06
★★
──その伯爵家に、子供はいなかった。
跡継ぎがいなければ伯爵家は途絶えてしまう。そこで伯爵は、孤児院から双子の姉弟を迎え入れた。
彼らは五歳の時に両親に捨てられ、孤児院に引き取られたという。
姉は「ミラ」と呼ばれていたが、伯爵家の養女となったことで貴族らしい名前が与えられた。
ミランダ、その人だ。
伯爵令嬢となったミランダの生活はがらりと変わった。
とくに伯爵夫人は教育に厳しく、貴族令嬢として恥ずかしくない教養を身に付けるため、ミランダは休む時間すら与えられなかった。
……それだけではない。
少しでも間違えれば、夫人の扇がミランダの頬や手に振り下ろされた。衝撃が強すぎて痛みより驚きのほうが大きかった。けれど、何度も叩かれれば痛みのほうが強くなり、日に日に恐怖が増していった。
しかし、夫人は震えるミランダを見下ろして、必ず決まってこう言った。
「これは貴女のためなのよ?」
夫人は事あるごとに「立派な淑女となるために必要な教育」と、繰り返し口にした。
双子の弟は放置され、好きな時間に遊んで、好きな時間におやつを食べて、好きな時間に眠れているというのに。
だが、行き過ぎた教育は伯爵の目に止まり、苦言を呈する時もあったが、そのたびに夫人は金切り声を上げて彼を罵った。
そうなると伯爵は夫人を宥めるだけで、解決には至らなかった。結局、その後も夫人の教育は続いた。
恐怖に怯えながら教養を身に付けていくと、叩かれることも少なくなってきた。けれど、出来が悪いから罰を受けていたと思っていたが、それはミランダの思い違いだった。
伯爵が屋敷に寄り付かなくなると、夫人は益々ミランダにきつく当たるようになった。
ミランダは夫人を避けて過ごすようになったが、ある日ベッドの枕元から見覚えのない宝石が出てきた。
すると、偶然やって来た侍女がミランダの手にする宝石を見て騒ぎ出した。
それは夫人の宝石で、昨夜から無くなっていたと言った。
「ちが、私じゃ……っ、盗んでなんかいないわ……!」
「やはり下賤の子ね、他人の物を盗むなんて。もっときつく躾ないといけないわ」
ミランダの部屋にやって来た夫人は、恐ろしく冷たい目をしてミランダを見下ろしてきた。
どんなに違うと訴えても、ミランダの言葉は夫人に届かなかった。弟や使用人たちは夫人が恐ろしくて見てみぬ振りだ。
ミランダは激しい折檻を受け、盗人の汚名を着せられた。それからも夫人の暴力は続き、傷が治らない内に新しい傷ができた。
扇や鞭を振るう夫人は狂気に満ちていた。
「どうして、私には子供ができないのに! こんな卑しい子供なんか……っ!」
その時、ミランダは分かった。
これまで叱られていたのは自分のせいではなかった。夫人は初めからミランダを憎んでいたのだ。
自分に子供ができないから。
子供ができないのに、貴族でもない子供を押し付けられたから。
伯爵が他の女性に入れ込んで帰って来ないから。
……悪いのは、私じゃない。
夫人の置かれた立場に納得し、理解したミランダはその日から泣くのを止めた。相変わらず体中に痛みはあるものの、心は痛まなくなっていった。
ミランダは目に見えない仮面を被り、偽ることで、救いのない暗闇の中でも平常を保つことができた。
しかし、その瞳に復讐の炎が灯されていることに、気づいた者は誰もいなかった。
燭台の蝋燭がゆらり、ゆらり、と揺れている。
夜も深まった頃、薄暗い室内では荒い息遣いと、歓喜に満ちた声が上がっていた。僅かな明かりに照らされて壁に写った人影は、二人の男女が踊っているように見えた。
ミランダは覗き見た部屋の扉をそっと閉じ、口角を吊り上げて笑った。
自室に戻ったミランダは一通の手紙をしたためて、翌日とある場所へ送った。教育のおかげで文字を書けるようになった。知識も増えた。
