第4話「1週間も過ぎちゃいましたけど…」
3月。年度末が近づき職場も経理の発注やらもろもろの申請やらで慌ただしくなってきた。
それからしばらくが経った3月21日。3月下旬に入ったということで本社の慌ただしい雰囲気が、本社には午後1〜2時間程度しかいない俺でもはっきり感じられるくらいになってきた時のことだ。
ゆかり「―鷲造さん今日は朝礼の後11時までには本社に移動してもらえる?本社で溜まっている注文請書のファイリングとかやってもらいたくて。清掃作業はそれ終わったらやって。」
光綺「承知しました。」
ゆかり「ファイリングのやり方は先月一度少しやったから分かるでしょ?場所は既に確保しておいてあるから、追松さんに案内してもらって。」
光綺「はい。」
俺は本社のバックヤードに溜まっている注文請書のファイリングの仕事を頼まれた。そういえばこの間大書さんからバックヤードの棚からファイルを持ってくるよう頼まれた時、まだファイリングされていない注文請書の入ったクリアファイルの山がガサガサ崩れ落ちたことがあったっけ。年度末ということでそれをいい加減整理しなきゃいけないということなのだろう。
冷静な顔で「承知しました」という返事をした俺だが、その話を頼まれた時は嬉しさでいっぱいだった。何せ午前中から本社にいられる、それはつまり「午前中から喬松さんに会える」ということを意味している。ただでさえここ2週間浜松町第二オフィスで働いていたから高松さんに会えていなかった俺。それもあったから余計に嬉しく感じていた。
朝礼が終わった後、俺はすぐさま本社に移動する準備を始める。
ゆかり「おっ。鷲造さん張り切ってるね。」
光綺「そ、そうですかね…?」
「やべえワクワクが行動に出てしまっていたな…」と思いながら、11時前に本社に移動する。インフルエンザのワクチンの職域予防接種以外では初めて午前中に本社に行く俺。ワクワクと不思議な感じが同居する。
エレベーターのアナウンス「30階です。」
やや久しぶりの本社。3月下旬だし金曜日だしということで、人の数は多い。
光綺「お疲れ様です。」
嘉子・希望・玲慈「お疲れ様です。」
追松さんが確保してくれた長机のスペースに荷物を置いて本社での共有パソコンを立ち上げた後、バックヤードから注文請書を持ってくる。その数なんと数え切れないほど。しかもクリアファイル一枚ずつになっているから、持ち運ぶのが大変だった。注文請書を持ってきた後は、注文請書をファイリングする専用のファイルを持ってくる。
作業を始める前、ふと俺は前の方に目をやる。すると本社オフィスの真ん中の簡単な会議用の立席スペースの手前の5人掛けの席で石幡さんたちが仕事をしている。喬松さんもいる。
なんだか俄然やる気が出てきた俺。俺は注文請書をクリアファイルから取り出しては発注番号ごとに並べ替える。しかし既にファイリングされているものも並べ替えの対象になるから、一旦取り出さないといけないのが少し大変だった。
そうこうしている間に時刻は正午になった。俺は作業スペースで食事をする。初めての本社での昼休み。なんだか少し不思議な気分だ。
昼休みということで社員の人は様々だ。持ってきた弁当を食べる人、ビルのロビーにあるコンビニに買いに行く人、ビルの外に食事に出かける人など。俺は母さんが作ってくれた弁当を食べる。
喬松さん達が座っている方に少し目をやる俺。卯治さんはどこかに食事に出かけたのかいない一方、後の3人は持ってきたものを食べている。手作り弁当かコンビニのものかはここからでは見えないが。
光綺(じゃ、いただきます。)
食事を始める俺。オフィスで食事をしている人の会話で、さっき以上にオフィス内が賑やかになってくる。しかし石幡さん達の会話は、心なしかはっきりと耳に入ってくる。
すると…
幾里「あ、そういえば喬松さん昨日誕生日だったよね?おめでとう。」
紫織「ありがとうございます!」
光綺(!?)
俺の食事の手が止まる。衝撃の事実を俺は耳にした。それは喬松さんが昨日誕生日だったということを。
光綺(当たり前かもしれないけど聞いてないよそんなの!)
