03
★★
「……どういうことですか?」
皇帝陛下の誕生日を祝うパーティーで、妹のリリティアが毒を飲んだ。
友人であるライハルトと共にアイシャを探しに向かったところで見つけた。アイシャはリリティアと一緒だった。
ルシアンはリリティアがまたアイシャに何か言ったのではないかと思い、二人の元へ急いだ。だが、メイドが運んできたシャンパンを口にしたところで、リリティアの体が崩れ落ちた。
グラスの割れる音と女性の甲高い悲鳴が響き渡り、ホールは騒然とした。
なぜ、リリティアが倒れたのか。
呆然とするルシアンの前に陛下が現れ、的確な指示を出して迅速に対応してくれた。
その間もリリティアは真っ青な顔をしてピクリともしない。本来なら兄として駆け寄るべきなのに、ルシアンの足は動かなかった。
リリティアは母親の命と引き換えに生まれてきた。
まだ二歳だったルシアンは、母親の記憶があまりない。おかげで、母親がいなくて寂しいと感じたことはなかった。
代わりに、最愛の父と妹の三人で過ごす時間は尊いものだった。
とくに妹はルシアンによく懐き、後ろをついて回ってきた。
リリティアが笑うと心が華やいだ。穏やかな気持ちになって、つられて笑顔になってしまうのだ。
リリティアの笑顔にはいつも癒された。
そんな時、父親が再婚した。
幼い子供には母親が必要だろう、と気遣ってのことだった。
やって来たのはルシアンと十歳程しか年の離れていない伯爵令嬢だ。ミランダと名乗った再婚相手は、素朴で地味な女性だった。
リリティアはすぐに懐いたが、ルシアンは好きになれなかった。
母親という存在に慣れていないせいもある。それから、ミランダが時折見せる笑顔が苦手だった。彼女の見せる笑顔は、目が笑っていないように見えたからだ。
ルシアンはミランダと距離を置いた。
一方、リリティアはミランダの傍から離れなかった。兄妹は自然と顔を合わせる回数が減っていった。
ミランダが来る前はずっと一緒だったのに。
複雑な気持ちが芽生えつつあった頃、事件は起きた。
リリティアがミランダの宝石を盗んで、自分のベッドに隠していたというのだ。
最初は信じられなかった。
妹が他人の物を盗むなんて絶対にないと思っていた。しかし、リリティアを真っ先に庇ったのは他でもないミランダだった。
「ええ、リリティアは盗んだわけじゃないわ。お母様が恋しくて悪戯してしまっただけよね」
ミランダは優しい声で泣き出すリリティアを宥めた。
リリティアは違うと首を振ったが、ミランダ本人が許してしまった事でただの悪戯として片付けられた。
ルシアンはミランダに頭を撫でられるリリティアを見て、拳を握り締めた。
そんなに母親が恋しかったのか。
二人で遊んでいる時も。
ルシアンは血の繋がった三人がいれば満足だった。母親がいなくてもリリティアの笑顔があれば、自分も笑っていられると思った。
なのに、妹は違った。
新しく母親となったミランダの気を引くために物を盗んでしまうほど寂しかったのだ。
ふとルシアンの心に影が差した。
その影はじわりと広がっていき、仲の良かった兄妹の関係を壊していった。
★★
ミランダが双子の姉弟を出産すると、ケイシュトン公爵家の女主人として振る舞うようになった。
リリティアの悪戯は日に日に増していき、そのたびにミランダが庇った。
ミランダはリリティアの教育に問題があると、それまで雇っていた教育係を解雇し、新しい教育係を雇い入れた。
父親は、妻のおかげで仕事に打ち込めるようになったと喜んでいた。
その頃から、リリティアは笑わなくなっていた。
話し掛ければいつも笑顔を見せていたのに、ミランダの顔色を窺っては俯くようになった。同時に、屋敷の中ではリリティアが悪戯好きの嘘つき令嬢という噂が広まっていった。
公爵家の雰囲気が悪くなる一方、ルシアンの無二の親友であり、皇太子であるライハルトの婚約者としてリリティアの名が挙がった。
ルシアンはこの時、父親に強く反対した。
母親が恋しくて人の物を盗むような妹に、皇太子妃など務まるはずがない。
しかし、すでに決まってしまった婚約を覆すことはできなかった。
父親は、娘のリリティアが皇太子妃の教育で変わってくれることを願っていた。
昔の、素直で誠実な、いつも笑顔を見せてくれたリリティアに──。
リリティアは皇太子妃の教育で皇宮に通うようになった。
ライハルトは当初、婚約者がリリティアに決まったことを喜んでいたように思う。元から面識があり、仲が良かったというのもあったのだろう。リリティアが皇宮を訪れると、ライハルトは積極的にリリティアの元を通っていたようだ。
すると、リリティアは本来の明るさを取り戻し、変わったように見えた。
──だが、ある日を境にリリティアの顔から表情が消えた。
感情の読み取れないリリティアは、正直何を考えているか分からなかった。
リリティアを大切にしていたライハルトも、まるで人形のようになってしまった婚約者に頭を悩ませていた。
社交界で群がってくる女性は、とても判りやすいというのに。
次第に、ライハルトはリリティアより同年代の女性と過ごすことが増えていった。
そこで一人の女性と出会った。
アイシャという子爵令嬢だ。
