08
★★
皇帝陛下の誕生日を祝うパーティーで、リリティアが倒れた。
原因はシャンパンに混入された毒だった。
……一体誰がそんなことを!?
皇太子の婚約者に毒を盛るなど、犯人はよほどリリティアに恨みがある者か、それとも公爵家を陥れようと暗躍する輩の仕業か。どちらにしろ、捕まったら死刑は免れないというのに。
ミランダはリリティアの危篤状態を告げられ、医者に泣きすがった。
「先生、お願いです! どうか、どうか……っ! 私の大切な、大切な娘なのです! 私の愛する娘を、リリティアをお助けください……っ」
リリティアの治療は長く続き、その場には公爵とルシアンが残ることになった。ミランダは先に屋敷へ戻るように言われ、嫌々帰宅した。
翌日、リリティアは峠を越えて無事に生き延びた事を知らされた。安堵したミランダは、倒れ込むようにしてソファーに座った。
まさかリリティアの命を奪う者がいたなんて、予想もしていなかった。
「だから言ったのよ。あの子に皇太子との婚約は荷が重すぎたわ。身の程を弁えればこんなことにはならなかったのに……っ」
社交の場で流れてくるリリティアの噂は、嫌というほど耳にしてきた。高貴な家柄の娘でなければ皇太子との婚約もなかっただけに、妬まれていてもおかしくない。
ミランダは一人ぶつぶつと呟き、その横では双子が遊んでいた。しかし、ミランダの関心が実子に向けられたことは一度もない。双子が何をしていようが、ミランダの視線の先には常にリリティアがいた。
それだけに、リリティアが早く帰ってくることを願っていたが、皇宮で治療を受けている彼女は公爵家に戻ってこず、それどころか見舞いすら許可されなかった。
毒を飲んだリリティアは陛下の保護下に置かれることになり、公爵は毎日皇宮に訪れては娘への面会を求めたが、一日中待っても呼ばれることはなかった。
そんな日がしばらく続き、公爵はようやく陛下に呼ばれたようだ。
屋敷に戻ってきた公爵は真っ青な顔でミランダの元にやって来た。
「……陛下から、リリティアの体に無数の鞭の痕があったと報告を受けた」
「旦那様、それは……っ」
「お前はリリティアの教育で、鞭を振るったのか? あの子の体に傷を……!」
声を荒げる公爵の目は怒りで血走り、ミランダはガクガクと震えた。必死で弁解の言葉を探したが、予想していなかった事態に頭が真っ白になる。
──どうして?
リリティアは毒を飲まされただけなのに。
それなのに、どうして自分が責められているの?
「陛下より言いつかった。リリティアは皇太子の婚約者だ。次期皇太子妃になる娘に対し、必要以上の躾が行われていなかったか……虐待のような行いがされていなかったか、後日皇宮より調査が入る。それまでお前は部屋から一歩も出るな──分かったな」
冷たい声に全身が凍りつく。
ミランダは頷くこともできず、公爵が出ていった後も動けずにいた。こんな事態になるなんて考えもしていなかった。
このまま幸せになれると思っていたのに……。
後日、陛下の命によって公爵家に調査団が入り、解雇された使用人にまで調査の手が伸びた。それによってミランダの非道な行いが明らかになり、否応なく逮捕された。
国内でも次期皇太子妃が毒を盛られるという出来事は大きなスキャンダルとなり、処罰は早々に行われた。
事件を企て、毒を準備した子爵令嬢は絞首刑になったという。一方、毒を運ぶよう命じられたメイドは身分を剥奪されて奴隷となった。
次に、ミランダの貴族裁判がすぐに執り行われ、リリティアへの過剰な躾が罪に問われ、最も過酷な修道院へと送られることになった。
判決が下り、ミランダは鉄格子の付いた護送用の馬車に乗せられた。
これから向かう修道院は規律が厳しく、逃げ出すことのできない場所だと聞いている。
どうして、私が……。