社交界デビューまであと半年。
夫人は変わらず躾と称して扇や鞭を振るってきたが、その回数は以前よりずっと減っていた。
理由は単純。
夫人はミランダの他に、自分を癒してくれる拠り所を見つけたからだ。
それは夫である伯爵ではない。彼はほぼ愛人の家に入り浸って帰って来ない。その寂しさを埋めてくれる相手は夫人の傍にいた。ミランダとは顔も性格も似ていない双子の弟だ。
いつからだったか、夫人は弟に対して妙に優しくなった。放置していた弟に対し、彼が欲しがった物は何でも買い与え、溺愛し始めたのだ。
一方、ミランダはドレスすらろくに買ってもらえなかった。
それどころか何でも弟と比べられ、優れてもいない弟のほうがいつも褒められていた。弟はどんなにミスしても、鞭が飛んでくることはない。夫人の顔色を伺いながら過ごしている自分とはまるで違っていた。
夫人が弟に依存するようになってから、ミランダは弟と喋ることも、顔を合わせることもなくなった。
けれど、その悪夢のような日常も……もう終わる。
夜の訪れと共に屋敷の明かりが落ちて、ミランダは息を潜めてじっと待っていた。すると、屋敷の奥から誰かの怒鳴り声が聞こえてきた。
ミランダは部屋を飛び出して声がした方へ向かった。
突き当たりを曲がって明かりの漏れた部屋に近づくと、屋敷の主である伯爵がいた。
「お前は何を考えているんだ! 血の繋がりはないとはいえ、息子と不貞を働くとは!」
伯爵が怒鳴った先には、夫人と弟が一糸纏わぬ姿で並んでいた。
ミランダは叱られる二人を見て口元を歪めた。
伯爵は目を血走らせ、夫人の髪を鷲掴みするとベッドから引き摺り下ろした。
「この恥知らずが! この屋敷から出ていけっ!」
いつも夫人に言いくるめられて終わっていた伯爵が、怒りに満ちた顔で夫人に言い放った。
夫人は真っ青な顔で伯爵の足元に泣きついたが、伯爵は許さなかった。
使用人に連れ出される夫人は「貴方が悪いんじゃない!」と最後まで抵抗したが、翌日には気持ち程度の荷物と一緒に追い出された。
実家に戻ったところで居場所があるかどうか。
仮に戻れたところで肩身の狭い思いをしながら暮らしていくことになるだろう。
弟もまた伯爵に許しを乞い、夫人に求められて拒めなかったと泣きじゃくったが、やはり翌日には追い出されていた。
帰る場所のない弟は、捨てられたら終わりだ。
──これで二人はいなくなった。
満足げに部屋へ戻ったミランダは、机に積み上がった教材を床に払い落とした。
「……あはっ、やったわ! やったのよ、私が……っ。ざまぁみやがれ! あははははははっ!」
ミランダは、伯爵宛に二人の不貞を知らせる手紙を送っていた。穢らわしい二人を屋敷から追い出してほしい、と願いを込めて。
ミランダの密告はしっかり届いたようだ。
これでもう夫人から叩かれることも、弟と比べられることもない。
ミランダは笑いが止まらなかった。
しかし、嬉しくて喜んでいるのに、両目から大粒の涙が溢れて頬を濡らした。
夫人と弟がいなくなると、伯爵は屋敷に戻ってきた。
孤児院から引き取られてきて以来、伯爵とは会話らしい会話をしたことがなかった。それでもミランダの手紙を読んで動いてくれたということは、彼もまた夫人の存在が邪魔だったのだ。
おかげで、妻が息子に不貞を働いていた事実は隠されたものの、子供ができなかったことを理由に伯爵は夫人と離縁できたようだ。
弟は、伯爵家から絶縁されればただの孤児だ。その辺で野垂れ死んだところで、伯爵家には関係ない。
取り巻く環境ががらりと変わってしまったが、意外だったのは伯爵だ。夫人がいなくなったことで、愛人を屋敷に迎え入れるかと思ったが、彼はそうはしなかった。
