毒を飲んだ邪魔者は・前編
★★
ペインは医学での功績が認められ男爵の爵位を授かり、現在は皇宮医として長く皇室に仕えてきた。
優秀な医者だけに皇帝陛下からの信頼も厚く、良好な関係を築いている。陛下の誕生日を祝うパーティーには毎年招待され、その日も居合わせていた。
ペインは酒を飲みすぎている陛下に目を光らせながら、今年も無事に誕生日を迎えてくれたことを心から祝福した。
そんな中、騒ぎは起きた。
皇太子の婚約者で、公爵令嬢のリリティアが突然倒れたのだ。彼女には、皇太子妃の教育の一環で基本的な医学を教えたことがある。
とても物静かで、真面目で、年齢の割に表情の乏しい少女だった。
すぐに駆け付けると、床には彼女が飲んでいたと思われるシャンパングラスが粉々になって散らばっていた。
直ちに状況を把握したペインは、一瞬だけ周囲に視線を走らせた。
──なぜ、リリティアの身内は誰も来ないのか。
パーティーには婚約者である皇太子はもちろん、彼女の家族や友人だって来ているはずだ。
なのに、彼女の元へ駆け寄ってくる者は一人もいなかった。ペインは違和感の正体を確かめたかったが、リリティアの状態は一刻を争う。
幸い、パーティーには娘のユアナも参加していた。
帝国で女医が認められるようになったのは最近のことで、医者を希望する女性は少なく、娘は男性に混ざって勉学に励んでいた。
男性の格好をしているのはその為だ。未だに偏見的な見方をする者もいるため、周囲からの余計な妨害を少しでも減らすために取った苦肉の策だ。
次回の試験に受かれば、ユアナは正式な医者になれる。それまではペインの助手をして、多くの経験を積んでいるところだ。
「父さん……っ」
リリティアを別室に運び終え、彼女のドレスを脱がせていたユアナは、突然呻くような声を漏らした。
これまでもペインの後ろで様々な患者を見てきた娘が、初めてその顔を歪めたのだ。
理由は直ぐに知れた。
患者の前ではどんな状況であっても冷静でいたペインでも、リリティアの肉体に刻まれた傷跡を目にして、胸が抉られるようだった。
痩せ細った白い素肌に何度も上書きされた暴力の痕。
酷い場所は傷が化膿して肌が変色している。
とくに背中は、目を背けたくなるほど痛々しかった。
どれほど痛かっただろう。
どれほど苦しかっただろう。
こんな扱いを受けるほど、彼女が一体何をしたというのか。
これは大罪の囚人が受ける拷問や処罰と同じだった。
ペインは治療をしなければいけない患者を前にして、初めて戸惑った。
もしかしたらリリティアは毒と知っていて自ら飲んだのかもしれない。大勢の中で行動に移したのは彼女なりの無言の訴えだ。
彼女は最初から死ぬつもりだったのだ。
今は辛うじて命を取り留めているが、彼女にとってこのまま死なせたほうが幸せなのかもしれない。
何より、治療を施しても毒の侵食により様々な後遺症に悩まされ、長くは生きられないだろう。
今、どうすることが最善なのか。
ペインは動かしていた手を止めようとした。
その時、ユアナだけはリリティアの体を横にすると、毒を吐き出させる管をペインに渡してきた。
「諦めたら駄目よ、父さん。ここで彼女を死なせたら、きっと後悔する。私はいつだって自分に誇れる医者になりたいの」
「ユアナ……」
「目の前で救える命があれば全力で治療するのが医者だって、父さんが言ったのよ?」
──忘れてしまったの?
