生の頃、父と一緒に作った手作りの運動靴だった。少しだけ縫い目が歪んでいる。でも、履き心地はよかったことを覚えている。
「支える靴と、夢を与える靴。……合わせたらどうなる?」
翌日、和馬は翔太に電話をかけた。
「一回だけだ。コラボしてみる気はあるか?」
翔太は驚きもせずに言った。「……お、ついに兄貴も夢を見たな」
コラボの企画は「子どもたちのための、未来を走る靴」。翔太がデザインし、和馬の会社が製造を担う。夢を追い、でもちゃんと地に足のついた靴。名前は節子のアイデアで「HIKARI」と名付けられた。
発表イベントの日、会場には多くの親子連れとメディアが集まった。軽くて履きやすく、光るソールとカラフルなラインが特徴。子どもたちが笑顔で駆け回る様子に、和馬も翔太も言葉を失った。
イベントが終わった夜、和馬は病室に向かった。
母はすでに眠っていた。呼吸は穏やかで、顔色も悪くなかった。
「母さん、靴、できたよ。子どもたちが笑ってた。……ありがとう」
静かな病室に、モニターの音だけが響いた。
翌朝、母は静かに息を引き取った。眠ったまま、穏やかな最期だった。
葬儀の後、和馬と翔太は実家の靴棚の前に立っていた。どこかで見覚えのある靴が並んでいた。父が使っていた工具の匂いも、まだ残っていた。
翔太が言った。
「俺、また旅に出る。今度は、途上国の子どもたち向けの靴を考えてる。夢って、持てないとしんどいからな」
和馬は頷いた。「俺は、日本の現実を支えるわ」
翔太が笑った。「うん、兄貴はそれが似合う」
「お前もな」
ふたりは短く笑い合い、それぞれの道へと歩き出した。
春の昼下がり。和馬の家の庭に、陽だまりがやわらかく落ちている。
「ほら、ゆうと。歩いてごらん」
和馬は、まだ一歳になったばかりの息子に小さな靴を履かせた。色とりどりのソール、柔らかなクッション、そしてサイドには小さく「HIKARI」のロゴ。
それは、あの兄弟が母の願いから生み出した靴だった。
ゆうとはよちよちと立ち上がり、バランスをとるように両手を上げた。そして、ほんの数歩——ふらつきながらも、確かに前へと足を踏み出した。
「おお……すごいな」
和馬の隣で、妻の恵美が涙ぐんで笑っている。
そのとき、スマホに動画メッセージが届いた。送信元は翔太。和馬は再生ボタンを押す。
画面の中、赤土のグラウンドでたくさんの子どもたちが走っていた。足元には、色とりどりの靴。翔太の作った「夢の靴」が海を越えて広がっていた。
画面の翔太が、サングラス越しに笑っていた。
「兄貴、元気か? こっちは今日もカンカン照り。靴、足りねぇくらいに人気だ。……次は、戦争で足をなくした子のための義足用スニーカーを開発中。夢って、終わりがねえな」
映像が終わる頃、ゆうとが和馬の足元にたどり着いた。小さな手が、父の膝にそっと触れる。
「……歩いたな。すごいぞ、ゆうと」
和馬はしゃがんで息子を抱きしめた。ふと、空を見上げる。青空の向こうに、遠くで響くような足音を感じた。
違う靴音でも、同じ方向を見ている——
父が遺した言葉も、母が残した笑顔も、いま、次の足に引き継がれている。
もっと仲良くなるといいですね