代わりに、ミランダを実の娘のように扱ってくれた。
感謝のつもりか、お詫びのつもりか。
夫人がいた時は買ってもらえなかったドレスや宝石など、今まで欲しかった物を欲しいだけ与えてくれた。
食事も一緒に取るようになり、少しずつ親子のような会話ができるようになった。厳しかった教育も見直され、もうミランダに手を上げる者はいなかった。
ようやく平穏が訪れたのだと、安心して過ごせるようになった。
だが、夫人の狂気に満ちた姿が脳裏に焼き付いて、たびたび悪夢に魘された。心に負った傷は思っていたより深かったのだ。
★★
時間だけが唯一の治療方法だった。
夫人たちが屋敷を出て行ってから半年が過ぎると、ミランダは社交界に足を踏み入れた。
孤児のままだったら決して味わうことのできない華やかで煌びやかな世界だった。社交界デビューを果たしたミランダは、ようやく貴族の一員になれた気がした。
辛かった記憶が美しい光景に上書きされ、そこに一人の伯爵令嬢が誕生した。
招待されたパーティーやお茶会に足を運び、積極的に貴族の集まりに参加すると、ミランダの元に求婚の申し入れがいくつか舞い込んだ。
伯爵はミランダの意思を尊重して、政略結婚を押し付けることはなかった。ミランダもまた夫人から解放されたばかりで、結婚する気になれなかった。
しかし、全ての貴族が集まる式典でミランダはとある男性と出会った。それは、パーティーの熱気にあてられて、外の空気を吸いに中庭の噴水へ足を運んだ時だ。
反対の方向から一人の男性が歩いてきた。
ミランダは彼のことを知っていた。
二人の幼子を残して亡くなった奥様の代わりに、自ら子供たちの面倒を見ている可哀想なケイシュトン公爵様──社交界では有名な話だ。
そして、誰もが彼の後妻になることを夢見ていた。
公爵は一回り年上だが、堂々とした姿と整った顔立ちは年齢に関係なく人目を惹いた。
「お邪魔してしまい、申し訳ございません」
公爵と鉢合わせになり、ミランダはドレスを持ち上げて腰を落とした。
「いや、私こそ邪魔してしまったね。人が集まる場所に参加するのは久しぶりで、熱に当てられたようだ」
「まぁ、それでは一緒ですね」
公爵の話を聞いて、ミランダは口元を綻ばせた。
それから二人はパーティーから逃げてきた者同士、他愛のない話をして過ごした。
婚約者でもない男性と二人きりになれば、あらぬ噂が立つ。それでもミランダは公爵に惹かれていった。
二人の密会はその後も続いた。
僅かな時間でも公爵と過ごせるだけで幸せだった。少しでも彼の気を引きたかった。
「私にも母がおりません。父はいますがここ最近は帰りが遅く、毎日寂しい思いをしています」
「……そうか」
多少真実をねじ曲げても、公爵が自分を見てくれるならどんな嘘でも吐いた。
悲しむ演技も忘れない。すると、今度は公爵が自身の話を聞かせてくれた。
愛していた妻を亡くしたこと。子育てが今のままで良いか不安になっていること。そうやって心の内を見せてくれた公爵に、ミランダは震えるほど歓喜した。
もっと近くで、彼を支えてあげたい。
その気持ちを打ち明けると公爵は随分と悩んでいたが、最後にはミランダを受け入れてくれた。
そして、ミランダはケイシュトン公爵と半月ほど婚約した後、結婚することになった。伯爵に報告すると、絞り出した声で「良くやった」と褒めてくれた。
ミランダはケイシュトン公爵家に招かれ、伯爵邸とは比べ物にならない大きな屋敷に訪れた。
そこで二人の子供と出会った。
一人は公爵に似た男の子。
そして、もう一人。
両親に捨てられた自分とは違い、母親が命をかけて生んだ娘。
公爵からの愛を一身に受け、天使のような笑顔を浮かべたリリティアがいた──。