爵位は低いが、愛らしい姿に笑顔の絶えない女性で、話していて楽しかった。異性というより男友達に近かったかもしれない。尽きない話題に加え、話し上手な彼女は女性で初めて気心の知れた友人となった。
ただ、周囲ではアイシャとの関係を誤解する者も多かった。
噂好きの貴族が広めていたのだろう。
ライハルトとルシアンは訂正する気にもなれず、アイシャとの付き合いを止めることはなかった。
だが、その噂はリリティアの耳にも入っていたようだ。
ある日、ライハルトの元にアイシャが泣きながらやって来たという。
ルシアンは親友の口からリリティアの言動を教えられて、顔から火が出るほど恥ずかしかった。
妹は友人を傷つけるどころか、親友の不貞を疑い、また公爵家に泥まで塗ったのだ。
怒りに震えたルシアンは、屋敷に帰ってすぐにリリティアの部屋に向かった。リリティアは兄が突然訪ねてきても表情一つ変えなかった。
それがよけいルシアンを苛立たせた。
ルシアンはライハルトから話されたことを伝え、リリティアの頬を叩いた。それでもリリティアは無表情のまま謝ってきた。
否定も、肯定もしない。
許しを乞うこともせず、静かに頭を下げてきた。
心の籠っていない謝罪は、まるで自分は間違っていないと言っているように聞こえた。
ルシアンは「行動を慎め」と言い放ち、リリティアの部屋から出た。
幼い頃はあんな子ではなかったのに。
自分たちだって、周りが羨むほど仲の良い兄妹だったのに。一体いつから、こんなに距離が開いてしまったのだろう。
ただ、自分の行動は間違っていない。
間違っているのは妹の方だ。
それだけに、リリティアが自ら毒を飲んだと聞かされた時、ルシアンの心は大きく揺れた。
★★
毒を飲んだ妹は皇宮内で治療を受けることになった。容態は芳しくなく、父とルシアンには今夜が峠だと伝えられた。
二人は皇宮医に任せ、ただ無事を願うことしか出来なかった。
一方、毒を盛ったメイドが捕まったという報せが入った。
逃走用の馬車まで用意され、計画的な犯行だったことが窺える。なのに、捕らえられた時のメイドは意気消沈した様子で、こんな筈ではなかったと口にした。
毒を飲ませておいて、なにが違うと言うんだ。
殺意に近い怒りが湧いてきたが、メイドに過ぎない者が毒を手に入れて、誰にも疑われず行動に移せたとは思えない。
すぐに厳しい取り調べが行われ、メイドは素直に応じたようだ。
そこで信じられない者の名が出てきた。
「なぜ、アイシャが……?」
使用された毒は、アイシャが用意した物だという。
アイシャはリリティアを陥れ、自分が皇太子の婚約者になるつもりだったようだ。メイドが素直に口を割ったことで、おぞましい計画の詳細が明るみになった。
騒ぎから翌日、リリティアが峠を越えたと教えられた。
父とルシアンは胸を撫で下ろして安堵した。しかし、リリティアに面会することはできなかった。
そして、十日以上が経った今も会うことは許されなかった。
「……どういうことですか?」
娘に会うために毎日朝から晩まで皇宮に通い続けていた父親は、その日酷く憔悴し切った顔で帰ってきた。
仕事人間だった父には珍しく、ここ最近働いている様子はない。
「なぜ、皇宮から公爵家に調査が? リリティアの飲んだ毒は公爵家とは無関係ですよね?」
リリティアがなぜ毒と知りながら自ら口にしたのか、直接話せていないため分からずじまいだ。
それなのに、皇宮から公爵家に調査が入るという。
すると、父は青い顔をして額を押さえながら答えた。
「……治療の際、リリティアの体に無数の鞭の痕があったようだ。陛下から皇太子の婚約者に対し、虐待の疑いがあると言われた」
「そんな馬鹿な……っ!」
ソファーに向かい合って座っていたルシアンは、思わず立ち上がって叫んでいた。
そんな筈はない──と、言いかけてルシアンは口を噤んだ。ルシアンはもちろん、父もリリティアを虐待した覚えはない。
だが、身に覚えがないと言い切れる程、自分たちは最近のリリティアと話したことがあっただろうか。
「あの子が毒を飲んだのは……自害するためだったようだ。リリティアの身柄が陛下の保護下に置かれているのも、見舞いが許されないのも、リリティアが拒んでいるからだろう」
「……………」
「リリティアはいつからか笑わなくなった。昔はよく笑って、屋敷の中を明るくさせてくれていたのに……っ。私が仕事にかまけて、あの子を蔑ろにしていたのだっ」
確かに父は仕事に打ち込んで家族を顧みなかった。
その代償が、最愛の娘を失いかけ、拒絶されることになろうとは思わなかったはずだ。
「なぜ……! なぜ、もっと早く気づかなかったんだ!? あんな女に任せていたばかりに! 屋敷の中で何が起きていたのか少しでも気にかけておけばっ」
「父上……」
帝国を代表する公爵家の当主として、普段は冷静沈着な父が感情を剥き出しにして声を荒げた。
そんな父親の姿にルシアンは驚いた。
継母のミランダは自室で謹慎している。見張りも付けられ、逃げ出すことはできない。
皇宮からやって来る調査官によって何が暴かれるのか。
ルシアンは頭痛がして溜め息をついた。
それ以上まともに話すこともできなくなった父の元を離れ、ルシアンは部屋に戻る廊下を歩いていた。
──妹が虐待されていた?
