05
★★
──バシッ。
革の鞭が容赦なく振り下ろされ、乾いた打撃音が響き渡る。
皇太子の婚約者を陥れようとした罪で、アイシャ・ムクチャードに下された判決は──死刑。そして、刑が執行されるまで毎日三十回の鞭打ちが容赦なく彼女に襲い掛かった。
貴族裁判が終わるまで綺麗だったドレスは跡形もなく、腰まであった髪は肩のところで無造作に切られている。
……どうして。
なんで、私がこんな目に遭わなければいけないの……?
悲鳴を上げ続けた喉は潰れ、今は声も出せなくなっていた。
それでも刑罰の時間はやって来て、一回、二回、三回……と数えながら鞭で打たれる。途中で気絶すれば頭上から冷たい水がかけられ、再び鞭が振るわれる。
一体、何がいけなかったの……?
人の計画を邪魔して勝手に毒を飲んだのは向こうじゃない。
私はただ、自分に相応しい場所を手に入れようとしただけなのに。
ムクチャード子爵の先々代は平民の商人だった。他国から様々な物を取り寄せ、帝国では珍しい商品を取り扱うことで名声と富を築いた。
持ち前の話術と手腕で人脈を広げ、彼は子爵まで成り上がった。
周囲からは、お金で爵位を手に入れたと陰口を叩く者もいたが、ムクチャード商会の品物を持っていない貴族はいなかった。
しかし、現子爵に先々代のような話術も手腕もなく、また時代の流れによって独自に取り扱っていた商品は他でも簡単に手に入るようになり、衰退の一途を辿っていた。
一方、十五歳で社交界デビューしたアイシャは、社交界の豪華できらびやかな世界に心を奪われていた。
見るもの全てが華やかで美しく、己もその一員になれた事を喜んだ。
だが、社交界にはルールがあり、爵位によって立ち位置が決まっていることを知った。どんなに魅力的な容姿を持っていても身分の差が邪魔してくる。
社交界デビューからしばらくして、アイシャの元には婚約の話がいくつも舞い込んできた。けれど、満足できる相手は一人もいなかった。
そんな中、皇宮のパーティーで皇太子のライハルトが声をかけてきた。隣にはケイシュトン公爵家のルシアンも一緒だった。
彼らはアイシャに群がってくる男性たちとは違い、話していて楽しかった。着ている服装から立ち振舞いまで全てが洗練されていた。
彼らもまた商人に鍛えられたアイシャの話術に魅了され、時間の限り会話を楽しんだ。すっかり話し込んでしまうと、ライハルトは慌てて婚約者の元に戻っていった。
ライハルトの婚約者は二歳年下で、ルシアンの妹だった。彼女の噂はアイシャの耳にも嫌というほど入ってきた。
氷の仮面を被った人形のようだ、と。
それでも公爵令嬢だけあって見た目は美しく教養もある。無いのは味方になってくれる人物の存在と、社交界での人気だった。
あれで皇太子妃が務まるの?
にこりともしない彼女より、私の方が相応しいんじゃないかしら。
アイシャはライハルトと並んで歩くリリティアを見つめ、その思いは次第に膨れていった。
さらに、パーティーに参加すればライハルトとルシアンが必ず話しかけてくるようになった。彼らにとっては、気兼ねしない話し相手に過ぎなかったのかもしれない。それでも男女が仲良くしていれば、自然と噂が立つものだ。
もちろん、ライハルトの愛人など冗談ではない。
アイシャが求めていたのは、皇太子妃の椅子だった。相手は公爵令嬢というだけで皇太子の婚約者になった女だ。同じ舞台に立てれば、どちらが次期皇太子妃に相応しいかきっと分かってくれる。
アイシャは社交界に顔を出しては人脈を広げ、その一方ではリリティアの噂を注意深く探った。
すると、リリティアは公爵家では継母の物を盗む手癖の悪い女だということが分かった。ルシアンが妹を嫌っている理由にも納得がいく。彼女の信用度は皆無に等しいということだ。
──このまま、リリティアを皇太子の婚約者にはしてはおけない。
覚悟を決めたアイシャは、商会で扱っていた毒を持ち出した。まだ解毒薬の存在しないその毒は、治療薬を作るために病院から依頼されていたものだ。つまり、解毒薬は存在しない。でも、毒の効果は知っている。摂取量さえ間違わなければ死に至ることはない。
強引な計画だったが、毒を口にするのは自分だ。ほんの少し口をつけて、倒れるだけだ。
毒を飲んだ後は手駒にしたメイドが「ケイシュトン公爵令嬢に頼まれた」と騒げば、誰からも見放されている彼女は、もう皇太子の婚約者ではいられなくなるだろう。
計画は上手くいくと思っていた。
ところが、メイドが運んできた毒入りのグラスを飲んで倒れたのは、リリティアだった。
アイシャは呆然と立ち尽くし、メイドもまた信じられない様子で震え上がっていた。
なぜ、失敗したの?
事件が起きた翌日から、アイシャの人生は一変した。
メイドが洗いざらい喋ったようだ。
アイシャは兵士に連行され、皇宮にある地下牢屋に入れられた。取り調べとは名ばかりで、その日から地獄のような日々が始まった。
なぜなの?
私は悪くないのに。
偶然廊下で出会ったリリティアは、今までと変わりなく見えた。
反対に、ライハルトは冷たい目でアイシャを見下ろし、以前のように話しかけてはくれなかった。
……なんで。
私の方が皇太子妃に相応しいのに。
どうして分かってくれないの?
鞭で痛めつけられた体はボロボロになり、生きる気力を失いつつあった。だが、次の日も兵士がやって来て、悪夢のような日がまた始まるのかと思った。
けれど、いつもと違って鞭は振るわれず、両手を縛られてから布で目隠しをされた。
そのまま牢屋から出された時は、ようやく解放されるんだと思った。
しかし、喜んだのも束の間、辿り着いた場所は酷い悪臭が漂っていた。本能が、そこへ行くのは危険だと警告してきた。
アイシャは半ば引き摺られるようにして先に進まされた。目隠しをされているから分からないが、人の気配がいくつもあった。
……ここはどこなの?
微かに父親と母親の声が聞こえた気がした。
なんで泣いているの?
なんで早く助けてくれないの?
一段ずつ階段を上らされて立ち止まる。その時、首にざらついた物が掛けられて鳥肌が立った。
いや、いやよっ!
死にたくない、死にたくない、死にたくない……っ!
恐怖で口元がガチガチと震え、生暖かいものが太股を濡らす。
永遠と思える時間に、これまでの人生が走馬灯のように流れた。
もう他人のモノは欲しがらないわ。
だから……。
刹那、ガタンと音がして床が抜ける。
一瞬の浮遊感の後、アイシャの両足が二度と地に着くことはなかった……。