孤児院から伯爵家に引き取られ、屋敷から夫人と弟を追い出し、公爵と結婚して公爵夫人になれたというのに。
全てが上手くいっていた。
リリティアにだって惜しみ無い愛情を捧げていた。自分の手や心を痛めながら育てていたのに。
──自ら毒を飲んで死のうとするなんて。
まだ、躾が足りなかったようだ。
ミランダは己の不甲斐なさと悔しさに下唇を噛んだ。自分はこれから修道院に入れられて二度と出られない。
そうなれば当然、回復したリリティアは屋敷に帰ってきてミランダのいない生活に戻るのだ。
……赦せない。あの子が私のいないところで幸せになるなんて。
ミランダは親指の爪先を噛んだ。
それでも馬車はどんどん進んでいき、胸に渦巻いた感情は膨れ上がるばかりだった。
護送用の馬車は短い休憩を挟みつつ、馬を替えながら夜通し走っていた。
乗っているのは公爵夫人であっても犯罪に手を染めた罪人だ。万が一逃げられるようなことがあれば大変だ。
どこまで来ただろうか。
鉄格子のついた窓から見上げた空は薄暗かった。
その時、馬がいななき馬車が止まった。
大きく揺れた衝撃で頭を打ち、座席から転がり落ちて床に倒れ込む。ミランダは痛めた頭を押さえながら上体を起こした。
「一体、なにが……」
馬車の中はミランダただ一人だ。外には馬車を走らせる御者と、見張り役兼護衛の騎士が二人ついてきた筈だ。
彼らに何かあったのだろうか。
窓の外を確かめようとした時、馬車の周りが騒がしくなった。
すると、突然馬車の外壁に障害物のぶつかる音がして振動した。
ミランダは思わず頭を抱えて悲鳴を上げた。その後も怒鳴り声と、剣の擦れる音がして体が震えた。
ミランダはなるべく小さくなって騒ぎが収まるのを待った。長く感じられた出来事は、実際には十分とかからずに終わっていた。
そのまま動けずにいると馬車のドアが開き、外の明かりが差し込んだ。
恐怖から息を飲んだが、聞こえてきた声に目を丸くした。
「……ミランダ?」
それは聞き覚えのある優しい声だった。
顔を上げると、ミランダの夫である公爵がドアから顔を覗かせてきた。
「だ、旦那様!」
「ああ、良かった。無事だったね」
公爵は蹲る妻を見つけて安堵した。
逮捕されてから裁判で顔を見たきり、ろくに話すこともできなかった夫がなぜここにいるのだろうか。
と、公爵はミランダに手を差し出した。
「君を迎えに来たんだ。さぁ、おいで」
「ああ、旦那様……! お逢いしたかったです!」
「──私もだよ、ミランダ」
ミランダは公爵の手を取り、馬車から降りた。周囲は人気のない林道で、複数の松明が揺れていた。
救い出されたミランダは、地面に人が倒れているのを見た。
きっと御者と騎士だろう。
公爵の後ろには複数の私兵が控えていた。
「ご主人様、あちらの馬車に」
公爵の後ろから声がして、ミランダは視線を向けた。
現れたのは異常に痩せ細った男だった。
皮と骨だけの肉体に、目はギョロリと突き出て、ミランダは咄嗟に顔を逸らした。公爵家では見かけたことのない使用人だ。
「……驚かせてしまい申し訳ございません、奥様。公爵様と馬車のほうにお願い致します」
見た目は恐ろしかったが、男の口調は丁寧だった。
ミランダは公爵の手に引かれ、用意された馬車に乗り込む。馬車のドアが閉まる前、公爵は私兵に命じた。
「馬車と転がった死体の処理は任せたぞ」
「畏まりました、公爵様」
静かにドアが閉まり、二人を乗せた馬車は走り出した。
ミランダは公爵の手を握り締め、目を潤ませながら感謝の言葉を口にした。
それから行き先を訊ねようとしたが、吸い込まれるような睡魔に襲われ記憶はそこで途絶えた。
★★
──体が重い。
頭がうまく働かず、目を覚ましても自分の身に何が起こったのか思い出すことができなかった。
ここは、どこ……?