──鞭の痕がある?
──毒を飲んで自害するつもりだった?
次々と明かされる事実に、ルシアンは恐ろしくなった。これが現実なのか疑わしくなるほど、色々なことが起きている。公爵家を支えていた歯車が壊れていくような感覚さえ覚えた。
ふらふらと廊下を進んでいくと、大きな窓の前で二人の子供が外を眺めていた。
ミランダが産んだ、九歳になる双子の姉弟だ。
「あの人、今日も帰ってこないね」
「きっと捕まって牢屋に入れられたんだわ!」
「そうか、そうだね」
「だって自分のお母様を殺したんだもの」
「当然の報いだね」
子供の物騒な会話に、ルシアンは足を止めた。
「──二人とも、それは誰の話をしているんだ?」
ルシアンは思わず二人の背中に訊ねていた。
振り返ってきた双子は互いの顔を見合わせ、それからルシアンに向かって答えた。
「誰って、リリティアのことよ」
「あの人はもう帰ってこないよね?」
そう言って無邪気に笑う二人が妙に不気味だった。言葉の内容と、純粋な笑顔があまりにかけ離れているせいか。
ルシアンは双子を見下ろし、再び訊ねた。
「それを、誰から教えてもらったんだ?」
感情は抑えたつもりだが、子供は敏感だ。
ルシアンの怒りを感じ取ったのか、少し躊躇うように口を開いた。
「……お母様よ」
「お母様が教えてくれたんだ。リリティアは母親を殺したんだって」
「だからリリティアは皆に恨まれていて、楽しそうに過ごしてはいけないってお母様がいつも教えていたわ」
ねぇ、と確認し合った双子は、ルシアンの横を通り過ぎて駆けて行った。
廊下に一人残されたルシアンは正面門が見える窓に近づき、拳を握り締めた。
ああ、そうか。
そうだったのか。
リリティアは笑わなくなった訳じゃない。
──笑えなくさせられたのだ。ミランダの教育によって。
これまで報告されてきたリリティアの悪戯も、全てミランダが仕組んだ事かもしれない。
なんということだ。
なぜ、もっと早く気づいてあげられなかったのか。誰にも信じてもらえず、声を上げることもできず、必死で耐えていた妹を放置してしまった。
ルシアンは両膝をついて、震える両手で顔を覆った。
誰よりも傍に、身近にいたのに、手を伸ばせば助けられたのに。
毒を飲んで自害を決意させてしまうほど辛い状況にあったリリティアを、先に突き放したのは自分だ。
「……っ!」
目頭が熱くなって溢れ落ちそうになる涙を、唇を噛んで耐えた。
リリティアは泣きたくても泣けなかったはずだ。感情を押し殺すことで、ここまで生き抜いてきたのだ。
「恨んで、ない……っ! 恨んでなど、あるわけがないっ!」
どこですれ違ってしまったんだ。
ミランダが現れなければ、今もルシアンとリリティアは仲の良い兄妹でいられたのに。
「……リリティア!」
今は謝りたくても謝ることもできない。
屋敷に戻ってきたらやり直せるだろうか、あの楽しかった日々に。
しかし、ルシアンの思いとは裏腹にリリティアが公爵家の屋敷に帰ってくることは二度となかった。
陛下からは探すことも禁じられ、リリティアの居場所すら知ることはできなかった。
その数年後。
皇宮から届いた荷物に、ルシアンは慟哭した────。