俺はスマホで社員ブログを立ち上げる。社員ブログにその喬松さんの誕生日の情報があったかどうか確認するためだ。
記事ワード検索で「誕生日」で検索をかける。いろいろな人の誕生日に関する記事がたくさん出てきた、ある人は友達からもらった誕生日プレゼントに関する記事を、またある人はお子さんにあげた誕生日プレゼントを紹介する記事を、そのまたある人は学生時代の後輩の誕生日パーティーに関する記事をあげている。とにかく「誕生日」という単語を含む記事がいっぱい出てきた。
そんな中で俺はある記事を見つけた。それは喬松さんが去年の4月、入社にあたって書いた自己紹介の記事だ。
光綺(マジか書いてあったんか…)
その記事の中には「誕生日:3月20日」と書いてあった。ちなみにその1行下に「出身地:神奈川県横浜市」、そのさらに1行下には「好きな食べ物:蕎麦・たまごサンド」とも書いてあった。
去年の納会の後の夜、寝床で喬松さんの記事を遡って見た俺。しかし一番最初に投稿したその記事までは見た記憶がない。
その後俺は食事を再開し、コーヒーを飲んだ後13時に午後の仕事を再開する。特設の広い作業スペースを確保してくれたおかげで、昼休みを除いて1時間弱で注文請書のファイリング作業を終えることが出来た。
光綺(やっぱり作業スペースが広いに越したことはないな。)
その後は注文請書のファイリング作業が終わったことを大書さんに報告し、いつものように本社オフィスの掃除だ。しかし人が多くいるのもあって、全ての担当箇所の掃除をすることはできなかった。
そして14時半過ぎ、俺は本社を後にする。喬松さんがいる日には後ろ髪を引かれるような感じがする俺だが、今日はいつも以上にその感じが強い。それもそのはず。「お誕生日おめでとうございます。」と俺が言う余地はいろんな意味でなかったからだ。
それから次の週になると、また丸1日浜松町第二オフィスでの仕事だったり、本社に行っても喬松さんはテレワークで出社していないという日々が続いた。
そして1週間が過ぎた3月28日になった。年度末が本当に近づいたということで、本社の方の応援で俺も朝礼後に本社に移動して作業を手伝うことを頼まれた。
ゆかり「―いずれもレクチャー受けているから分かるよね。もし分からなかったら他の人のやってることを参考にすればいいから。」
光綺「はい。」
ゆかり「今日本社人いっぱいいるから席取れないかもしれないけど、その時は栖崎さんの席を半分使わせてもらってね。栖崎さんにはもう伝えてあるから。」
光綺「分かりました。」
本社に移動する俺。大書さんから言われていた通り年度末最後の金曜日ということもあって本社は先週以上に人がいっぱいだ。喬松さんたちもいる。
光綺(お、ここ空いてた。)
俺は運よくオフィス隅の狭い共有席を確保できた。その後は本社常駐の人がいつもやっている郵便発送の仕事を手伝う。年度末最後の金曜日ということもあってその数はとても多い。普段は20日頃は特に多いという郵便発送の仕事。その時もせいぜい40件くらいなのだが、今日は朝9時時点でもう既に30件あり、もうこの時間で既にもう50件入っているのだという。
光綺「こりゃ第二オフィスからヘルプ必要なやつですね…」
玲慈「そうですね… 助かります。」
光綺「はい。よろしくお願いいたします。」
オフィス真ん中の簡単な会議用の立席スペースで郵便発送の手伝いを始める俺。封筒に入れる紙の折り方もだいぶ慣れてきた。
20件ほど封入したところで昼休みの時間になった。
光綺「ちなみにですが、これで今日何件目くらいになりますか?」
玲慈「60件はありますね… 鷲造さんが来てからまたさらに追加入りまして。今日もしかしたら100件行っちゃうんじゃないかなって思います。」
光綺「そんなにですか…(苦笑)」
狭い席で弁当を食べる俺。仕事で一旦は忘れていたが、俺には伝えたいことがあったことを思い出す。
それは、喬松さんに「お誕生日おめでとうございます。」と伝えることだ。しかしもう1週間も過ぎてしまっているし、そもそも喬松さんの誕生日は会話を盗聴して知ったなんてことは言えるわけがない。
だから俺は言っていいものかどうか葛藤していた。
それと並行して、食事をしながら石幡さんたちといろいろ会話をする喬松さん。「邪魔することはできない」と思った俺。それもあって結局昼休み中に、誕生日のことを伝えることはできなかった。
13時にまた郵便発送の作業を再開する。仕事には集中出来たがいかんせんかなりの分量があるため追松さんも手伝いに入ることとなった。かれこれ3人で封入した郵便物の数は、最終的に100件をも超えた。
玲慈「いや本当に100件超えるとは思わなかったです…」
光綺「ここまで行くのって初めてですか?」
玲慈「多分初めてだと思います…」
作業が一段落着いたのは15時少し過ぎ。2時間ほとんど立ちっぱなしだったから脚が疲れた。
光綺「すいません… 少し休憩してから第二オフィス戻ります…」
俺は脚を休めるべく休憩する。本社のウォーターサーバーで水を汲み、水を飲む。
しかし水を飲みながら、仕事が一段落ついた俺は考えることは一つだ。
光綺(喬松さんに「お誕生日おめでとうございます」って言えるのか…?)
もうすぐ浜松町第二オフィスに戻る俺。このチャンスを逃せば「お誕生日おめでとうございます」って言うには場違いかつ遅すぎるタイミングになってしまうのは確実だ。
すると…
光綺(!)
俺が座っている席の近くのドアから喬松さんが入って来た。
光綺(今言うしかねえ!)
もう今言わなければチャンスはない。いろんな意味で鷲造光綺一世一代の大勝負とも言わんばかりに、俺は喬松さんの元に近づく。
光綺「喬松さん… お疲れ様です。」
紫織「あ、お疲れ様です。」
光綺「あの… 喬松さん… お誕生日…おめでとうございます。もう1週間過ぎちゃいましたけど…」
紫織「あ、ありがとうございます。社員ブログ見て下さったんですか?」
光綺「はい!」(やっと言えた…)
紫織「本当にありがとうございます。これからもよろしくお願いします。」
光綺「よろしくお願いします。」
最後は納会の時と同様半ば衝動的だったとはいえ、喬松さんの誕生日を祝うことが出来たことに対して、俺は達成感を感じていた。
光綺「では、お疲れ様です。」
社員一同「お疲れ様です。」
いつものように退勤する俺。その帰りがけ、喬松さんの社員ブログを見る俺。
光綺(ん?)
そこには21日の夜に投稿された、浜松町の駅近くのお蕎麦屋さんでの誕生日パーティーの記事があった。
光綺(あれ、もしかして喬松さんが言ってた『社員ブログ』ってこれのことだったんじゃね…?)
喬松さんから『社員ブログ見て下さったんですか?』と言われていた俺だったが、その記事について俺は多大な勘違いをしていたことが明らかになった。
光綺(今度から他の人の社員ブログの記事もより一層定期的にチェックするようにしよう…)
今回のような勘違いをなくすためにも本社の方とのコミュニケーションのためにも、俺はそう改めて感じていた。
まあ何はともあれ、喬松さんの誕生日を祝えたことが、俺もとても嬉しかった。