タヌキの牙
人にも、鬼の牙が生えるらしい。
近所でそんな噂を聞いてから、ハルは夫の歯ばかりを気にしていた。夫は年に一度のペースで下側の奥歯が腫れ上がり、まるでおにぎりのように頬まで膨れてしまうのだ。
そして、今もまさにその最中だった。
夫は今日も、歯が痛いとひぃひぃ言って薬を飲み、横になって休んでいた。
ハルは夫の前に回り込み、顔を覗き込んだ。右頬が膨らみ始めている。これはただ歯茎が腫れているだけなのか、牙が生えようとしているのか、素人のハルには判断がつかない。
しかし、当の本人は、痛みで顔を真っ赤にしながらも、優しく微笑み返してくる。
こんな優しい人が、鬼になるわけがない。
ハルは内心心配しながらも、いつも通りそっけない態度で、安静に寝ているように伝え、その場を離れた。
次の日、ハルは夫と共に病院へと向かった。
さほど待たずに診察室へと呼ばれ、心配だったハルは夫に連れ添って診察室へと入った。夫の口内をいじくり回した後、お医者は朗らかな顔で「タヌキの牙ですね」と言った。
「タヌキの牙、ですか?」
夫とハルはぽかんとしながら、同時に声を上げた。
鬼ではなく、タヌキの牙。
確かに、穏やかで優しい夫には、鬼よりタヌキの方がよく似合っている。ふわふわの毛に覆われ、腹づつみを打つ姿を想像すると、ちょっと噴き出してしまいそうになるくらいに可愛い。
思わず緩みそうになる顔を引き締め直し、ハルはお医者に声をかけた。
「治るんでしょうか」
「治るかどうかはタヌキ次第なので分かりません。これを牙と歯茎に塗って、様子を見てください」
お医者は、軟膏の入った小箱を寄こしながら言った。
「オオカミのおしっこが入った軟膏です。早速今晩から塗り込んでください」
小箱を受け取りながら、夫は「オオカミの、おしっこ・・・」と、見たこともないくらい顔をしかめて呻いていた。
夜、早速軟膏を塗りこみ、夫は痛みに加えて軟膏の獣臭い味と臭いに一際ひぃひぃ言っていた。
「お薬なんだから、美味しくないに決まってるでしょ」
内心心配しながらも、ついそっけない言葉が口を突いて出てきた。
それでも夫は、痛みで真っ赤になった顔をくしゃりと歪め、「だってぇ」と笑い返してくる。大きな体を丸めて頬を摩る姿を見て、タヌキになったらより一層可愛いだろうな、という思いが、ふとハルの頭をよぎった。
無意識に浮かんだ恐ろしい考えを吹き飛ばすように、ハルは頭を振ると、夫の腕を掴んで、寝室へと引っ張った。
電気を消してベッドに横になると、目深にかぶったお布団から、ちょいと鼻先を出した夫は、すぐに眠りに落ちていった。夫が寝入ったのを確認すると、ハルはいつものように夫の腕にくっついて、ゆっくり深呼吸をしながら目を閉じた。
素直になれないハルは、夫の事がどれだけ好きでも、ついそっけない態度をとってしまう。しかし、夫が寝てしまえば恥ずかしがらずに存分に甘えられるのだ。
しかし、いつもなら心が満たされるひと時のはずなのに、今日はそうはいかなかった。
夫が、タヌキになってしまうかもしれない。
そんな不安が、ひしひしとハルの心を黒く染め上げていく。そっけなく、ぶっきらぼうなハルの側に、いつも優しく寄り添ってくれる夫。ハルが大好きな、夫。
そんな夫が、タヌキになってしまうかもしれない。ハルは、隣でぷぅぷぅと寝息を立てる夫の顔を覗き込んだ。
いつか、ふさふさのしっぽが生えて、山に帰ってしまうのだろうか。こんな優しくない私の事なんて、忘れてしまうかもしれない。
ハルは、どうしようもなく悲しい気持ちになって、涙がボロボロと零れた。
夫の膨れた右頬に優しく手を当て、ハルは心の底から願った。
夫が、タヌキになりませんように。もっと、優しくなるから。
ハルは夫の頬を撫でると、起こさないように身体を離し、お布団に潜り込んだ。夫の優しさに甘えていたから、きっとバチが当たったのだ。
気づかれないように、起こしてしまわないように。ハルはお布団を頭までかぶり、静かに泣いた。
「見て!」
朝、夫の大きな声で目を覚ました。
大きく弾んだ声で、夫は何かをハルの目の前に差し出した。寝起きであるのと、涙で腫れた目のせいでぼやけた目を擦り、ハルは夫の手の中の物を見て、思わず頓狂な声を上げた。
夫の手には、小さな牙がコロンと転がっている。
「お薬が効いたんだよ。もっと早くお医者に行けば良かった!」
心底嬉しそうに右頬を撫でながら、夫が小さな女の子のようにきゃっきゃと喜んでいる。
ハルは夫に走りよると、力強く抱きしめた。そして、お腹に顔をうずめてわんわんと泣いた。
「ずっと心配してくれていたものね。ありがとう」
夫は、ハルの背を優しく撫ぜながらそう言った。
ハルは、夫の優しさにさらに声を上げて泣いた。これからは、もっと気持ちを態度に出していこう、相手のためにも、自分のためにも。
床に落ちたタヌキの牙が、朝日を受けてきらりと光った。