ミランダは体を起こして辺りを見渡した。
公爵家の豪華な寝室とは違い、古びた内装に装飾のないテーブルや椅子が置かれ、眠っていたベッドも質素なものだった。
ふと自分の姿を見下ろすと着ていたドレスは脱がされ、肌着姿になっている。
ミランダは寒さを感じてぶるっと震えた。
そこに部屋の扉が開いてメイドが入ってきた。
「目が覚めましたか、奥様」
ベッドの上で起き上がっているミランダを確認すると、メイドは無表情のまま近づいてきた。
なんて愛想のないメイドなんだろう。
公爵家の使用人とは思えない態度に、ミランダは目を細めた。
「ねぇ、貴女。その態度を改めたほうがいいわよ」
公爵夫人である自分に仕えたいのなら。
ミランダは呆れた様子で嘆息し、ベッドの端に腰掛けた。そうすればメイドが顔を洗うお湯を運んできて、身支度を整えてくれる。
ところが、いつまで待ってもメイドは動かなかった。
「何しているの? さっさと準備を……」
「奥様は私を覚えていらっしゃらないのですね」
見下ろしてきたメイドの目は感情が抜け落ちているようだった。
どういうことか聞き返そうとしたが、「旦那様を呼んで参ります」と頭を下げて出ていった。
「なんなの……?」
ミランダはメイドの顔を思い出そうとしたが、記憶の中にそれらしい人物はいなかった。公爵家で働いている使用人は多く、全員を把握するのは難しい。
特に、ミランダが公爵夫人になってからは、使用人の出入りが激しかった。
「使用人の顔や名前など、いちいち覚えているわけないじゃない」
知らなくて当然だと嘆息したミランダは、公爵が来るまでベッドの上で待った。
修道院には行かなくて済むだろうか。ただ、公爵夫人としてもう一度華やかな舞台に戻るには時間が必要だ。まずは地に落ちた信用を取り戻さなければいけない。
どこから始めるべきか悩んでいると、部屋の扉が開いて公爵が入ってきた。
「起きたんだね、ミランダ。随分疲れていたようだ」
「ご心配をお掛けしました、旦那様」
やって来た公爵はミランダの傍に近づいてベッドに腰掛けた。
助けに来てくれた時は薄暗くて気づかなかったが、彼は随分やつれたように見える。頬がこけて一気に老けたようだ。
「君を助けるのにかなり無茶をしてしまった」
「ああ、旦那様。迎えに来てくださってとても嬉しかったですわ!」
しかし、見た目はどうであれ愛する夫に変わりはない。
ミランダは公爵の手を取って引き寄せた。リリティアのことで夫婦間に亀裂が入ってしまったと思っていたが、これならうまくいきそうだ。
「私の愚かな行いを、寛大なお心で許してくださり感謝致します。それで、いつまでこちらに滞在するのですか?」
この家はきっとミランダが目覚めるまで滞在する屋敷なのだろう。救い出されたミランダは、公爵と共に身を隠さなければいけない存在だ。罪人を乗せた馬車が襲撃されたことで、皇室から調査団が派遣されるだろう。
だが、室内を見る限り貴族が暮らすには適していない。暫くしたら公爵家の領地か、所有している別荘に移動したほうが良いだろう。
しかし、公爵は切なそうに微笑んで首を振った。
「君が乗っていた馬車は事故に遭い、君は死んだことになっている。皇室の調査が終わるまでは大人しくしている他ない」
「ええ、そうでしょうとも……。死んだことにされたのは残念ですが、またいずれ社交界に戻れますわ」
そうでなければ困る。
今は静かに暮らすとしても、ようやく手に入れた栄光を手放すことはできない。ミランダは目に涙を浮かべ、公爵の手をさらに握り締めた。
「いや、それは難しい。公爵家をルシアンに譲ってきたのだ。私は隠居した身で、君と私はしばらくここにいなければいけない」
「爵位をルシアンに? ……そうですか」
ミランダは己が公爵夫人でなくなったことを知って唇を噛んだ。それでも公爵が全てを譲ってまで自分の元に駆けつけてくれたのは嬉しかった。
身分どころか死んだことになっているミランダにとって、残されたのは目の前にいる夫だけだ。
「分かりましたわ、旦那様」
「理解してくれてありがとう、ミランダ」
素直に受け入れると、公爵は嬉しそうに微笑んだ。
しかし、ミランダの胸の内は違っていた。
──まさか、ずっとここで暮らすわけでもないだろうし、しばらく経ったら戻ればいいのよ。死んだことになっているなら何をやっても罪には問われないし、別人に成りすましてパーティーに参加するのも楽しそうだわ。
──それに、またあの子を躾けることができる。
ミランダは満足そうに口元を歪めた。
一方、公爵はミランダの手を握り返し、話を続けた。
