散りました。
田舎の実家は数人レベルならばが合宿もできそうなくらいに広く、部屋が余っていた。もともと慎が使っていた部屋は、慎のものをしまっているため実質物置だ。ただの帰省である慎が寝る部屋は別の空き部屋が使用されている。
調べごと・仕事をどうにか片付け、風呂にも入ってさあ寝るぞとなったその部屋には、慎が使っていたものと追加で布団が一式置かれていた。
「旅館の新婚仕様かな?」
キラサマと嫁がセットなのは、村民には知れ渡っているようだ。思惑はさておいて、離して敷いた。
Uターンを決意したのは、正直なところノリである。ただ、突発的に帰って実家で仕事をしてみると、ずっとうっすらどんよりしていた身体の中のこごりのようなものが薄れた。母の対応に少しお客さん扱いはあったが、それを差し引いても、この空気が身体にあっているのだなと思い始めていた。なお、残っていたうっすらどんよりは、キラサマの出現で全部吹き飛んだ。帰ってきてもいいのではと考えていたところに、キラサマである。ノリと勢いで、引っ越しの手続きを調べ、クライアントに事情を話して出せるものは出しておいた。明日は役所に行ってあれこれ確認して、自宅に戻り、引っ越しRTA開始だ。
平日の日中に役所に行きやすいのはこの職のメリットだ。やることリストは作ったが、あれもこれもと思い浮かんでしまう。
「脳が疲れる……」
濡れ縁に出てぼんやりと夜空を見つめる。頭が冷えていくようでここちよかった。そのまままぶたが重くなっていく。
都会であれば夜になっても夏の空気は引かないが、それがここではいくぶんかマシだった。カエルは合奏通り越して騒音だが。幼い頃に住んでいるだけあって、慎には環境音である。日中のセミも同様だ。
「そんなところで寝ると身体を冷やすぞ」
「ヴぁっ!?」
抱え上げられ、布団に下ろされた。
「びっくりした。別に運んでもらうほどのことじゃないですよ」
「我がそうしたかっただけだ。慎、軽くないか?」
「こっちに戻ったらすぐに太りますよ。それも対策考えておかないとなあ……」
部屋はずっと風を通していたのだが、ほこりっぽいような線香臭いような、古臭いにおいがずっとしていた。キラサマの存在が、それをかき消してしまった。淀みを解き、汚れを清めるものなのだと実感する。
「あぁ、そうだ。キラサマって、“キラ”に“様”って敬称つけて、サタン様とかハラミちゃんみたいに一連名前化してるんだと思いますけど、キラってどんな字を書くんですか?」
「サマはたしかに敬称の“様”だが、キラに特に当てている字はない」
「いろいろ雑だなぁ」
「慎はどんな字だと思ったんだ?」
「鬼って聞いていたから、鬼に羅刹の羅、かな」
枕元で充電中のスマートフォンの画面を灯す。メモアプリで“鬼羅”と入力して見せた。
「でも、鬼じゃないなら、その姿もこの漢字も仰々しいですね」
「そうか? 我は気に入っておるぞ。美人とも言われた」
「乙女ゲームの攻略キャラなら、そりゃイケメンでしょうよ」
ワイルド系でオラつている。そういう見た目の注文だ。あくまで見た目なので、性格はまた別の話。慎も考慮してデザインをするが、詳細はライターによる。クライアントが想定していたより筋肉を盛ったことは否定しない。まだ決定はしていないのだ。筋肉に問題はない。
「そのようにかしこまらずともよい。慎は我が嫁だ。我は人ではないゆえ、おいそれ対等とも言えんが、近い存在なのだからな」
「……うん」
キラサマがそういうのであれば、そういうものなのだろう。離して敷いた布団はいつの間にかぴたりとつけられており、伸ばされた手はたやすく慎に触れた。
「前は白い犬だったからな。いや、白狼。あれはあれでよかったが、人に近い姿のほうが、人とふれあいやすい。感情も伝えやすい。いいではないか、“鬼羅”という字も。慎はそう呼ぶといい」
「呼ぶって、読み方は同じじゃないか」
「今は我と慎しか知らぬ。わざわざ教えなければ、我と慎だけのものだ」
するりとほほを包み込むようになでられた。指先がかすめるように耳をくすぐる。一瞬で頭に血が上り、クラクラした。
「声いいし、顔いいし、蕩してくるし、なんなんだよもう! はい、おやすみおやすみ! そこまで早起きはしないけど、明日も早い! 戻ってやることはいっぱいあるの! ……おやすみなさい、鬼羅」
明かりを消して布団に潜り込む。
「もう明日に離れてしまうのか?」
「できるだけ早く戻れるようにします。引き払ってくるだけだから、そんなにかからないと……」
「ならば、今宵のうちに縁を結んでしまわねばならんな」
せっかくかぶった布団が引き剥がされた。常夜灯が遮られる。のしりとのしかかられた。
「えっ、急なBLルートって、そんなフラグ……」
“嫁”。
「あったなー! 最初からあからさまなフラグ、まっあっ……あ゛ーっ!!」
碓井慎、34歳にて処女を失った。
いわく、“嫁”というものに対する認識が甘かった、とのことだ。