強い眼差しで言ってきた娘に、ペインは僅かに震えた。
まだまだだと思っていたのに、こんな状況でも落ち着いている娘は父よりずっと医者らしかった。
「それに、辛い思い出だけを背負って逝かせたくないわ。こんな終わり方なんてあんまりじゃない……。彼女にはもっと楽しい思い出をつくってほしいの。幸せになって、彼女の笑った顔が見てみたいわ」
ユアナの言葉に、ペインは我に返った。
あれこれ考えてしまうのは年を取ったせいだろうか。苦しむリリティアを見下ろし、ペインは管を受け取った。
もし生き延びたリリティアに「なぜ助けたんだ」と罵られても、医者として成すべきことをするだけだ。
ペインは「そうだな」と頷き、ユアナと共にリリティアの治療を行った。
全ての治療が終わって後はリリティア自身に委ねた時、ペインは廊下に呼ばれた。そこではリリティアの家族が落ち着かない様子で待機していた。
──この中の誰かが彼女に暴力を振るって楽しんでいる。
娘を心配する父親か、娘を助けてくれと泣きついてきた母親か、妹の無事を祈る兄か、それとも婚約者の皇太子か。
偽善者の仮面を被っているのは誰か。
犯人は分からなかったが、その代わり誰もリリティアの元には行かせなかった。彼らでは、リリティアを死の淵から呼び戻す最後の希望にはなれない。
どんなに憎まれても患者を守る責任があった。
ペインはユアナと交代でリリティアに付き添った。
その甲斐あって、リリティアは無事峠を越して命を繋ぎ止めた。容態が安定するまで様子を見る必要があるが、もう大丈夫と分かった時、ユアナは目を潤ませた。
だが、命の危機から救うことはできたが、同じことを繰り返さないためにリリティアを見守る必要があった。
ペインは陛下に謁見を求め、リリティアの無事と彼女の状況を事細かに説明した。
陛下は知らされた真実に額を押さえ、自分の娘になるはずだった息子の婚約者に胸を痛めた。同時に、彼の目には背筋がゾッとするような怒りが宿っていた。
ペインの告発により、リリティアの身柄は陛下が保護することになった。
リリティアは毒による高熱が続き、一週間が過ぎた頃ようやく息を吹き返すように目覚めた。
最初は虚ろな目で天井を見上げていた彼女は、自身が生きていたことに激しく落胆して見えた。
これが夢であったなら醒めてほしい、と。
生きていたことに絶望するリリティアに、ペインがしてやれたのは彼女に残された時間を告げてやることだった。
普通であれば残酷な宣告だろう。
しかし、救った命を今にも投げ出しそうなリリティアを現実に繋ぎ止める唯一の希望が、それだったのだ。
自分の命が限りあるものだと知り、歓喜で肩を震わせる彼女に胸が締め付けられるようだった。
ペインはリリティアの着替えをユアナに頼み、一旦廊下に出て深い息をついた。
果たして何が正解だったのか。
どんなに経験を積んでも、死に往く患者にどんな言葉を掛ければ良いのか今も悩む。しばらく自問自答に陥っていると、部屋からリリティアの泣き声が聞こえてきた。
一体ユアナとどんな会話をしたのか。
けれど、謝りながら声を上げて泣き出すリリティアは、もう自ら死を選ぶことはないだろうと思った。
事件から十数日が経ち、熱も下がって動いて歩けるようになったリリティアは陛下と謁見した。
そこでどんなやり取りがされたのか、もちろん知る由もない。
だが、すぐに陛下に呼ばれたペインは皇太子の婚約者を救ったことで子爵の爵位が与えられ、また小さな領地まで譲り受けることになった。
同時に、新たな役目を仰せつかった。
それはペインが日々望んでいたことだった。リリティアが陛下に進言してくれたことは明らかだ。ペインは陛下と彼女に深く感謝し、二つ返事で拝命を受けた。
それから数日、周囲は慌ただしかった。
リリティアの実家であるケイシュトン公爵家に皇室から調査団が派遣され、様々なことが明るみになると多くの者たちが逮捕された。
他にも、リリティアを陥れようとした子爵令嬢の処刑、それから国内に向けて正式に発表された皇太子の婚約解消……。
しかし、それらがリリティアの耳に入ることはなかった。
彼女はペインとユアナが乗る馬車に同乗していた。
「新しい領地、楽しみですね! 国境に近いと言っていましたが、どんな所なのでしょう」
数人の護衛だけをつけて皇宮からひっそりと出発した馬車は、目的地に向かって進んでいた。
辿り着くまで一週間ほどかかる場所だが、馬車の中では楽しそうな声が広がっていた。
そして愛らしい笑顔も。
ペインの前に、死を望む少女はどこにもいなかった。