「そうだ。君がここで快適に暮らせるよう使用人たちを紹介してやらないとな」
「それでは着替えてから」
「ああ、気にすることはない。君はそのままでいいよ」
公爵はベッドから下りようとしたミランダを制し、控えていたメイドに他の使用人を呼んでくるように命じた。
公爵家に嫁いだ時も、公爵が使用人全員をミランダに紹介してくれたが、その時は新たな公爵夫人として身支度はしっかり整えていた。
けれど、今回はとても人前に出られるような格好ではない。
焦るミランダに、けれど公爵は落ち着いていた。
呼ばれた使用人は廊下で待機していたのか、開いた扉から次々に入ってくる。ミランダはシーツを引き寄せて肌着一枚の体を隠した。
「ここに集まってくれたのは君に会いたがっていた者たちだ。さぁ、我が妻に挨拶をしなさい」
一列に並んだ使用人たちに、公爵が愉快そうに声を掛ける。すると、使用人は端から順番に自己紹介を始めた。
「私は公爵家の厨房で、長年料理人をしておりました。ある日、お嬢様が罰を受けて食事を取っていない事を知り、こっそり料理を届けさせました。それが奥様の耳に入り、私は退職金や紹介状もなく解雇されました」
「俺は長いこと庭師をしていました。リリティアお嬢様は花が好きで、落ち込んだ時はいつも俺の育てた花を見ては笑顔になってくれます……。ですが、奥様はそんな花を全て処分するように仰られ、俺は公爵家から追い出されました」
──それは自己紹介などではなかった。
彼らは公爵家で起きた出来事を、公爵とミランダの前で話し始めたのだ。
「ちょっと、いきなり何を言い出すの!? そんな作り話を吐いて、使用人のくせに無礼だわっ」
予期せぬ告発に、ミランダは真っ赤な顔で怒鳴った。
目の前に集まった使用人たちに見覚えはない。だからこそ、彼らの話が真実かどうか、ミランダが理解できないのも無理はない。
直ちに止めるよう命じたが、使用人たちはそれを無視して勝手に進め、次にあの無愛想なメイドの番になった。
「私は公爵家でメイドをしておりました。ある日、リリティアお嬢様が欲しがっていたというルビーの宝石がついたネックレスを、お嬢様に内緒で渡してくるよう奥様に頼まれました」
「────」
「素敵な贈り物に、お嬢様もきっと喜んでくれるだろうと思いました。そして、奥様にはお礼として特別休暇をいただきました。ところが、次に屋敷へ行ってみると贈り物のネックレスは盗品扱いになっており、私は何も聞き入れてもらえず突然解雇になりました……」
メイドが無表情のまま、他人事のように淡々と話していく。
しかし、スカートを握り締める彼女の手は微かに震えていた。
「公爵家で盗人の汚名を着せられ、決まっていた婚約も破談となりました……。他の屋敷でも雇ってもらえず、賃金の安い宿で寝ずに働くしか……っ」
メイドは言葉に詰まって最後まで言い切ることができなかった。
それでもミランダは彼女を思い出すことはなかった。ミランダにとっては、その程度だったのだ。
他の使用人も境遇は似たもので、全員がミランダの命令で不当に解雇された者たちだった。
だか、どんなに目の前で訴えられても申し訳ない気持ちは微塵も湧いてこなかった。それどころか、主人に歯向かう彼らに苛立ちだけが募っていった。
どうして解雇された使用人ばかり集められたのか。
ミランダは傍にいる公爵を見た。彼は時折、頷きながら彼らの話に耳を傾けている。
「旦那様、なぜですの……?」
「彼らは君に不当な扱いをされたのに、また君の元で働かせてほしいというんだ。これは感謝しないとな」
「で、でも、彼らは……っ」
私に恨みを持っている──。
そんな彼らが問題なく仕えてくれるとは到底思えない。不安になるミランダに、公爵は「心配ない」と言って背中を擦ってくれた。
「それから君に、一番会わせたかった人がいるんだ」
刹那、公爵の声が冷たく感じられて背筋がぞわりとした。反射的に離れようとしたが、背中にあった手がミランダを逃がさなかった。
徐々に恐怖が増していく中、一人の男がベッドに近づいてきた。
あの恐ろしく痩せ細った男だ。
「再びお会いできて光栄です、奥様………いえ、ミラ姉さん……」
「───っ!」
男はこけた顔でにたりと笑った。
見てはいけないものを見た気がしておぞましかった。服の上からでも男の異常な細さが分かる。
それがミランダを「姉」と呼んだ。
孤児だった頃に使っていた名前と共に。
「……なっ、何を言っているの!? 私には弟なんかいないわ!」
一緒に引き取られた伯爵家で不貞を働いた弟は屋敷から追い出された。
その時から伯爵家の子供はミランダだけになった。
路頭に迷っていた弟は何度も屋敷を訪れては助けを求めてきたが、ミランダは無視し続けた。
養母に虐待されている時、弟は助けてくれなかった。ずっと見てみぬ振りをして、味方にもなってくれず、慰めてもくれなかったのだ。
「そんな悲しいことを言わないでくれ、姉さん。あんたに追い出された後、地獄のような生活をしてきたんだ」
「やめて、貴方なんか知らないわ!」
「孤児院にも戻れず道端で生活しながら泥水を飲み、命を繋いできた。姉さんに何度も会いに行ったけど、取り合ってもらえなかった。でも餓死する寸前、そちらにいる公爵様に救われたんだ」
男はミランダの傍にきて、骨と皮だけの手を伸ばしてきた。
まるで死人の手だ。
ミランダは短い悲鳴を上げて公爵にすがりついた。こんな男が血をわけた双子の弟なわけがない。何かの間違いだ。
「だ、旦那様! 私はこんな男など知りません! どうか早く追い出してください!」
「なにを言っている。君の双子の弟じゃないか」
「違います、違います! どうしてこんな仕打ちをっ! 私を許してくださったんじゃないんですか!?」
恨みを抱いた者たちを集め、目の前に連れてくるなど嫌がらせではないか。
ミランダは愛する夫に泣きついた。そうすれば、彼は決まってミランダの望み通りにしてくれる。
今までそうだった。
けれど、公爵は不思議そうな表情を浮かべ、妻の顔を両手で包み込んだ。
「──許す? 私が、君の何を許せると言うんだ?」
「え……?」
公爵の声がまた一段と低くなった。
持ち上げられた視界に公爵の顔が映る。先程まで笑みを浮かべていた顔はどこにもない。
「教えてくれ、ミランダ……。私は君の何を許せると言うんだ? リリティアは……あの子は、もう私の元に戻ってこないというのに」
「リリティアが……?」
公爵家に戻ってこない?
苦しそうに言葉を絞り出した公爵は、嘘を言っているように見えなかった。ミランダがリリティアの名を口にすると、頬に触れる彼の指に力が入った。
「自分の産んだ子供はろくに教育せず、私の娘には躾の一環だと言って散々痛めつけて。──楽しかったか?」
「……だ、旦那様っ」
「お前が鞭を振るっている間、あの子はどんな顔をしていた? 喜んでいたか? 悲しんでいたか? それとも怯えていたか……?」
ミランダの顔に公爵の指が食い込む。強く掴まれてミランダは痛いと訴えた。しかし、興奮した公爵に見下ろされ、恐怖で体が硬直した。
動けなくなっているミランダに、公爵は続けて口を開いた。
「リリティアは、一度でもお前に感謝したことはあるのか?」
それが全てを物語っていた。
ミランダは言葉にならない声を漏らし、公爵の激しい怒りを受けて目から涙が溢れた。唇が震えて歯が鳴る。腹部に強い尿意を催した。
ミランダの脳裏には、躾を受けるリリティアの顔が浮かんできた。
鞭に打たれながらあの子はどんな表情だった?
何を言っていた?
泣きながら必死に許しを乞う姿は、昔の自分そのものだ。
その時になって初めてミランダは、養母と同じ道を辿っていることに気づいた。
「あ、あ……っ」
「怯える必要はない、ミランダ。幸い君は死んだことになっている。ここで君に何が起きようとも、誰も私を裁くことはできない。君には私の娘にしてきたことをするつもりだ」
「………っ」
「そうだな。まずは舌を切って話せないようにしよう。リリティアは君に反抗するどころか、言い返すこともできなかったはずだ。それから足もいらないな。リリティアは逃げ出すこともできなかったのだから」
「あ、あ……っ、旦那、様……お許し、ください……っ、私は……!」
「周りにいる使用人に助けを求めたところで、彼らはお前を助けない。リリティアが、あの子が誰からも信じてもらえなかったように」
環境は全て整っている。
控えた使用人は顔色を変えることなくミランダを見据えていた。そこに憐れむ様子はない。
「娘は君の虐待に十年耐えてきた。だから君も十年、耐えてくれるな?」
「───っ」
もし、十年耐えたら解放してくれるの……?
ミランダは喉まで出掛かった言葉を呑み込んだ。正確には、公爵の残虐な言葉に何も言えなくなっていたのだ。
やれ、と命じる声も鳥肌が立つほど恐ろしかった。
抵抗するミランダの体を複数の使用人が押さえ付けてくる。
公爵が命じた通り、まず両方の足首が切り落とされた。その後は舌を抜かれ、歩くことも喋ることもできなくなった。
出来上がったのは一体の完璧な人形だ。
最後の叫び声が響き渡った後、その屋敷では十年間絶えることなく人間とは思えない呻き声が聞こえてきたという……。